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身体に委ねる

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前回は(も)、自分の身体へ注意や意識を向けていくことについて書きましたが、「身体」そのものを体験することが増えていくと、深い安心感のようなものがつちかわれていきます。 「頭」で認識する自分や身体ではない、「身体」そのものの世界の体験。 大分前のことですが、私が体験したワークについて書きます。 それは身体へダイレクトにアプローチするタイプの心理療法の一つで、さまざまなワークがありました。 先生の指示のもとに行ったワークの一つは、立った姿勢から、ペアの人のサポートの元に、ものすごくゆっくりゆっくりと前へ倒れていく、というものでした。 立った姿勢でそのまま前へ倒れていくと、地面にうつぶせの状態になりますよね。私もそうでした。 でも参加者のうち数名は横向きに丸まって倒れていました。 このワークが終わり、先生は、 「横向きになっている人は、帝王切開で生まれた傾向があるんだよね」と言いました。 その参加者の中では、横向きになった人は全員帝王切開での出生で、うつ伏せの人は全員経腟分娩での出生…! みんなびっくり~、でした。 他のワークもいろいろ行って感じたのは、身体には、自分の頭では意識されていない「何か」があること。 それは、身体へ「委ねる」「まかせる」ことで体験されること。 その身体の体験は、良いも悪いも全くなく、ただそれだけであり、 むしろ身体は必要なことを知っている、 ということでした。 (頭では)よくわからないけれど、身体が知っているのだというのは、深い安心感、信頼感の感覚をもたらしてくれます。 でも、身体に委ねていくことが、身体に完全に明け渡してしまって、自分を見失ってしまうんじゃないかという不安や恐怖を「頭」が感じたり、 そもそも身体に注目するって???と、どうしたらよいか全くわからなくて困ったり、 ということは決して珍しいことではありませんし、その「能力がない」なんていうことも全くありません。 特に虐待や暴力のトラウマがある人にとっては、身体感覚をシャットアウトすることが生きのびるために安全だった過去の経験があると、身体へ注目することが、強い不安や恐怖感を引き起こすこともあります。 ですので(しつこいですが💦)安全な範囲で少しずつ、が大事。 誰もが、意識されていないだけで、安全な身体の感覚世界はあります。

自分の感覚世界を体験する

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以前心理療法を受けた時、セラピストから、「あなたは思っていることや感じたことが表によく現れてますね!」、すごくわかりやすいと言われました。 自分で自分のことは見えないので知りませんでしたが、そうなのかもしれません。 つい最近も仲間とのトレーニングでクライエント役をやったときに、「表情に感情が現れていて、ものすごく伝わってきた!」とオブザーバー役の人に言われました。 このことは、ちょっとした驚きであり、納得でもありました。 私は子どもの頃、「何を考えているかわからない」とよく言われていました。 あまり話をせず静かで大人しかったこともあると思いますし、自分の思いが感じられ、現れてくるまで、時間がかかるほうだったこともあると思います。 また、転校を繰り返していたので、環境になじむまでの間は特に、自分のことはさておき周りのことをよく見なければならなかった(と思っていた)ことも重なっていたかもしれません。 でも恐らく、「何を考えているかわからない」と言われたことが実際の自分へ影響し、「わかりにくい私」という自分像になっていったのだろうと思います。 私が行っている心理療法のアプローチは、身体の感覚や自分の内側で感じたことに注目し、それを「ただそのまま」に感じたり見つめたりしていくことを重視します。 そのため、私自身も自分の身体の感覚や内的世界の体験に開かれていることが重要になります。 現在の心理療法のトレーニングを始める前から、ヨガは25年ほどやっていたり、大学院のころから、身体や身体的体験のワークショップやトレーニングにたくさん参加してきました。 きっと無意識に関心が続いてきたのだと思います。 そして現在の心理療法のトレーニングを受け始めたころから、より意識して、より積極的に、注意を向けたり、感じることをしてきました。 そうして、いつの間にか、自分の感覚や世界を、自分なりに感じ、自分なりに体験するようになり、それが自然に人にも伝わるようになっていたのだということに気づき、 自分の変化に驚くような、これまでのプロセスを振り返れば納得するような気持ちになったわけです。 現代の社会で生きていく上では、早いスピードで考え、理解し、行動に移すことに重点が置かれがちです。 また、人との関りや人からの情報が増え、多様になっているので、他者や社会の価値観が自分の中に侵入しやすくなっています。

自由な感情⇔止まってしまう感情②

前回からの続きです。 こんなふうに「自分」「私」という監督官と感情との間で起こる動きや流れが、ときに緊張をもたらし、監督官に打撃を与えてしまうことにもなるようなとき、 助っ人を読んでみましょう! 人間関係でも、仲良しでラブラブなときは二人きりでいたいものですが、不穏な雰囲気のときは、居心地が悪くなってきます。 相手と正面から向き合うのはキツイ。 関係が危機的なのに逃げることもできないときに有効なのは、第三者! 「身体(感覚)」にご登場いただきましょう。 その気持ちが起こっている時、 あるいは、そのことを考えていると、 身体にはどんなことが起きているのでしょう? こんなふうにして身体に登場してもらいます。 身体は、 「お腹が痛い」とか「胸がドキドキする」などのように、生理的な感覚として、 「喉がつまる」「肩に重しが乗ってるように重い」のように、生理的な表現があるイメージとして、 あるいは「胸のモヤモヤが煙のように充満している」「身体に丸い玉があって冷たい」のように、イメージそのものとして体験されることもあります。 身体に登場してもらうと、感情によって圧倒されそうだったり、批判されて苦しく逃げたくなっている監督官は、不思議と落ち着きを取り戻します。 まるで、身体の登場によって逃げ場ができたような。 今、身体はどんなふうだろう?と観ていってあげると、 身体に起こっているいろいろなことをメッセージとして受け取っていけるようになり、 そうすると、「感情」はそのパワフルさを自然とトーンダウンして、待っていてくれるようです。 しだいに監督官は落ち着きを取り戻し、自分のペースでいられるようになります。 こうやって、 「感情」から「身体」へ注意をシフトしていくこと、 そして、注意をシフトしていったことで、観察力を維持できている「自分」「私」。 これが「主体性」。 (やっとテーマである「主体性」の言葉が出てきました!💦) そして大事なことがもう一つ。 この「自分」「私」は、いつも身体を観ながら落ち着いていられていることによって「自分」「私」でいられているのではなく、 感情に圧倒されそうになったり、感情をスルーしようとしていても、 そのたびに気づいて、 「身体はどうかな~」と観ていく。 ただただ、この繰り返しをするのでOKなのです。 そう。カンペキな監督になんてなれないし、なる必要はな

心理士の急性神経症状体験記④ ~「主体」としての「私」がしていることは?

これまでの3回の記事で、私の個人的な体験をもとに、身体とその反応について書いていきました。 テーマはこちら。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている 自分の身体に対して、①はコントロールする、②はコントロールを止める、という、身体と意思について真逆のことを言っています。 でも、共通することがあります。 それは、「主体」。 呼吸を調整するなど、身体や反応をコントロールしようとする「私」は、今、自分の身体はどんな状態なのかに注目し、意図的に身体へ働きかけをし、その働きかけがどんな変化をもたらしているかを観ています。 うまくいっている感じがあったら、それを続け、変化を見届け、 うまくいってないようだと感じたら、違う方法を試してみて、それがどう変化をもたらしているか観ています。 また一方で、前回の記事のように、身体に起こっていることをながめている「私」が、身体が求めているほうへ、動きたいほうへ身体にまかせていき、 身体に起きていること、身体が反応していることを、ただそのままに感じていきました。 どちらの「私」も、行っていたのは身体との対話(コミュニケーション)と言えます。 「私」は自分の身体を対象物のようにして観て、気づき、 身体を中心にしていく。 「私」に「」を付けているのは、 (痛いな~)(辛いな~)などと思って不快な気持ちや嫌な気持ちになっている〈私〉ではなく、 自分(身体)に起きていることに、「あー痛いんだな~」「あ~辛い気持ちはこんなふうに感じているなー」「私は嫌な気持ちになってるなぁ」と、ただ気づき、 それをただ眺めていたり、あるいは呼吸を調整してみたりする「私」。 こんなふうにしている「私」を「主体」という言葉に置き換えています。 これまでの記事で書いてきたように、突然の事故での症状や反応を自分なりにやりすごしたり、変化を起こしたりするのに活躍したのが、「主体」でした。 「主体」。 これは、カウンセリングの中でも、とても重要なポイントです。 これまでのテーマと切り替えて、次回は「主体」についてもう少し書きたいと思います。

心理士の急性神経症状体験記➂ ~身体の記憶・身体の叡智

前回からの続きです。 治療は数日で終わり、無事に退院することができましたが、帰宅しても「ぼんやり」した感覚が続いていました。 だいたいは大丈夫だったのですが、何となく「本調子」ではない感じ。 そして、救急病院へ行ってから治療を受けるまでのことが繰り返し繰り返し思い出されていました。 こういう状態は、衝撃的な出来事を経験した後に生じる、自然な反応です。 そういう中、身体の反応や感覚に焦点を当てるトラウマ治療の心理療法のトレーニングで、クライエント役としてこの出来事を取り上げました。 心理療法のトレーニングでは、参加者がセラピスト役やクライエント役を実際に体験し、練習を積み重ねます。 「死なずに回復できたなら、この経験はトレーニングの練習の恰好のネタになる…」 救急救命センターに到着した時にボーッと考えたことを実現するチャンスです。 この心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)は、身体の感覚や動きなどに意識を向け、トラウマ反応となった心身の状態を変容させていきます。 練習のセッションで私は、自分の身体に何が起きているかに意識を向けて行きました。 初めは、身体がどんなふうかを観ていきます。 力が入らないような感覚、逆に力が入っていたことへの気づき。 それから、身体が求めているほう、動きたいほうを探っていきました。 頭の後ろにクッションを置いて、椅子の背にしっかりともたれかかると、大きな息が出てきました。 クッションが私に、「ゆったりしたほうがいい」と言っているのを感じました。 身体全体の重み、手の温かさがジーンと感じられ、 表情も身体も緩んでいきました。 すると右ひじ周りにピリピリした感じが出てきて、それがサーッと抜けていきました。 そのとたん、その場所から感情がサワサワと広がってきて、涙がこぼれました。 「怖かったなぁ…」と涙が言っていました。 思わぬ出来事で緊張が続いていたことに自分で気づかないままでいた中、 やっと出た涙でした。 また一つ大きな息。 すると、自分の身体の実感が戻ったことに気づきました。 身体も心も、変化した、ということを感じました。 自然な感覚、いつもの感覚が甦ってきたのがわかりました。 医学的な完治とは別の、身体経験としての「完治」。 「完治」というよりは「完了」や「変容」と言ったほうがよいかもしれません。 恐怖や緊張は、こんなふうに身体に留

心理士の急性神経症状体験記② ~不安と身体の深い関係

前回 は、過呼吸に傾く状態を自分なりに呼吸調整し続けたことについて書きました。 過呼吸に傾きやすい動悸は、この後数日、断続的に起きましたが、動悸が急激に激しくなる時がありました。 それは、先生が「怖いこと」を言った時。 「死ぬでー!」(関西弁) (注)そのくらい農薬曝露はヤバイんやでという意味。 「人工呼吸器を入れるかもしれへんからな~」(関西弁) (注)そういう可能性も事前告知しとくで、という意味。 こういうことを聞いた瞬間、動悸と不安感が一瞬にしてブワッと全身を覆いました。 心臓がバクバク。 モヤモヤしたような不安ではなく、アラートが大音量でなっているような不安の感覚。 命の危機に直面したときの反応のような感じです。 えっ?思ってたよりずっと悪いかもってこと? 私、気楽に考えすぎ?? 人工呼吸器ってー!?、ナニ?ナニ?いったいどうなるわけ??? 不安な考えが広がりそうになるとき… それはあまりにもわかりやすく、身体の反応と同時に起き、広がりました。 ですから、この不安感は身体の反応そのものだと思いました。 ということは、ある程度調整できるはず。 「不安なことは一旦置いといて、まずは身体を調整しよう。」 呼吸困難は曝露直後ほど強くなくなり、むしろ動悸(心拍数の増加)が強く感じられたので、ヨガで行ってきた呼吸「鼻から3カウントで吸い、一旦止め、6カウントで吐く」を繰り返しました。 繰り返すうちに、不安感のほうは比較的早く収束してくれたのです。 動悸がある程度のところまで落ち着くのは、30分~1時間ぐらいかかったでしょうか…。でも気長に呼吸法を続けていました(ほかにすることもないし)。 動悸が鎮まるのに呼吸法が役立ったかどうかはわかりませんが、異常な不安感が比較的すぐに消えてくれたことには役立ったと思います。 そしてこの時も、自分なりに対処できるという気持ちを維持することができました。 幸いにも治療は順調に進み、症状がぶり返すことなく回復し、スムーズに退院できました。 ここで記述していることは、農薬中毒の対処法ではありません。 治療は薬剤によって行います。 ヒトは、いつもとは異なる状態、それが急性で急激だと、覚醒反応が起きます。逆にフリーズ反応が起きる場合もあります。 どちらも神経が引き起こす状態です。 私が経験したのは、それが中毒症状として生じた上に、環境要因(先生

心理士の急性神経症状体験記① ~日々の身体自己調整はこんなふうに役に立つ!

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8月にブログ更新が空いてしまっておりましたが、理由の一つが緊急入院でした。 短期間で退院でき、後遺症などもなく現在はすっかり元気です。 救急救命センターに到着して、テキパキと処置が行われている中、意識ははっきりしていたので、「死なずに回復できたなら、これはネタになる…」とぼんやり思っていました(職業魂?)。 結果的に回復した今、とても興味深い体験だったので、次の二つのテーマで書いていきたいと思います。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている ①と②は、身体と意思について真逆のようですが、共通することがあります。これは後のブログで書いていきたいと思います。 私が救急搬送されたのは、農薬曝露によって神経系へ作動した急性症状のためでした。 まず初めに、血の気が引くような、高熱が出る前の悪寒のような感じがして、それから呼吸が早くなり、加速していきました。 この時は何が起こったのかわからないままでしたが、後から調べると、この農薬による中毒はすべての神経系に作動して症状を引き起こすものでした。具体的にはこんな症状です(一般的にわかりやすい言葉で記載しています)。 ※神経については 中外製薬(株)のWebサイトにわかりやすい説明 がありましたので、ご興味あるかたはリンク先へどうぞ。 初めに起こった強い自覚症状は、動悸、呼吸数増加(呼吸困難)、発汗でした。 肩で速い息を繰り返しているうちに、手足にしびれが起き、硬直してきました。 も、もしかして農薬が身体に回ってきた?!?! このとき救急病院にいたのですが(※)、「うちでは対応できない」と言われ、病院側も対応に困っている様子だったので、私は不安とストレスが強くなっていたところでした。 「別の病院へ行くべきなら行くから、早く言ってよー。一体どうすればいいのよ~(泣)。」 症状は立っていられないぐらい強くなっている上に、不安と恐怖感がせり上がってきたとき、ふっとあることが浮かんだのです。 これは過呼吸と同じ状態ではないか? 手足がしびれてきたのは、農薬ではなく過呼吸による可能性があるのではないか? 呼吸によって起きているなら

声を自由に出させてあげる

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今年の初めから、声を出すことを日々続けています。 話すのではありません。また、歌を歌うというのでもありません。 ただ声を出すこと。声が音になっていくこと。 最近のお気に入りはこちら。 「サレガマパダニサ」はインドの「ドレミファソラシド」です。 歌手でボーカルトレーナーのVarsha Singh Dhanoaさんに続いて、声を出していきます。 彼女の声の出し方は、ソフトで無理がなく、自然な感じ。 私は歌うことにあまり興味がなく、歌うこと、ハミングすることさえもほとんどありませんでした。 カラオケも、誘われれば行くという程度。お付き合いの範疇です。 でも歌を聴くのは好きです。気持ちよく歌っている人を見ていることや、その声を聴いていることが好きです。 なぜ歌わないのかを振り返ったとき、「音痴だ」とよくからかわれたことや、学校の音楽の授業の堅苦しさなどが、これまでたくさん積み重なっていたことに気づきました。 小さい時は、テレビを見ながら踊ったり歌ったりしていたそうです。でもどこかの段階で、歌うことも踊ることもぴったり止まりました。 自分の声も全く好きになれず。 自分の声や歌からできるだけ遠くに自分を置いてきたと思います。 私はこれまでいかに自分の声を無視し、放っておいたのかということに気づいたこと、 それが、「声」に注目することになったきっかけです。 声を出すことを続けているうちに、喉に力が入って、喉が一生懸命声を出そうとしていることに気づくようになりました。 声が出てくるのではなく、声を出そうとしていたことに。 歌にすることではなく、「歌」の通りに音を合わせようとしていたことに。 これは、私の内側から出てくる「声」そのものではない。 力んだ喉がデフォルトになってしまった私は、私の身体は、自分の声を自由に出させてあげることをすっかり忘れてしまっています。 掲載の動画のVarsha Singh Dhanoaさんの声に合わせていると、喉の力が抜けやすくなってきているのを感じます。 力みに気がついたら、喉の力を緩め、身体をほどき、身体が無理ない感じで、そこから自然と音が出てくるような感じを味わうようにしています。 声は、その人のすべてがあらわれます。 その人のリズム。思い、感情。 存在そのもの。 私はまだ、自分の声を自由に出させてあげられていないなぁと感じています。 今は、自分の

思いを声にすること

クライエントさんの内側にたくさんの思いがあるけれど、それが言葉にならないとき。 言いたいことはあるけれど、言葉にして言おうとすると止まってしまうようなとき、 クライエントさんの身体では、それが喉に現れることが多くみられます。 「喉に何かが詰まった感じがします」とか、「喉が締め付けられる感じです」と語ってくれます。 喉は、ギュッとした緊張感が現れたり、ゴクリと飲込む様子があったりします。 思いをまだうまく言葉にして伝えられない小さい子どもは、大声で泣いたり、大きな動きが出たり、叫び声のようなもので表したりします。 子どもが身体全部を使って表そうとするエネルギーは、大人になると、喉まわりに集約され、締め付けや詰まりとして現れているのかもしれません。 それは、思いを自由に、声にして出すことができないということを象徴しているようでもあり、身体に刻み込まれているようでもあります。 出したものを、思いっきり拒否されたり、 出しても相手に届かなかったり、 出すと批判された経験や、 出したらひどい目にあった、など そうすると、思いが現れることはネガティブな経験として記憶されるでしょうし、そういう思いを繰り返さないよう、思いが出ようとするのを喉が全力で止めるのも道理があります。 喉は、「危ないよ!」と、まるで門番のように注意深く守っているイメージがわきます。 そういう意味では、喉まわりは、これまで一生懸命頑張ってきてくれたのですよね。これ以上危ない目にも、辛い目にもあわないように…。 でもカウンセリングでは、その緊張を解きほぐし、内側にあった思いを、自分の言葉で、自分のペースで、自分の声で出していくことを応援しています。 そうやって出てきてくれた声は、クライエントさんそのものであることが、聞いている私にもしっかり伝わってきます。 思いがのった言葉、その声は、目には見えないものですが、確かに「ある」のです。 聞いている私にも伝わり、私も感じるその確かさは、「あぁ!!!」と腸(はらわた)に響くというか…、これを言葉では表す能力がないことが悔しく残念です~。 「言いたいこと」の内容よりもむしろ、クライエントさんの内側から立ち現れてきたものを、ただそのままに表出したとき、 それが「本当の声」。 クライエントさんが、喉を解放/開放し、声を自由に出させてあげるという体験。 私も現在挑戦中です。次

カウンセリングにおける「声」

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カウンセリングにおける「声」。 いろいろな側面を取り上げたいと思うので、何回かに分けて書こうと思います。 今回は、声の響きについて。 「声」はカウンセリングにおいて、とても興味深い要素です。 声は、発する人が、発する響きを身体で感じながら、同時に、耳から聞こえてくる音としても身体で感じています(音は波動なので、皮膚でも感じ取っています)。 また同時に、その声は聞き手に届き、聞き手の身体で感じます。 こうやって身体で感じ合う声は、話している内容以上に、身体に響きとして(また無音または間として)体験されています。 クライエントさんがある出来事を話しているとき、 私がクライエントさんに何かを伝えたとき、 意味として理解するだけにとどまらず、声の音の感じにも注意を向けながら、ゆっくりと聞いてみると、また違う体験が起こることがよくあります。 少しペースを落として、声が身体で響く様子、耳から聞こえてきて、身体に浸み込む様子、 大切な「ことば」については、こういう体験をしてみると、驚くほど違う体験になることがあります。 こういうときは、身体を、聞こえてくるもの・響いてくるものに預けていくような、そういう感じで、ゆっくりと行い、それを私はサポートしていきます。 このテーマについて、別の視点からも取り上げてみましょう。 以前、乳幼児健診における心理相談をしていたことがありました。 お部屋には、子どもが自分で手を延ばして手に取れる高さに絵本が数冊置いてあります。 どれも子どもに読み継がれている絵本なのですが、人気の1冊が、「もこ もこもこ」(谷川俊太郎・作、元永定正・絵)でした。 なんとも不思議な絵本なのです。 シンプルな形、明白な色彩と、短いオノマトペだけ。 子どもに読んであげると、どの子も食いつくように見て/聞いています。 カバーや紙が薄手なので、子どもが思い余って破ってしまってボロボロになっていました。 作者の谷川俊太郎さんが朗読している動画はこちら。 この絵本を読むとき、私は全身で読みます。絵と音に浸り、「しーん…」と言うときは、身体も「しーん…」として止まっています。 「もこっ」と言うときは、お腹から何かが出てくるような。 身体から読み上げる声の響きが子どもにも伝わっていきます。 この絵本で体験されることは、物語の言葉での内容ではなく、声と色彩の感覚世界。読み手のオノマトペの