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自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

自己嫌悪と恥②

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前回 から続きます。 自分を恥じたり自己嫌悪を感じている、と自分でもう気づいていたなら、そこへ取り組んでいくことができますが、恥と自己嫌悪のやっかいなところは、そう感じていること自体を隠してしまうところです。 明らかな過ちを犯してしまって感じる恥は、自分でも気づきやすいのですが、「自分=恥の存在」が深く浸み込んでいる場合は、次のようなことにも恥と自己嫌悪が引き起こされます。 自分への高い理想が実現されなかったり自分に課した要求を遂行できなかったとき 「エラー」範囲でしかないような通常のミス ある程度成功したりやり遂げたとき 人からの注目、視線 相手の、ある表情、ちょっとした言いよどみ、声の微妙な変化、微妙な手足の動き 自分の意見や希望を言うこと ゆっくりしていたり、手を抜いたりしたとき 楽しかったり幸せに感じたとき びっくりさせられたとき あるニュースや情報を目にしたとき 誰かに(優しく)触れられたとき これって、何でもあり、全部ですよね…。 そうです。恥が引き起こされるきっかけは、その人にとっての「何か」。 それは具体的なことだけでなく、ありとあらゆるものがきっかけになります。 自分では気づかないような、意識されないようなことも。 恥や自己嫌悪が、「恥」「自己嫌悪」としては現れずに隠れているとき、こんな感情や感覚が起こります。 不安 緊張 恐怖 遠慮 うしろめたさ 怒りやいら立ち 悲しみ 焦り 戸惑い 満たされなさ 孤独感や孤立感 無感覚(硬直した感じ) パニック こわばり、震え、のどの詰まり、早い鼓動 腹痛・頭痛、気持ち悪さ こんな感情や感覚は、決して快適ではないので、身体も心も、何とか回避したり、不快さを減少させようとすぐさま何かの反応や行動を起こそうとします。 そうしてさらに、「自分=恥」と気づかれないように隠れていくのです。 ですので、「自分は自分を恥じている、嫌悪している」「自分をこんなにも恥じているのだ」ということに気づくところまでは、結構な道のりになります。 次回へ続きます。

自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

緊張感をほどく~災害や事故などの後で

2024年。 新しい一年が始まりました。 今年はお正月から大きな地震が襲いました。 被災された方、地震の影響を受けた方には、心よりお見舞い申し上げます。 寒さが厳しくなっていく中、一日も早い安心と回復を願います。 地震は、私がいた場所でもけっこうな揺れがあり、しばらく気分が悪くなりました。 阪神淡路大震災以後、ほんの少しの揺れでも身体が反応するようになりました。 身体が緊張し、こわばり、本来ならすぐに身を守る行動をするべきなのですが、すぐに動くことができません。 頭ではわかっていることですが、身体が即応しないのです。 「あれほどの地震はそうめったに起きないだろう」という過信が頭にインプットされてしまっているのかもしれません。 直接の被害がなくても、揺れなどによって身体が反応したり、 ニュースの緊迫感が伝わってくることで、緊張感が高まったりすることがあります。 「今」が安全で大丈夫であれば、その緊張感などの身体の反応は、ある程度したら回復し、元の状態に戻れるのですが、 ふだんから緊張感や不安感が高かったり、敏感に感じやすい人は、なかなか元に戻りにくい傾向があります。 緊迫感自体は、安全確保のために必要な反応なのですが、「大丈夫」なはずの状況にいてもその緊迫感が持続してしまうのです。 そうすると、「今は大丈夫じゃないのだ!」「こんな苦しいのはもう無理だ!」「もう私は終わりだ!」「死んでしまうかもしれない!」 という絶望的な気持ちになっていくこともあります。 こういうとき、 安全確保のための情報収集として必要がない限り、ニュースや情報から一旦離れましょう。 「今、ここ」は安全で、危機は起こってないということを身体で確認しましょう。目に入るものをいくつかしっかりと見たり(「本がある」「マグカップがある」など)、座っている床や椅子などを感じてみましょう。 身体に緊張感を感じられていたら、その部分を動かしてみましょう。わざと力をギューっと入れて、パッと抜いてみるのでもOKです。 もう少し大きな動きや大きな呼吸をしてみてもいいと思います。立ち上がって歩いてみたり、大きく息を吐いたり。 ここまでくると、気分や緊張感に変化が起きているはずです。 カウンセリングでは、こういうプロセスを一緒に行っています。

心理士の急性神経症状体験記➂ ~身体の記憶・身体の叡智

前回からの続きです。 治療は数日で終わり、無事に退院することができましたが、帰宅しても「ぼんやり」した感覚が続いていました。 だいたいは大丈夫だったのですが、何となく「本調子」ではない感じ。 そして、救急病院へ行ってから治療を受けるまでのことが繰り返し繰り返し思い出されていました。 こういう状態は、衝撃的な出来事を経験した後に生じる、自然な反応です。 そういう中、身体の反応や感覚に焦点を当てるトラウマ治療の心理療法のトレーニングで、クライエント役としてこの出来事を取り上げました。 心理療法のトレーニングでは、参加者がセラピスト役やクライエント役を実際に体験し、練習を積み重ねます。 「死なずに回復できたなら、この経験はトレーニングの練習の恰好のネタになる…」 救急救命センターに到着した時にボーッと考えたことを実現するチャンスです。 この心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)は、身体の感覚や動きなどに意識を向け、トラウマ反応となった心身の状態を変容させていきます。 練習のセッションで私は、自分の身体に何が起きているかに意識を向けて行きました。 初めは、身体がどんなふうかを観ていきます。 力が入らないような感覚、逆に力が入っていたことへの気づき。 それから、身体が求めているほう、動きたいほうを探っていきました。 頭の後ろにクッションを置いて、椅子の背にしっかりともたれかかると、大きな息が出てきました。 クッションが私に、「ゆったりしたほうがいい」と言っているのを感じました。 身体全体の重み、手の温かさがジーンと感じられ、 表情も身体も緩んでいきました。 すると右ひじ周りにピリピリした感じが出てきて、それがサーッと抜けていきました。 そのとたん、その場所から感情がサワサワと広がってきて、涙がこぼれました。 「怖かったなぁ…」と涙が言っていました。 思わぬ出来事で緊張が続いていたことに自分で気づかないままでいた中、 やっと出た涙でした。 また一つ大きな息。 すると、自分の身体の実感が戻ったことに気づきました。 身体も心も、変化した、ということを感じました。 自然な感覚、いつもの感覚が甦ってきたのがわかりました。 医学的な完治とは別の、身体経験としての「完治」。 「完治」というよりは「完了」や「変容」と言ったほうがよいかもしれません。 恐怖や緊張は、こんなふうに身体に留

心理士の急性神経症状体験記② ~不安と身体の深い関係

前回 は、過呼吸に傾く状態を自分なりに呼吸調整し続けたことについて書きました。 過呼吸に傾きやすい動悸は、この後数日、断続的に起きましたが、動悸が急激に激しくなる時がありました。 それは、先生が「怖いこと」を言った時。 「死ぬでー!」(関西弁) (注)そのくらい農薬曝露はヤバイんやでという意味。 「人工呼吸器を入れるかもしれへんからな~」(関西弁) (注)そういう可能性も事前告知しとくで、という意味。 こういうことを聞いた瞬間、動悸と不安感が一瞬にしてブワッと全身を覆いました。 心臓がバクバク。 モヤモヤしたような不安ではなく、アラートが大音量でなっているような不安の感覚。 命の危機に直面したときの反応のような感じです。 えっ?思ってたよりずっと悪いかもってこと? 私、気楽に考えすぎ?? 人工呼吸器ってー!?、ナニ?ナニ?いったいどうなるわけ??? 不安な考えが広がりそうになるとき… それはあまりにもわかりやすく、身体の反応と同時に起き、広がりました。 ですから、この不安感は身体の反応そのものだと思いました。 ということは、ある程度調整できるはず。 「不安なことは一旦置いといて、まずは身体を調整しよう。」 呼吸困難は曝露直後ほど強くなくなり、むしろ動悸(心拍数の増加)が強く感じられたので、ヨガで行ってきた呼吸「鼻から3カウントで吸い、一旦止め、6カウントで吐く」を繰り返しました。 繰り返すうちに、不安感のほうは比較的早く収束してくれたのです。 動悸がある程度のところまで落ち着くのは、30分~1時間ぐらいかかったでしょうか…。でも気長に呼吸法を続けていました(ほかにすることもないし)。 動悸が鎮まるのに呼吸法が役立ったかどうかはわかりませんが、異常な不安感が比較的すぐに消えてくれたことには役立ったと思います。 そしてこの時も、自分なりに対処できるという気持ちを維持することができました。 幸いにも治療は順調に進み、症状がぶり返すことなく回復し、スムーズに退院できました。 ここで記述していることは、農薬中毒の対処法ではありません。 治療は薬剤によって行います。 ヒトは、いつもとは異なる状態、それが急性で急激だと、覚醒反応が起きます。逆にフリーズ反応が起きる場合もあります。 どちらも神経が引き起こす状態です。 私が経験したのは、それが中毒症状として生じた上に、環境要因(先生

心理士の急性神経症状体験記① ~日々の身体自己調整はこんなふうに役に立つ!

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8月にブログ更新が空いてしまっておりましたが、理由の一つが緊急入院でした。 短期間で退院でき、後遺症などもなく現在はすっかり元気です。 救急救命センターに到着して、テキパキと処置が行われている中、意識ははっきりしていたので、「死なずに回復できたなら、これはネタになる…」とぼんやり思っていました(職業魂?)。 結果的に回復した今、とても興味深い体験だったので、次の二つのテーマで書いていきたいと思います。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている ①と②は、身体と意思について真逆のようですが、共通することがあります。これは後のブログで書いていきたいと思います。 私が救急搬送されたのは、農薬曝露によって神経系へ作動した急性症状のためでした。 まず初めに、血の気が引くような、高熱が出る前の悪寒のような感じがして、それから呼吸が早くなり、加速していきました。 この時は何が起こったのかわからないままでしたが、後から調べると、この農薬による中毒はすべての神経系に作動して症状を引き起こすものでした。具体的にはこんな症状です(一般的にわかりやすい言葉で記載しています)。 ※神経については 中外製薬(株)のWebサイトにわかりやすい説明 がありましたので、ご興味あるかたはリンク先へどうぞ。 初めに起こった強い自覚症状は、動悸、呼吸数増加(呼吸困難)、発汗でした。 肩で速い息を繰り返しているうちに、手足にしびれが起き、硬直してきました。 も、もしかして農薬が身体に回ってきた?!?! このとき救急病院にいたのですが(※)、「うちでは対応できない」と言われ、病院側も対応に困っている様子だったので、私は不安とストレスが強くなっていたところでした。 「別の病院へ行くべきなら行くから、早く言ってよー。一体どうすればいいのよ~(泣)。」 症状は立っていられないぐらい強くなっている上に、不安と恐怖感がせり上がってきたとき、ふっとあることが浮かんだのです。 これは過呼吸と同じ状態ではないか? 手足がしびれてきたのは、農薬ではなく過呼吸による可能性があるのではないか? 呼吸によって起きているなら

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログ で、差別とカウンセリングについて取り上げました。 アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。 それでずっと考えていました。 私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。 差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。 これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。 ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。 短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。 「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。 差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。 そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。 同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。 でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。 「モヤモヤ」はここにもありました。 被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。 これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。 人の心の中は自由だ、 それは確かにそうです。 でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。 女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。 「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。 そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。 このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。 趣味や服装などのような、単なる好

差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま