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「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?➂

「進撃の巨人」の登場人物の中で、一人の人を強く激しく信じ、求めるジーク、ミカサ、始祖ユミル。 3人とも、その相手との出会いは、大きな傷つき体験がありました。 恐怖や受傷という点では同じですが、それが起きた経緯はやや異なっています。 ジークと始祖ユミルは、養育者や生育環境における重要な他者からの、適切・適度な安全や安心を得ることがない育ちがありました。 一方ミカサは、優しい両親の元で健やかに育っていましたが、その両親が目の前で斬殺されるという衝撃を体験しました(そしてその場に居合わせたエレンに助けられるのです)。 トラウマの心理療法では、これを分けて考えるやり方があります(※)。 ジークがクサヴァーに対して抱く強い思慕、そこからくるクサヴァーの思想を受け継ぐ強烈な意思。 これは、両親から暴力を伴って否定され続けてきた虐待による発達性のトラウマの影響と考えることができます。 始祖ユミルがフリッツ王の意のままに奴隷として生き、自分が死んでもなお、「道」という一切の孤独の世界で、フリッツ王の影を引きずったまま奴隷として存在し続けたこと。 これは、自分がおかれた状況とフリッツ王の暴力支配の恐怖による迎合反応と考えられます。 ミカサは、両親を惨殺された経験がその後に影響を及ぼしているとして、単回性のトラウマエピソードにあたります。 このようにみていくと、3人ともが抱く「愛」の様相は異なっています。 そのため、ジークと始祖ユミルが、内面化された他者の思想から解放されていくプロセスも異なってきます。 ジークは、クサヴァーとの間で経験した安心や充足感を自分のリソースとしながら、両親との関係による傷つきを処理し(癒し)、そうすることによって、クサヴァーの思想ではなく、自分自身の内側から出てくる考えを見つけていくことになるでしょう。 クサヴァーを慕う気持ちは大切にしながらも、クサヴァーをなぞった思想ではなく、自分自身の思想を。 始祖ユミルのフリッツ王への「愛」は、その場を生きのびるための迎合反応でした。 肉体の死後に閉じこもった「道」の世界は、誰も彼女に危害を加えないという意味では安全な場所でした。 しかしそれは誰をも排除しなければならない孤立と孤独の世界。その世界でたった一人、あれは「愛」だったのだと思うしかない世界。 ですから、始祖ユミルには、そのような反応を引き起こした度重なる虐待...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?②

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進撃の巨人のジーク、ミカサ、始祖ユミルは、それぞれに非常に強い思慕を抱く人がいて、その思いは絶対的な信念にまでなっています。 獣の巨人でもあるジークは、親の期待に応えられなかったことで、親から否定され、受け入れてもらえませんでした。 そんな中で出会ったクサヴァーは、ジークをただ受け止め、気にかけます。クサヴァーとの出会いはジークを変え、ジークはクサヴァーの考え―民族根絶計画―を実行しようとします。 ミカサは、子どもの頃、家に押し入った強盗に両親を殺戮され、自分も殺されそうになった時に、エレンに命がけで助けてもらいます。 親を失ったミカサはエレンの家で育ち、エレンを守り抜こうと生きていきます。 始祖ユミルは、少女のころ、フリッツ王の怒りを恐れた村人からスケープゴートにさせられ、追放されます。ケガを負った少女ユミルは、孤立と孤独の中で森をさまよい、木の穴へ落ち、謎の生命体と接触し、巨人の力をもつ始祖ユミルへと変貌します。 フリッツ王の奴隷として生きる始祖ユミルは、自分を追放し、虐待し、親や故郷を破壊したフリッツ王のために、巨人の力を使って戦争を繰り返します。そしてフリッツ王の子を産み、フリッツ王を守ろうとして命も落とすのです。 死後は、フリッツ王の命令で自分の子どもに自らの遺体を食わせ、肉体の命は終えてもなお、フリッツ王のために巨人の力が継承されていきます。 こんな理不尽な関係でありながら、始祖ユミルはフリッツ王を「愛していた」とされます。 前回のブログで引用したウェブ記事では、この理解しがたいほどの強烈な思慕を心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らの「転移」はなぜ起きたのでしょうか? 進撃の巨人は、登場人物全員が生命の危機に遭っていますが、ジーク、ミカサ、始祖ユミルのような激しい「転移」が起きている人と、そうでない人がいます。 そこでトラウマという視点を取り入れてみたいと思います。 トラウマ、正確にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)。精神医学の診断で用いられるDSM-5-TRでは、PTSDと診断されるトラウマエピソードは、実際にまたは危うく、死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事で、それを直接体験するだけでなく、他人に起こった出来事を直に目撃することも含まれます。 また、国際疾病分類(ICD)11版では、新たに「複雑性心的外傷後ストレス障...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?①

「 進撃の巨人 」。 子どもがお世話になっている先生の大推薦で何とはなしにアニメ版を見始め… 3回見てしまいました…。 深い。 奥深い世界観と複雑なストーリー構成。個性的な登場人物。 (3回見たのは、ストーリーの伏線が難しくてわからなくなってしまいリピートしたというのもあります。) 世界中で大人気だというのは頷ける超大作です。 「進撃の巨人」はたくさんの批評があるようですが、先日見つけたこちらの評は、臨床心理学の視点が取り入れられていて、たいへん興味深いものでした。 『進撃の巨人』ミカサが始祖ユミルに選ばれた理由 “反逆”としての他者とのつながり(文=角野桃花) 評のテーマは、「傷ついたものはどうして特定のひとりから与えられる愛情を求めずにはいられないのか」。 ここで取り上げられているのが、ジーク、ミカサ、始祖ユミル。 この3人にはそれぞれ、はたからみると理解しがたいほどの強い思慕を抱く人が存在します。 この記事では、「自分の生が脅かされる感覚、そこに突如として差し込む一筋の光、そしてそこへ向かう信奉と恋慕」が共通していて、それを、心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らが「愛」「親愛」だと認識していたその思いは、「転移」によるものだったのではないか? そしてそこからの解放のストーリーなのではないか、 というのが、この評の主張でした。 「転移」は、心理学では非常に重要な概念(理論)で、精神分析という治療を行っている中で、患者が分析者(セラピスト)の中に、自分の幼児期に重要な役割を果たした人物(親など)を再現しようとする心的な動きのことを言います。 確かに、恋愛や思慕の情といった深い関係性には「転移」が起きることがあります(逆に言うと「転移」によって恋愛や思慕の情が生まれるということにもなります)。 あたたかく幸せに満たされる”愛”の感情だけでなく、痛みがあったり、強い執着や不安感があったりなどの複雑な感情を説明する概念です。 ここで、トラウマという視点から見てみると、「進撃の巨人」の登場人物たちの情愛は、また違ったものとして浮かび上がってきます。 PTSDは、それが1回のエピソードか複数回のエピソードかに関わらず、トラウマエピソードに対する神経生理学的な反応パターンが現在も残っている状態です。 彼/彼女らに起きた出来事・経緯を追うと、彼/彼女...

ケアと「境界線」② ケアの関係の中で安全な境界体験をするには

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ケアは、自分と世界(誰か/何か)をつなぐ中で行われているもの。 その関係性は、いつも安全であるわけでも、双方向的というわけでもありません。 むしろ、ケアする側とされる側は固定していることが多いですし、 ケアする側は相手に入り込みすぎてしまったり、ケアされる側も、相手から入り込まれすぎたり、 ということが容易く起きてしまう関係でもあります。 自分への侵入を、特に幼少期から受けてきた人にとって、ケアを受け取ることは危険なことになりますし、 誰か/何かをケアすることにおいては、その対象との距離感がつかめず、遠すぎたり近すぎたりして、 それでまたしんどく辛くなってしまう、 ということがあります。 すると、誰か/何かとつながることへの、切なる望みと同時に、侵入体験からくる不安と恐怖も同時におきるという、正反対の感情や感覚が、自分を混乱させ、苦しませます。 そんななかで、どうやって安全なケアの関係を体験していくことができるか、「庭仕事の真髄」にヒントがあります。 著者はイギリスの精神科医で、園芸療法士。 この本は、園芸が、どれほど人の回復と癒しに効果があるのかを、たくさんの例を挙げながら述べています。 なぜそのような効果があるのか? それは、植物は決して人を拒否しないということ、 やりすぎややらなさすぎの間違いを行っても、植物は痛みも不満も訴えないこと、 剪定や間引きなどの破壊的行為をしても、それが植物の成長を促すことであったり、驚異的な回復力を見せたりもすること、 ということを述べています。 「植物の世話は、恐怖を感じることのない関係の中で、自分自身を解放できるようになるとヒルダ (注:NYの刑務所の園芸療法士) は確信しているのだ。草木は人間に対して即座に反応したり返事をしたりすることがない。また、ひるんだり微笑んだり、あるいは痛みを感じたりしても、言うまでもなく人間にはわからない。それが植物の有益な効果の重要な部分だ。幼いころに十分に大事にされなかった場合、それどころか実際に経験したものが虐待や暴力だった場合、後の人生の中で何かを大事にする仕方を学ぶのは、困難に満ちたものとなる。心の中にひな形がないというだけでなく、他者の中のもろさが自分の中の最悪のものを引き出す可能性がある。これが、虐待が無意識のうちに繰り返される理由だ。すなわち、動物や人間の弱さは、自身もかつて犠牲者...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ②

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「マインドフルな気づき」というのは、今、この瞬間瞬間に起きていることを、評価や価値判断なしに、ただ「ありのまま」に見ているという状態です。 「昨日、上司にミスをとがめられた」という場面を例にしてみましょう。 そのことを思い出すと、恥ずかしい気持ちで苦しくなるかもしれませんし、怒りでイライラしてくるかもしれませんし、不安で自信を感じられなくなるかもしれません。 きっと、その人によってさまざまな感情が湧きおこる出来事だと思います。 マインドフルな気づきというのは、この場面を思い出している今、この時において、「身体が固くなっているな」「心臓がドキドキしている」「手足が冷たいなぁ」「足が浮いているような感じ」というようなことに気づくことです。 恥ずかしいとかイライラなどの感情が出てきたら、「こんな気持ちが出るんだな」と思いつつ、その感情は身体でどんなふうに反応しているのか…と注意を向けていきます。 マインドフルな気づきがPTSD症状への取り組みに効果があるのは、このような注意を向けている間は、その症状に圧倒されてしまうことがないからなのです。 ですので、PTSD症状へ取り組む時には、このようなマインドフルな気づきの状態を維持していくということがポイントになり、そういう意味で「マインドフルネスはPTSD症状に役立つ」と言えます。 一方で前回にも書いたように、マインドフルネス状態を目指すトレーニングや瞑想は、PTSD症状を持っている人が適切なサポートがない中で行った場合には、その症状が現れ、圧倒されてしまうこともあります。 それは、気づきを向ける方向や、気づきの維持について、細やかに見ていく必要があるためです。 また、マインドフルネス瞑想やトレーニングの中には、「マインドフルネス状態へ至ることが目的になっている」ようなものもあったり、 トレーニング自体はそうでもないのだけれど、トレーナーが無意識にそう指向していたりするものもあって、 そういう場にいると、「マインドフルネスになれている/なれていない」というような思いを感じてしまうことも起きます。 「マインドフルな気づき」はPTSD症状への取り組みに役立つだけでなく、生活や生き方にも良い影響を与えてくれる、すばらしい仏教の叡智なのですが(というよりは、もともとPTSD症状や集中力を高めるためのものではなく、仏教の実践そのものです)...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ①

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「マインドフルネス」はかなり広く知られる言葉になりました。 「マインドフルネスが不安やストレスを軽減する」という研究結果や実践の積み重ねがあり、「PTSD症状へのマインドフルネスの効果」についての研究もあります。 一方で、「マインドフルネスを行うとPTSD症状が悪化する」ということも言われています。 真逆の説明は、混乱してしまうでしょう。 いったい、どっち??? 先に結論から述べましょう。 マインドフルな気づきはPTSDに効果的ですが(症状としては現れなくなります)、マインドフルネスはPTSDを悪化させる場合があります。 もともとは、マインドフルな気づきや注意の能力が高まっていくと、PTSD症状の軽減やコントロールをもたらす、というものでした。 そこから、PTSD症状を軽減するためにマインドフルネスのトレーニングを行う、という方法が行われました。トレーニングによってマインドフルな気づきや注意の能力を高めていくことで、PTSD症状が軽減するという考え方、つまり逆方向の考え方で「トレーニング」が生まれたわけです。 マインドフルネス瞑想のトレーニングは、日々の積み重ねを何年も行うことで、マインドフルな状態へ移りやすくなったり、その状態が長く続くようになります(ヨギーがそういう状態です)。 「マインドフルネス」 「マインドフルネス瞑想」 「マインドフルな状態」 似たようなカタカナ用語が現れてきました!余計に混乱してしまうかもしれませんが、ここが注意どころです。 このような、似たような用語の意味するところが錯綜していることが、「マインドフルネスとPTSD問題」を混乱させているのではないかと思います。 マインドフルネスは、「 今ここでの経験に評価や判断を加えることなく注意を向けること」。 マインドフルネス瞑想は、そのような注意の向け方へと誘導していくことであり、その練習や実践です。 そして、今この瞬間に注意を向けている状態を、マインドフルな状態=マインドフルな注意の向け方が行われている状態、になります。 PTSD症状へのアプローチで重要なのが、3つ目の、「マインドフルな注意を向ける」ことです。 長くなりましたので、次回に続きます。

いじめられ経験の私を救い出す

子ども時代にいじめられたことがある方は、決して少なくないと思います。 私も、継続的であったり、大ごとになるまでではありませんでしたが、少なからずいじめの経験があります。同級生からも、先生からも。 嫌な感覚がよみがえるような出来事もあれば、「なんやの、あれ!」と相手を一笑に付せるぐらいの出来事もあります(私のストレートな感覚ではこの大阪弁なのはご容赦ください~!)。 いじめは、その時に辛かったり孤独だったりしただけでなく、多くの人に、その後の人生にも影響を及ぼす、とても強烈なトラウマ体験です。 さまざまな感情がひきおこされるような記憶ですし、身体的にもその記憶は残っていることが見られます。 身体には、無自覚な緊張感があったり、ちょっと硬直したような感覚や姿勢が現れたり、地に足があまりついてないようなフワフワした感じがあったりするかもしれません。 感情や行動では、対人関係での不安、自分への自信のもてなさ、距離をとって人と接していたり、逆に過剰に笑顔やフレンドリーさを維持していたり、 何より強烈なのは、自分自身に対する恥の感情です。 「いじめられていた自分」「いじめられるような自分だった」というような、自分自身の存在価値に関わる感情はとても強烈で、そのために、当時も、家族や先生、信頼できそうな友人に打ち明けることが難しかった人は多いと思います。 このような恥の感情はあまりにも強烈なので、私たちは普段、記憶に蓋をしていたり、覚えている出来事を遠くから眺めるような感じで語ったりします。 こんなふうにある程度「距離」をとって痛みの記憶に触れないでいられていること、 それは自分を守るすばらしい力です。 一方で、今の自分の、人間関係の難しさやしんどさ、気分の落ち込みなどに影響があるのではないかと感じているならば、 記憶を遠くに閉じ込めてきた力を尊重しつつも、あの時に辛かった自分を救い出しに行く時が今ようやくやってきてくれたのかもしれません。 あの時の、出来事の大小は全く関係ありません。 出来事が些細なことだったとしても、自分の中で残る衝撃は大きいということは普通にありますし、おかしなことでもありませんし、何より、それは自分のせい、自分の弱さや不甲斐なさのせい、なんてことは 全く ありません(強調しておきます!) それはあくまで、神経系の反応であり、その反応の記憶なのです。 カウンセ...

「愛」に基づくこころの実践~「ALL ABOUT LOVE」①

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ブラック・フェミニズムを代表する文化批評家・教育者・活動家ベル・フックス。 彼女の名前「bell hooks」は、カタカナで書くと、小文字のみの表記に込めた思いが薄れてしまうのが残念なところ。 数々の有名な本が翻訳出版されているので、ぜひ。 私は「 フェミニズムはみんなのもの 」を若い頃に読み、心が震えるほどの力をもらったことを覚えています。 そのフックスの著書の一つ、「ALL ABOUT LOVE~愛をめぐる13の試論」。 この本では、「愛」を、情愛の感情や関係とは異なるものとして提示しています。 愛とは愛のおこなうところのものである。子どもたちに愛を与えるのは私たちの義務だ。私たちが子どもたちを愛する時、彼らは所有物ではなくて、彼らには権利があるのだと ―私たちは彼らの権利を尊重し擁護すると― あらゆる行動で認めることだ。 正義がなければ、愛は決して存在しえない。   愛への目覚めは、私たちが権力と支配の強迫観念を手放した時にのみ起こり得る。 愛の倫理はすべての人が自由である権利、存分に申し分なく生きる権利を有することを前提とする。 ここで示される「愛」は、ロマンティック・ラブの「愛」ではなく、個人と社会のすべてに自由と尊厳をもたらすものとして示されています。 では、心理療法と「愛」のテーマはどのようにつながっているでしょうか? 最初に見捨てられたときの(略)心の傷は、どんな人間関係も癒すことができなかった。(略) 過去に戻ることは決してできない。(略)ずっと昔、まだ幼くて心の願いを声に出して言えなかったとき、愛を失って受けた深い悲しみを解き放って初めて、私たちは心から望む愛を見つけることができる。 「愛」が得られなかった記憶。「愛」を失った記憶。 このような傷は、「愛」の倫理と実践がないところ ―つまり正義がないところ― で起きます。 見つけられず、認められず、癒されないままの傷は、心の奥深くに残ります。そして「愛」の倫理と実践を行うことを困難にします。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと進むプロセスの時間。 逆に言うと、今別の形で現れている問題や感情は、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へといざなってくれているのです。 でも、 たんに、どのようにして自分は価値がないと思うようにな...

自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた...

自己嫌悪と恥②

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前回 から続きます。 自分を恥じたり自己嫌悪を感じている、と自分でもう気づいていたなら、そこへ取り組んでいくことができますが、恥と自己嫌悪のやっかいなところは、そう感じていること自体を隠してしまうところです。 明らかな過ちを犯してしまって感じる恥は、自分でも気づきやすいのですが、「自分=恥の存在」が深く浸み込んでいる場合は、次のようなことにも恥と自己嫌悪が引き起こされます。 自分への高い理想が実現されなかったり自分に課した要求を遂行できなかったとき 「エラー」範囲でしかないような通常のミス ある程度成功したりやり遂げたとき 人からの注目、視線 相手の、ある表情、ちょっとした言いよどみ、声の微妙な変化、微妙な手足の動き 自分の意見や希望を言うこと ゆっくりしていたり、手を抜いたりしたとき 楽しかったり幸せに感じたとき びっくりさせられたとき あるニュースや情報を目にしたとき 誰かに(優しく)触れられたとき これって、何でもあり、全部ですよね…。 そうです。恥が引き起こされるきっかけは、その人にとっての「何か」。 それは具体的なことだけでなく、ありとあらゆるものがきっかけになります。 自分では気づかないような、意識されないようなことも。 恥や自己嫌悪が、「恥」「自己嫌悪」としては現れずに隠れているとき、こんな感情や感覚が起こります。 不安 緊張 恐怖 遠慮 うしろめたさ 怒りやいら立ち 悲しみ 焦り 戸惑い 満たされなさ 孤独感や孤立感 無感覚(硬直した感じ) パニック こわばり、震え、のどの詰まり、早い鼓動 腹痛・頭痛、気持ち悪さ こんな感情や感覚は、決して快適ではないので、身体も心も、何とか回避したり、不快さを減少させようとすぐさま何かの反応や行動を起こそうとします。 そうしてさらに、「自分=恥」と気づかれないように隠れていくのです。 ですので、「自分は自分を恥じている、嫌悪している」「自分をこんなにも恥じているのだ」ということに気づくところまでは、結構な道のりになります。 次回へ続きます。

自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

緊張感をほどく~災害や事故などの後で

2024年。 新しい一年が始まりました。 今年はお正月から大きな地震が襲いました。 被災された方、地震の影響を受けた方には、心よりお見舞い申し上げます。 寒さが厳しくなっていく中、一日も早い安心と回復を願います。 地震は、私がいた場所でもけっこうな揺れがあり、しばらく気分が悪くなりました。 阪神淡路大震災以後、ほんの少しの揺れでも身体が反応するようになりました。 身体が緊張し、こわばり、本来ならすぐに身を守る行動をするべきなのですが、すぐに動くことができません。 頭ではわかっていることですが、身体が即応しないのです。 「あれほどの地震はそうめったに起きないだろう」という過信が頭にインプットされてしまっているのかもしれません。 直接の被害がなくても、揺れなどによって身体が反応したり、 ニュースの緊迫感が伝わってくることで、緊張感が高まったりすることがあります。 「今」が安全で大丈夫であれば、その緊張感などの身体の反応は、ある程度したら回復し、元の状態に戻れるのですが、 ふだんから緊張感や不安感が高かったり、敏感に感じやすい人は、なかなか元に戻りにくい傾向があります。 緊迫感自体は、安全確保のために必要な反応なのですが、「大丈夫」なはずの状況にいてもその緊迫感が持続してしまうのです。 そうすると、「今は大丈夫じゃないのだ!」「こんな苦しいのはもう無理だ!」「もう私は終わりだ!」「死んでしまうかもしれない!」 という絶望的な気持ちになっていくこともあります。 こういうとき、 安全確保のための情報収集として必要がない限り、ニュースや情報から一旦離れましょう。 「今、ここ」は安全で、危機は起こってないということを身体で確認しましょう。目に入るものをいくつかしっかりと見たり(「本がある」「マグカップがある」など)、座っている床や椅子などを感じてみましょう。 身体に緊張感を感じられていたら、その部分を動かしてみましょう。わざと力をギューっと入れて、パッと抜いてみるのでもOKです。 もう少し大きな動きや大きな呼吸をしてみてもいいと思います。立ち上がって歩いてみたり、大きく息を吐いたり。 ここまでくると、気分や緊張感に変化が起きているはずです。 カウンセリングでは、こういうプロセスを一緒に行っています。

心理士の急性神経症状体験記➂ ~身体の記憶・身体の叡智

前回からの続きです。 治療は数日で終わり、無事に退院することができましたが、帰宅しても「ぼんやり」した感覚が続いていました。 だいたいは大丈夫だったのですが、何となく「本調子」ではない感じ。 そして、救急病院へ行ってから治療を受けるまでのことが繰り返し繰り返し思い出されていました。 こういう状態は、衝撃的な出来事を経験した後に生じる、自然な反応です。 そういう中、身体の反応や感覚に焦点を当てるトラウマ治療の心理療法のトレーニングで、クライエント役としてこの出来事を取り上げました。 心理療法のトレーニングでは、参加者がセラピスト役やクライエント役を実際に体験し、練習を積み重ねます。 「死なずに回復できたなら、この経験はトレーニングの練習の恰好のネタになる…」 救急救命センターに到着した時にボーッと考えたことを実現するチャンスです。 この心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)は、身体の感覚や動きなどに意識を向け、トラウマ反応となった心身の状態を変容させていきます。 練習のセッションで私は、自分の身体に何が起きているかに意識を向けて行きました。 初めは、身体がどんなふうかを観ていきます。 力が入らないような感覚、逆に力が入っていたことへの気づき。 それから、身体が求めているほう、動きたいほうを探っていきました。 頭の後ろにクッションを置いて、椅子の背にしっかりともたれかかると、大きな息が出てきました。 クッションが私に、「ゆったりしたほうがいい」と言っているのを感じました。 身体全体の重み、手の温かさがジーンと感じられ、 表情も身体も緩んでいきました。 すると右ひじ周りにピリピリした感じが出てきて、それがサーッと抜けていきました。 そのとたん、その場所から感情がサワサワと広がってきて、涙がこぼれました。 「怖かったなぁ…」と涙が言っていました。 思わぬ出来事で緊張が続いていたことに自分で気づかないままでいた中、 やっと出た涙でした。 また一つ大きな息。 すると、自分の身体の実感が戻ったことに気づきました。 身体も心も、変化した、ということを感じました。 自然な感覚、いつもの感覚が甦ってきたのがわかりました。 医学的な完治とは別の、身体経験としての「完治」。 「完治」というよりは「完了」や「変容」と言ったほうがよいかもしれません。 恐怖や緊張は、こんなふうに身体に留...

心理士の急性神経症状体験記② ~不安と身体の深い関係

前回 は、過呼吸に傾く状態を自分なりに呼吸調整し続けたことについて書きました。 過呼吸に傾きやすい動悸は、この後数日、断続的に起きましたが、動悸が急激に激しくなる時がありました。 それは、先生が「怖いこと」を言った時。 「死ぬでー!」(関西弁) (注)そのくらい農薬曝露はヤバイんやでという意味。 「人工呼吸器を入れるかもしれへんからな~」(関西弁) (注)そういう可能性も事前告知しとくで、という意味。 こういうことを聞いた瞬間、動悸と不安感が一瞬にしてブワッと全身を覆いました。 心臓がバクバク。 モヤモヤしたような不安ではなく、アラートが大音量でなっているような不安の感覚。 命の危機に直面したときの反応のような感じです。 えっ?思ってたよりずっと悪いかもってこと? 私、気楽に考えすぎ?? 人工呼吸器ってー!?、ナニ?ナニ?いったいどうなるわけ??? 不安な考えが広がりそうになるとき… それはあまりにもわかりやすく、身体の反応と同時に起き、広がりました。 ですから、この不安感は身体の反応そのものだと思いました。 ということは、ある程度調整できるはず。 「不安なことは一旦置いといて、まずは身体を調整しよう。」 呼吸困難は曝露直後ほど強くなくなり、むしろ動悸(心拍数の増加)が強く感じられたので、ヨガで行ってきた呼吸「鼻から3カウントで吸い、一旦止め、6カウントで吐く」を繰り返しました。 繰り返すうちに、不安感のほうは比較的早く収束してくれたのです。 動悸がある程度のところまで落ち着くのは、30分~1時間ぐらいかかったでしょうか…。でも気長に呼吸法を続けていました(ほかにすることもないし)。 動悸が鎮まるのに呼吸法が役立ったかどうかはわかりませんが、異常な不安感が比較的すぐに消えてくれたことには役立ったと思います。 そしてこの時も、自分なりに対処できるという気持ちを維持することができました。 幸いにも治療は順調に進み、症状がぶり返すことなく回復し、スムーズに退院できました。 ここで記述していることは、農薬中毒の対処法ではありません。 治療は薬剤によって行います。 ヒトは、いつもとは異なる状態、それが急性で急激だと、覚醒反応が起きます。逆にフリーズ反応が起きる場合もあります。 どちらも神経が引き起こす状態です。 私が経験したのは、それが中毒症状として生じた上に、環境要因(先生...

心理士の急性神経症状体験記① ~日々の身体自己調整はこんなふうに役に立つ!

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8月にブログ更新が空いてしまっておりましたが、理由の一つが緊急入院でした。 短期間で退院でき、後遺症などもなく現在はすっかり元気です。 救急救命センターに到着して、テキパキと処置が行われている中、意識ははっきりしていたので、「死なずに回復できたなら、これはネタになる…」とぼんやり思っていました(職業魂?)。 結果的に回復した今、とても興味深い体験だったので、次の二つのテーマで書いていきたいと思います。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている ①と②は、身体と意思について真逆のようですが、共通することがあります。これは後のブログで書いていきたいと思います。 私が救急搬送されたのは、農薬曝露によって神経系へ作動した急性症状のためでした。 まず初めに、血の気が引くような、高熱が出る前の悪寒のような感じがして、それから呼吸が早くなり、加速していきました。 この時は何が起こったのかわからないままでしたが、後から調べると、この農薬による中毒はすべての神経系に作動して症状を引き起こすものでした。具体的にはこんな症状です(一般的にわかりやすい言葉で記載しています)。 ※神経については 中外製薬(株)のWebサイトにわかりやすい説明 がありましたので、ご興味あるかたはリンク先へどうぞ。 初めに起こった強い自覚症状は、動悸、呼吸数増加(呼吸困難)、発汗でした。 肩で速い息を繰り返しているうちに、手足にしびれが起き、硬直してきました。 も、もしかして農薬が身体に回ってきた?!?! このとき救急病院にいたのですが(※)、「うちでは対応できない」と言われ、病院側も対応に困っている様子だったので、私は不安とストレスが強くなっていたところでした。 「別の病院へ行くべきなら行くから、早く言ってよー。一体どうすればいいのよ~(泣)。」 症状は立っていられないぐらい強くなっている上に、不安と恐怖感がせり上がってきたとき、ふっとあることが浮かんだのです。 これは過呼吸と同じ状態ではないか? 手足がしびれてきたのは、農薬ではなく過呼吸による可能性があるのではないか? 呼吸によって起きているなら...

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった...

差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログ で、差別とカウンセリングについて取り上げました。 アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。 それでずっと考えていました。 私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。 差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。 これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。 ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。 短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。 「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。 差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。 そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。 同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。 でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。 「モヤモヤ」はここにもありました。 被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。 これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。 人の心の中は自由だ、 それは確かにそうです。 でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。 女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。 「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。 そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。 このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。 趣味や服装などのような、単なる好...

差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま...