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おすすめ!「ストレスとトラウマのためのセルフケア新習慣」

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おすすめの コレモ(コミュニティ・レジリエンシー・モデル) の本が出版されました! 「ストレスとトラウマのためのセルフケア新習慣 コミュニティ・レジリエンシー・モデル入門」(服部信子・著、日本評論社)。 私がコレモを知ったのは2017年。 参加していたワークショップの隣に座っていたのが著者の服部信子さんでした。 当時の私の関心は、トラウマの治療法やトラウマ療法を求めている人は多くいるけれど、医療や支援機関が十分ではないなかで、「回復」を目指すのは難しくても、せめて「なんとかなる」と感じられるような、シンプルで簡単で、日常の中で取り入れられるアプローチはないものか…ということでした。 その話を服部信子さんにしたところ教えてくださったのが「コレモ」。 コレモは、言葉でやりとりできるぐらいの小さい子どもからお年寄りまで、まさに「いつでも、どこでも、誰でもできる」、とっても簡単だけれど安全で効果的なアプローチです。 私自身も日常のなかでこれを基本的に使っていますし、セッションでもクライエントさんによくお話ししています。 子どもとも時々一緒にやっています。初めて提示してみたのは小学1年生ぐらいのころでしたが、スムーズに理解できて、落ち着きました。その後も時おり提示してきたので、今は自分でできるようになっています。 トラウマの回復は、トラウマの理解がとても重要です。 こちらの本は、トラウマについてもわかりやすく書かれています。 私のセッションでは、コレモを取り入れて、実際にセッションの中で体験してもらっています。 ご興味があればぜひ一緒にやってみましょう!

誰にも言えなかったこと。それが世界へとつなぐ。

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3つ前のブログ で、スタンダップ・コメディアンのハンナ・ギャズビーを取り上げました。 ハンナは、これまで受けてきたたくさんの被害、被差別の経験の痛みを削ぎ落して「ネタ」にしてコメディにしてきたのですが、それが自分を世界から切り離してきたのだとわかり、痛みをそのまま伝える新しい「コメディ」をつくりました。 それが「ナネット」。 「ナネット」を発表した時に、ハンナはコメディアンを辞めると宣言しました。 でも自分自身の真実を伝えたことで、ハンナは逆に世界とのつながりを取り戻しました。 これが3つ前のブログで取り上げたことです。 タイで有名なシンハービールをはじめとする様々な事業を手掛ける大財閥の家族である シラヌード・スコットさんが、実兄からの性被害を公表 しました。 シラヌードさんもまた、自分が受けてきた被害を誰にも話すことができず、ようやく家族に打ち明けましたが、秘密にすることを求められました。 しかし、家族との間で起きた問題をきっかけに、真実を明らかにする決心をします。 「このことを長年抱え込んで生きてきて、もはや話さなければ死んでしまうところまで追い込まれていた。私は生きたかった」。 沈黙の強要は二次加害です。 加害者(加害社会)にとって、性被害や差別が明るみに出ることは、不利益であり、不都合なので、いろいろな理由や条件をつけて沈黙を求めます。 そうして強要された沈黙は、被害者の孤立と分断をもたらし、被害者はさらに苦しめられます。 被害を受けた時に助けがなかった上に、被害を伝えてもなお一人にさせられる。 沈黙の強要は、加害側がもつパワーによって有効になります。 苦しんだ末に告白をしたシラヌードさんは、SNSのなかで共感と支持を得たそうです。 さらに、沈黙させられていた人たちが#Me Tooと発するきっかけとなり、シラヌードさんも他の人たちも、自分は一人ではないのだという大きなうねりが生まれました。 「公表したことで、外の世界にはこれほど多くの光があると知ることができた」。 今までとは違う人との、今までとは違うつながり。 今までとは違う自分自身とのつながり。 心理療法でも大切にしていることです。 ※文中の青文字のリンクはヤフーニュース。こちらは毎日新聞の記事です(有料)。 特派員発 世界は今 「兄から性的虐待」タイの有名ビール創業家 告発後の思わぬ反響

孤独の正体

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スタンダップ・コメディアンの ハンナ・ギャズビーの『ナネット』 (2018年)は何度見ても最高です。 ハンナはレズビアンで、『ナネット』公演の前年にADHDと自閉症の診断を受けました。 鬱と不安障害があり、レイプと暴行を受けたことがあるというハンナの体験がこの公演で語られています。 こちらのTEDトーク(Three ideas. Three contradictions. Or not. | Hannah Gadsby)はその後日談。 「私が人間として生きている意味は何なのか」という深い問いがもたげます。 ハンナは、レイプや暴行だけでなく、差別や暴力を受けてきたことでPTSDもありました。 『ナネット』までは、そういう自分の個人的エピソードの傷みの部分を削いでジョークにし、コメディとして発表していました。 でもそれはトラウマの再演(※)だったということに気づいていきます。 それは自分自身を切り離していた行為だったということ。 そして世界から切り離されないためにしていた行為だったということを。 真実と傷みをそのままに話すことを、世界は忌避します。 見たくない、聞きたくない現実。 それが自分を否定すること、 あるいは自分の傷が再発してしまうこと。 その恐怖から、真実と傷みを遠ざけようとします。 ハンナはそれを幼少期から知っていたので、「笑い」という方法で自分を世界につなげようとしてきたと。 でもそれを止めよう、と決意して発表した『ナネット』。 「真実と傷みをそのままに話すことで周縁に追いやられるとわかっていた上で、真実を伝えるために自ら犠牲を払う覚悟でした。」 ところが『ナネット』は世界中で大評判になり、受賞もしました。 「結果は私を世界から押しやるのではなく、世界は私を近くに引き寄せたのです。」 このことは、孤独とは何かということを伝えてくれています。 自分の中にある深い傷みが、誰とも、世界ともつながっていないこと。 傷みが現れると世界から切り離されてしまった経験。 その深い恐怖。 ハンナはコメディを通してそれを伝えました。 心理療法もまた、孤独をほぐし、和らげ、内なる真実と傷みを感じていくことで「世界を私の近くに引き寄せる」という体験。 その道のりを共に歩むものです。 ※トラウマの再演:トラウマ・エピソードによって生じた反応が強烈な場合、それらは過去のものであっても...

「安心」を感じるステップ 1

世界が危険に満ちたものだという体験が積み重なると、身体は常に緊張状態、世界に対して警戒した状態になり、リラックスがとても難しく感じます。 世界は危険だ、怖いとは思っていなくても、実は身体は緊張状態で、それに気づいていないということもよく見られます。 床に寝転び、目を閉じて力を抜いているところで、足や腕を持ち上げると軽い人は、無意識に力が入っています(よく見られます)。 ですので、身体の本質的なリラックスはなかなか難しい感覚です。 ボディーワークにおいて、yielding(イールド、イールディング。以下「イールド」と書きます)という概念に基づいたワークがあります。 日本ではロルフィングやフェルデンクライスなどで用いられています。 イールドは、身体を委ねる、預けるという動きや状態で、もともとはボディ・マインド・センタリングを提唱している Bonnie Bainbridge Cohen が主張しているものです。Bonnieは著書「 Basic Neurocellular Patterns: Exploring Developmental Movement 」のなかで、5つの発達上の動きを示しました。 イールドはその1つで、発達上では最初に現われるものです。 イールドは重力に対して自分の重みを預けながら、同時に、預けている対象の存在やその対象から伝わる力を受け取るという意味があり、自分の身体状態と、身体が関わる環境(他者)との相互作用が含まれています。 その点で、身体の力を完全に抜いたことにフォーカスするリラックスとは異なるとされています。 安心は、完全に力を抜いてリラックスすることと、というわけではなく、ある程度の力が入っていながら「自分」でいられること、つまり、コントロール感が維持できていることと考えた方がよいと思います。 例えば椅子の背にもたれかかると、まっすぐ座っているよりも背中の力が抜けているはずです。 そこで、抜けている力を感じられるようだったらそのまま身体の感覚に委ねていけます。 でも世界は危険な人にとっては、力が抜けることでまた緊張がさらに増します。 力を抜く=気を抜くとか丸腰になる=危険という図式が身体化しているためです。 そうすると、「リラックス感=危険」構図がさらに強化され、また、「力が抜けない」ことへの自責や諦め、恥、悲しみ、怒りなどが起きてしまいま...

回復のために、自分を「閉ざし」、居場所をつくる

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私が回復するには、自分の中にいるあらゆる者たちに居場所をつくってやらなければならない。(中略)自分の中にいるさまざまな者たちが、互いに妥協することなく共存できる、その均衡点を私の体の奥深くに見つけなければならない。あらゆる者がもうここに来ているのだ。私の体はあらゆる者が集まる場所になっているのだ。だから、それらとともに新しくつくりかえなければならない。(p.95) 「熊になったわたし」 ナスターシャ・マルタン著 この本は、私の「今年の1冊」。 人類学者の著者は、フィールドワーク先のカムチャッカの森で熊に襲われ、九死に一生を得る大けがをします。 冒頭の引用は、事故の後、フランスに戻って治療を受けていたところです。 熊によって負った傷害を、単に外科的な回復としてだけではとらえられない、深い混沌に著者は陥っていきます。 この引用文は、まさにセラピーで起きること。 悩みや苦しみや困難を、心理療法という方法で扱っていくとき、そこには、そのクライエントさんには、(そしてセラピストの私にも)さまざまな「者」が現れてきます。 悩みや苦しみや困難の中にいるときというのは、たいてい、悩んだり苦しんだりしている者、それを何とかしたいともがいている者、諦めや無力感を感じている者、孤独を感じている者、それでも毎日を生きようとしている者… こんなふうにあらゆる「者」が現れて来ます。 そして、セラピーを通して、あらゆる者が「互いに妥協することなく共存できる、その均衡点」を探っていくのです。 私が変容するためには、肉体と魂の手術を完成させて、私という開かれた世界を閉じる必要がある。肉体の傷口を縫合し、開かれた魂を閉じるのだ。肉体においても、魂においても、今すぐ境界を閉鎖しなければならない。(p.96) 著者は大けがをしたので、損傷した肉体の傷を閉じ、肉体が回復していく必要があります。 心理療法でも、自分を「閉じ」、境界をつくるというのは、とても重要なこととして扱います。 心理療法では、いろいろな“実験”を通して「境界」を引く、「境界」を感じる、「閉じる/開く」、「つながる/切る」、「境界」を広げる/狭める、ということを体験していきます。 それは、自分の中に集まった「あらゆる者」にとって大切な感覚であり、「あらゆる者」とともに行います。 この本に関してもう1つ。 著者は、フランスで手術と治療を終えた...

トラウマ化を防ぎ、トラウマを改善するもの

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「山」続きですが。 こちらの仕事と並行して従事している勤務先の仕事で、竹内洋岳さんの講演会を行いました。 日本人初、8,000m以上の14の山を全て登頂した方です。 14座完登した人を、その偉業を称え、14サミッターといいます。 8,000m級の登山では、これまでも数多くの死者が出ています。 竹内さんもまた、同行者は亡くなってしまったという大変な事故に遭い、九死に一生を得る登山をされています。 命に関わる大けがから救出された後、竹内さんは暴れて大激怒していたそうです。竹内さんご自身はその時の記憶がなかったそうですが。 「登山の哲学」NHK出版新書 407 「下山の哲学」太郎次郎社エディタス トラウマセラピーを行う心理士として興味をもったのは、記憶がない救助直後以降に大激怒して暴れていたというところ。 生命の危機は、強い恐怖の感情と身体状態を引き起こします。 命の危機のその瞬間に典型的に現れるのは凍りつきの反応。 その後に襲ってくるのは震え。それが恐怖の感情とつながります。 この一連の身体反応が完全に完了しなかった場合、恐怖の記憶は身体化する場合があります。 思い出すと恐ろしさに襲われるとか、そもそも思い出すことができないとか、 思い出として恐怖感はなくても、身体が覚えていて固まってしまうなど。 身体はまだあの時の危険を覚えていて、今も警戒状態をいつでも発動できるようにしている、と言えます。 でも、竹内さんが体験された怒り。 これは命のエネルギーを発露するパワーでもあるので、怒りによってトラウマ化が起きなかったのかもしれません。 ご著書を読んでて感じたのは、竹内さんが、常に第三者的な視点で自分と状況を見ていることでした。 トラウマに限らず、心理療法は、自分や状況を俯瞰して観ていくプロセスです。あるいは、結果的に俯瞰して観ることができるようになるもので、そのようなまなざしが、深い癒し、存在感、つながりの体験をもたらします。 第三者的な視点は、トラウマ化を防ぐことにも、トラウマ化した状態を改善することにも役立つと考えられます。 これは、竹内さんがされていたように、日々の積み重ねの中で身につけていくことができますし、誰でもそれは可能です。 セラピーでも、それが蓄積されているのを、クライエントさんから感じています。 サインもいただきました! ありがとうございます

トラウマを癒やすのに必要な感覚

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前回のブログで取り上げた「夜明けまえ、山の影で」 。 著者のシルヴィアは、性虐待や性被害を受けた仲間とともに、エベレストのベースキャンプを目指して歩いていました。 ベースキャンプでも標高は5,000m超。 高度順化のために何日かかけて歩いていくその途中、エベレストの頂が見えました。 私たちは黙ったまま、しばらくエベレストを見つめていた。 「お母さんみたい」ヒメナ(※参加者の1人)が小さな声で言った。 エベレストを見るとき、なぜささやき声になってしまうのか、私にはわかる。 圧倒されるからだ。自分の小ささを知り、自分が、自分よりもはるかに大きいものの一部であると感じる。自然を通してトラウマを癒やすのに必要なのが、この感覚だ。  この感覚は、自分でじっさいに経験してみないとわからない。トラウマはスプーンで簡単にすくって取り除けるようなものではない。あなたの中に巣くい、悠然と、ときに静かに、いつまでも居すわる。そしていつだって、ほんの一瞬で、あなたを破壊する力をもっている。 (p.144) 「大いなるもの」を感じる体験。このようなスピリチュアルなイメージや感覚は、心理療法ではとても意味深いものです。 大木。満点の星空。広がる大地。 日本のクライエントさんからは大自然が現れますが、海外では神が浮かぶ方もいるそうです。 私が初めて2,000mを超える山を登ったのは中学生の時でした。 苦しい登り道をただひたすら歩いて辿り着いた山の頂。 そこからはるか下方に、当時住んでいた街の灯が小さく瞬いていました。 あんなにちっぽけな瞬きに自分は暮らしていたのだ その時に感じたものは、私の表現力では言い表すことができません。 でも今もありありとあの灯が思い出されるのは、私の中に表象として残り続けているから。 思い出さなくても、私を支えてきた場面の一つなのでしょう。 今年の北アルプス 高所登山は、気軽にできるものではありませんが、「おおいなるもの」はあらゆるところに存在します。 誰もに「おおいなるもの」との出会い、つながりが、意味あるものとして存在することを願います。

”誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがある”

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「自分の歩いた道のりを振り返ってみないと、自分がどれだけ遠くまで来たのかわからないときがある。頂上に立つとは、たんに何かを成し遂げるということではない。長い時間をかけて影の中を歩き、その向こう側に何があるのかを知ることができる、ということだ。他の女性や、男性とともに歩く方法を学ぶということだ。ひとりで張りつめながら生きるのではなく、周りの人と助けあうことを学ぶということだ。誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがあると、知ることだ。」   シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著 『夜明けまえ、山の影で』双葉社 家の掃除の仕事をしに来ていた遠い親戚の男性に、6歳のころから数年にわたり性虐待を受けてきた著者は、被害を親に言えないまま成長します。男性に、「内緒だよ」「お父さんに頼まれたんだよ」と言われていたからです。 被害を受けることがなくなってからも数年の間、誰にも言えずにいた著者は、高校3年生のときに、厳格で支配的な父親の怒鳴り声が引き金になって「秘密」を吐き出します。そして、それをきっかけに受診した精神科医の勧めでアメリカに留学することになりました。“忌まわしい”思い出のある場所を去り、新しい地で人生を過ごすために。 しかし性虐待のトラウマによる影響が現れ始めます。ワーカホリックになり、アルコール依存とセックス依存を抱え、苦しむようになります。 さらに愛する人を失うという辛苦のどん底へいたり、故郷のペルーの母の勧めで、伝統的に行われてきたアヤワスカという幻覚剤を用いた儀式を受けます。そこで著者は、6歳の自分のイメージと出会います。 この女の子を、自由にしてあげたい。山に連れて行ってあげたい。 登山はその強い思いから始まりました。 そうして、最高峰のエベレストへ向かいます。 女の子を、地球で最も高いところへ連れて行ってあげるために。 体調や悪天候で困難を極めた中、著者は世界最高峰へたどり着きます。 そして、冒頭の引用に思い至るのです。 山登りのメタファーは、セッションの中で時々現れることがあります。 自分が歩いてきた道。これから歩いていく道。 頂上に至るということ。 そして下っていくということ。 共に歩む人。 歩調を合わせて同行しているわけではない、でも同じ山を登る誰かの存在。 登山をしてきた私にとって、「山」は身体に浸み込んでいる記憶。 ですので、クライエントさ...

心理療法と平和

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もう30年前かと思うと、遠い過去の出来事ですが、ずっと私の心に残っていることがあります。 当時、定期的に活動していたグループがありました。その活動でご一緒だった方が、どういう流れだったかは覚えていないのですが、こんなことを語りました。 「私が生まれる前に戦争に行った父は、私を見ることなく戦争で死んでしまった。私は、父を恋しく思う気持ちと同時に、その父が戦争でしただろう加害を思うと、身を引き裂かれるように辛いのです。」 愛する人が、誰かを傷つけ、その地を蹂躙したのだということ。 その人の血が自分にも流れているのだということ。 涙を流しながら苦しそうに私に言っていました。 私の父と同じ年齢の方でした。 当時私は、何も言えなかった、何も返せなかったと思います。 ただ、その方の苦しみが伝わってきていました。 そして30年たった今でも、叫ぶように語った言葉と涙が、私の中でよみがえります。 その後、紆余曲折があり、私は心理職となりました。 光り輝く雷雲 臨床心理士養成課程の大学院の入学式。 研究所長がこんな式辞を述べられました。 「心理臨床は、心に平和をもたらすためのものです。 世界の平和のために、心理臨床を行うのです。」 その先生もまた、私の父と同じ年齢でした。 既にお亡くなりになっています。 現在受けているトレーニングの中で、世代間トラウマについて取り上げていました。 私は、あの活動仲間の方にセラピーを提供することはもうできませんが、このテーマが示されたときに、心理療法として取り組むことができるようになったと思います。 心理療法を通しての戦後処理。 心理臨床という「平和」のための活動。 心理療法というのは、お一人おひとりに対して提供するものですので、地球からすればごくごく小さな米粒のような意味しかないかもしれません。 でも、「心に平和」が、一人ひとりにもたらされること、 それを目指していきたいと思います。 「たった一人で見た夢が、百万人の現実を変えることもある。」 マヤ・アンジェロウ

世代を超えるトラウマ

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「世代間トラウマ」(Generational trauma, transgenerational trauma)は、世代を超えて引き継がれるトラウマのことを言います。 「世代間トラウマ」は精神疾患の診断名ではありません。 ある人が抱える精神症状や人間関係の問題、思考や行動に、上の世代で経験されたことの影響が及んでいると考える、社会的な視点を踏まえたものです。 ある集団がトラウマ的な出来事を経験すると、その集団に属する人々が被る身体的または心理的な症状や状態が、不安、抑うつ、心臓疾患等の身体疾患、PTSD症状などとして次の世代にも引き継がれる傾向があると言われています。 戦争、人種差別と迫害、災害等によって起き、欧米の研究においては、先住民族、ホロコーストの生存者、アメリカの黒人が例として挙げられています。 雲の彼方、右奥に富士山 戦争トラウマは、日本において、十分注目されずにきたものでした。 終戦80年の2025年のこの8月は、メディアで目にすることが出てきました。 あのような甚大な加害を行い、被害を受けた日本。それが何の影響もないわけがないことが、ようやく明らかになってきています。 私は、終戦前後に生まれた両親の元に、高度経済成長期に生まれました。 私にとって戦争は「遠い過去のもの」。祖父母が経験したとはいえ、「自分のこと」としては認識しない、歴史上のことだと思ってきました。 でも数年前、心理療法のトレーニングのデモ練習で、自分も相手も、戦争の歴史の影響がありありと存在するのだという経験をしました。 その時は圧倒され、「影響」の部分を切り離して練習を終えたのですが、ずっと引っかかるものを抱えてきました。 今はそれが、私の中に、価値観、イメージ、思考や言動、そして身体においても色濃く影響を及ぼしているということを実感しています。 カウンセリングでも、戦争による影響がテーマになることが、直接的にも間接的にもあります。 現在受けているトレーニングでは、このような影響についても扱うことを訓練中です。 「トラウマ」を、個人の内側の体験に留めず、周囲とのつながり、コミュニティ、そして世代を超えて見る、そういう視点も大切にしていきたいと思います。

心理療法における「非暴力」について考える④

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心理療法における非暴力の実践、最後のテーマは、内なる「暴力」です。 これを「暴力」という言葉で表すのは、「暴力」という言葉がもつ意味合いからすると違うかもしれません。 「暴力」は、ダメージを与えたり、脅かしたり、傷つけたりなど、非常に攻撃的なニュアンスを含みます。 ですが、その目的であり結果でもある「支配とコントロール」という点に注目し、その点からこれを「内なる“暴力”」として取り上げたいと思います。 「それは身体の叡智です」② ~身体の記憶を体験する こちらのブログで書いたのですが、捕食者に捉えられたインパラは、ラッキーにも助かった後、激しく震え、その後立ち去りました。 この震えとその後の逃走がトラウマの治療に有効であることを発見したピーター・リヴァインは、ソマティック・エクスペリエンシング®というトラウマ治療のための心理療法を開発しています。 この本、出版社の廃業で現在は刊行してません 最近、知り合いの心理職の方のモニターを受けているのですが、それも、身体深部の震えを起こし、自然に解放していくということ行います。 震え。 これが起きると、人は恐怖や不安という感情が湧きおこります。場合によっては恥の感情も。 そうすると、震えを何とか止めようとして身体を硬直させてしまうのですが、そうして震えを止めてしまうと、震えは解放されません。 モニターで受けているのもトラウマ治療法の一つで、震えを止めずに、震えに任せる、身体に任せる、ということがポイントとなります。 つまり、自分に起きていることを「なんとかしよう」と、意識的、無意識的にコントロールしようとしないことが、解放にとって重要ということなのです。 こんなふうに、自分自身に対して、自分の身体に起きていることについて、何とかしようとしたり、何とかしたいと思ったりすること、 これ自体は、ごくごく普通に、誰にでもよくあること、誰でもよくやっていることです。 そして、良いことでも悪いことでもありません。 身体にとって必要なことを無視して、あるいは抑圧して、違うことを行うとき、それは身体に対するコントロール、つまり自分の身体へ「暴力的」であると言えます。 自分のさまざまな複雑な思いや感情を無視したり抑圧して、違うことを行うときも同じ。 でも、ただ、そうしていることに気づくことは大きな違いをもたらします。 このテーマは、以前にも様々...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?➂

「進撃の巨人」の登場人物の中で、一人の人を強く激しく信じ、求めるジーク、ミカサ、始祖ユミル。 3人とも、その相手との出会いは、大きな傷つき体験がありました。 恐怖や受傷という点では同じですが、それが起きた経緯はやや異なっています。 ジークと始祖ユミルは、養育者や生育環境における重要な他者からの、適切・適度な安全や安心を得ることがない育ちがありました。 一方ミカサは、優しい両親の元で健やかに育っていましたが、その両親が目の前で斬殺されるという衝撃を体験しました(そしてその場に居合わせたエレンに助けられるのです)。 トラウマの心理療法では、これを分けて考えるやり方があります(※)。 ジークがクサヴァーに対して抱く強い思慕、そこからくるクサヴァーの思想を受け継ぐ強烈な意思。 これは、両親から暴力を伴って否定され続けてきた虐待による発達性のトラウマの影響と考えることができます。 始祖ユミルがフリッツ王の意のままに奴隷として生き、自分が死んでもなお、「道」という一切の孤独の世界で、フリッツ王の影を引きずったまま奴隷として存在し続けたこと。 これは、自分がおかれた状況とフリッツ王の暴力支配の恐怖による迎合反応と考えられます。 ミカサは、両親を惨殺された経験がその後に影響を及ぼしているとして、単回性のトラウマエピソードにあたります。 このようにみていくと、3人ともが抱く「愛」の様相は異なっています。 そのため、ジークと始祖ユミルが、内面化された他者の思想から解放されていくプロセスも異なってきます。 ジークは、クサヴァーとの間で経験した安心や充足感を自分のリソースとしながら、両親との関係による傷つきを処理し(癒し)、そうすることによって、クサヴァーの思想ではなく、自分自身の内側から出てくる考えを見つけていくことになるでしょう。 クサヴァーを慕う気持ちは大切にしながらも、クサヴァーをなぞった思想ではなく、自分自身の思想を。 始祖ユミルのフリッツ王への「愛」は、その場を生きのびるための迎合反応でした。 肉体の死後に閉じこもった「道」の世界は、誰も彼女に危害を加えないという意味では安全な場所でした。 しかしそれは誰をも排除しなければならない孤立と孤独の世界。その世界でたった一人、あれは「愛」だったのだと思うしかない世界。 ですから、始祖ユミルには、そのような反応を引き起こした度重なる虐待...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?②

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進撃の巨人のジーク、ミカサ、始祖ユミルは、それぞれに非常に強い思慕を抱く人がいて、その思いは絶対的な信念にまでなっています。 獣の巨人でもあるジークは、親の期待に応えられなかったことで、親から否定され、受け入れてもらえませんでした。 そんな中で出会ったクサヴァーは、ジークをただ受け止め、気にかけます。クサヴァーとの出会いはジークを変え、ジークはクサヴァーの考え―民族根絶計画―を実行しようとします。 ミカサは、子どもの頃、家に押し入った強盗に両親を殺戮され、自分も殺されそうになった時に、エレンに命がけで助けてもらいます。 親を失ったミカサはエレンの家で育ち、エレンを守り抜こうと生きていきます。 始祖ユミルは、少女のころ、フリッツ王の怒りを恐れた村人からスケープゴートにさせられ、追放されます。ケガを負った少女ユミルは、孤立と孤独の中で森をさまよい、木の穴へ落ち、謎の生命体と接触し、巨人の力をもつ始祖ユミルへと変貌します。 フリッツ王の奴隷として生きる始祖ユミルは、自分を追放し、虐待し、親や故郷を破壊したフリッツ王のために、巨人の力を使って戦争を繰り返します。そしてフリッツ王の子を産み、フリッツ王を守ろうとして命も落とすのです。 死後は、フリッツ王の命令で自分の子どもに自らの遺体を食わせ、肉体の命は終えてもなお、フリッツ王のために巨人の力が継承されていきます。 こんな理不尽な関係でありながら、始祖ユミルはフリッツ王を「愛していた」とされます。 前回のブログで引用したウェブ記事では、この理解しがたいほどの強烈な思慕を心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らの「転移」はなぜ起きたのでしょうか? 進撃の巨人は、登場人物全員が生命の危機に遭っていますが、ジーク、ミカサ、始祖ユミルのような激しい「転移」が起きている人と、そうでない人がいます。 そこでトラウマという視点を取り入れてみたいと思います。 トラウマ、正確にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)。精神医学の診断で用いられるDSM-5-TRでは、PTSDと診断されるトラウマエピソードは、実際にまたは危うく、死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事で、それを直接体験するだけでなく、他人に起こった出来事を直に目撃することも含まれます。 また、国際疾病分類(ICD)11版では、新たに「複雑性心的外傷後ストレス障...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?①

「 進撃の巨人 」。 子どもがお世話になっている先生の大推薦で何とはなしにアニメ版を見始め… 3回見てしまいました…。 深い。 奥深い世界観と複雑なストーリー構成。個性的な登場人物。 (3回見たのは、ストーリーの伏線が難しくてわからなくなってしまいリピートしたというのもあります。) 世界中で大人気だというのは頷ける超大作です。 「進撃の巨人」はたくさんの批評があるようですが、先日見つけたこちらの評は、臨床心理学の視点が取り入れられていて、たいへん興味深いものでした。 『進撃の巨人』ミカサが始祖ユミルに選ばれた理由 “反逆”としての他者とのつながり(文=角野桃花) 評のテーマは、「傷ついたものはどうして特定のひとりから与えられる愛情を求めずにはいられないのか」。 ここで取り上げられているのが、ジーク、ミカサ、始祖ユミル。 この3人にはそれぞれ、はたからみると理解しがたいほどの強い思慕を抱く人が存在します。 この記事では、「自分の生が脅かされる感覚、そこに突如として差し込む一筋の光、そしてそこへ向かう信奉と恋慕」が共通していて、それを、心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らが「愛」「親愛」だと認識していたその思いは、「転移」によるものだったのではないか? そしてそこからの解放のストーリーなのではないか、 というのが、この評の主旨でした。 「転移」は、心理学では非常に重要な概念(理論)で、精神分析という治療を行っている中で、患者が分析者(セラピスト)の中に、自分の幼児期に重要な役割を果たした人物(親など)を再現しようとする心的な動きのことを言います。 確かに、恋愛や思慕の情といった深い関係性には「転移」が起きることがあります(逆に言うと「転移」によって恋愛や思慕の情が生まれるということにもなります)。 あたたかく幸せに満たされる”愛”の感情だけでなく、痛みがあったり、強い執着や不安感があったりなどの複雑な感情を説明する概念です。 ここで、トラウマという視点から見てみると、「進撃の巨人」の登場人物たちの情愛は、また違ったものとして浮かび上がってきます。 PTSDは、それが1回のエピソードか複数回のエピソードかに関わらず、トラウマエピソードに対する神経生理学的な反応パターンが現在も残っている状態です。 彼/彼女らに起きた出来事・経緯を追うと、彼/彼女...

ケアと「境界線」② ケアの関係の中で安全な境界体験をするには

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ケアは、自分と世界(誰か/何か)をつなぐ中で行われているもの。 その関係性は、いつも安全であるわけでも、双方向的というわけでもありません。 むしろ、ケアする側とされる側は固定していることが多いですし、 ケアする側は相手に入り込みすぎてしまったり、ケアされる側も、相手から入り込まれすぎたり、 ということが容易く起きてしまう関係でもあります。 自分への侵入を、特に幼少期から受けてきた人にとって、ケアを受け取ることは危険なことになりますし、 誰か/何かをケアすることにおいては、その対象との距離感がつかめず、遠すぎたり近すぎたりして、 それでまたしんどく辛くなってしまう、 ということがあります。 すると、誰か/何かとつながることへの、切なる望みと同時に、侵入体験からくる不安と恐怖も同時におきるという、正反対の感情や感覚が、自分を混乱させ、苦しませます。 そんななかで、どうやって安全なケアの関係を体験していくことができるか、「庭仕事の真髄」にヒントがあります。 著者はイギリスの精神科医で、園芸療法士。 この本は、園芸が、どれほど人の回復と癒しに効果があるのかを、たくさんの例を挙げながら述べています。 なぜそのような効果があるのか? それは、植物は決して人を拒否しないということ、 やりすぎややらなさすぎの間違いを行っても、植物は痛みも不満も訴えないこと、 剪定や間引きなどの破壊的行為をしても、それが植物の成長を促すことであったり、驚異的な回復力を見せたりもすること、 ということを述べています。 「植物の世話は、恐怖を感じることのない関係の中で、自分自身を解放できるようになるとヒルダ (注:NYの刑務所の園芸療法士) は確信しているのだ。草木は人間に対して即座に反応したり返事をしたりすることがない。また、ひるんだり微笑んだり、あるいは痛みを感じたりしても、言うまでもなく人間にはわからない。それが植物の有益な効果の重要な部分だ。幼いころに十分に大事にされなかった場合、それどころか実際に経験したものが虐待や暴力だった場合、後の人生の中で何かを大事にする仕方を学ぶのは、困難に満ちたものとなる。心の中にひな形がないというだけでなく、他者の中のもろさが自分の中の最悪のものを引き出す可能性がある。これが、虐待が無意識のうちに繰り返される理由だ。すなわち、動物や人間の弱さは、自身もかつて犠牲者...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ②

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「マインドフルな気づき」というのは、今、この瞬間瞬間に起きていることを、評価や価値判断なしに、ただ「ありのまま」に見ているという状態です。 「昨日、上司にミスをとがめられた」という場面を例にしてみましょう。 そのことを思い出すと、恥ずかしい気持ちで苦しくなるかもしれませんし、怒りでイライラしてくるかもしれませんし、不安で自信を感じられなくなるかもしれません。 きっと、その人によってさまざまな感情が湧きおこる出来事だと思います。 マインドフルな気づきというのは、この場面を思い出している今、この時において、「身体が固くなっているな」「心臓がドキドキしている」「手足が冷たいなぁ」「足が浮いているような感じ」というようなことに気づくことです。 恥ずかしいとかイライラなどの感情が出てきたら、「こんな気持ちが出るんだな」と思いつつ、その感情は身体でどんなふうに反応しているのか…と注意を向けていきます。 マインドフルな気づきがPTSD症状への取り組みに効果があるのは、このような注意を向けている間は、その症状に圧倒されてしまうことがないからなのです。 ですので、PTSD症状へ取り組む時には、このようなマインドフルな気づきの状態を維持していくということがポイントになり、そういう意味で「マインドフルネスはPTSD症状に役立つ」と言えます。 一方で前回にも書いたように、マインドフルネス状態を目指すトレーニングや瞑想は、PTSD症状を持っている人が適切なサポートがない中で行った場合には、その症状が現れ、圧倒されてしまうこともあります。 それは、気づきを向ける方向や、気づきの維持について、細やかに見ていく必要があるためです。 また、マインドフルネス瞑想やトレーニングの中には、「マインドフルネス状態へ至ることが目的になっている」ようなものもあったり、 トレーニング自体はそうでもないのだけれど、トレーナーが無意識にそう指向していたりするものもあって、 そういう場にいると、「マインドフルネスになれている/なれていない」というような思いを感じてしまうことも起きます。 「マインドフルな気づき」はPTSD症状への取り組みに役立つだけでなく、生活や生き方にも良い影響を与えてくれる、すばらしい仏教の叡智なのですが(というよりは、もともとPTSD症状や集中力を高めるためのものではなく、仏教の実践そのものです)...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ①

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「マインドフルネス」はかなり広く知られる言葉になりました。 「マインドフルネスが不安やストレスを軽減する」という研究結果や実践の積み重ねがあり、「PTSD症状へのマインドフルネスの効果」についての研究もあります。 一方で、「マインドフルネスを行うとPTSD症状が悪化する」ということも言われています。 真逆の説明は、混乱してしまうでしょう。 いったい、どっち??? 先に結論から述べましょう。 マインドフルな気づきはPTSDに効果的ですが(症状としては現れなくなります)、マインドフルネスはPTSDを悪化させる場合があります。 もともとは、マインドフルな気づきや注意の能力が高まっていくと、PTSD症状の軽減やコントロールをもたらす、というものでした。 そこから、PTSD症状を軽減するためにマインドフルネスのトレーニングを行う、という方法が行われました。トレーニングによってマインドフルな気づきや注意の能力を高めていくことで、PTSD症状が軽減するという考え方、つまり逆方向の考え方で「トレーニング」が生まれたわけです。 マインドフルネス瞑想のトレーニングは、日々の積み重ねを何年も行うことで、マインドフルな状態へ移りやすくなったり、その状態が長く続くようになります(ヨギーがそういう状態です)。 「マインドフルネス」 「マインドフルネス瞑想」 「マインドフルな状態」 似たようなカタカナ用語が現れてきました!余計に混乱してしまうかもしれませんが、ここが注意どころです。 このような、似たような用語の意味するところが錯綜していることが、「マインドフルネスとPTSD問題」を混乱させているのではないかと思います。 マインドフルネスは、「 今ここでの経験に評価や判断を加えることなく注意を向けること」。 マインドフルネス瞑想は、そのような注意の向け方へと誘導していくことであり、その練習や実践です。 そして、今この瞬間に注意を向けている状態を、マインドフルな状態=マインドフルな注意の向け方が行われている状態、になります。 PTSD症状へのアプローチで重要なのが、3つ目の、「マインドフルな注意を向ける」ことです。 長くなりましたので、次回に続きます。

いじめられ経験の私を救い出す

子ども時代にいじめられたことがある方は、決して少なくないと思います。 私も、継続的であったり、大ごとになるまでではありませんでしたが、少なからずいじめの経験があります。同級生からも、先生からも。 嫌な感覚がよみがえるような出来事もあれば、「なんやの、あれ!」と相手を一笑に付せるぐらいの出来事もあります(私のストレートな感覚ではこの大阪弁なのはご容赦ください~!)。 いじめは、その時に辛かったり孤独だったりしただけでなく、多くの人に、その後の人生にも影響を及ぼす、とても強烈なトラウマ体験です。 さまざまな感情がひきおこされるような記憶ですし、身体的にもその記憶は残っていることが見られます。 身体には、無自覚な緊張感があったり、ちょっと硬直したような感覚や姿勢が現れたり、地に足があまりついてないようなフワフワした感じがあったりするかもしれません。 感情や行動では、対人関係での不安、自分への自信のもてなさ、距離をとって人と接していたり、逆に過剰に笑顔やフレンドリーさを維持していたり、 何より強烈なのは、自分自身に対する恥の感情です。 「いじめられていた自分」「いじめられるような自分だった」というような、自分自身の存在価値に関わる感情はとても強烈で、そのために、当時も、家族や先生、信頼できそうな友人に打ち明けることが難しかった人は多いと思います。 このような恥の感情はあまりにも強烈なので、私たちは普段、記憶に蓋をしていたり、覚えている出来事を遠くから眺めるような感じで語ったりします。 こんなふうにある程度「距離」をとって痛みの記憶に触れないでいられていること、 それは自分を守るすばらしい力です。 一方で、今の自分の、人間関係の難しさやしんどさ、気分の落ち込みなどに影響があるのではないかと感じているならば、 記憶を遠くに閉じ込めてきた力を尊重しつつも、あの時に辛かった自分を救い出しに行く時が今ようやくやってきてくれたのかもしれません。 あの時の、出来事の大小は全く関係ありません。 出来事が些細なことだったとしても、自分の中で残る衝撃は大きいということは普通にありますし、おかしなことでもありませんし、何より、それは自分のせい、自分の弱さや不甲斐なさのせい、なんてことは 全く ありません(強調しておきます!) それはあくまで、神経系の反応であり、その反応の記憶なのです。 カウンセ...

「愛」に基づくこころの実践~「ALL ABOUT LOVE」①

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ブラック・フェミニズムを代表する文化批評家・教育者・活動家ベル・フックス。 彼女の名前「bell hooks」は、カタカナで書くと、小文字のみの表記に込めた思いが薄れてしまうのが残念なところ。 数々の有名な本が翻訳出版されているので、ぜひ。 私は「 フェミニズムはみんなのもの 」を若い頃に読み、心が震えるほどの力をもらったことを覚えています。 そのフックスの著書の一つ、「ALL ABOUT LOVE~愛をめぐる13の試論」。 この本では、「愛」を、情愛の感情や関係とは異なるものとして提示しています。 愛とは愛のおこなうところのものである。子どもたちに愛を与えるのは私たちの義務だ。私たちが子どもたちを愛する時、彼らは所有物ではなくて、彼らには権利があるのだと ―私たちは彼らの権利を尊重し擁護すると― あらゆる行動で認めることだ。 正義がなければ、愛は決して存在しえない。   愛への目覚めは、私たちが権力と支配の強迫観念を手放した時にのみ起こり得る。 愛の倫理はすべての人が自由である権利、存分に申し分なく生きる権利を有することを前提とする。 ここで示される「愛」は、ロマンティック・ラブの「愛」ではなく、個人と社会のすべてに自由と尊厳をもたらすものとして示されています。 では、心理療法と「愛」のテーマはどのようにつながっているでしょうか? 最初に見捨てられたときの(略)心の傷は、どんな人間関係も癒すことができなかった。(略) 過去に戻ることは決してできない。(略)ずっと昔、まだ幼くて心の願いを声に出して言えなかったとき、愛を失って受けた深い悲しみを解き放って初めて、私たちは心から望む愛を見つけることができる。 「愛」が得られなかった記憶。「愛」を失った記憶。 このような傷は、「愛」の倫理と実践がないところ ―つまり正義がないところ― で起きます。 見つけられず、認められず、癒されないままの傷は、心の奥深くに残ります。そして「愛」の倫理と実践を行うことを困難にします。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと進むプロセスの時間。 逆に言うと、今別の形で現れている問題や感情は、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へといざなってくれているのです。 でも、 たんに、どのようにして自分は価値がないと思うようにな...

自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた...