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自由な感情⇔止まってしまう感情①

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辛い気持ちにはいろいろなものがあります。 例えばとても悲しいとか、すごく腹が立つとか、強い嫌悪感とか どんどん膨らんで襲ってくる不安感、自分はダメで不十分な人間だと思う自己否定感 人を羨やみ嫉妬でイライラする気持ちや、孤独で孤立無援の恐怖感… 「辛い気持ち」としてまとめられるこのような感情の中で、 その気持ちがどんどん膨らんだり大きくなったりして、自分を圧倒してくるようなものと、 逆に、少し感じたものの、いつの間にか小さくなって、モヤモヤだけが残るような感情があるのではないでしょうか。 喜びや満足の気持ちもいろいろあります。 喜び、愛、希望、誇りや達成感、やすらぎ、感謝、興味(ワクワク)、やる気や興奮、楽しく愉快な気持ち、感動、スッキリさわやかな感じ。 このような感情の中でも、その感情を自然に感じられるものと、 少し感じたりはするけれど、大きくなってくると止めてしまうような感情があります。 感情が、ネガティブかポジティブかに関係なく、感情が勝手に(あるいは自然に)大きくなるタイプのものと、勝手に小さくなるタイプのものがあります。 感情のこんな動きに関わっているものは、自分の中にありまして、 それを「自分」や「私」と名付けてみましょう。 「自分」や「私」は、感情に対する監督官。 「自分」や「私」にとって必要だと判断した感情はGOサインを出し、逆に不必要だと判断すると、STOPサインを出します。 STOPサインにはいろいろあって、 「それを感じるのは止めといたほうがいい」ぐらいのマイルドなものから、 「そんなことを感じてはヤバい!危ない!よくない!」と命令するものもあったり、 まるでサブリミナルかのように隠れて働かせるようなサインもあります。 監督官にとって、自分のマネジメントが上手くいったかどうかは重要です。 監督官が抑え込みたいタイプの感情がたくさん現れているのは、「負け越し」。 この失敗のダメージは監督生命にとって致命的になります。 抑え込みたいタイプの感情は、こんなふうに、監督官としての評価基準となります。 図にしてみるとこんな感じ↓ はてさて、監督官には勝機はあるのでしょうか? あるとしたらどんなふうに? また長くなってしまったので次回に続きます。 前回までの記事で取り上げた「主体性」をテーマにしているはずなのに、「主体性」の一言も出てこないままですが、一応ち

心理士の急性神経症状体験記④ ~「主体」としての「私」がしていることは?

これまでの3回の記事で、私の個人的な体験をもとに、身体とその反応について書いていきました。 テーマはこちら。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている 自分の身体に対して、①はコントロールする、②はコントロールを止める、という、身体と意思について真逆のことを言っています。 でも、共通することがあります。 それは、「主体」。 呼吸を調整するなど、身体や反応をコントロールしようとする「私」は、今、自分の身体はどんな状態なのかに注目し、意図的に身体へ働きかけをし、その働きかけがどんな変化をもたらしているかを観ています。 うまくいっている感じがあったら、それを続け、変化を見届け、 うまくいってないようだと感じたら、違う方法を試してみて、それがどう変化をもたらしているか観ています。 また一方で、前回の記事のように、身体に起こっていることをながめている「私」が、身体が求めているほうへ、動きたいほうへ身体にまかせていき、 身体に起きていること、身体が反応していることを、ただそのままに感じていきました。 どちらの「私」も、行っていたのは身体との対話(コミュニケーション)と言えます。 「私」は自分の身体を対象物のようにして観て、気づき、 身体を中心にしていく。 「私」に「」を付けているのは、 (痛いな~)(辛いな~)などと思って不快な気持ちや嫌な気持ちになっている〈私〉ではなく、 自分(身体)に起きていることに、「あー痛いんだな~」「あ~辛い気持ちはこんなふうに感じているなー」「私は嫌な気持ちになってるなぁ」と、ただ気づき、 それをただ眺めていたり、あるいは呼吸を調整してみたりする「私」。 こんなふうにしている「私」を「主体」という言葉に置き換えています。 これまでの記事で書いてきたように、突然の事故での症状や反応を自分なりにやりすごしたり、変化を起こしたりするのに活躍したのが、「主体」でした。 「主体」。 これは、カウンセリングの中でも、とても重要なポイントです。 これまでのテーマと切り替えて、次回は「主体」についてもう少し書きたいと思います。

心理士の急性神経症状体験記➂ ~身体の記憶・身体の叡智

前回からの続きです。 治療は数日で終わり、無事に退院することができましたが、帰宅しても「ぼんやり」した感覚が続いていました。 だいたいは大丈夫だったのですが、何となく「本調子」ではない感じ。 そして、救急病院へ行ってから治療を受けるまでのことが繰り返し繰り返し思い出されていました。 こういう状態は、衝撃的な出来事を経験した後に生じる、自然な反応です。 そういう中、身体の反応や感覚に焦点を当てるトラウマ治療の心理療法のトレーニングで、クライエント役としてこの出来事を取り上げました。 心理療法のトレーニングでは、参加者がセラピスト役やクライエント役を実際に体験し、練習を積み重ねます。 「死なずに回復できたなら、この経験はトレーニングの練習の恰好のネタになる…」 救急救命センターに到着した時にボーッと考えたことを実現するチャンスです。 この心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)は、身体の感覚や動きなどに意識を向け、トラウマ反応となった心身の状態を変容させていきます。 練習のセッションで私は、自分の身体に何が起きているかに意識を向けて行きました。 初めは、身体がどんなふうかを観ていきます。 力が入らないような感覚、逆に力が入っていたことへの気づき。 それから、身体が求めているほう、動きたいほうを探っていきました。 頭の後ろにクッションを置いて、椅子の背にしっかりともたれかかると、大きな息が出てきました。 クッションが私に、「ゆったりしたほうがいい」と言っているのを感じました。 身体全体の重み、手の温かさがジーンと感じられ、 表情も身体も緩んでいきました。 すると右ひじ周りにピリピリした感じが出てきて、それがサーッと抜けていきました。 そのとたん、その場所から感情がサワサワと広がってきて、涙がこぼれました。 「怖かったなぁ…」と涙が言っていました。 思わぬ出来事で緊張が続いていたことに自分で気づかないままでいた中、 やっと出た涙でした。 また一つ大きな息。 すると、自分の身体の実感が戻ったことに気づきました。 身体も心も、変化した、ということを感じました。 自然な感覚、いつもの感覚が甦ってきたのがわかりました。 医学的な完治とは別の、身体経験としての「完治」。 「完治」というよりは「完了」や「変容」と言ったほうがよいかもしれません。 恐怖や緊張は、こんなふうに身体に留