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カウンセリングにおける「声」

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カウンセリングにおける「声」。 いろいろな側面を取り上げたいと思うので、何回かに分けて書こうと思います。 今回は、声の響きについて。 「声」はカウンセリングにおいて、とても興味深い要素です。 声は、発する人が、発する響きを身体で感じながら、同時に、耳から聞こえてくる音としても身体で感じています(音は波動なので、皮膚でも感じ取っています)。 また同時に、その声は聞き手に届き、聞き手の身体で感じます。 こうやって身体で感じ合う声は、話している内容以上に、身体に響きとして(また無音または間として)体験されています。 クライエントさんがある出来事を話しているとき、 私がクライエントさんに何かを伝えたとき、 意味として理解するだけにとどまらず、声の音の感じにも注意を向けながら、ゆっくりと聞いてみると、また違う体験が起こることがよくあります。 少しペースを落として、声が身体で響く様子、耳から聞こえてきて、身体に浸み込む様子、 大切な「ことば」については、こういう体験をしてみると、驚くほど違う体験になることがあります。 こういうときは、身体を、聞こえてくるもの・響いてくるものに預けていくような、そういう感じで、ゆっくりと行い、それを私はサポートしていきます。 このテーマについて、別の視点からも取り上げてみましょう。 以前、乳幼児健診における心理相談をしていたことがありました。 お部屋には、子どもが自分で手を延ばして手に取れる高さに絵本が数冊置いてあります。 どれも子どもに読み継がれている絵本なのですが、人気の1冊が、「もこ もこもこ」(谷川俊太郎・作、元永定正・絵)でした。 なんとも不思議な絵本なのです。 シンプルな形、明白な色彩と、短いオノマトペだけ。 子どもに読んであげると、どの子も食いつくように見て/聞いています。 カバーや紙が薄手なので、子どもが思い余って破ってしまってボロボロになっていました。 作者の谷川俊太郎さんが朗読している動画はこちら。 この絵本を読むとき、私は全身で読みます。絵と音に浸り、「しーん…」と言うときは、身体も「しーん…」として止まっています。 「もこっ」と言うときは、お腹から何かが出てくるような。 身体から読み上げる声の響きが子どもにも伝わっていきます。 この絵本で体験されることは、物語の言葉での内容ではなく、声と色彩の感覚世界。読み手のオノマトペの

カウンセリングが合わないと感じたとき

カウンセリングを始めてみたものの、満足できない、止めたいと思われたとき。 せっかく勇気を出してアクセスしてくださったのに、ご希望に添えなかったことは、大変心苦しく、本当に申し訳なく思います。 その感覚は大切にしていただきたいですし、どのような選択でも応援したいと思っていますので、中断や中止もしっかり受け止めたいと考えています。 カウンセリングには様々な治療方法があり、それぞれ異なる特徴があります。 一般の方にはとてもわかりにくいことですし、選択しづらいことでもありますので、無料コンサルテーションでご希望を伺い、それに合う心理療法の選択肢をご説明させていただきます。 これは、目的地までのルート選択というイメージです。 カウンセリングでもう一つ重要な点が、セラピストとの相性です。 これは、目的地までの同伴者のイメージです。 クライエントさんが、「違うルートがいい」と思ったり、「もっと自分に合った同伴者を探したい」と思われたならば、それを応援したいと思っています。 カウンセリングの効果において重要なのは、ルート選択以上に、同伴者であるという効果研究の結果があります。 カウンセラーの私は、クライエントさんのペース、歩き方、リズムや呼吸などに合わせていきます。 特に、クライエントさんの身体や気持ちに合わせていくことを心がけています。 「早くたどり着きたい!」と気がせくときは、その思いは大切にしつつ、身体やこころが自然に進んでいくようなペースを一緒に感じていきたいと考えています。 ですが多くのクライエントさんは、自分自身のペースやリズムではなく、他者(カウンセラー)のペースやリズムに合わせようとします。 これは、日本文化的な側面もありますが、それ以上に、一生懸命人に合わせようとしてきたり、人に合わせなければ生きていくことが困難だった、ということがあります。 ですから、クライエントさんに大事にしてもらいたいこと、そして私にとっても大事なのは、カウンセリングをしている中で感じた「違和感」や「引っ掛かり」です。どんなに小さなものでも。 これはクライエントさんが自分のために歩む道なのですから。 カウンセリングが上手く進んでいくときは、社交ダンスやチームダンス、合奏・合唱、フィギュアスケートのペアなどのように、二人の呼吸やリズムが合っています。 私は、クライエントさんが意識・無意識に感じ

セラピューティック・プレゼンス

先日、私がカウンセリングで主に用いているAEDP™セラピーのトレーニングに参加しました。テーマは「セラピューティック・プレゼンス」。 カウンセリング(心理療法)において、効果をもたらすいくつかの要素の中で、クライエントさんの前でセラピストがどのようであるか、クライエントさんとセラピストとの関係がどのようであるか、ということが重要であるという研究結果が出ています。 セラピューティック・プレゼンスは、セラピストの「ありよう(プレゼンス)」という意味です。 セラピューティック・プレゼンスは、 今ここにオープンであること、 今ここで起きていることをそのままに経験していくこと、 共にいて、感じ、関わっていくこと というようなことを指しています。 これが、カウンセリングに重要なのです。 プレゼンス。 これまでどんな人の、どんなときにプレゼンスを感じたかを思い出してみたのですが、3つぐらいのカテゴリがあるかなと思いました。 1つは、静謐な存在感が伝わってくる人。 私やほかのことに気づいていても気を取られず、ただただ「あるがまま」のような状態にいます。座禅中や瞑想中のような感じです。 その静かな存在感に、だんだん私も、その人のことも他のことも気にならなくなっていって、自分の内側の世界に入っていくような、そういうプレゼンスを示す人です。 2つ目は、一緒にいてくれている、と強く感じられる人。 “本当に”私の話に、私の言葉に、耳を傾け、心を傾けていて、寄り添っている、一緒にいるということをしっかりと感じさせてくれます。 その深い関りに、緊張感が解け、自分自身が現れてくるような、そういうプレゼンスを示す人。 3つ目は、後からじんわりと響き、ずっと心に残る人。 一緒にいたその時は、当たり前のような、何でもないような時間だったけれど、いつの間にか心の大切な場所に残っています。 出会えてよかったなあ、有難いことだなあと、思い出すたび感じる、心の中に存在(プレゼンス)する人。 セラピストとしての私は、正直、十分な「セラピューティック・プレゼンス」があるかどうか自信がありません。 (それでトレーニングを受けているわけですが。) 今も、これからも、大事な課題だと思っています。

話したくないことは話さなくていい

カウンセリングでは、話したくないことは話さなくて構いません、もちろん。 こんな書き出しを読んで、ホッとするでしょうか。それとも、不安になるでしょうか。 その両方を感じるかもしれません。 話したくない話。 話したいけれど、言葉にならない、言葉にするのが難しい話。 秘密、というわけではないけれど、心の中から外には出て行かない、出て行けないようなこと。 話したくない、話せない、と私に言ってくれるならば、 それがあるのだ、ということを伝えてくれています。 それを伝えてくれていることを、大切にしたいと思っています。 また、それを伝えてくれることに深い感謝の気持ちがわきます。 クライエントさんの心の中に、重要な「何か」があるのだということを共有してくれたことに。 話をする、というのは、なかなか力がいることだと思います。 それが重要な出来事や記憶であるほど、そこには、たくさんの思いや反応が埋め込まれています。 相手に「正しく」理解してもらうためには、何度も何度も推敲するような労力が必要でしょうし、もしかしたら、もうこれまで散々その努力をしすぎてきて、ヘトヘトかもしれません。 話さなくていい、というのは、こういう労力を一人で負わないでほしいな、という思いがあります。 前回 で触れましたが、「物語」をつくっていく過程をサポートしたいと思います。 話したいけれど、しんどくなってしまうということもあります。 その時の出来事が甦ってきて、その時に感じたことや感覚が強まっていくと、自分の手に負えない不安や恐怖感が大きくなります。 その時にそんなにも辛い経験をされたのですから、カウンセリングでまたそれを感じてほしくありません。 クライエントさんが、自分の心の中にあるそれと、距離を取りすぎるのでもなく、近づきすぎるのでもないぐらいを感じながら、その話のある一片に注目してみるということもできます。 ”その話”を語らなくても、カウンセリング中の今、ここでは、たくさんのことが起こっています。 話さないでいいって言われてどんな気持ちになったか。 話したくないと思ったときに、どんなことが起きているか。 話さないでいると、身体や心では何が起きているか。 できれば伝えてもらいたいと思うのは、このような、「今、どんなことが起こっているのか」。 そこには、たくさんのものがあります。 カウンセリングはこんなふうにし

回復のための物語を織る

たくさんの禁止のメッセージによって、自分がどうしたいかわからなくなるだけでなく、嫌悪感が自分自身に向かい、自分を恥ずべき存在で無価値だと感じるようになるということについて、 前々回 、 前回 書いてきました。 前回 の最後、コメディアンのハンナ・ギャズビーが、こんなふうな深い傷つきからの回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと言っています。 物語には笑いや怒りもあるはず。 でも回復に必要なのは、その笑いや怒りの感情や体験自体ではなく、それを通して物語っていくことです。 自分自身の物語。 それは、世界との関りの中で紡がれていきます。 語る人がいて、聞く人がいる。 聞いていた人が語り、語っていた人がそれを聞く。 物語はこうやって、一人ひとりの中に織られていきます。 「ムーミン谷の夏まつり」では、ムーミンパパが作った脚本での演劇が始まりましたが、当初予定していなかった人たちや観客がどんどん舞台にあがっていき、劇が「劇」じゃない方向へ展開していきます。 これは即興「劇」になってしまったようでいて、生活や人生は「舞台」そのものであり、そこで繰り広げられることは「劇」そのものだということを表しているようです。 こんなふうにもともとの脚本がどんどん変化していったのは、突然加わった人たちとの展開。 人々とのやりとり、反応、そういったものが、「劇」をより面白く展開させていっています。 回復のために必要な物語は、どんな場や、どんな方法でもできます。 家族や友だちの間で。仲間との中で。たまたま集った人との間で。 当事者グループは、物語を比較的安全な方法でつくっていく場です。 私も以前にこういう場・時間を持ったことがあり、物語が、ゆっくりじんわりと紡がれていくことの大きさを知っています。 カウンセリングは、自分の周りの人との間で行うのには不安だったり、難しいときに利用すると良いのだと思います。 自分とカウンセラーという、とても小さな枠の中で、カウンセラーは、織機の縦糸のような存在としてイメージするのはどうでしょうか。 ピンと張られた縦糸。それはいつも同じ状態でそこにあります。だからそれを気にすることなく、自分のペースで、自分の入れたいように横糸を織り込んでいく。 こうして自分のリズムやペースがつかめていくなかで、きっと自分だけのすばらしい織物が出来上がっていきます。