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クライエントとセラピストの関係と社会的位置~「ポラリスが降り注ぐ夜」から

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台湾出身の作家・ 李琴峰 さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」について短いエッセイを書く機会がありました。 「ポラリスが降り注ぐ夜」筑摩書房 7つの短編が収められていて、それぞれの短編の主人公が別の物語でも関係し、7つで全体を構成しています。 主人公、そして他の登場人物も、セクシュアル・マイノリティ。 李琴峰さん自身もレズビアンであることを公表されています。 エッセイを書こうとして、はたと立ち止まりました。 私は、誰に向けて、どう書こうとしているのか? 私はシスジェンダー女性です。 シスジェンダーというのは、生まれた時に当てられた性と、自分自身の性認識が一致していることを言います。つまり、性自認においてマジョリティです。 そして、シスジェンダー男性と法律的な婚姻をしています。ここでもマジョリティ。 「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいると、登場人物の痛みが、それぞれの物語の中で、それぞれの形や温度で伝わってきます。 セクシュアル・マイノリティとして生きていくことの痛み。 それは、マジョリティによってもたらされた痛み。 そうして痛みをもたらしている側にいる私は、この本について、どう書くのだろう? ということが、私を立ち止まらせました。 心理療法においても、セラピストとクライエントの、それぞれの社会的背景を踏まえてセッションを進めることの重要性が指摘されるようになっています。 セラピストは、セラピストという立場自体が、クライエントよりもパワーを持っています。 それに自覚的であるために、セラピスト自身が、自分の社会的位置を表明してセッションを進めるというやり方がある、と教えていただいたことがあります。 これは、双方ともが、開かれて安全な関係を作っていくためのプロセスです。 ですので、「決まった正しいやり方」があるわけではありません。 何がよいのか、どうすればより良いのか、一緒に探っていくことになります。 先のエッセイについては、ひとまず書いたものの、モヤモヤ感は残ったままでした。 自分の様々な意味での力不足はベースにありつつ、モヤモヤ感自体が、次へつなげてくれるのかもしれない、とも思いました。 終わりにせずに、自分の中で起こっていることを見つめていくプロセス。 カウンセリングと同じだなと思った次第です。

AEDP(加速化精神力動療法)をベースにしたカウンセリング

※この記事は、2021年にウェブサイトのプロフィール欄に記載していたものです。今回ウェブサイトを編集したため、こちらに改めて掲載することにしました。 社会人になってからのことです。 周りの人たちに、とても辛い出来事が起こりました。 私も、辛い気持ちにおそわれて、 毎日、毎日、涙を流していたものです。 のちに、嵐そのものは、止んでいったのですが、 心の中は静まっていないことを知り、 以下のような思いを抱くようになります。 「人は、心の中に安心と平和がもたらされなければ、 問題が解決したとは思えないし、 新たに歩みを進めようという気持ちにはなれない」 心の安心と平和は、どうすればもたらされるだろうか。 そのために、私は、何ができるだろうか。 心の奥深くに関心を持つようになった私は、 心理士への一歩を進み始めることにしました。 心理士として、いろいろなことを学び、 たくさんの人に支えられ、そうして出会ったのが、 AEDP™心理療法というセラピーです。 私がおこなうカウンセリングのベースとなっています。 ​ なぜ、AEDPなのか。 それは、AEDPを通して、 私自身の中に、 大きな感動と深い感謝が生まれたからです。 トレーニングでは、 講師がおこなった実際のセッション動画を視聴します。 そのとき、クライエントの劇的で素晴らしい変化を いくつも目の当たりにしました。 ​ 人が持っている生きる力。 人と人とが触れ合う中で生まれる慈愛の温かさ。 ​ トレーニングを受けた人たちは皆、 これらに深く心を動かされ、涙を流します。 ​ 私も、その一人でした。 AEDPをベースにした カウンセリングを始めてからは、 クライエントの素晴らしい力、 さらには、自分自身を生きる輝きに、 何度も胸を打たれています。 ​ こういう体験を一緒にさせてもらえることに、 深い感謝の気持ちを抱かせてもらえました。 ​ AEDPが大切にしていることは、 自分の感情や感覚をしっかりと感じること。 自分自身に深く触れること。 そして、ちから。 ​ あなたが、苦しみの中で、 ここへアクセスされたのは、 苦しみから抜け出そうとする「ちから」が あなたの中にあるから。 今まで、物事がうまくいかなかった と、感じているかもしれませんが、 それは、あなたが自分なりに「ちから」をつかって、 一生懸命がんばってきたからこその証

「わかってもらえた」と感じられるまで

クライエントさんにとって、「わかってもらえている」と感じられることは、何よりも大きく、大事なことです。 私自身もクライエントとして、あるいはスーパーバイジー(指導者からカウンセリングについての指導を受ける者を「スーパーバイジー」と言います)として、「わかってもらえている」と感じられることがどれほど重要か実感します。 そういう自分自身の経験も踏まえて、私がカウンセラーとして日々思うのは、クライエントさんの忍耐力への感謝です。 自分の思いを、傷つきや苦しみを、自分自身を、それをまだ知らない私へ伝えようと頑張ったり、努力したりしてくれていること。 自分なりのやり方、自分なりの言葉を探ってくれていること。 それをするのに力を使い、気をつかい、頭も身体もつかっていること。 「わかってもらえていない」と感じる苦しさ、哀しさ、難しさ、空しさ、孤独感がありながらも、見切りをつけずに続けてくれているとき、 私のカウンセリングを受けることによって辛い気持ちをCLさんが感じることに、私もまた苦しくなり、恥じ入る気持ちが大きくなります。 同時に、踏ん張ってくれているその思いに応えたいという思い、 踏ん張ってくれていることへの深い畏敬と感謝があります。 私への不満や怒りをはっきりと出してくれたならば、それは私にとってとても助かりますし、有難いことです。 修復への糸口を提示してくれたのですから。 何となくのような違和感や居心地の悪さをCLさんは感じてるのではないか…、と私の方がつかめたとしたら、それを大事にしたい。 「わかってもらえた」という体験は、それ自体がカウンセリングでとても重要ですが、 そこへ至るまでのプロセスも重要です。 「わかってもらえた」という体験へ至るまでに、どれほどのエネルギーをクライエントさんがかけているだろう、 それをいつも心に置いています。

声を受け止める。

「声」シリーズのブログ、これまでは、なかなか言葉にならない、声にならないことについて書いてきました。 その一方で、一方的に“持論”をぶちまけるような人もいます。 自分の意見や考えを、他者の隙入る間がないような強い勢いで語り、ただ自分の意見を通そうとしているだけように見えます。 こういう人に出会うと、私は黙ってしまうことが多いと思います。 クライエントさんにも、精神的虐待をする親、モラハラのパートナーや上司などから高圧的に一方的に言われて、自分の思いをちゃんと言えないことを苦しく感じていたり、言い返せない自分を不甲斐ないと責めてしまう人がいます。 これは言い返せない方の問題ではありません。 それは、対話ではないからです。 対話は、声をぶつけるものではない。声を届けるもの。 一方的な人は、対話の経験がないのかもしれない、と思った経験がありました。 大学院のとき、海外のドラマセラピーの先生の特別講義に参加しました。 ドラマセラピーは、文字通り、演技を通してのセラピー。 その先生はホロコーストの生存者家族なのですが、ホロコーストの被害者と加害者の対話の方法としてドラマセラピーを行ってきた方でした。 戦争の被害と加害をテーマにしたその特別講義では、会場からの語りを受けて、ステージ上で、プレイバックシアターが行われました。 プレイバックシアター :観客や参加者が自分の体験した出来事を語り、それをその場ですぐに即興劇として演じる(プレイバックする)独創的な即興演劇。芸術的な側面を持つ一方で、その場で演じるもの(アクター)、語るもの(テラー)、観るもの(観客)が互いにつながり合い、「自分のことを語る、他者の気持ちを受け止めてそれを味わう、そしてそれらを表現する」ことを通して、共感や知恵、勇気や癒しをも、もたらされることになる。そのため、劇場の舞台はもちろん、ワークショップや教育の場、臨床や治療現場など広く活用されている。(Wikipediaより) 何人かの即興演劇の後、私のすぐ近くの高齢男性が指名されました。講義の初めから何度も手を挙げて語るチャンスを求めていたその人は、ようやく手にしたマイクに向かい、とても強い勢いで、日本の侵略戦争を正当化する話と、韓国・朝鮮への攻撃を語りました。ヘイトスピーチそのものでした。 私は、怒りで打ち震えながら、涙が流れていました。すぐ近くに、知り合い

カウンセリングが合わないと感じたとき

カウンセリングを始めてみたものの、満足できない、止めたいと思われたとき。 せっかく勇気を出してアクセスしてくださったのに、ご希望に添えなかったことは、大変心苦しく、本当に申し訳なく思います。 その感覚は大切にしていただきたいですし、どのような選択でも応援したいと思っていますので、中断や中止もしっかり受け止めたいと考えています。 カウンセリングには様々な治療方法があり、それぞれ異なる特徴があります。 一般の方にはとてもわかりにくいことですし、選択しづらいことでもありますので、無料コンサルテーションでご希望を伺い、それに合う心理療法の選択肢をご説明させていただきます。 これは、目的地までのルート選択というイメージです。 カウンセリングでもう一つ重要な点が、セラピストとの相性です。 これは、目的地までの同伴者のイメージです。 クライエントさんが、「違うルートがいい」と思ったり、「もっと自分に合った同伴者を探したい」と思われたならば、それを応援したいと思っています。 カウンセリングの効果において重要なのは、ルート選択以上に、同伴者であるという効果研究の結果があります。 カウンセラーの私は、クライエントさんのペース、歩き方、リズムや呼吸などに合わせていきます。 特に、クライエントさんの身体や気持ちに合わせていくことを心がけています。 「早くたどり着きたい!」と気がせくときは、その思いは大切にしつつ、身体やこころが自然に進んでいくようなペースを一緒に感じていきたいと考えています。 ですが多くのクライエントさんは、自分自身のペースやリズムではなく、他者(カウンセラー)のペースやリズムに合わせようとします。 これは、日本文化的な側面もありますが、それ以上に、一生懸命人に合わせようとしてきたり、人に合わせなければ生きていくことが困難だった、ということがあります。 ですから、クライエントさんに大事にしてもらいたいこと、そして私にとっても大事なのは、カウンセリングをしている中で感じた「違和感」や「引っ掛かり」です。どんなに小さなものでも。 これはクライエントさんが自分のために歩む道なのですから。 カウンセリングが上手く進んでいくときは、社交ダンスやチームダンス、合奏・合唱、フィギュアスケートのペアなどのように、二人の呼吸やリズムが合っています。 私は、クライエントさんが意識・無意識に感じ

回復のための物語を織る

たくさんの禁止のメッセージによって、自分がどうしたいかわからなくなるだけでなく、嫌悪感が自分自身に向かい、自分を恥ずべき存在で無価値だと感じるようになるということについて、 前々回 、 前回 書いてきました。 前回 の最後、コメディアンのハンナ・ギャズビーが、こんなふうな深い傷つきからの回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと言っています。 物語には笑いや怒りもあるはず。 でも回復に必要なのは、その笑いや怒りの感情や体験自体ではなく、それを通して物語っていくことです。 自分自身の物語。 それは、世界との関りの中で紡がれていきます。 語る人がいて、聞く人がいる。 聞いていた人が語り、語っていた人がそれを聞く。 物語はこうやって、一人ひとりの中に織られていきます。 「ムーミン谷の夏まつり」では、ムーミンパパが作った脚本での演劇が始まりましたが、当初予定していなかった人たちや観客がどんどん舞台にあがっていき、劇が「劇」じゃない方向へ展開していきます。 これは即興「劇」になってしまったようでいて、生活や人生は「舞台」そのものであり、そこで繰り広げられることは「劇」そのものだということを表しているようです。 こんなふうにもともとの脚本がどんどん変化していったのは、突然加わった人たちとの展開。 人々とのやりとり、反応、そういったものが、「劇」をより面白く展開させていっています。 回復のために必要な物語は、どんな場や、どんな方法でもできます。 家族や友だちの間で。仲間との中で。たまたま集った人との間で。 当事者グループは、物語を比較的安全な方法でつくっていく場です。 私も以前にこういう場・時間を持ったことがあり、物語が、ゆっくりじんわりと紡がれていくことの大きさを知っています。 カウンセリングは、自分の周りの人との間で行うのには不安だったり、難しいときに利用すると良いのだと思います。 自分とカウンセラーという、とても小さな枠の中で、カウンセラーは、織機の縦糸のような存在としてイメージするのはどうでしょうか。 ピンと張られた縦糸。それはいつも同じ状態でそこにあります。だからそれを気にすることなく、自分のペースで、自分の入れたいように横糸を織り込んでいく。 こうして自分のリズムやペースがつかめていくなかで、きっと自分だけのすばらしい織物が出来上がっていきます。 

差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま

カウンセリングとカウンセラーへの感謝の気持ちの本質とは

私が心理職としての勉強と訓練を始めたころ、 「『先生のおかげです』とクライエントさんに感謝されるようなカウンセリングは失敗だよ」 ということを、何人かの先生に言われました。 無理のない自然な経過の中で、クライエントさんが、自らの力で変化していくこと、 カウンセラーの“おかげ”ではないと思うくらい「自然に起こったこと」で、 カウンセリングはなくていいや、と、自分でやっていきたくなるような クライエントさんが自らの力を自然につけて、自然に「卒業」していくようなカウンセリングが“良い”カウンセリングであり、カウンセラーとしての力なのだ、 ということを教えられました。 私が行っているカウンセリングのアプローチであるAEDP™セラピーはこれとは全く逆で、 カウンセリングにおける変容の経験が、人生における大きな体験の一つとして記憶に残るような、明確な体験を重視しています。 それが、カウンセリングの効果の重要な要素の一つであるという考え方です。 AEDP™セラピーの訓練を受けて思うのは、「感謝されたら失敗だよ」と言っておられた先生方がみな、私にとっては心に深く残る、非常に印象深い方であるという逆説的な思いです。 情が深く、人間性が豊かで、命や人生の真理を体現しているような深みがあり、 優しい声、そして眼差しがクリアなのにあたたかく 大きな存在感があります。 だから私の心の中には、教えを受けた先生方の存在がずっとありますし、 先生方に支えてもらってきた、先生方の“おかげで”今の私がいる、という 深い感謝の思いがあります。 このような思いは、心理職として、一人の人間として必要不可欠であることを、今の私ははっきりと感じています。 「生きていてよかった」と感じられることはいろいろあると思いますが、 人との出会いが意味あるものとして心の中に感じられるとういうことは、その大きな一つではないでしょうか。 だから私は、クライエントさんが私への感謝を示してくださったとき、 二重の意味で「よかったー!」と思うのです。 一つは、クライエントさんにとって、私との出会いとカウンセリングが意味あるものとして明確に体験されたということ、 そして、感謝の感情がもたらす喜びをクライエントさんが感じていること。 深い感謝は、人とつながり、自分自身ともつながりを感じるときに生まれてきます。 このようなクライエントさん

「長生きしたくない」

「長く生きたいと思わないんです」 クライエントさんからこういう言葉を聞くことがあります。 死にたいというわけではない、 生きたくないというわけでもない。 長生きしたくない。 クライエントさんが、今、どれほどヘトヘトなのかが伝わってきます。 疲弊しているというだけでなく、孤独な労苦を背負っていることも。 選択肢がない 助けがない 逃げることができない どうしようもない そして、そんな自分に誰も気づいていない。 自分の中のこの重さ この孤独感に、 誰も気づいていないこと、 気づこうともしないこと。 孤独感がますます深まる。 やるべきことだとわかってるから、ちゃんとやるし(逃げられないし) これまで通りに生きてはいく(選択肢はないし) しんどくてもやるしかない(他の誰もやらないし) わかってる。 でもこれがいつまでも続くと思うと、 それは考えたくないくらい重い。 「不幸」まではいかないかもしれないけど、 楽しみや喜び 安心と安堵感 そういうことが見えない。 「長生きしたくない」の言葉から、 こんなふうな思いが語られます。 どれほどの苦しみや孤独感があるかが伝わってきます。 こういうことに、カウンセラーは無力だな…と思います。 立場や関係上、一緒に手伝ってあげたり、お茶しにいったりというようなことはできませんから。 カウンセリングの空間とは、クライエントさんの心の場所でもあると思っています。 その場所の土台は私が用意しましたが、建物は一緒に作り上げ、 建物を探検したり、作り直したり、飾ったり、片付けたりしながら、 自分の「居場所」をつくる。 カウンセリングはそういう作業のイメージがあります。 「長生きしたくないんです」 私も一緒にいるその建物の中で、その言葉を響かせて、 響きの余韻を一緒に感じる。 その言葉の音が、建物の中で反射し、 私にあたって反射し、 どんなふうに響きが変わるか、 この繊細な変化を大切にしたい空間なのです。

通い合う「気持ち」②

目の前の人との「気持ち」のやりとり。 それがコミュニケーションであり、その人とのつながりを紡ぐ時間であり、それが二人の関係となります。 前回のブログ記事で、気持ちを、 贈りすぎる、贈らなさすぎる、受け取りすぎる、受け取らなさすぎる、 ということを書きました。 他者との間で紡がれる関係ですから、「…すぎる」ときは、相手も「…すぎる」状態です。 自分が「気持ちを贈りすぎている」とき、相手は「受け取らなさ過ぎている」。 自分が「気持ちを受け取りすぎている」とき、相手は「気持ちを贈らなさすぎている」 というようなことが起きています。 ですから、「…すぎる」ことが良くないとか悪いというわけではなく、 あくまで他者との関係において、「気持ち」がどんなふうに流れているかという、動きの特徴そのものにすぎません。 そしてその特徴が、自分にとって相手にとって、二人にとって、心地よい範囲ではない、ということだと考えます。 「…すぎる」のかどうかは、自分の感覚や気持ちが教えてくれます。 それは、満たされなさや寂しさ 苛立ちや怒り 不安や恐れ 身体は、硬くなったり、冷たくなったり、 疲れを感じていたり、地に足がついていないような感じだったり。 こういう感じが常態化していたならば、寄る辺ない感じや、焦燥感、不確かな感じがつきまとっているかもしれません。 ある会議に出席したとき、私はその場で居心地の悪い感覚を感じ始めました。 外に出て空気を吸いたい…と身体が欲しているような感じ。 その場でもちろん呼吸はしていましたが、「外の空気を吸いたい」という比喩で感じられていた身体の感覚は、息が詰まるような、息苦しいような感じです。 でもそれを意識に上らせることなく、じっとその時間を耐えていました(席を立つわけにはいかず、しょうがなくて😢)。 でも身体は相当正直だったようです。 会議という、テーマが決まった場においても、「気持ち」の通い合いがあるかどうかは、会議の進行や成果に大きく影響を及ぼします。 そこでは、話の流れが一方通行的で、出席者の気持ちが通い合っていないと感じていたのだと思います。 それぞれが、それぞれの思いを行き来することができていないような感じ。 そういう行き詰った感じが、私の身体において、息が詰まるという感覚として生まれていました。 自分の身体や、自分の内側で起こっていることは、たくさん

通い合う「気持ち」 ①

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすること。 「気持ちを受け取る」 のタイトル記事に書きました。 でもこれは、簡単なことではありませんね…。 私たちの悩みのほとんどは、人間関係からきますから。 人間関係が表立った問題ではないように見えても、背後に、人間関係のテーマが腰をすえていたりします。 「気持ち」は、「…すぎる」というのが苦手です。 気持ちを贈りすぎる 気持ちを贈らなさすぎる 気持ちを受け取りすぎる 気持ちを受け取らなさすぎる 気持ちを贈りすぎているとき。 贈り続けるのは、相手が受け取ってないと感じているからでしょうか。 相手が求める通りのものを贈っているはずなのに、と。 それで、贈り方がよくないのかと思い悩みつつ、手を変え品を変えて工夫したり。 どうやっても、いつまでたっても、相手が受け取ったと感じられず、焦燥感、自責感、罪悪感のような気持ちがわいてきませんか。受け取ってくれない相手への怒りや苛立ち、自分への意地を感じるかもしれません。 気持ちを贈らなさすぎるとき。 私の気持ちなんて相手には必要ないだろう、と思って贈らないのでしょうか。 それとも、受け取ってもらえないかもしれないと思うと足がすくむでしょうか。 相手は、贈る必要がないと感じる人なのでしょうか? それとも贈ろうとしている思いや言葉を、相手に先に気づいてほしいと願っているのでしょうか。 贈らずにため込んだその思いや言葉はどんどんたまって、息苦しく、出口の見えない孤立感が大きくなっていきます。 気持ちを受け取りすぎるとき。 せっかく贈ってくれているのだから、受け取らなければ、と思ってしまうのでしょうか。 それとも、相手が満足するために受け取っているのでしょうか。そうすれば、やたらめったら贈るのは止めてくれるんじゃないかと期待して。 受け取りすぎているとき、相手の気持ちが自分の心のスペースをどんどん占領して、自分の心のためのスペースを侵食していきます。 その圧迫に苦しさ、怒り、不安が生まれてきます。 気持ちを受け取らなさすぎるとき。 冷たい気持ちや強い気持ちは、受け取るのは勇気がいるものです。 でもあたたかい気持ちややさしい気持ちも、受け取るのは勇気がいるのかもしれません。 受け取るのは怖いでしょうか。 どうやって受け取ればよいか、そして、受け取ってどう反応したらよいか、戸惑うでしょうか。

「気持ち」を受け取る

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすることなのだと思います。 以前書いた記事「 心に残る人 」、私は、あの人の気持ちを受け取っていたのだなと思います。 そしてあの人は、私に「気持ち」を贈ってくれていたのだと、亡くなった今はしみじみと感じるのです。 私は「気持ち」を贈るのも受け取るのも、かつてはあまり上手にはできませんでした。 私から贈られてもうれしくないんじゃないかとか、 返って気を遣わせてしまうんじゃないかと思うと、 これなら迷惑ではないだろうと思うような、 なるべく相手の気を遣わせないようなだけの量や内容の「気持ち」を選んで贈っていたのだと思います。 でもいつもうまくできたわけではありませんでした。 受け取るのも下手だったのは、幼少期から覚えています。 プレゼントをもらっても、どう喜びを伝えたらいいかわからないし、 それよりも、「こんなことしてもらって気を遣わせてしまってる」と不安になったりしたものでした。 子どもなのに。 相手が私のためにかける “ 労力 ” が少ないと、ホッとして、 相手が私のためにすることを、労力を使わせてしまっている、と思うことがありました。 今の私は、そういう面ではすっかり変わったと思います。 今の私は、人と気持ちを交わすことを、とても大切なことと思っています。 それは、私に贈ってきてくれていたものを、私が受け取れるようになり、私の中にあるということを感じられるようになり、それをありがたいと思うようになってきたことと重なっています。 たくさんの出会いがあり、年相応ぐらいにはいろいろな経験をして、そして心理療法のトレーニングを受け、先生や仲間の支えを得て、 周りにたくさんあった「気持ち」に気づくようになりました。 「心に残る人」の方は、心を動かされるような、でも深く安定しているようでもある感じの「気持ち」を贈ってくれました。 クライエントさんからもたくさんいただいています。 お一人お一人との出会いと時間が、私の中にあります。 クライエントさんの涙、力強いよろこび、静かな充足。 私に見せてくれたたくさんの「気持ち」、私への「気持ち」、 クライエントさんから、いつもたくさんいただいています。 だから、私の心の中には、クライエントさんお一人お一人が存在してて、 その存在を感じることは、私にとって大切なことなのです。 それが、「カウ

叶わない思いと一緒にいること

先日、スーパーに入ったとき、ちょうど同じタイミングで入ってきた親子がいました。ベビーカーに乗っていた小さな男の子が、グズグズと泣いている声が聞こえました。 男の子はどうもお店に入るのを嫌がっていた様子です。たぶん、何か他のことを求めていたのに、思うようにならなくてグズグズしていたようです。 お母さんは優しく声をかけていましたが、急いで買い物をすませたい様子でした。 すると男の子はお店中に響くような金切声を上げて、盛大に泣き始めました。 これって、子育てアルアルですよね…。 お母さんはやること山盛りですから、いつも子どもに合わせて行動するのは無理ですし、 子どものほうも、自分の思いを主張するのはごく自然なことです。 この場面にであい、心に浮かんだことがありました。 それは、子どもだけじゃなく、大人も、自分の思いを受け止めてもらいたいものだよなぁ、ということ。 「受け止めてもらう」ではなく、「一緒にいてもらう」という言い方でもいいかもしれません。 「わたしはこれをしたい!」とか「これは嫌だ!」という思いが、そのままかなわないことは、子どもであっても大人であっても、たくさんあります。 最初は、思いを通すことが重要でした。小さいことでも大きいことでも。「私が」望むことなのですから。 でもそのとおりにならないと、怒りや悲しみのような気持ちがあふれてきます。 子どもはそれをそのまま周囲へぶつけてきますし、大人も、大人なりの表現で、あるいはその人なりの表現で、周りへ伝えたりぶつけたりします。 思うようにならないとき、その思いをただただ聞いてもらうとか、 「そうだよねぇ」と共感してもらったり、 「〇〇がよかったんだよね」と思いを知っててもらったり。 そういうことで、気持ちは落ち着いていきます。 冒頭の男の子も、金切声を上げた時にはもう、思いが通らなかったこと自体よりも、それを放置されたと感じた気持ちのほうに苦しくなっていたのだろうと思います。 たぶん、少し止まって、自分の方を向いてくれて、「〇〇したかったんだよね」と言ってもらえたら、金切声にまではならなかったのだろうと思います。 (これが子育て真っ最中はとっても難しくて大変なんですけどね💦) クライエントさんのお話を聞いていると、クライエントさんにとって大事なときに、「聞いてもらう」「見ててもらう」「そばにいてもらう」「声をかけ

心に残る人

味噌の仕込みシーズン。 今年は例年よりちょっと早く仕込み終えました。 味噌づくりは一日仕事、体力仕事。味噌に限らず、「作業」はセラピューティックな性質を持っていますので、日常の中に、生活の中に、ときどき作業する時間を入れるのは役立つと思います。 味噌作りについては、大豆をつぶす、麹に塩を混ぜていく、材料全部をグイグイこねていく、そしてエイヤッと容器に叩きつける(空気を抜くためです)。こういう手ざわりや動きがなかなか良いのです。 こうやって作業している間に、ふと思い巡らせたり、考えたりしていました。 一つは、去年亡くなった人のことでした。 数年にわたる闘病が続いていて、長くお目にかかっていませんでしたが、ある日ふと、「どうされてるかな…」と思い出しました。その日に亡くなったのだと、後から聞きました。他にも同じような体験をした人がいて、どうやらいろんな人に挨拶して去っていったようです。 私はこの方と親しくしていたわけではないのですが、不思議と心に残っている人でした。 まだお元気だったころ、個人的に困ったことが起き、相談する人としてこの方が真っ先に浮かびました。同じ立場で、同じような経験をされてきているのは知っていましたが、それだけではなく、ちゃんと話を聞いてくれ、私に必要なことを言ってくれるだろうという信頼がありました。そして、その人の話が、本当に役立ち、助かりました。 難しいテーマだったのですが、自分なりに考えたことや、すべきことをできたと思えたのは、この時間のおかげでした。 この方のお話、真摯に対応してくれたこと、それが私の心にずっと残っているのです。 こういう人、こういう出逢いってありませんか。 親しい関係だったわけではないけれど、あるいは、人生のある一時であったにも関わらず、自分の中に確かに残っている記憶。 その時には大きく心を揺さぶられることではなかったのに、ずっと心に残る言葉や表情。 心のある位置にずっとあって、いつも思い出したり考えたりはしないけれど、静かに確かに存在する人。 心の中のその思い出にゆっくりと目を向けると、びっくりするぐらい大きくて、それが自分の支えの一つであったと気づくような。 そこには、その人と自分の、何か特別なつながりがあるのだと思います。 このつながりの感覚。 普段は感じないようなものでも、誰の心にもあるのではないか…と、クライエント

「真実の他者」~AEDP™セラピーの選択と実践③

  「自分と周りの人との距離感をイメージしてみる」 のタイトルのブログ記事で、自分を中心にして、身近な人や周囲の人が、自分からどのくらいの距離感にいるかマッピングしてみる、というワークをご紹介しました。 自分にとって、大切かどうか、安心かどうか、信頼やつながりを感じられるかどうか、といった心理的な距離感を紙に落とし込んでみることで、自分を中心に他者との距離感を感じてみるというワークです。 今回のテーマは、このマップの中での、自分に最も近いところにいる人について。 私は、自分の最も近いところに、ある「まなざし」がある、と感じています。 (この日本語、ちょっと変ですね💦すみません。) 私のカウンセリングのアプローチであるAEDP™のトレーニングでの経験をお話します。 トレーニングは、小グループに分かれて、体験ワークを行います。 私は短期集中型のコースに参加していたので、5日間毎日同じメンバーでワークをしました。 あるワークのテーマは、「怒り」でした。 心理士の研修では、ワークを安全に進めるために、感情的に最大を10としたら、1~3ぐらいのものをテーマに選びます。 私が選んだのは、だいぶん前に経験したことで、「今なら相手にハッキリと言い返したい!」と思うようなことだったので、それを選びました。私にとってはごく小さい出来事です。 そして、セラピスト役の人に、その話をしました。すごく腹立たしい出来事だったけれど、その時はハッキリ言わなかったから、ちゃんと怒りを出してみたいんです、と。 私は彼女を見て話していたのですが、ある瞬間に、私をじっと見る瞳が私の目に飛び込んできました。 とても一生懸命、とても真剣に、とても私のことを思って、私の経験と気持ちをしっかりと受け止めて聞いてくれている、それがわかる目でした。 その瞳が目に飛び込んできた瞬間、私の目から、突然、わっと涙があふれたのです。 怒るのではなく。 ただ泣いていました。 そしてわかりました。 私はもちろん怒りをもっていたけれど、それだけでなく、それ以上に、その当時の私は、一人で立ち向かわなければならなかったことに、不安と孤独を感じていたのでした。 彼女は、その私と一緒にいてくれた。 彼女の眼差しが、それを伝えてくれていたのです。 この眼差しは、「真実の他者(True Other)」という体験でした。 彼女のまなざしが、私

「undo aloneness」~AEDP™セラピーの選択と実践②

私がAEDP™セラピーという心理療法でカウンセリングをしていきたいと思い、今も研鑽を続けているのはなぜか? AEDPの何が私を惹きつけ、心を打つのか? AEDPの何に共感しているのか? 私が感じた感動やよろこびを、クライエントさんも感じてくれているのではないか、と思えるのはなぜか? その前に、私が、社会人を経て心理職へ転職することになったきっかけの一つについて話したいと思います。 プロフィール に少し書いていますが、私は、転職して心理職になりました。 そのきっかけは、私の身近なところで起きたいくつかの出来事でした。 当時私は、若かったこともあるのでしょうが、すごく一生懸命でした。なんとか解決したいと思い、心を痛め、行動していました。 でも何よりもつらかったのは、理解されない感じ、腫れ物に触るように距離を置かれているような感じ、ひどい場合は、批判されているような態度。 疎外感と孤独感が続いていました。 起こってしまったことは、もうどうしようもない。けれど、その時に必要だったのは、私の話に耳を傾けてくれること。 そして、その人の、本当の声を聞かせてくれることでした。 心からの対話を必要としていたのです。 つらかったのは、起きた出来事だけでなく、その後、つながりをもてなかったこと、孤独な状態にいたことだったのだと、今はわかります。 実は初めのころ、混乱した気持ちの最中、私は相談機関にアクセスしました。しかしその対応は求めていることではなく、それどころか、ぞんざいな感じが伝わり、怒りも覚え、ヘルプを求めることをきっぱりとあきらめたのでした。 私が孤独感を感じ続けていたのは、この残念な経験からスタートしました。 しかしその後しばらくしてから、「とても大切なことだと思うので、話を聞かせてほしい」と言う人が現れました。 その人の目には、真摯さが感じられました。 話を始めていくと、他にも耳を傾けようとしてくれる人が現れました。 こうやって始まった対話は、それぞれの心の奥へと一歩踏み出し、深く触れる時間となりました。 話す私も、聞く人たちも、答えを求めているわけでも、答えを導こうとしたわけでもなかった。私も、その人たちの心の声を聞く役にも回りました。 ただ、それぞれの本心とともにいたのでした。 そうやって初めて、私は、悲しく苦しかった涙が癒されていったのを経験したのです。 この時の経

嫌な人と距離をとる

他者との距離感についてのテーマの3回目です。 自分が安全だと感じる状態、範囲の感覚についてが 1回目 。 2回目 は、周囲の人との位置関係のイメージをマッピングしてみました。 そしてそのマッピングの中で、「自分の安全圏をぶち破ってくる」にも関わらず、自分の世界に位置がある人の、その距離感についてどうするか、ということを最後に書きました。 その人と、一定の距離を保つことが可能ならば、ぜひそうしましょう! 「お付き合いしとかないといけないんじゃないか…」というような関係の場合でも、礼節を保った対応に留めておけばOKなんじゃないでしょうか? 笑顔で挨拶する。 お礼は言う。 軽い世間話程度は、円滑なコミュニケーションとして行う(やってもいいと思うとき&時間があるとき限定)。 このくらいでOKでは? それ以上のことを、この距離の人とする必要はないのではないでしょうか。 だって、そんな距離の人ですから! 「そうは言っても…」と、モヤモヤ感じたり、不安がムクムクと起きるようでしたら、それは、自分の中に、そういう不安感にまつわる、もともとのテーマがあると考えられます。 (それはカウンセリングで取り上げていくのに、よいテーマでしょう。) では、一定の距離を保つことが難しい人の場合。 自分にとって良いことはないとか、良いこともあるけど害が大きくて差し引きマイナスだと感じるのならば、 生きていく中で、今の状況で、「自分の安全圏をぶち破ってくる人」との関係に、もっとずっと距離をとる、あるいは、関係を完全に断つ(=あなたの世界からは出てもらう)ことは無理なのでしょうか? それはどんな人でしょう? 家族? 職場の人? 学校の同級生? 隣の家の人? ママ友? 作家の高橋源一郎さんは、「家族はたまたま一緒の船に乗り合わせたメンバーにすぎない。だから行先が変わったら、船を乗り換えたらいいんだ」ということをよく書いています。 もしかしたら、自分はもう、その人とは行先が異なっているかもしれません。 それなら、その人はもう自分の世界にはいなくてもいいのです。 そう思えたとき、その「船」から出るのは、相手ではありません。自分なのです。 そうするのは、悔しい気持ちになるかもしれないけれど。 自分が、船を出て、自分の船をつくったり見つけたりして、漕ぎ出さなければなりません。 カウンセリングで、自分を攻撃する相手

自分と周りの人との距離感をイメージしてみる

前回 、他者との距離感について、実際的に体験してみるワークをご紹介しました。 距離には、実際の物理的な位置関係と、心の中での距離感とがあります。 遠いところにいる人だと、心の中の距離感も、比較的遠くになりやすいでしょう。あんまり接点がないですから(とはいえ、ネットですぐにつながるので、そうとも言えなくなってきたところはあると思いますが)。 前回ご紹介したワークは、安全感を、身体で感じるというものでした。 今日は、心の中での感覚やイメージを取り上げます。 前回のブログの最後に、「実生活では、自分のこの安全な距離を失礼にもぶち破ってくる人と直面しなければならないことは多いかもしれません」と書きました。 そういうふうに感じることがよくあるなぁ…と思う場合、それはどんな相手でしょうか?そして、どんな場面で? まず、その相手は、自分にとってどういう人でしょうか。 これは、「私の親です」とか「私の友人です」みたいに、自分とその人の関係についてではありません。 自分にとって、その人はどういう存在なのか、という問いです。 ここでもう一つワークをご紹介したいと思います。 (※このワークは、一人では難しく感じることもあるので、その場合は、自分のために、ワークを進めないようにしましょう。そして、安心できる人やカウンセラーなどと一緒にやってみてください。) A4やB4ぐらいの紙を用意し、その真ん中に「私」と書きます。自分の名前を書いてもいいでしょう。 そして、中心の「私」の周りに、安全ラインの円を描きます。円の大きさは、あなたが感じる大きさや形で。 それから、まず親しい人を思い浮かべてみます。ペットや大事な本などでも、信仰があればそういうことでもOKです。 最初に浮かべた人(など)。それは自分にとってどのあたりにいる感じ? そしてその次に浮かんだ人。 こうやって、思い浮かぶ人を、順番にマッピングしていきます。自分にとっての、その人との距離感をイメージし、感じながら。 このマッピングは、自分の感覚やイメージに基づくものですから、どういう位置感覚や位置関係でもOKです。 いかがでしょうか。 日頃会うことがない人でも、ずっと心に残り、心に寄り添っている人がいるかもしれません。その人は、自分の「安全圏」の内側にマッピングされた感じでしょうか。あるいはすぐ近くとか。 逆に、毎日関わりがあるので、紙の

自分の距離感を知る

人間関係における距離感。 結構難しいことってあるんじゃないでしょうか。 相手と自分との感覚が違うとき。 その場で求められる(と思う)感覚と、自分の感覚が違うとき。 そうすると、 自分が我慢したり妥協したりして疲れてしまう... 違いが露わになると不穏な空気が漂ってしまう... 求められる距離感の圧力に苛立ちや怒りを感じる... 相手が近すぎて、恐怖感を感じる... 距離感については、まず初めに大切にしたいのが、自分にとって心地よい、大丈夫、耐えられる、などと感じられる距離がどのくらいか、ということへの注目です。 距離感は文字のとおり、物理的な距離によって感じる感覚からよくわかります。 体験的なワークをご紹介しましょう。どちらも比較的親しい人(たち)と行ってみてください(ワークなので、安全に進めるほうがよいですから)。 【やり方①】 比較的親しい人に前に立ってもらい、その人に正面から近づいてもらう。 ものすごくゆっくりと近づいてもらったり、足早に近づいてもらったりしてみてください。 その人はどの距離にいてもらうとよい感じがするか?少しずつ近づいてきたとき、どのあたりから「近い!」と感じるサインが生まれるか。 これは身体が感じているはずです。なんとなく緊張感がある、ドキドキする、モヤモヤするなどです。 これ以上はダメ、と思う距離感はどのあたりか。 これをお互いにやってみると、自分にとっての(その人との)距離感はどのくらいか、そして、自分はそれをどんなふうに感じているかを体験できます。 【やり方②】 二人以上で行います。 長いロープを用意します。それを自分の周りにぐるりと配置します。 ロープの中心に座ってみて、ロープの輪の大きさが自分にとってよい感じかどうか感じてみます。必要ならもっと大きく、あるいは小さく。 他の人は、それを穏やかに見ています。 自分がその輪の中に座り、ロープの外にいる人を見てみます。また、その輪の中にいることを感じてみます。 どちらのワークも、相手によって、距離感がかなり違うことがわかります。 カウンセリングのセッションでも、ある人(たいていはクライエントさんが苦手とする人)が、どのくらいの距離にいると大丈夫と感じられるか、ということをイメージしてみます。 カウンセリングをしているこの部屋の中にいてもOKか。部屋のドアの外ぐらい?建物の外?もっと遠く?

「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」

「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」 崔実さん著作の「 pray human 」の中の会話です。 本当に辛いとき。 それは言葉にならない。言葉にできないもの。 あまりに深すぎて、重すぎて、 あまりに強すぎて、苦しすぎて、 語るよりもずっと手前のところでうずくまるような。 言葉になる前に引きずり込まれてしまうような。 そして痛みを言葉にすることで、 それが「ほんとう」になってしまう不安や恐怖。 沈黙は、カウンセリングの中でよく生まれます。 私はむしろ、クライエントさんが沈黙の中に留まれるよう、促していきます。 他者といても沈黙していられる、 それは一人ではない、他者(私)がいるなかで、 自分の内側に、 自分の世界に入って、 じっくりとそこに留まること、 その世界で感じられるさまざまな感情や感覚を受け取っていくこと カウンセリングでの沈黙は、そういう時間です。 初めてのセッションで、何を話したらよいか戸惑って、言葉にならないという方は少なくありません。 そういうとき、私は、 「言葉が出てくるまで、ゆっくり待ってみてあげませんか」 と言うことがあります。 私(セラピスト)のペースではなく、クライエントさん自身の内側から出てくるペースを、一緒に大事にしたいなと思うのです。 そうすると、ただ、一緒に沈黙の中にいる時間が流れることがあります。 クライエントさんの目から涙がこぼれてくることもあります。 「でも、その方がずっと痛みが伝わってきた。人が沈黙しているときこそ、最も耳を傾けるべき瞬間なのかもしれないね」 「pray human」での、タイトルの会話のあとに続く言葉です。 「沈黙に耳を傾ける」。 カウンセリングではもう少し付け加えたい…。 一緒に沈黙する。 その沈黙のそばにいる。