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8月, 2021の投稿を表示しています

「恥」は自尊心との合わせ鏡

「恥」の感情について思い出すエピソードがあります。 娘のトイレトレーニングを本格的に始めたのが2歳の誕生日のころでした。夏生まれの子なので、スタートするのにちょうどよい季節だと思ったのです。 オムツもパンツも取ってみる(要するにほぼ裸)、トイレトレパンツ(分厚く布が重ねられたトレーニング用パンツ)をつけてみる、あるいは、オムツをつける(うちは就寝時以外はオムツも布でした)、いろいろな時間を過ごしていました。 オムツのときは、布ですからオシッコで濡れたのはわかるはずなんですが、「オシッコ出たー」とすぐ言わないことがほとんどでした。 特に遊びに夢中のとき。気持ち悪いだろうと思うんですが、子どものあの遊びへの集中力はすごいです。まさに全集中。 でもトイレトレパンツのときはすぐに言いに来ていました。オムツじゃなくてパンツをはいてるんだというのはちょっと誇らしいことのようでしたし、「オシッコに気を付けないといけないんだ!」と自分でも思っていたようでした。 他の人がいるときに「漏れちゃった」と自分で気づいたときは、バツが悪いような、恥ずかしそうな様子をしていました。なので、ササッと別の場所にいって、パパッと着替えました。 「恥」の気持ちって、こんな小さいときに、こんなふうに現れるんだと思ったのをよく覚えています。 保育所のベテラン先生も、「そういう時は大勢がいる前で『漏れた』と言ったり、着替えを強行しないほうがいいのよ」、と言っていました。もう「恥ずかしい」って気持ちがあるんだから、と。周りの大人は、子どもが示す「恥ずかしい」という様子を、しっかりとキャッチしてあげないといけないと話していました。 さらに成長してくると、「恥」はもっとはっきりしてきます。知らない人の前であいさつできずに、もじもじしたり、後ろに隠れたりする。 いつも元気いっぱいなのに、発表会では急に固まって後ろの壁にへばりついている。 だんだん、不安感や緊張感と合わさって現れてきているようです。 こういう態度の方が実は「恥ずかしい」ことだとみなされますが、小さいころは、そしてその後もしばらくは、自分の中の恥の感覚でいっぱいいっぱいになって、それがどう「見られることなのか」という他者からの評価まで追いつかない様子です。 そして、その評価に合わせて、あるいは、自分自身をしっかり感じながら、状況の中で自分を調整すること

親に対する罪悪感の苦しみ

  「親を捨ててもいいですか」のタイトルのブログ の終わりに書いた、罪悪感についてもう少し書いてみます。 このテーマ、ウェブ上でたくさん取り上げられています。 親子問題がテーマ(たいていは母と自分の関係)のカウンセリングの中で語られる罪悪感は、自分が親を満足させられない、親を大切にできない、ということからくるものです。 ところで、そもそも「罪悪感」は、文字通り、自分が行った罪や悪行に対する感情で、自分が悪かった、自分は良くなかったと思うときに感じる感情です。また、自分が十分しなかった、できなかったと考えるときにも罪悪感は生まれます。 罪悪感は、自分が自分を責める感情です。 すると、そもそも「罪」とは何か?というテーマがあります。 罪は、さまざまな側面があります。 法的、社会的、宗教的、慣習的など…。 でもカウンセリングで語られる罪悪感は、ちょっと違うように思います。 クライエントさんが感じている「罪」は、親(または「世間」)が罪だと見なすものですが、その「罪」を「犯させる」原因が親の側にあるということです。 クライエントさんにとっては、親を避けたい、親が嫌だと思うほど、親の言動が辛いのですから。 親は、クライエントさんにこういうことを繰り返し言っています。 「親にそんなひどいことを言う(する)なんて!」 「なんでちゃんと連絡くれないの!」 「私は一人でこんなに寂しいのに」 クライエントさんの罪悪感が完全に消える唯一の方法が、親が子ども(クライエントさん)に感謝したり、「あなたは十分」だと認めることですが、これは残念ながら叶わぬ幻想であることが多いです。 カウンセリングをしていくと、クライエントさんは、自分がそこまで悪いわけではないとか、自分はそこそこ十分頑張っていると思えるようになります。 しかしクライエントさんにとって苦しく難しいのが、それを心から完全には思えないこと。親が自分に無関係な存在ではないからです。 親と、また親が出すメッセージと、完全に境界をとることが、とても難しい。 ある程度はできるようになります。あまり会わないようにする、連絡を控える、一人で会わないなど。 でもそれだけでは、罪の感覚から100%解放されることはありません。 そのことを突き詰めていくと、いろいろな感情があります。 親が、私のことを大切に思ってくれていない、私の気持ちを考えようとしてく

「親を捨ててもいいですか」

 少し前ですが、NHK「クローズアップ現代+」で、 「親を捨ててもいいですか? 虐待・束縛をこえて」 という放送がありました(2021年5月6日放送)。 コメンテーターとして、臨床心理士の信田さよ子さんが出演されていました。 「親を捨ててもいいですか?」というタイトルには、大人になった子どもの、親に対する「責任」を前提としているニュアンスが伺えます。 信田さよ子さんは、「 母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き 」で、母の呪縛に苦しむ娘を取り上げました。 それは、私がカウンセリングで出会うたくさんのクライエントさんたちの苦しみと同じ物語でした。 それが十数年前。 母と娘の関係における苦しみは、それよりも前から、フェミニズムの中で明らかにされてきたものです。 そうなのです。このテーマは、もう何十年も前から臨床の中で扱われてきているのです。 娘が母から受けている苦しみは、さまざまです。 呪縛、コントロール、抑圧、攻撃、冷淡や無視。 カウンセリングに来るクライエントさんはみんな、そんな母の期待や要求に何とか応えようと一生懸命です。 でもどれだけ頑張っても、決して認めてもらったり、受け止めてもらったり、感謝してもらったりということがない。 その繰り返しに疲れて、要求の強い母から頑張って距離を取るようにしても、完全に距離を取ったり(縁を切るとか)、邪険にしたりできず、押し寄せるパワーに崩れまいと、必死に壁を支えているような気持ちでいる人が多くいます。 同時に、こんなふうに距離を取ってしまっていることへの根深い罪悪感にさいなまれ、苦しんでもいます。 親を捨てたい。離れたい。 でも離れることへの罪悪感が襲う。 信田さよ子さんは番組の中でこんなふうに言っておられました。 『聞く人が聞いたら不愉快でしょうけど、私は「親を捨てたい」と言わなきゃいけないところまで追い詰められてる人のことを思うと、本当に心が痛む。だからもし、私がカウンセラーとしてそういうことを聞いたら「いいんじゃないですか」、「親に対してNOって言うこともOKですよ」と言ってあげたいです。 誰もそういうふうに言ってくれないから。「親を捨てたい」、「いいですよ」なんて言ってくれないわけですから。カウンセラーぐらいは言ってあげてもいいんじゃないかと思います。』 私も信田さんの言葉に同感・同意します。 そう言わたら、どれだけホッと

ずっと深い土の中にある種、それはあなた

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私は車を運転しているときにラジオを楽しんでるんですが、 昨日、ベット・ミドラーの「ローズ」が流れてきました。 何回聞いてもいい歌だな…と思います。 初めて聞いたのは、ずっと以前、ラジオの英会話講座でした。 とても感動して、そのページは切り抜き、お守りのようにずっと手帳に挟んでいました。 歌の後半にこんな歌詞があります。 Just remember in the winter Far beneath the bitter snows Lies the seed that with the sun's love In the spring becomes the rose 【日本語訳】 思い出して。 冬、凍えるような雪のずっと下に種はあって、 太陽の愛を浴び、春には薔薇が咲くということを。 人からの攻撃や批判、無視、圧力などをたくさん受けてきた人は、それに苦しむだけでなく、その批判などを自分の中にも取り込んでいて、自分自身を責めるようになります。 DVや虐待、いじめなどを経験すると、自分自身を「価値がない」とか「不十分だ」とか、「私が悪い」というように、自分を傷つけるような思いを持つようになってしまうことはあるのです。 それでもその中で、クライエントさんの内側にある「力」が感じられることがあります。 そういうときは、私は、その力に注目したくなります。 その力は、この歌と同じ。 凍えるような雪のずっと下にある種。 セッションの中では、その「種」にもっと注目したいと思います。 その種は息吹き、芽を出し、根を張り、美しい花や、大きな緑の木へと成長するもの。 私もこの歌に支えられてきたなと思います。 たくさんの人がカバーしていますが、日本語訳の字幕がある動画をリンクします。 あなたの中の種を、感じてほしいと願いながら。 (広告が出たら、隅の「☓」をクリックしてくださいね。広告が消えて、字幕を見ることができます。)

どこでもいい、逃げる場所があるなら、そこへ逃げよう

西原理恵子さんが連載している「りえさん手帖」第196回(毎日新聞2021年7月26日朝刊)に、こういうコマがありました。 「小学校の休み時間は(意地悪の)標的にされないようにいつも図書室に逃げてた。 たくさんの絵本が私を救ってくれた」 ※括弧内は私が補足したものです。 2020東京オリンピック開会式のドタバタの中で、いじめ問題がありました。そのいじめ行為の中に、図書室ですごす子どもを揶揄する表現があり、とても胸が痛んでいました。 私も、図書室を心のよりどころにしていた時期があったからです。 西原理恵子さんのマンガは、そのすぐ後に掲載されていました。 大人になって、今、はっきりと思うし、断言できるのは、 「そこがまだ少しでも安全だと感じられるなら、そこに逃げていい!」 図書館でも。保健室でも。校庭の片隅でも。 それは、自分が自分のために、自分を少しでも守るためにとっている行動。 「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」 (『西の魔女が死んだ』梨木果歩、新潮文庫) いじめられた経験がある人は少なくないと思います。 カウンセリングのなかでも、過去のいじめ体験のお話が出ることがあります。 話しているなかで、それが今のクライエントさんに影響していることも浮かび上がってきます。 カウンセリングの中では、その過去の体験についてのワークをすることがあります。 ワークで大切なのは、 その時は、助けがなかったり、 一人だったり、 何もできずに耐えるしかなかったり、 そういう出来事だったかもしれない。 でも、カウンセリングの中では、今、ここでは、その痛みを抱えているクライエントさんを一人にはしない。 そうやって、痛みだけの記憶を、違うものに書きかえる、というワークができます。 過去を変えることはできない。 でも、苦しんでいる今の自分を変えることは、不可能ではない。 それが、カウンセリングで、カウンセラーと一緒におこなうものです。