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自分を主人公にする時間

自らカウンセリングの門をたたかれる方は、もしかしたら、自分のことよりも、自分以外の誰かのことを優先させてきた方が多いのかもしれません。 いえ、優先させてきたというのではなく、いつのまにか優先するようになっていた、という言い方の方が合っているように思います。 カウンセリングでは、クライエントさんが主人公です。もちろん。 ですから私は、クライエントさんに「それはどんな気持ちがしますか?」と聞いたりしますが、「えっ?」と一瞬戸惑われたり、自分じゃない他の誰かのことを話し出したりします。 私に一生懸命、出来事や状態についてお話してくださるかたも多くいらっしゃいます。 クライエントさんにとっては「一生懸命」ではないのかもしれません。 それが普通で、いつもの自分なのかもしれません。 状況や背景を理解するために、クライエントさんがお話してくださる内容は、もちろん大切です。 でも“私のために”話してくださる必要はないのです。 「今はあなたのための時間なので、自分のためにたくさん時間と空間をとって、自分のペースを大切にしていいんですよ」 と言うと、どうしたらいいか戸惑われて、緊張する方もいらっしゃいます。 (これらのどれが起きても、私はもちろんサポートします~) 自分の中で起こっていることに注意を向け、自分の気持ちや感覚を感じ、そうして自分自身を理解するようになってくると、クライエントさんは、過去の自分が、どれほど他の人のことばかり優先していたのか気づきます。 どれほど、自分自身を犠牲にしたり、後回しにしたり、抑圧していたか、 そして、自分で自分のことが、こんなにもわからなくなってしまっていたということに気づかれます。 クライエントさんが、自分自身に目を向け、自分の気持ちや感覚を感じ取り、ただそのままでいられるようになったり、 自分の気持ちや考えを言葉にするようになったり、 もっと言えば、自分はこうしたい!といった欲求や要望をはっきりと言えるようになるまで、 カウンセリングでは、ある程度の時間をかけて行っていきます。 これは、初めの頃は、とても居心地が悪くて、不安な気持ちになったりするのです。 言葉も知らない、初めての国に降り立ったような感じでしょうか。 あんまりにも慣れていなくて、あんまりにも初めてで。 でもカウンセリングでは一人じゃありません。 カウンセラーというガイドが一緒にい

罪悪感の中にある共感の気持ちをひらく

罪悪感は、自分に向けられる苦しい感情です。 以前のブログで、「前提としての『罪』があるのかどうか」、ということを書きました。 今回は、少し違った視点から、この苦しい感情について書いてみます。 カウンセリングでテーマとなる罪悪感は、自分は悪いことをしてしまったとか、悪いことをしようとしている、ということが頭の中に渦巻いている状態です。 その行為や考えは受け入れがたいものであるために、この苦しい気持ちが自分に押し寄せ、打ちひしがれます。 その行為や考えは、自分だって喜んでやったとか、望んでいたというものでもないので、自分が求めてもいない結果に苦しみます。 以前のことであれば、その当時にはどういうことかわからなかった、あるいは、考えることができなかった、ということもあるでしょう。でもその意味を知る今は、過去を悔いる思いにさいなまれてしまいます。 これが重なっていったり、ずっと大きく残ったままでいると、自分自身の存在までも否定し、非難する気持ちになっていきます。 カウンセリングでは、この気持ちを、ゆっくりと、ゆっくりと、ひも解いていきたいと思っています。 そうしてひも解いたその「気持ちの箱」の中をのぞくと、いろいろなものがあることが見えてきます。 その一つが、クライエントさんの、他者を思う大きな気持ち。 罪悪感は、たいていは、誰かとのなかで起きた出来事から生まれます。 一つの大きな出来事かもしれないし、小さな日常が積み重なっていったかもしれません。 そこにいたその相手との関係の中で、罪悪感は生まれ、育っていきます。 そしてクライエントさんは、その相手のことを、重要な存在として思う気持ちが、しっかりとあることが見えてきます。 クライエントさんが他者に向けるその思い。 クライエントさんにとっての、その人。 それもまた、とても大切な感情だと思うのです。 罪悪感の背後にあったその思いを、箱の中から取り出して、ちゃんと光を当ててあげたいと思います。 その人は、どんなふうに重要なのか。クライエントさんの人生において、どんな存在の人なのか。 カウンセリングでは、たくさん聞かせてもらいたい。 「その罪悪感について、もっと話してもらえませんか?」

難しいテーマは、一旦仮置きする

カウンセリングの中では、いろいろな出来事、記憶、人との関係、自分自身などについて語っていくことがあります。 そうやって話しながら、そこに心の中の深いテーマが浮かび上がってきたり、あるいは、そのテーマに近づいていったりするような感じが出てきます。 そのテーマは、話題の「入口」となっていた現在の問題や苦しみの根底にあるような、あるいは、中心にあるようなもので、それを掘り下げていくことは、改善、解決、解放などにつながりそうです。 ですがそれに向き合うのは、かなり負担感があるものです。 なぜなら、そのテーマが生まれて、そのまま今まで存在してきたのは、改善や解決などがそもそも難しすぎたり、大きすぎたりしたから。 改善や解決は難しすぎたから、避けたり蓋したりしてきたわけですから、今さら向き合うのかと思うと、負担感や拒否感が出るのは自然なことでしょう。 きっと向き合ったり、深めたりしたほうがいいのはわかっている。 それがテーマだし、問題なのだともわかっている。 でも今それはやりたくない。 今なんとか均衡を保っているのだから、そのまま置いておきたい…。 もう見えてしまっている、自分でもわかっている、あの「テーマ/問題」は、一旦どこかへ置いておくんだ… 今じゃない… そう思うならば、その「テーマ」を箱に詰めて蓋をして、一旦置いておきましょう。 カウンセリングでは、私もそのイメージ作業を一緒にします。 あそこに置いてある、 誰も知らない、大きい、重い、でも大事な「テーマ」。 セラピストは、クライエントさんがそうやって仮置きした、その作業の立会人です。 一緒に作業すれば、もう一人ではないのです。

私のなかの『わたし』と出会う

カウンセリングは、クライエントさんと私(セラピスト)の二人で行うものです。 でもそこに、私は、もう一人連れて来たい「人」がいます。 それは、クライエントさんの中のクライエントさん。クライエントさんの「わたし」とか「自分」という感じを感じる部分です。(記述すると長いのでここでは短く『わたし』と書きますね)。 その『わたし』は、クライエントさんの心のうちにあります。 クライエントさんがカウンセリングに来るとき、クライエントさんは、自分の心の中にあるその『わたし』の存在を知っている場合も、知らない場合もあります。 『わたし』はいるって感じている場合でも、その『わたし』のことをよくよく知らないことは多いかもしれません。 『わたし』はどの人の心の内側にもいるイメージが私にはあります。 そして私がカウンセリングで行いたいこと、とても大切にしたいこと、カウンセリングで目指していることは、クライエントさんが『わたし』と仲良くなることなのです。 『わたし』にとっての一番の親友がクライエントさんになったらいいな~という思いがあります。 でもそれはなんだかよくわかりにくいことかもしれません。 「私は私で、私の中の『わたし』も私です」 こんなふうな言い方をされる人はいませんが、 自分の内側に目を向けていくということがよくわからない、イメージできないし、ピンとこないというのは、ある意味とっても普通でよくあることです。 なぜなら、『わたし』はたいてい、心の奥深くに、ひっそりと隠れていて、クライエントさんにさえその存在を感じさせないようにしていることもあります。 『わたし』は危機探知がバツグンに良くて、ぜったい大丈夫!と感じられない限りは、その存在を見せてくれることはありません。 だけど『わたし』は、ずっと待っているのです。 誰かに気づいてもらうこと。 一緒にいてもらうこと。 思いを知ってもらうこと、聞いてもらうこと。 だから私(セラピスト)は、クライエントさんが私にいろいろとお話してくれることを大切にしたいと思いつつも、そこにクライエントさんの『わたし』がいるのかをとても気にしています。 『わたし』が一緒に会話に参加していないように感じるときは、クライエントさんにちょっとだけ待ってもらいたい…。 そして『わたし』を二人で一緒に迎えたいのです。 「どうぞいらっしゃい」 「ずっと待ってたよ」って。