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3月, 2023の投稿を表示しています

背負いすぎている荷物

生きてきた中で背負ってきた荷物。 望まないにもかかわらず乗せられてしまった荷物や、自ら引き受けて負った荷物。 下ろせるものならば下ろしたい。 けれど、どうやって下ろしたらよいのかわからないとか、 誰も引き受けてくれないから、下ろすことはできないとか。 荷物がこんなにも大きく重いことも、 それなのに下ろして軽くすることができないことも、 どちらも辛いことです。 カウンセリングではしばしば、「肩の荷が下りたような感じ」という体感を表現してくださることがあります。 そこまでに至るプロセスはいろいろなのですが、 苦しんだ自分に気づき、悼み、悲しみ、 それを私と分かち合うなかで、 大きな息が吐きだされたあとに、肩の荷が下りて軽くなったような感覚を体験されます。 本当に大きく、重い荷物でした。 でも、ここに至るまで、それを背負って歩まざるをえなかったのですよね。 よく歩いてこられました。 よくここまでたどり着いてこられました。 「小休止」を体験されると、本当に背負うべき荷物や自ら背負っていきたいと思う荷物と、下ろしてもよい荷物とが、すっきりと整理されます。 そして、荷物を下ろしてみる。 負わなくてもよい荷物がない軽さを感じると、視線は、次の一歩へ向いています。 下ろした荷物に名残惜しいような気持ちも感じながら、でも、 向かいたいその先には、広がる空や地平線が見えてくるというお話をしてくださいます。 私はそこで、その明るく輝く空や、広がる地平線を一緒に感じさせてもらうのです。 こんなにも大きな荷物を背負いながらも歩んでこられたクライエントさんの力強さや忍耐力に敬意を感じながら、同時に、 新たな歩み、これまでとは違う歩みを、おだやかながらもしっかりと前を見て踏み出す、その確かさに、 人の生きる力と素晴らしさを感じさせてもらいます。

感情反応“遅延型”

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アレルギー反応に、すぐに反応する即時型と、症状が後になって現れる遅延型があります。 感情も、その場ですぐ感じるときと、後になってから感じることがありませんか? 感情がどのように現れてくるかという「タイプ診断」のようなものがあるわけではありませんが、このようなアレルギー反応で例えるならば、私の感情は”遅延型“だなぁと思います。 感情を、それを感じるはずのその場ではぼんやりとしか感じられず、後になって、ジワジワと感情が実感されてくることが多くあります。 特に不快・不愉快なほうの感情が遅れてやってくる傾向が強いです。 思い起こすと、私はどうも感情は全般的に”遅延型”な反応だったと思います。 小さなころから、うれしいことも悲しいことも、ワクワクすることも嫌なことも、パッとその場では現れず、ゆ~っくりと、ジワ~ッと感じているほうだったのを覚えています。 心の中でそれを感じている頃には、その出来事やそれに関わった人たちは移って行ってしまっているので、周りの人はきっとよくわからなかったでしょうし、私もまた、気持ちを共有するタイミングを失っていたと思います。 自分がこんなふうなので、感情という波がどんなふうに心へ打ち寄せてくるのかは、人によって、状況によって多様なのだとわかります。 波が、入江と岸壁では違っているし、天候や季節によっても違っているように。 感情がいつ現れ、いつ心の中で大きくなるのか、というタイミングの問題。 「スムーズさ」の点では大事だとは思いますが、私はあまり重視していません。 「なんでその時に言わないんだ!」と怒って言う人がいますし、逆に、「なぜ自分はその場でちゃんと気持ちを言えないんだろう」と辛い気持ちになる人もいますが、タイミングの問題にしてしまうと、タイミングを合わせること自体が優先されてしまうように思います。 でもそれは、誰の、何のためのタイミング? それよりもむしろ、感情という波が、自然のままに打ち寄せてきたことを大切にしたいのです。 そうやって岸にやってきたものを、ただその流れや音や匂いのままに感じる。 いつやってきてもいい。 感情が、感情自体の動きのままに、ただそのままにやってきたならば、それは本当に大切な「気持ち」。 ゆっくりとゆっくりとやってきたのであっても、 波が、静かに、じんわりと砂浜に染み入る感じを、カウンセリングで一緒に見ていたいと思い

肩書の洋服を着た「私」と、裸の「私」と。

ものすごく前なのですが(20年前?30年前?)、今もよく覚えている新聞記事があります。 書いていたのは、当時、大学教員として有名な女性。現在は別の領域で活動されています。 内容は、小さい子どもを公園に連れて行って遊ばせている時、自分が、「大学の有名な先生」ではなく、「○○ちゃん(子どもの名前)のお母さん」という、無名の存在になることの心地良さについて書いていました。 自分でも不思議なのですが、その時の印象が、今も記憶に残っています。 先生の学問分野が、私が当時興味を持っていたことで、先生の活躍は、私にとっては憧れでもありました。その人が、そうではないことについて心地よさを感じていたことに、意外な気持ちになったのかなと思います。 成長するにつれ、大人になるにつれ、人は、いろいろな立場性や属性を持ったり、意識するようになります。 仕事や学校の中で、家族の中、地域などで、どんな立場にいるか、 逆に、そういう立場を持たないという立場性、 性別の認識、 年齢 人種や民族などなど 他にも、いろいろな立場や属性があります。 これらは全部、周りから来たものです。 そうして、認識したり、意識するようになったその立場や属性が、「私」をつくってもきました。 だから、自分がどのような立場や属性でいるかということは、「私」にとって、とても重要な要素になります。 一方で、そのような立場性や属性という洋服を脱いだ「本当の私」がいる、 そういうことを思ったことはありませんか? 何者でもない、ただそのままの「私」。 でも、これらは普段、さほど区別してないような、ごちゃごちゃになってるような、 というよりも、「本当の私」は感じられないままでいるということのほうが多いのではないかと思います。 最初に書いた大学の先生。その方は、いつもの大きな属性ではない自分でいられていることに気づき、心地よさを感じていました。 「大学の先生」「お母さん」という属性が変化するさまを心地よく感じていたのが、その方の最も中核の部分、つまり、「本当の私」だったのではないかと思います。 カウンセリングでは、まわりからきて、自分の内側でも規定しているようなたくさんの属性や立場性を大事にしつつ、 それが「本当の私」にとってどういうものなのか、 そして「本当の私」はどう感じてるのか、 それを、行ったり来たりしながら感じていくプロセスがあ