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AEDP(加速化精神力動療法)をベースにしたカウンセリング

※この記事は、2021年にウェブサイトのプロフィール欄に記載していたものです。今回ウェブサイトを編集したため、こちらに改めて掲載することにしました。 社会人になってからのことです。 周りの人たちに、とても辛い出来事が起こりました。 私も、辛い気持ちにおそわれて、 毎日、毎日、涙を流していたものです。 のちに、嵐そのものは、止んでいったのですが、 心の中は静まっていないことを知り、 以下のような思いを抱くようになります。 「人は、心の中に安心と平和がもたらされなければ、 問題が解決したとは思えないし、 新たに歩みを進めようという気持ちにはなれない」 心の安心と平和は、どうすればもたらされるだろうか。 そのために、私は、何ができるだろうか。 心の奥深くに関心を持つようになった私は、 心理士への一歩を進み始めることにしました。 心理士として、いろいろなことを学び、 たくさんの人に支えられ、そうして出会ったのが、 AEDP™心理療法というセラピーです。 私がおこなうカウンセリングのベースとなっています。 ​ なぜ、AEDPなのか。 それは、AEDPを通して、 私自身の中に、 大きな感動と深い感謝が生まれたからです。 トレーニングでは、 講師がおこなった実際のセッション動画を視聴します。 そのとき、クライエントの劇的で素晴らしい変化を いくつも目の当たりにしました。 ​ 人が持っている生きる力。 人と人とが触れ合う中で生まれる慈愛の温かさ。 ​ トレーニングを受けた人たちは皆、 これらに深く心を動かされ、涙を流します。 ​ 私も、その一人でした。 AEDPをベースにした カウンセリングを始めてからは、 クライエントの素晴らしい力、 さらには、自分自身を生きる輝きに、 何度も胸を打たれています。 ​ こういう体験を一緒にさせてもらえることに、 深い感謝の気持ちを抱かせてもらえました。 ​ AEDPが大切にしていることは、 自分の感情や感覚をしっかりと感じること。 自分自身に深く触れること。 そして、ちから。 ​ あなたが、苦しみの中で、 ここへアクセスされたのは、 苦しみから抜け出そうとする「ちから」が あなたの中にあるから。 今まで、物事がうまくいかなかった と、感じているかもしれませんが、 それは、あなたが自分なりに「ちから」をつかって、 一生懸命がんばってきたからこその証

自由な感情⇔止まってしまう感情②

前回からの続きです。 こんなふうに「自分」「私」という監督官と感情との間で起こる動きや流れが、ときに緊張をもたらし、監督官に打撃を与えてしまうことにもなるようなとき、 助っ人を読んでみましょう! 人間関係でも、仲良しでラブラブなときは二人きりでいたいものですが、不穏な雰囲気のときは、居心地が悪くなってきます。 相手と正面から向き合うのはキツイ。 関係が危機的なのに逃げることもできないときに有効なのは、第三者! 「身体(感覚)」にご登場いただきましょう。 その気持ちが起こっている時、 あるいは、そのことを考えていると、 身体にはどんなことが起きているのでしょう? こんなふうにして身体に登場してもらいます。 身体は、 「お腹が痛い」とか「胸がドキドキする」などのように、生理的な感覚として、 「喉がつまる」「肩に重しが乗ってるように重い」のように、生理的な表現があるイメージとして、 あるいは「胸のモヤモヤが煙のように充満している」「身体に丸い玉があって冷たい」のように、イメージそのものとして体験されることもあります。 身体に登場してもらうと、感情によって圧倒されそうだったり、批判されて苦しく逃げたくなっている監督官は、不思議と落ち着きを取り戻します。 まるで、身体の登場によって逃げ場ができたような。 今、身体はどんなふうだろう?と観ていってあげると、 身体に起こっているいろいろなことをメッセージとして受け取っていけるようになり、 そうすると、「感情」はそのパワフルさを自然とトーンダウンして、待っていてくれるようです。 しだいに監督官は落ち着きを取り戻し、自分のペースでいられるようになります。 こうやって、 「感情」から「身体」へ注意をシフトしていくこと、 そして、注意をシフトしていったことで、観察力を維持できている「自分」「私」。 これが「主体性」。 (やっとテーマである「主体性」の言葉が出てきました!💦) そして大事なことがもう一つ。 この「自分」「私」は、いつも身体を観ながら落ち着いていられていることによって「自分」「私」でいられているのではなく、 感情に圧倒されそうになったり、感情をスルーしようとしていても、 そのたびに気づいて、 「身体はどうかな~」と観ていく。 ただただ、この繰り返しをするのでOKなのです。 そう。カンペキな監督になんてなれないし、なる必要はな

自由な感情⇔止まってしまう感情①

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辛い気持ちにはいろいろなものがあります。 例えばとても悲しいとか、すごく腹が立つとか、強い嫌悪感とか どんどん膨らんで襲ってくる不安感、自分はダメで不十分な人間だと思う自己否定感 人を羨やみ嫉妬でイライラする気持ちや、孤独で孤立無援の恐怖感… 「辛い気持ち」としてまとめられるこのような感情の中で、 その気持ちがどんどん膨らんだり大きくなったりして、自分を圧倒してくるようなものと、 逆に、少し感じたものの、いつの間にか小さくなって、モヤモヤだけが残るような感情があるのではないでしょうか。 喜びや満足の気持ちもいろいろあります。 喜び、愛、希望、誇りや達成感、やすらぎ、感謝、興味(ワクワク)、やる気や興奮、楽しく愉快な気持ち、感動、スッキリさわやかな感じ。 このような感情の中でも、その感情を自然に感じられるものと、 少し感じたりはするけれど、大きくなってくると止めてしまうような感情があります。 感情が、ネガティブかポジティブかに関係なく、感情が勝手に(あるいは自然に)大きくなるタイプのものと、勝手に小さくなるタイプのものがあります。 感情のこんな動きに関わっているものは、自分の中にありまして、 それを「自分」や「私」と名付けてみましょう。 「自分」や「私」は、感情に対する監督官。 「自分」や「私」にとって必要だと判断した感情はGOサインを出し、逆に不必要だと判断すると、STOPサインを出します。 STOPサインにはいろいろあって、 「それを感じるのは止めといたほうがいい」ぐらいのマイルドなものから、 「そんなことを感じてはヤバい!危ない!よくない!」と命令するものもあったり、 まるでサブリミナルかのように隠れて働かせるようなサインもあります。 監督官にとって、自分のマネジメントが上手くいったかどうかは重要です。 監督官が抑え込みたいタイプの感情がたくさん現れているのは、「負け越し」。 この失敗のダメージは監督生命にとって致命的になります。 抑え込みたいタイプの感情は、こんなふうに、監督官としての評価基準となります。 図にしてみるとこんな感じ↓ はてさて、監督官には勝機はあるのでしょうか? あるとしたらどんなふうに? また長くなってしまったので次回に続きます。 前回までの記事で取り上げた「主体性」をテーマにしているはずなのに、「主体性」の一言も出てこないままですが、一応ち

カウンセリングとカウンセラーへの感謝の気持ちの本質とは

私が心理職としての勉強と訓練を始めたころ、 「『先生のおかげです』とクライエントさんに感謝されるようなカウンセリングは失敗だよ」 ということを、何人かの先生に言われました。 無理のない自然な経過の中で、クライエントさんが、自らの力で変化していくこと、 カウンセラーの“おかげ”ではないと思うくらい「自然に起こったこと」で、 カウンセリングはなくていいや、と、自分でやっていきたくなるような クライエントさんが自らの力を自然につけて、自然に「卒業」していくようなカウンセリングが“良い”カウンセリングであり、カウンセラーとしての力なのだ、 ということを教えられました。 私が行っているカウンセリングのアプローチであるAEDP™セラピーはこれとは全く逆で、 カウンセリングにおける変容の経験が、人生における大きな体験の一つとして記憶に残るような、明確な体験を重視しています。 それが、カウンセリングの効果の重要な要素の一つであるという考え方です。 AEDP™セラピーの訓練を受けて思うのは、「感謝されたら失敗だよ」と言っておられた先生方がみな、私にとっては心に深く残る、非常に印象深い方であるという逆説的な思いです。 情が深く、人間性が豊かで、命や人生の真理を体現しているような深みがあり、 優しい声、そして眼差しがクリアなのにあたたかく 大きな存在感があります。 だから私の心の中には、教えを受けた先生方の存在がずっとありますし、 先生方に支えてもらってきた、先生方の“おかげで”今の私がいる、という 深い感謝の思いがあります。 このような思いは、心理職として、一人の人間として必要不可欠であることを、今の私ははっきりと感じています。 「生きていてよかった」と感じられることはいろいろあると思いますが、 人との出会いが意味あるものとして心の中に感じられるとういうことは、その大きな一つではないでしょうか。 だから私は、クライエントさんが私への感謝を示してくださったとき、 二重の意味で「よかったー!」と思うのです。 一つは、クライエントさんにとって、私との出会いとカウンセリングが意味あるものとして明確に体験されたということ、 そして、感謝の感情がもたらす喜びをクライエントさんが感じていること。 深い感謝は、人とつながり、自分自身ともつながりを感じるときに生まれてきます。 このようなクライエントさん

「明日に架ける橋」になる

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調べ物をしていて(一応、心理療法についての学術的なことです…💦)、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」に辿り着きました。ふしぎ。 子どもの頃から耳にしたことのある歌ですが、改めて聞いてみて、とても響きました。 これって、カウンセリングのプロセスそのもの…! When you're weary, feeling small  When tears are in your eyes,  I will dry them all  疲れ果て、自分がちっぽけな存在だと感じ、 涙がにじんできたなら、 私がその涙を拭ってあげる I'm on your side  When times get rough  And friends just can't be found  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたの味方。 つらいときも、 友だちがいないときも、 激しい流れに架かる橋のように 私が橋になろう When you're down and out  When you're on the street  When evening falls so hard  I will comfort you  どん底にいるとき。 ひとり街をさまよい歩くとき。 夕暮れがつらく寂しいとき。 私が慰めてあげる I'll take your part  When darkness comes  And pain is all around  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたを支えよう 暗闇がたちこめ、 苦しくてたまらないときも 激しい流れに架かる橋のように、 私が橋になろう カウンセリングでは、クライエントさんを独りぼっちにしない、ということをとても大切にしています。 クライエントさんが抱えている辛い気持ち、 クライエントさんは、それをずっと一人で抱え、対処

「癒し志向」のカウンセリングとは?

私がカウンセリングで取り入れているAEDP™心理療法は、「癒し志向」のアプローチです。 「癒し志向」というのは、問題の原因を見つけて、それを解決したり改善するというような考え方とは違うもの、という意味です。 今の問題や苦しみの原因は何か?とか、なぜこんなことになったのか?とか、何が悪かったり問題だったのだろうか、 というようなことは、あまり重視していません。 問題や原因を見つけて、それを取り除いたり、改善することができれば、「よくなる」というのは、一つの考え方です。 身体の病気は、そういう考えに基づいて治療しています。 問題や原因を見つけることができれば、納得感が生まれるでしょう。 その納得感は、安心感へとつながるかもしれません。 問題や原因がわかれば対処のしようがあると、期待が持てるように思うでしょう。 問題解決タイプの心理療法が役に立つことはもちろんあります。 でもそれが、根源的な苦しみの癒しにはつながらないことも、やはり多くあります。 そもそものテーマが、深く残る傷つきであればなおさらです。 心は、身体へのアプローチのようにいかないことも多いのです。 それは私自身、実感します。 自分の中にあるいろいろな痛み、悲しみ。 若い時にいろいろとやらかしてきましたし(汗)、何が問題なのか、わかってはいました。 知っていたし、理解もしていて、納得感はありましたが、 でもその納得感は、決して「癒し」ではありませんでした。 何というか、単に「知っている」というだけの感じです。 「癒し志向」というのは、苦しかったり悲しかったりしたことを、ちゃんと悼む作業であり、 その中で生きてきた力を称賛する作業であり、 そして何より、それを一人じゃなくて、誰かと一緒に行う作業です。 変えられない過去なのに、わざわざ悼む作業をしたりとか、 ダメダメだと感じる自分を変える練習をするわけでもないのに、 なぜ「癒し志向」に効果があるのでしょうか? それは、キーワードが二つあります。 一つは「ちゃんと」。 「ちゃんと」とか「しっかりと」、あるいは「適切に」、「十分に」悼む。 これが、今まで抱えていた過去についての感じや、自分自身についての感じを、大きく変えていくのです。 もう一つは「一人じゃなくて誰か(カウンセラー)と」。 これが苦手だったり、拒否感を示す方もいます。 でもその苦手さや拒否感に、クライ

どんなカウンセリングですか?どんな効果がありますか?

私はAEDP™セラピーという心理療法を用いたカウンセリグを行っています。 AEDP™セラピーがどのようなものか、そして、どのような効果や変化をもたらすかについて書いていきたいと思います。 AEDP™セラピーを一言で言うと、「あなたが傷みを体験したところで、当時よりも力を感じられるよう手助けをすること」です。 カウンセリングを求めている方は、「こころ」が痛んでいます。 その痛みは、具体的ではっきりしている場合も、あまりはっきりせず漠然と感じられている場合もあるでしょう。ある一つの出来事で生じた痛みかもしれませんし、いろいろなことが積み重なってきたのかもしれません。 それがこんなふうに今のあなたのこころに苦しみをもたらしているのは、苦しい出来事、喪失や被害、人間関係のこじれなどが起きたそのときに、 ただそばにいてくれる誰か、支えてくれる誰かを感じられなかったことが影響していると考えられます。 AEDP™のカウンセラーは、その深い孤独を解き放つことを重視します。 あの時は一人だった。 でも「今」は一人ではない。 こうやって、今、ここで、カウンセラーと一緒にいるのだということ、それを感じてもらうことを大切にしています。 そして、痛みを受けるだけだったあの時とは違う「今、ここで」、「カウンセラーと一緒に」、新しい体験を進めます。 あの時にできなかったこと、難しかったことを。 たくさん泣く。ちゃんと怒る。言いたいことを言う。 こういった体験を一緒に進めていきます。 あの時に十分感じることなく凍結してきた感情を、十分に、しっかりと感じると、 台風の後は必ず晴れやかな青空が広がるように、 大波の後は必ずおだやかな小波が打ち寄せるように、 感情に変化が起こります。 この変化は、自分自身についての変化へとつながっていきます。 こういう体験をカウンセリングで一つひとつ繰り返していくことで、安定的で、満ち足りた自分、 「これが私なんだ」という感覚を感じることができるようになっていきます。 もう一つAEDP™セラピーで大切にしていることは、誰もが持つポジティブな(肯定的な)側面にしっかりと光をあてることです。 生物は根源的に「生きよう」とする方向へと向かっています。 過去の苦しみに対処し、なんとか生き抜いてきたからこそ、カウンセリングを受けようと思っているのです。 自分で知っている力に、そし

まだはっきりしていない感情に命をふきこむ

植木屋さんに、我が家の庭木の剪定に来てもらいました。 剪定って、枝をどうやって見てるんですか?と聞いたところ、 将来的な形をイメージし、それぞれの木の成長の特徴をふまえて、枝がこれからどうやって伸びるかを見て、それを邪魔しないように切ったり、成長を止めたい枝は止まるように切ったりする… というようなことを教えてくれました。 園芸の本に書かれている剪定の仕方は、下向きの枝は切るとか、込み入った枝は切るとか…。 そういう決まったルールとは違った視点のお話に、「なるほどー!」と思いつつ、これは難しい…とも思いました。 植木屋さんに来てもらう前、大雪の重みで傷んでしまいそうだったので、私が急遽枝切りしたのですが、どうしても適当に切っちゃってたのです。 その木の特徴。 そして、これから伸ばしたい枝は? そういう見極めや予測ができるのがプロなんだなぁと思いました。 カウンセリングでは、クライエントさんの心にあって、でもまだクライエントさんにはハッキリとは感じられていない感情やニーズを、私が感じることがあります。 クライエントさんとのやり取りを通じて、私に伝わってきて、そして、私自身の中にその感情やニーズが感じられてくるのです。 これは日常の中にもあることで、一緒に住んでいる人や、とても親しい人だと、どんなことを考えたり思っているかが、なんとなくわかる…ということはありませんか? あまり意識しないレベルで、相手の話し方や表情などを感じ取っていて。 そうやって私自身に感じ取られたクライエントさんの感情やニーズを私が言葉にすると、まだはっきりとは形になっていなかったものが、クライエントさん自身の心に現われたり、大きくなったり、はっきりしてきたりします。 クライエントさんから私に写されてきたものを、クライエントさんが私から写しとる、という相互のプロセスです。 写真の現像をゆっくりと交互に行っていっている、というイメージでしょうか。 そうすると、クライエントさんは、ぼんやりとしていた写真の画像が明らかになってきて、 つまり自分の感情やニーズがはっきりと感じられるようになってきて、 さらに先に進めていくことができます。 こんなふうに、クライエントさんの中にあって、現れるのを待っているその感情やニーズを引き出すような、後押しするような、そういうサポートをする場面がカウンセリングの中であります

顔や姿を失った二つの物語~「青年期失顔症」の朝葉と姿が見えないムーミンのニンニ

TikTokで紹介した本がベストセラーになる「けんご」さんについての 新聞記事 で、けんごさんが「 青春ゲシュタルト崩壊 」(丸井とまと作)をおススメしていて、興味をもち読んでみました。この本は第5回野いちご大賞受賞作だそうです。 こんなお話です。 高校2年生の朝葉は、部活の人間関係のストレスが頂点になったとき、自分の顔が見えなくなる「青年期失顔症」になってしまう。朝葉はこれまでずっと、どんなことも頑張り、我慢し、飲み込んで生きてきました。周りの顔色をうかがい、嫌われないよう周りに合わせて。 「青年期失顔症」になったと知られることは、これまでの言動は本心ではなかったということが知られてしまうことになる。これまで必死に保とうとしてきた生活や人間関係が崩れることになるので、朝葉は必死に隠そうとします。 朝葉は、学校という「狭い水槽のなかで、溺れないように必死に泳いで生きて」いて、「同じであることが正しいって思い込んで、(噂話や悪口は毒だとわかってても)必要であれば食べてしまって」いたのです。 そんな中、「青年期失顔症」で倒れた朝葉を助けた同級生の聖と過ごすうちに、本当にやりたいことを見つけ、本当に言いたいことをきちんと言葉にする、ということが少しずつできるようになって――― ※「青年期失顔症」は小説の中の架空の病気で、実際はありません。 姿が見えなくなる、というお話で思い出すのは、ムーミンのニンニです。 一緒に暮らすおばさんの辛辣な言葉によって、ニンニの心はむしばまれ、自分に自信をなくし、心を閉ざしていきました。ニンニはそうして他の人から姿が見えなくなってしまったのです。 この二つのお話が違うところは、朝葉は自分が見えなくなる一方、ニンニは他の人から見えなくなる、というところです。 ニンニが透明になったのは、他の人から攻撃を受けてきたから。そして結果的に、透明になることは自分の身を守ることにもなっている。 朝葉が自分の顔が見えなくなったのは、周囲に合わせるあまり、自分を見失っていったから。 二つのお話に共通するところもあります。 それは、その人をそのまま受け止めそばにいてくれる存在がいたこと。その人との関係の中で、姿や顔が見えるようになってきたことです。 朝葉には聖。「…うれしいこともつらいことも、打ち明けられる相手がいるかどうかが重要なのよね」。 ニンニには愛情たっぷ

「ポジティブ」を拡大する ~AEDP™セラピーの選択と実践④

自分を肯定するということについて、以前 ブログ に書きましたが、今回ももう一度同じテーマで、でも、少し違った視点から書こうと思います。 というのも、最近仕事で、私は自分で自分のことを認める視点を持っていなかった!と気づいたからなのです...。 それで、自省もこめて、このブログを書きます。 私はAEDP™セラピーという心理療法をベースにカウンセリングを行っています。アメリカのAEDP™研究所の認定セラピストを目指して、現在もトレーニングを続けています。 AEDP™セラピーは、クライエントさんの問題や病理に注目し、それを改善や治療するという考え方をとっていません。クライエントさんは、たいてい、辛い、悲しい、苦しい、混乱している、などの感情を抱いてカウンセリングに訪れます。そういうしんどい気持ちや状況をなくすにはどうすればよいか、というのが、従来の心理療法のスタンスです。 AEDP™セラピーのスタンスは、「癒されたい」「自分を高めたい」「人とつながりたい」といった、クライエントさんがもともともっている原動力に注目し、それを引き出していくものです。 こういう原動力は誰にもあるのですが、クライエントさんのそういう原動力は、隠れてしまっていたり、抑え込まれてきていたり、じっと時を待っていたりして、クライエントさん自身には感じられなくなってしまっています。 私はもともと、こういう視点を大切にするやりかたでカウンセリングを行ってきましたが、AEDP™セラピーのトレーニングを続ける中で、それをもっと早く、もっとはっきりとクライエントさんと共有していくプロセスができるようになってきたと思います。 だから、クライエントさんのこの原動力を見つけるのがとてもうれしいし、それに注目して、一緒にこの原動力を大きくしていくプロセスも、クライエントさんのすごさに胸がいっぱいになることがたびたびあります。 ところがところが。 私自身が、それをAEDP™セラピーのトレーニングの中で行っていなかった…ということに気づいたのです...(汗)。 心理カウンセリングのトレーニングでは、SV(スーパービジョン:自分が行ったセッションを指導者に見てもらい、アドバイスなどを受けるトレーニング)がとても重要です。SVを受け続けるのは、カウンセラーとして必須で、私も継続してAEDPのスーパーバイザー(指導者)にSVを受け

「真実の他者」~AEDP™セラピーの選択と実践③

  「自分と周りの人との距離感をイメージしてみる」 のタイトルのブログ記事で、自分を中心にして、身近な人や周囲の人が、自分からどのくらいの距離感にいるかマッピングしてみる、というワークをご紹介しました。 自分にとって、大切かどうか、安心かどうか、信頼やつながりを感じられるかどうか、といった心理的な距離感を紙に落とし込んでみることで、自分を中心に他者との距離感を感じてみるというワークです。 今回のテーマは、このマップの中での、自分に最も近いところにいる人について。 私は、自分の最も近いところに、ある「まなざし」がある、と感じています。 (この日本語、ちょっと変ですね💦すみません。) 私のカウンセリングのアプローチであるAEDP™のトレーニングでの経験をお話します。 トレーニングは、小グループに分かれて、体験ワークを行います。 私は短期集中型のコースに参加していたので、5日間毎日同じメンバーでワークをしました。 あるワークのテーマは、「怒り」でした。 心理士の研修では、ワークを安全に進めるために、感情的に最大を10としたら、1~3ぐらいのものをテーマに選びます。 私が選んだのは、だいぶん前に経験したことで、「今なら相手にハッキリと言い返したい!」と思うようなことだったので、それを選びました。私にとってはごく小さい出来事です。 そして、セラピスト役の人に、その話をしました。すごく腹立たしい出来事だったけれど、その時はハッキリ言わなかったから、ちゃんと怒りを出してみたいんです、と。 私は彼女を見て話していたのですが、ある瞬間に、私をじっと見る瞳が私の目に飛び込んできました。 とても一生懸命、とても真剣に、とても私のことを思って、私の経験と気持ちをしっかりと受け止めて聞いてくれている、それがわかる目でした。 その瞳が目に飛び込んできた瞬間、私の目から、突然、わっと涙があふれたのです。 怒るのではなく。 ただ泣いていました。 そしてわかりました。 私はもちろん怒りをもっていたけれど、それだけでなく、それ以上に、その当時の私は、一人で立ち向かわなければならなかったことに、不安と孤独を感じていたのでした。 彼女は、その私と一緒にいてくれた。 彼女の眼差しが、それを伝えてくれていたのです。 この眼差しは、「真実の他者(True Other)」という体験でした。 彼女のまなざしが、私

「undo aloneness」~AEDP™セラピーの選択と実践②

私がAEDP™セラピーという心理療法でカウンセリングをしていきたいと思い、今も研鑽を続けているのはなぜか? AEDPの何が私を惹きつけ、心を打つのか? AEDPの何に共感しているのか? 私が感じた感動やよろこびを、クライエントさんも感じてくれているのではないか、と思えるのはなぜか? その前に、私が、社会人を経て心理職へ転職することになったきっかけの一つについて話したいと思います。 プロフィール に少し書いていますが、私は、転職して心理職になりました。 そのきっかけは、私の身近なところで起きたいくつかの出来事でした。 当時私は、若かったこともあるのでしょうが、すごく一生懸命でした。なんとか解決したいと思い、心を痛め、行動していました。 でも何よりもつらかったのは、理解されない感じ、腫れ物に触るように距離を置かれているような感じ、ひどい場合は、批判されているような態度。 疎外感と孤独感が続いていました。 起こってしまったことは、もうどうしようもない。けれど、その時に必要だったのは、私の話に耳を傾けてくれること。 そして、その人の、本当の声を聞かせてくれることでした。 心からの対話を必要としていたのです。 つらかったのは、起きた出来事だけでなく、その後、つながりをもてなかったこと、孤独な状態にいたことだったのだと、今はわかります。 実は初めのころ、混乱した気持ちの最中、私は相談機関にアクセスしました。しかしその対応は求めていることではなく、それどころか、ぞんざいな感じが伝わり、怒りも覚え、ヘルプを求めることをきっぱりとあきらめたのでした。 私が孤独感を感じ続けていたのは、この残念な経験からスタートしました。 しかしその後しばらくしてから、「とても大切なことだと思うので、話を聞かせてほしい」と言う人が現れました。 その人の目には、真摯さが感じられました。 話を始めていくと、他にも耳を傾けようとしてくれる人が現れました。 こうやって始まった対話は、それぞれの心の奥へと一歩踏み出し、深く触れる時間となりました。 話す私も、聞く人たちも、答えを求めているわけでも、答えを導こうとしたわけでもなかった。私も、その人たちの心の声を聞く役にも回りました。 ただ、それぞれの本心とともにいたのでした。 そうやって初めて、私は、悲しく苦しかった涙が癒されていったのを経験したのです。 この時の経

私の内なる「感覚」に結び付いているものを探して~AEDP™セラピーの選択と実践①

先週から、2週間に1回、冬休み期間をはさんで来年の5月まで、全部で13回の講座が始まりました。アメリカの東部時間で実施しているので、日本では夜の11時~2時(アメリカ冬時間のときは0時~3時)という、かなりきついスケジュールで、心身ともにムチうって参加することになりそうです。 これは、私がカウンセリングで行っている、AEDP™セラピーというセラピーの講座ですが、通常のセラピスト養成のためのトレーニング講座とは異なり、AEDPの理論や哲学を深めることが目的になっています。そのため、大量の文献購読が課されています。 私は実は、英語はそれほどたいしてできるわけではないのですが、そんなふうなのにこの講座に申し込んでしまっていて、自分の無謀さにあきれています…。 でもこれは今に始まったことではなく、思い起こせば記憶が残る幼少期からありましたし、このAEDPのトレーニングも、今までもすごい無謀なチャレンジをしてきました。 始まったばかりの講座の中で、AEDP™セラピーの創始者で、今回の講師でもあるダイアナ・フォーシャが、「なぜAEDP™セラピーを始めたのか」「AEDP™セラピーの何があなたを惹きつけたのか」「理論はあなたにとってどういうもので、どのように大切なのか」ということを問いかけています。 確かに、私は、自分でも不思議な感じがすることもあります。 私はなぜ、自分にとってハードルが高すぎるにも関わらず、こんなふうに挑戦しているんだろう? セッションをやっていてやりがいを感じることが大きいとはいえ、なぜこんなふうに自分の時間や力を一生懸命注ごうとしているんだろう?(英語がダメなので、人の何倍もかかりますから…) それについて、あまりハッキリした答えがあるわけではありません。 「ただ、やりたいから」。 ですが、ダイアナの問いかけを受けて、この1週間、いろいろなことを考え始めました。 そのことを、こうやってブログを書きながら、自分の中で整理してみようかなと思います。 心理カウンセリングには多様なアプローチがあるのですが、私は、そのうちの一つをしっかりと学び、身に付け、実践する、というようなやりかたをしてきませんでした。臨床現場で指導を受けながら、その指導者のアプローチをベースに、他にも研修で学んだことも自分なりに取り入れながらやってきました。これは、他の心理士の多くも同じだと思い

「ようこそ」のあたたかさ

私は子どものころ、転校を繰り返していました。 活発でも明るい性格でもなかった私にとって、転校はとてもストレスなことでした。クラスに馴染み、学習に追いつき、学校生活を乗り切るのに、毎回大変な思いをしてきたことを覚えています。 新しい学校に移ったときのことを思い返してみると、学校や先生が、私を歓迎する態度を示してくれた記憶がありません。転校がストレスとして記憶されているのは、そのためかもしれません。 朝、担任の先生と一緒に教室に向かい、挨拶をしたら、指定の席に座るように言われ、そのまますぐに、他のみんなにとっての「いつもの」授業が始まっていました。どの学校でも同じでした。私は自己紹介しますが、どの学校でも、先生やクラスメートの自己紹介はありませんでした。施設のオリエンテーションも、もちろんありません。 一番衝撃的に覚えているのは小学校3年生のとき。2学期の途中での転校でした。 転入の挨拶を終え、席についたら、先生が「〇〇をやろう」と言いました。 クラスのみんながワッと歓声を上げ、うれしそうにノートを机に広げていました。何をするのかわからなかったのですが、私もみんなと同じことをしようと、とりあえずノートを机に出しました。 そして先生が黒板に式を書きました。 見たこともない式でした。 り+み=50 り3+み4=170 私は全くわからず、どうしたらいいかもわからず、ただ座っているだけでした。 そうすると一人、そしてまた一人と、ノートを持って子どもたちが先生の机に行きます。先生は丸付けをしているのでした。 いつの間にか、クラスの全員が先生の机から一列に並び、私一人がぽつんと座っていました。 黒板の前に一列に並んだクラスメートは、みんな私を見ていました。 あの時のいたたまれない気持ちは、今でも覚えています。 わからなかったのは当然でした。 それは、中学の数学問題(方程式)だったのです。 「〇〇をやろう」の〇〇がわからなかったのもそのためでした。 (「り」はりんご、「み」はみかん。「り3」は「りんごが3個」、「み4」は「みかんが4個」と意味していました。x+y=50、3x+4y=170と同じ意味です。) あの先生は、なぜ私が来た初日に、小学3年生がわかるはずもない問題を出したんだろう。 そして私には何のフォローもアドバイスもなく、机に一人放置したんだろう。 あの頃私は、そんな疑問を