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自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

No feeling is final:どんな感情も最終地点ではない

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リルケの詩に、次の一節があります。 すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない この一節は、映画「ジョジョ・ラビット」の最後、エンドロールの直前に映し出されているので、ご存知の方も多いでしょう。 英語はこうです。 Let everything happen to you: beauty and terror. Just keep going. No feeling is final. 詩の原語はわからないのですが、英語からは、字幕とは異なるニュアンスを感じます。 字幕は、おそらく映画の展開に沿ったものなのかと思います。 こちら↓は私訳。 物事が起きるままにするのだ:美しいことも恐ろしいことも ただそのままに。 どんな感情もそれが最終地点ではないのだ。 カウンセリングは、このような時間や体験。 こんなふうに、今ここで、自分に起きている感情や感覚を、ただそのままにしていく。 深い喜びも、耐えられないのではないかと思うような悲しみや怒りも。 なぜなら、終わらない感情はないのです。 そしてその感情の向こうに、新しいものが開かれていくからです。 とはいえ、「感情をそのままに感じること」「耐えがたい感情に触れること」は、とても難しかったり、不安や恐れを感じたりします。 カウンセリングでサポートするのはここ。 あなたのなかで湧きおこったものを、ただただ大切にしていけるようサポートしていきます。

悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

自由な感情⇔止まってしまう感情②

前回からの続きです。 こんなふうに「自分」「私」という監督官と感情との間で起こる動きや流れが、ときに緊張をもたらし、監督官に打撃を与えてしまうことにもなるようなとき、 助っ人を読んでみましょう! 人間関係でも、仲良しでラブラブなときは二人きりでいたいものですが、不穏な雰囲気のときは、居心地が悪くなってきます。 相手と正面から向き合うのはキツイ。 関係が危機的なのに逃げることもできないときに有効なのは、第三者! 「身体(感覚)」にご登場いただきましょう。 その気持ちが起こっている時、 あるいは、そのことを考えていると、 身体にはどんなことが起きているのでしょう? こんなふうにして身体に登場してもらいます。 身体は、 「お腹が痛い」とか「胸がドキドキする」などのように、生理的な感覚として、 「喉がつまる」「肩に重しが乗ってるように重い」のように、生理的な表現があるイメージとして、 あるいは「胸のモヤモヤが煙のように充満している」「身体に丸い玉があって冷たい」のように、イメージそのものとして体験されることもあります。 身体に登場してもらうと、感情によって圧倒されそうだったり、批判されて苦しく逃げたくなっている監督官は、不思議と落ち着きを取り戻します。 まるで、身体の登場によって逃げ場ができたような。 今、身体はどんなふうだろう?と観ていってあげると、 身体に起こっているいろいろなことをメッセージとして受け取っていけるようになり、 そうすると、「感情」はそのパワフルさを自然とトーンダウンして、待っていてくれるようです。 しだいに監督官は落ち着きを取り戻し、自分のペースでいられるようになります。 こうやって、 「感情」から「身体」へ注意をシフトしていくこと、 そして、注意をシフトしていったことで、観察力を維持できている「自分」「私」。 これが「主体性」。 (やっとテーマである「主体性」の言葉が出てきました!💦) そして大事なことがもう一つ。 この「自分」「私」は、いつも身体を観ながら落ち着いていられていることによって「自分」「私」でいられているのではなく、 感情に圧倒されそうになったり、感情をスルーしようとしていても、 そのたびに気づいて、 「身体はどうかな~」と観ていく。 ただただ、この繰り返しをするのでOKなのです。 そう。カンペキな監督になんてなれないし、なる必要はな

自由な感情⇔止まってしまう感情①

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辛い気持ちにはいろいろなものがあります。 例えばとても悲しいとか、すごく腹が立つとか、強い嫌悪感とか どんどん膨らんで襲ってくる不安感、自分はダメで不十分な人間だと思う自己否定感 人を羨やみ嫉妬でイライラする気持ちや、孤独で孤立無援の恐怖感… 「辛い気持ち」としてまとめられるこのような感情の中で、 その気持ちがどんどん膨らんだり大きくなったりして、自分を圧倒してくるようなものと、 逆に、少し感じたものの、いつの間にか小さくなって、モヤモヤだけが残るような感情があるのではないでしょうか。 喜びや満足の気持ちもいろいろあります。 喜び、愛、希望、誇りや達成感、やすらぎ、感謝、興味(ワクワク)、やる気や興奮、楽しく愉快な気持ち、感動、スッキリさわやかな感じ。 このような感情の中でも、その感情を自然に感じられるものと、 少し感じたりはするけれど、大きくなってくると止めてしまうような感情があります。 感情が、ネガティブかポジティブかに関係なく、感情が勝手に(あるいは自然に)大きくなるタイプのものと、勝手に小さくなるタイプのものがあります。 感情のこんな動きに関わっているものは、自分の中にありまして、 それを「自分」や「私」と名付けてみましょう。 「自分」や「私」は、感情に対する監督官。 「自分」や「私」にとって必要だと判断した感情はGOサインを出し、逆に不必要だと判断すると、STOPサインを出します。 STOPサインにはいろいろあって、 「それを感じるのは止めといたほうがいい」ぐらいのマイルドなものから、 「そんなことを感じてはヤバい!危ない!よくない!」と命令するものもあったり、 まるでサブリミナルかのように隠れて働かせるようなサインもあります。 監督官にとって、自分のマネジメントが上手くいったかどうかは重要です。 監督官が抑え込みたいタイプの感情がたくさん現れているのは、「負け越し」。 この失敗のダメージは監督生命にとって致命的になります。 抑え込みたいタイプの感情は、こんなふうに、監督官としての評価基準となります。 図にしてみるとこんな感じ↓ はてさて、監督官には勝機はあるのでしょうか? あるとしたらどんなふうに? また長くなってしまったので次回に続きます。 前回までの記事で取り上げた「主体性」をテーマにしているはずなのに、「主体性」の一言も出てこないままですが、一応ち

感情反応“遅延型”

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アレルギー反応に、すぐに反応する即時型と、症状が後になって現れる遅延型があります。 感情も、その場ですぐ感じるときと、後になってから感じることがありませんか? 感情がどのように現れてくるかという「タイプ診断」のようなものがあるわけではありませんが、このようなアレルギー反応で例えるならば、私の感情は”遅延型“だなぁと思います。 感情を、それを感じるはずのその場ではぼんやりとしか感じられず、後になって、ジワジワと感情が実感されてくることが多くあります。 特に不快・不愉快なほうの感情が遅れてやってくる傾向が強いです。 思い起こすと、私はどうも感情は全般的に”遅延型”な反応だったと思います。 小さなころから、うれしいことも悲しいことも、ワクワクすることも嫌なことも、パッとその場では現れず、ゆ~っくりと、ジワ~ッと感じているほうだったのを覚えています。 心の中でそれを感じている頃には、その出来事やそれに関わった人たちは移って行ってしまっているので、周りの人はきっとよくわからなかったでしょうし、私もまた、気持ちを共有するタイミングを失っていたと思います。 自分がこんなふうなので、感情という波がどんなふうに心へ打ち寄せてくるのかは、人によって、状況によって多様なのだとわかります。 波が、入江と岸壁では違っているし、天候や季節によっても違っているように。 感情がいつ現れ、いつ心の中で大きくなるのか、というタイミングの問題。 「スムーズさ」の点では大事だとは思いますが、私はあまり重視していません。 「なんでその時に言わないんだ!」と怒って言う人がいますし、逆に、「なぜ自分はその場でちゃんと気持ちを言えないんだろう」と辛い気持ちになる人もいますが、タイミングの問題にしてしまうと、タイミングを合わせること自体が優先されてしまうように思います。 でもそれは、誰の、何のためのタイミング? それよりもむしろ、感情という波が、自然のままに打ち寄せてきたことを大切にしたいのです。 そうやって岸にやってきたものを、ただその流れや音や匂いのままに感じる。 いつやってきてもいい。 感情が、感情自体の動きのままに、ただそのままにやってきたならば、それは本当に大切な「気持ち」。 ゆっくりとゆっくりとやってきたのであっても、 波が、静かに、じんわりと砂浜に染み入る感じを、カウンセリングで一緒に見ていたいと思い

感情に振り回されるのは「悪いこと」じゃない

「感情に振り回されないようになりたい」「もう少し落ち着いていられるようになりたい」と言うクライエントさんは少なくありません。 自分の感情のアップダウンが辛いし、 そういう状態で物事をこなすのは本当に大変で、 そして、そんなふうな自分を恥じたり、不十分だと感じたり。 「自分はちゃんといられていない」と感じているお話は、よく語られます。 身体や心の「反応」は、とても自然なことです。 でも「こんなことで動揺したり緊張するなんて」と思うと、自分がいたたまれないような気持ちになりますよね…。 このテーマについて、伝えたいこと、大事にしたいことがあります。 それは、 反応自体は何も悪くない 、ということです。 他の人よりも敏感な(そう感じるような)背景や原因はさまざまに考えられますが、それが何であれ、反応自体は自然だということ。 それに、このテーマに注目しているというのは、もうすでに、反応に完全に巻き込まれてしまっているわけではないのです! なぜなら、①反応に気づいていて、②それを何とかしたい、と願う自分がいるのです。 完全に自分を見失っていたら、こういう思いは出てきません。 でも、そこまでわかってたとしても、その状態を自分でどうにもできない、というのが、辛いところだと想像します。 これに対しては、意識的にできることがあります。 ①と②までできているのはすばらしいです! その上で、ちょっとしたことをやってみるのを提案します。 それは、状況を変えることではなく、身体反応を変化させること、です。 しかも、「わざわざ」「時間をかけて」やることではなく、すぐその場でできることが便利です。 こういうとき、心臓がドキドキしているとか、肩に力が入っているとか、お腹がぎゅっとするとか、手が冷たくなるとか、身体がいろいろに反応していると思います。 なので、身体に働きかけるようなことが役に立つことが多いです。 大きく息を吐く。 逆に身体にもっと力を入れて(手をぎゅっと握るなど)、パッと抜く。 少し歩く。 目に留まったものを声に出していくつか言っていく。 トイレで用を足す。 これらは例ですが、微妙であっても、身体には何か変化が起きていると思います。 こういうことをいくつかやってみると、ピークの緊張感や動揺よりは、少しマシになるでしょう。 そしたら、さっきよりもちょっとマシになったかな?どうかな?と自

怒りを「マネジメント」するために重要なこと

前回 、衝動的な強い怒りは、意識のコントロールが効きにくい、神経生理学的な反応であると書きました。 神経生理学的な反応というのは、身体の反応そのもののことです。 熱いものを触って手を引っ込めるとか、突然飛んできたボールにギュッと目を瞑るなどは、意識が及ばない反射的な反応ですが、これと同じようなことが脳の中で起こっています。 初めはある程度落ち着いて話していたのに、どんどんエスカレートし、”感情的”に怒っているような場合も、脳の中では、同じような神経生理学的な反応が起きていると考えられます。 ですので、強い怒りが生じているときは、目が見開き、身体に力が入り、顔が赤くなったりなどのような、はっきりとした身体的な反応が現れます。 ところで、感情は怒りも含めて「自然に」起きます。 「自然に」というのは、意識してとか、意図的にではなく、身体的な反応として起きるものです。 そうすると、それぞれの人の身体(の状態)によって、感情も異なって体験されます。 もう少しわかりやすくするために、脚の柔軟性を例に挙げてみましょう。 身体が硬いと、開脚範囲が狭いですよね。90度とか。(←私) さらに前屈すると痛み地獄…。もうムリ!限界!みたいな感じ。身体は余計に硬直します。 でも毎日少しずつ柔軟運動をしていると、脚は前よりも少しずつ広く開けるようになり、痛みは前よりもずっと軽くなっていきます。 そうすると開脚で感じる痛みは、感じつつも、大丈夫な痛みになっていきます。 感情もこんなふうに、いつもよりも少しだけ深く感じていくことを続けていくことで、感じられかたが変わっていきます。 衝動的だった怒りは、怒りをちゃんと感じつつも、衝動性がなくなっていく。 耐えがたかった悲しみは、やっぱり悲しいけれど、悲しみに圧倒されるわけではなくなっていく。 パニックになったり、頭が真っ白になっていたような動揺は、緊張や不安は感じつつも、どうしようか考えることができている。 アンガー・マネジメントのよいところは、「マネジメント」することというよりは、「怒り」に注目するということそのものではないかと思います。 自分はどういうことで「怒り」を感るのだろう? 自分の怒りは、周囲の人や自分自身に、どんな影響をもたらしているのだろう? そうやって注目していること自体は、自分の中で、何か変化をもたらしたいという真摯な思いからきて

アンガー・マネジメントではコントロールできない怒り

怒りのコントロールは、家族との関係や職場、教育などの場において、重要なことだと考えられるようになり、「アンガー・マネジメント」という、怒りを調整するプログラムやトレーニングがあります。 以前のブログにも書きましたが、「怒り」は自然な感情ですから、それ自体が問題というわけではありません。 それでも、怒りを他者にぶつけてしまうのは問題となる場合がありますし、強すぎる怒りを感じること自体、自分にとって辛いことでもあります。 怒りのネガティブなパワーが、他者に向かっても、自分に向かっても、問題だったり、苦しかったりします。 「アンガー・マネジメント」でよく示されているのは、怒りを鎮めるのではなく、「一呼吸置く」「10数える」「モードを変える」など、怒っている状態から距離をとる方法です。 そしてそれを意識し、練習するということが提案されています。 そうすると、衝動性が抑えられ、怒りの本当の意味や目的を理解し、それに応じた対応ができる、というものです。 そんなのわかってる~! って思いませんか? 気を付けることはできるんです。 だって、自分で「問題だ」と自覚しているし、「何とかしよう」とも思ってますから。 そうやってある程度意識できている範囲では、何とか怒らないようにできますが、 でも時々爆発してしまう。 ......そして落ち込む.....  そういうことはありませんか?(←私はあります💦子育てアルアルでございます) 「アンガー・マネジメント」のプログラムやトレーニングなどに取り組んでいても、最も難しい点はここにあると思います。 それは、怒りという、人間の生物的な反応の性質が十分に反映されていないことが背景にあると考えられます。 頑張って取り組んできたのにも関わらず、衝動的な怒りパワーは莫大です。そのパワフルさに圧倒され、自分の努力不足や能力不足のように感じてしまいます。 怒ってしまったこと、そのことで生じた問題に直面し、自分を恥じる気持ちも生まれてしまいます。 たいていの場合は、私たちは、自分が置かれている状況を意識したり、理解していて、怒りは感じても、その中で何とか対応しようとします。 でも衝動性のある怒り(これが問題とみなされるほうの「怒り」です)は、神経生理学的な反応なので、「考える」ときの脳神経よりもずっと早いスピードで、別の脳神経が反応します。 だから、せっかく

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

通い合う「気持ち」②

目の前の人との「気持ち」のやりとり。 それがコミュニケーションであり、その人とのつながりを紡ぐ時間であり、それが二人の関係となります。 前回のブログ記事で、気持ちを、 贈りすぎる、贈らなさすぎる、受け取りすぎる、受け取らなさすぎる、 ということを書きました。 他者との間で紡がれる関係ですから、「…すぎる」ときは、相手も「…すぎる」状態です。 自分が「気持ちを贈りすぎている」とき、相手は「受け取らなさ過ぎている」。 自分が「気持ちを受け取りすぎている」とき、相手は「気持ちを贈らなさすぎている」 というようなことが起きています。 ですから、「…すぎる」ことが良くないとか悪いというわけではなく、 あくまで他者との関係において、「気持ち」がどんなふうに流れているかという、動きの特徴そのものにすぎません。 そしてその特徴が、自分にとって相手にとって、二人にとって、心地よい範囲ではない、ということだと考えます。 「…すぎる」のかどうかは、自分の感覚や気持ちが教えてくれます。 それは、満たされなさや寂しさ 苛立ちや怒り 不安や恐れ 身体は、硬くなったり、冷たくなったり、 疲れを感じていたり、地に足がついていないような感じだったり。 こういう感じが常態化していたならば、寄る辺ない感じや、焦燥感、不確かな感じがつきまとっているかもしれません。 ある会議に出席したとき、私はその場で居心地の悪い感覚を感じ始めました。 外に出て空気を吸いたい…と身体が欲しているような感じ。 その場でもちろん呼吸はしていましたが、「外の空気を吸いたい」という比喩で感じられていた身体の感覚は、息が詰まるような、息苦しいような感じです。 でもそれを意識に上らせることなく、じっとその時間を耐えていました(席を立つわけにはいかず、しょうがなくて😢)。 でも身体は相当正直だったようです。 会議という、テーマが決まった場においても、「気持ち」の通い合いがあるかどうかは、会議の進行や成果に大きく影響を及ぼします。 そこでは、話の流れが一方通行的で、出席者の気持ちが通い合っていないと感じていたのだと思います。 それぞれが、それぞれの思いを行き来することができていないような感じ。 そういう行き詰った感じが、私の身体において、息が詰まるという感覚として生まれていました。 自分の身体や、自分の内側で起こっていることは、たくさん

通い合う「気持ち」 ①

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすること。 「気持ちを受け取る」 のタイトル記事に書きました。 でもこれは、簡単なことではありませんね…。 私たちの悩みのほとんどは、人間関係からきますから。 人間関係が表立った問題ではないように見えても、背後に、人間関係のテーマが腰をすえていたりします。 「気持ち」は、「…すぎる」というのが苦手です。 気持ちを贈りすぎる 気持ちを贈らなさすぎる 気持ちを受け取りすぎる 気持ちを受け取らなさすぎる 気持ちを贈りすぎているとき。 贈り続けるのは、相手が受け取ってないと感じているからでしょうか。 相手が求める通りのものを贈っているはずなのに、と。 それで、贈り方がよくないのかと思い悩みつつ、手を変え品を変えて工夫したり。 どうやっても、いつまでたっても、相手が受け取ったと感じられず、焦燥感、自責感、罪悪感のような気持ちがわいてきませんか。受け取ってくれない相手への怒りや苛立ち、自分への意地を感じるかもしれません。 気持ちを贈らなさすぎるとき。 私の気持ちなんて相手には必要ないだろう、と思って贈らないのでしょうか。 それとも、受け取ってもらえないかもしれないと思うと足がすくむでしょうか。 相手は、贈る必要がないと感じる人なのでしょうか? それとも贈ろうとしている思いや言葉を、相手に先に気づいてほしいと願っているのでしょうか。 贈らずにため込んだその思いや言葉はどんどんたまって、息苦しく、出口の見えない孤立感が大きくなっていきます。 気持ちを受け取りすぎるとき。 せっかく贈ってくれているのだから、受け取らなければ、と思ってしまうのでしょうか。 それとも、相手が満足するために受け取っているのでしょうか。そうすれば、やたらめったら贈るのは止めてくれるんじゃないかと期待して。 受け取りすぎているとき、相手の気持ちが自分の心のスペースをどんどん占領して、自分の心のためのスペースを侵食していきます。 その圧迫に苦しさ、怒り、不安が生まれてきます。 気持ちを受け取らなさすぎるとき。 冷たい気持ちや強い気持ちは、受け取るのは勇気がいるものです。 でもあたたかい気持ちややさしい気持ちも、受け取るのは勇気がいるのかもしれません。 受け取るのは怖いでしょうか。 どうやって受け取ればよいか、そして、受け取ってどう反応したらよいか、戸惑うでしょうか。

「感情の経験」もトレーニング

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プロフィールに書いていますが、私は2年ほど前からピアノを始めました。 目標は漁師ピアニストの徳永さん😄 すごい。52歳から始めて、60歳のときにフジコ・ヘミングさんと共演! こういう方がいると、「こんな歳から始めても…」という恥の感情は消えてくれます。ありがとう~。 私は楽器は未経験で、そして年齢的な壁ももちろんあって、1曲が弾けるようになるまでが大変です。何回もしつこくやってます。 そうすると、あららら!と指が勝手に動く瞬間が訪れてくれるのです。 これが気持ちいい。 指が勝手に動くなんて!!! 楽器をされている方なら「なんだそれ」みたいな話で恐縮ですが、こんなふうに勝手に身体が動くのは驚きです。 今回この話をしているのは、「感情の経験」と重なるところがあるなと思ったからです。 感情は誰もが感じていますし、持っているものですが、二つの側面について、あまり経験されていなかったり、難しかったりすることがあります。 一つは、感じるのが難しい感情を感じること。 考えると大きな痛みを伴う経験や出来事、あるいは自分自身の受け入れがたい側面は、感じるととても苦しく辛いので、あまり深く考えないようにしていることが多くあります。 もう一つは、どのような感情であれ、深く深く感じること。 歓喜に心を震わせる。 心の底から怒りを表現する。 喜怒哀楽に限らず、快適な感情も、きつい感情も、深くしっかりと感じるということは、実は簡単ではありません。 成長するにつれ、社会で生きていくにつれ、感情をしっかりと感じ、表す、という機会はどんどん減っていきます。あるいは、サバイバルの手段として深い感情から距離を取るということもあります。 「成長」や「社会性」の獲得の一方で、深い感情の体験は失われていく傾向にあります。 このように、感情をしっかりと感じるということに慣れていなかったり、不安だったり、難しかったりということは、よくあることです。 私がカウンセリングで行っているのは、「感情の体験に少しずつ慣れていく」、という作業です。 じっくり、そして繰り返しやっていくと、からだとこころがだんだん慣れてきて、ふっと、そしてスルスルと、感情の方が動いてくれる、そういう動きをつくっていくのをサポートしたいと思っています。 私のヨガの先生は、ポーズをとるときに必ず「無理をしない、でも少しだけ挑戦する」ということを言

まだはっきりしていない感情に命をふきこむ

植木屋さんに、我が家の庭木の剪定に来てもらいました。 剪定って、枝をどうやって見てるんですか?と聞いたところ、 将来的な形をイメージし、それぞれの木の成長の特徴をふまえて、枝がこれからどうやって伸びるかを見て、それを邪魔しないように切ったり、成長を止めたい枝は止まるように切ったりする… というようなことを教えてくれました。 園芸の本に書かれている剪定の仕方は、下向きの枝は切るとか、込み入った枝は切るとか…。 そういう決まったルールとは違った視点のお話に、「なるほどー!」と思いつつ、これは難しい…とも思いました。 植木屋さんに来てもらう前、大雪の重みで傷んでしまいそうだったので、私が急遽枝切りしたのですが、どうしても適当に切っちゃってたのです。 その木の特徴。 そして、これから伸ばしたい枝は? そういう見極めや予測ができるのがプロなんだなぁと思いました。 カウンセリングでは、クライエントさんの心にあって、でもまだクライエントさんにはハッキリとは感じられていない感情やニーズを、私が感じることがあります。 クライエントさんとのやり取りを通じて、私に伝わってきて、そして、私自身の中にその感情やニーズが感じられてくるのです。 これは日常の中にもあることで、一緒に住んでいる人や、とても親しい人だと、どんなことを考えたり思っているかが、なんとなくわかる…ということはありませんか? あまり意識しないレベルで、相手の話し方や表情などを感じ取っていて。 そうやって私自身に感じ取られたクライエントさんの感情やニーズを私が言葉にすると、まだはっきりとは形になっていなかったものが、クライエントさん自身の心に現われたり、大きくなったり、はっきりしてきたりします。 クライエントさんから私に写されてきたものを、クライエントさんが私から写しとる、という相互のプロセスです。 写真の現像をゆっくりと交互に行っていっている、というイメージでしょうか。 そうすると、クライエントさんは、ぼんやりとしていた写真の画像が明らかになってきて、 つまり自分の感情やニーズがはっきりと感じられるようになってきて、 さらに先に進めていくことができます。 こんなふうに、クライエントさんの中にあって、現れるのを待っているその感情やニーズを引き出すような、後押しするような、そういうサポートをする場面がカウンセリングの中であります

感情を知る、自分だけの時間、自分のペース

私は子どもの頃、両親から、「何を考えているのかわからない」と時々言われていました。 どういう状況で、なぜそう言われたのか、そういうことはすっかり忘れてしまっているのですが、この言葉はずっと残っています。 言葉は、一度口から出たら、もう自分のものだけではなくなり、それを聞いている人のものにもなります。 そして一度出た言葉は、ずっと長く、ずっと遠くまで生き続けます。 その時の文脈を越えて、浸み込んだ人の心の中で遺っていきます。 私は子どもの頃、喜怒哀楽の表現があまりハッキリと出ないタイプでした。それで両親にそんなふうに言われてたのでしょう。 確かに、大喜びして飛び上がるとか、ワンワン泣くとか、大声で怒るとか、あまりそういう記憶はありません。 自分からどんどん話すほうでもなかったので、余計に、周りからは「何を考えているかわからない」と受け止められていたのかもしれないなと思います。 「何を考えているかわからない」と言われて覚えているのは、そう言われて、それこそどう応答したらいいかわからない気持ちになっていたことです。 考えや気持ちがない、と自分で思ったことはなかったのですが、それを言葉にし、口に出し、人に伝えるのが、あまりスムーズにできない感じは確かにありました。 これって、どんなふうに言えるのだろう。 どういうふうに伝えることができるのだろう。 そんなふうな、戸惑いのような感じが付きまとっていたなぁ、と思います。 以前に、 山は黙々と歩くのが好き、ということを書きました が、それと同じで、私は書く方が話すよりも気が楽だったのを覚えています。 ドラマ 「メイドの手帖」 の主人公アレックスは、DV被害を逃れて必死に自立しようとする中、書くことだけは続けてきていました。アレックスはDVシェルターの文章教室でこんなふうに言っています。 私は書くことで正直になれるし、自分の気持ちを知ることができる。 何を書きたいか知るために書くの。 真実は声に出すより紙に書く方が簡単だったの。 誰にも邪魔されないし、“お前が間違ってる”とは誰も言えない。 それはあなたが間違ってないからよ。 自分の言葉だもの。 クライエントさんの中には、「感情がわいてこない」「感情が感じられない」「どうやって気持ちを感じるのかわからない」と言う方が少なくありません。 でもそれは、感情がない、ということでは決してない

ホンモノ、の体験

あなたが、深く深く心を動かされたとき。 その感覚はどんなものでしたか? その感覚の確かさ。それは、あなたにとって、まさに真実な感じだったのではないでしょうか。 その感覚、体験について、思考を巡らせれば、何が良かったとか、どうしてそう思うのかとか、そういうことを言い表せるかもしれません。 でもその考える前の、言葉にする前の、その感じ。 その感覚は、あなたに、 あなた自身が体験しているのだ、 あなたが実際に知ったのだ、 あなただけの、誰のコメントも侵入することはない、あなたの感覚なのだ、と 告げているのではないでしょうか。 この、「ホンモノ」だと感じる体験。 メトロポリタン美術館で、ゴッホの絵を見ました。 初めて実物を見ました。 あの、油絵の具のもりあがるうねり。質感。 立ち止まって動けませんでした。 写真で見た絵は、興味を持つでも持たないでもない、私にとっては、何でもないものでした。 でも本物は違いました。 ゴッホの筆の力が、私に響き、その力で身動き取れないような衝撃がありました。 「待ち合わせの時間だから行かなきゃ」と頭の声で一生懸命自分に言い聞かせて、その場を去ったのを覚えています。 本物のもつパワー。 プライバシーがとても大切な心理カウンセリングでは、他の人の実際のセッションを知る機会は基本的にありません。 心理職は、研鑽の機会として、グループ・スーパービジョン(ケースについての指導を集団で行うもの)や事例検討会があります。これは、提出者(スーパーバイジーと言います)のケースをもとに勉強する機会ですが、一般的には、スーパーバイジーが作成した資料をもとに検討を進めます。 ですので、セッションのリアルな場面にふれるものではありません。 ところがAEDP™セラピーのトレーニングでは、講師が、自分が行った実際のセッションの動画を提示し、解説してくれます。 研究所の教員であるセラピストの、実際のセッション動画は、本当にすごい。 すばらしさは衝撃的で、ずっと余韻が残ります。 そういう、「ホンモノ」にふれて、感動、感嘆したあと、さて自分を振り返ると、自分の未熟さや至らなさ、問題点ばかりが目につき、がっくり落ち込みます…。 自分の限界を思い知らされるような気持ち。 でも本物を知ってしまった以上、もうそこからは目を背けられない。 「アマデウス」のアントニオ・サリエリって、こんな気