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自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

自己嫌悪と恥②

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前回 から続きます。 自分を恥じたり自己嫌悪を感じている、と自分でもう気づいていたなら、そこへ取り組んでいくことができますが、恥と自己嫌悪のやっかいなところは、そう感じていること自体を隠してしまうところです。 明らかな過ちを犯してしまって感じる恥は、自分でも気づきやすいのですが、「自分=恥の存在」が深く浸み込んでいる場合は、次のようなことにも恥と自己嫌悪が引き起こされます。 自分への高い理想が実現されなかったり自分に課した要求を遂行できなかったとき 「エラー」範囲でしかないような通常のミス ある程度成功したりやり遂げたとき 人からの注目、視線 相手の、ある表情、ちょっとした言いよどみ、声の微妙な変化、微妙な手足の動き 自分の意見や希望を言うこと ゆっくりしていたり、手を抜いたりしたとき 楽しかったり幸せに感じたとき びっくりさせられたとき あるニュースや情報を目にしたとき 誰かに(優しく)触れられたとき これって、何でもあり、全部ですよね…。 そうです。恥が引き起こされるきっかけは、その人にとっての「何か」。 それは具体的なことだけでなく、ありとあらゆるものがきっかけになります。 自分では気づかないような、意識されないようなことも。 恥や自己嫌悪が、「恥」「自己嫌悪」としては現れずに隠れているとき、こんな感情や感覚が起こります。 不安 緊張 恐怖 遠慮 うしろめたさ 怒りやいら立ち 悲しみ 焦り 戸惑い 満たされなさ 孤独感や孤立感 無感覚(硬直した感じ) パニック こわばり、震え、のどの詰まり、早い鼓動 腹痛・頭痛、気持ち悪さ こんな感情や感覚は、決して快適ではないので、身体も心も、何とか回避したり、不快さを減少させようとすぐさま何かの反応や行動を起こそうとします。 そうしてさらに、「自分=恥」と気づかれないように隠れていくのです。 ですので、「自分は自分を恥じている、嫌悪している」「自分をこんなにも恥じているのだ」ということに気づくところまでは、結構な道のりになります。 次回へ続きます。

自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ。」

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ムーミン好きな方ならきっとご存知の、スナフキンの名言。 『ムーミン谷の夏まつり』です。 洪水で流されたちびのミイが裁縫かごの中で眠っていると、偶然、スナフキンに出会い、食べ物をもらいました。 十分食べたかどうか、スナフキンはミイに聞きます。ミイは、「また眠くなっちゃった。いつもポケットの中が、いちばんよく眠れるの」と言いました。 それに対してスナフキンが言ったのがタイトルの一文です。 そしてスナフキンとミイが歩いていくと、公園がありました。 ですが、「公園への立ち入り禁止」と書かれた看板が立っています。 公園なのに! クライエントさんがこの場面について話してくれまして、私ももう一度この本を手に取りました。 公園には公園番の夫婦が住んでいて、そこに親がいない24人の子どもたちが毎日森からやって来ます。 公園の木々はきっちりと刈り込まれ、道はパキッとまっすぐ。 そして禁止の立て看板がたくさん立っています。「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「飛びはねるべからず」。 公園番の夫婦が公園を(子どもたちを)管理・監視しています。 こういうことが大っ嫌いなスナフキンは、片っ端から看板を抜き、子どもたちに「好きな場所へ行っていいんだよ!」と言いました。 でも子どもたちは誰も行こうとしません。 スナフキンについて行こうとするので、悩みつつスナフキンは子どもたちを連れて先へ進んで…。 子どもたちの様子は、とても示唆的だと思いました。 たくさんの禁止のメッセージと、それを見張る強い他者。その中にずっといると、「自分」がしたいことがわからなくなってしまう様子が現れています。 自分は何を求めているか。自分がしたいことは何か。 看板からも公園番からも解放されたのに、24人の子どもたちは自分のしたいようにすることができません。 代わりに今度はスナフキンにまとわりついています。 日本の子どもたちは、あふれる「禁止」のメッセージのなかで育っていると思います。 ブラック校則はその象徴。 明示されたルールだけでなく、暗示的なルールは「空気」として漂っています。 禁止のメッセージはこんなふうに、全て周りからきています。 そのメッセージは、大きいこともあれば小さいものもあり、大切なこともあれば、取るに足らないようなこともあります。 周りからきた禁止のメッセージはいつのまにか自分の中に入り込み、自分で自

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

沈む気持ちの、その後ろにあるもの

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なんだか落ち込むなぁとか、気分が沈む…というとき、自分の中にある「恥」の感覚がムクムクと顔を出しているのを感じます。 ふと思いたって、これまでの「恥」にまつわる体験を、一つひとつ思い返してみました。 でるわ、でるわ。 なかなかキツイ作業です(苦笑)。 それで整理してみると、こんな感じかなと思いました。 読んでくださっているみなさんも、大小・多少や深刻さの違いはあれど、おそらく、すべて経験したことがあるのではないでしょうか。 「意図的な経験」のほうは、されたことについての記憶がはっきりしていることが多いと思います。 その痛みは明確ですが、でも逆に、明確であるために、反発したり抵抗する力も生みやすいものです。 一方、「無意識的な経験」のほうは、姿かたちが見えないし、「良かれと思って」とか「悪気はないのだから」、「それが普通だし」と行われるので、受けた傷に無自覚であることが多いと思います。 またその痛みは明確ではなく、ちょっとしたすり傷のような感じだったり、何となくの違和感だったり、場合によっては、相手や自分の状況への感謝の気持ちや、「頑張ろう!」という”向上心”として感じたりするかもしれません。 そうやって積み重なったものに気が付くこと自体に、大きなエネルギーを必要とするような、そういう経験です。 そして、こういう「恥」の経験は、一つひとつのエピソードとして記憶されているだけでなく、変換されて心に残ります。 その変換されたものは、「自分を全否定する感じ」。 自分の無価値さを感じることや、存在する意味、生きる意欲をそぐような感じ。 この自己否定や無価値感が大きくなると、抑うつ的な状態になったり、身体症状が現れたり、誰とも会いたくなくなったり、 そして、自分を傷つけたい気持ちが強くなったり、死んでしまいたいという苦しさを感じたりします。 その気分のうしろに、いろいろな恥の体験と恥の感情があり、それが今のその辛い感じや感覚に影響を及ぼしている、 そういうことは多くみられます。 こんな辛くて苦しい気持ちをどう扱えばよいか…。 長くなりましたので次回へ。

「恥」を誇り(プライド)に変える

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今年はコロナ禍を経て久しぶりにプライド・パレードが世界の各地で開催されましたね。 私は 20 年ほど前にカナダのトロントでこのパレードを見ました。カナダは移民国家ですが、私が滞在していた時に、トロント市の移民一世の人口が初めて半数を超えたというニュースに、町の人たちが歓喜したなど、多様性にオープンな都市です。ダウンタウンには通称「ゲイ・ストリート」(当時の呼称。今はどうなんでしょう?)があって、 LGBTQs の人々が集っていました。 そのトロントでのプライド・パレード。すごいです。今年の映像はこちら。「お祭り騒ぎ」という言葉がぴったり、活気にあふれ、参加する人も見る人もめちゃくちゃ盛り上がる楽しいパレードです。   私はプライド・パレードの「 pride 」という言葉が好きです。 胸が熱くなる感じがします。 日本語の否定的なニュアンスは全くなく、「誇り」という言葉そのものです。 性的少数者が生きづらく感じる理由の一つは、周りの人々や社会が持つ「恥」が、自分の中にも取り込まれていることです。 というよりも、「恥」は、周囲の人や社会が考える受け入れがたいこと、よくないこと、「普通」じゃないこと、という価値観を心の中に浸み込ませ、こびりつかせてしまう猛烈なパワーを持っています。 多数者や力をもつ人がこのパワーを使うのはこのためです。無意識にも意識的にも使って、自分の価値観を維持する環境をつくっています。そうすると、自分は変わらなくていいし、自分にとって居心地がよい環境を維持できますから。 だから少数者のほうが取り込んだんじゃなくて、取り込まされた、浸み込まされた、という言い方の方が正しいと思います。   この恥のパワーのやっかいなところは、恥が内面化されてしまうと、自分自身が恥ずべき存在なんだという価値観を信じこんでしまったり、違和感や居心地の悪さを感じていても、自分の中にある「恥」を、外に追い出すのがとても難しいことです。 これが、深刻な精神疾患(抑うつや不安など)の原因であったり、人間関係の困難を引き起こすだけでなく、自殺の要因ともなることが研究でも示されています。   前回の記事で、恥と孤独の関係について書きました。 自分の周りが、自分自身を否定するような言葉と視線に満ちあふれいているとしたら、自分を、自分の「恥」をさらけ出すことができるでしょうか? 想像するだけ

恥の感情に必要なのは「誰か」の存在

恥を感じたとき、 自分を恥ずかしい存在だと感じているとき、 その恥の感情に必要なのは、そばにいてくれる「誰か」。 〈はじらい〉は、 自分をうめる穴をほり、 その中にうずくまる。 モグラみたいに。 『〈きもち〉はなにをしているの?』 ティナ・オジェヴィッツ文、アレクサンドラ・ザヨンツ絵、森絵都訳、河出書房新社 この文章は、恥についてぴったりな表現だなと思います。 土の中が生活の場であるモグラのように、 恥は誰にも見られない地中で力をもっています。 恥が生まれ出たのは、その言動が「よくないもの」なのではなく、その言動をする「自分がよくないもの」だというメッセージを与えられたから。 否定されるような「わたし」は、人目につかないようにしなければならない。 そうやって「恥ずかしい自分」は、土に穴をほってうずまっててもらい、決して地上には現れないようにする必要があります。 そうやって人には見えないようにうずめている恥は、 モグラのように、地中で最も力を発揮していきます。 人には見えないけれど、自分という土の中では、いつまでも元気で居座りつづけるのです。 モグラは地上に出ると、太陽の光で上手く動けなくなるように、 恥も、明るいところに出してはっきりと見えるようにすることで、身動きがとれなくなります。 そこで必要なのが、仲間や、安全で安心できる誰か。 恥が最も必要とするのが、その恥からくる痛みと孤独を知っている、わかってくれる誰か。 恥を感じたときは、「誰か」が必要なのです。 安心できる「誰か」と一緒に、 土の中で元気にしている恥を太陽の元にさらし、 しっかり見てみてほしい。 それは本当に恥ずべきこと? もしそれが恥ずべきことであるなら、それはその言動であって、自分という存在ではない! そういうことを、その「誰か」と一緒に知ってほしいなと思います。 恥ずべき存在の人など、一人もいませんから。

「迷惑をかけてはいけません」の呪いを解く

「人に迷惑をかけないように。」 親や周囲の大人に言われてきたためか、こう思っている人は多いのではないでしょうか。 「迷惑」というのは、嫌な思いや不愉快な思いをすることを意味するので、「迷惑をかけない」というのは、人にそういう思いをさせないようにすることをさします。 ですが、「迷惑」という言葉のあいまいなところが拡大していって、そして「空気を読む」ということが相乗して、人をわずらわせてはいけないとか、負担をかけるべきではないとか、そして人の領域に踏み込むべきではないというようなニュアンスにまで広がっているように思います。 私は、これを「迷惑をかけてはいけませんの呪い」と命名したい。 呪いというのは強烈です。 呪いは他者(周囲)からかけられ、自分が呪いをかけられていることに気付きません。そうして苦しい状態が続いてしまいます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の背後にあるのは、我慢と頑張りを美徳とする価値観や社会ではないかと思います。 協調性が過度に求められ、差別、偏見、抑圧があちらこちらにある社会の中で、我慢させることはまるで空気のようにあって、頑張ることはどこでもいつでも求められています。 私が育ってきた中でもありましたが、娘の学校生活を通して、それがますます強くなっているのだと感じます。 これは、本当に、あまりにも大変すぎる。 本来の「迷惑」を越えた意味の広がりによって、「迷惑をかけてはいけませんの呪い」は孤立を生んでいます。 自分が抱える問題、困難、苦難を、人に頼ったり、助けてもらったりしてはいけない、すべきではないと考えてしまいます。 人に頼るのは、負担をかけてしまうかもしれないから。 それは自分の頑張りや我慢がまだ足りないから。 だから人に頼ったり助けてもらうようなことは恥である、と。 そしてますます、人に頼れず、助けてもらえず、孤独感が増していきます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の強烈さを実感したのが、先日発表された調査結果でした( 特定非営利活動法人『あなたのいばしょ』 が実施した「 コロナ下での人々の孤独に関する調査 」)。 対象者3000人の中で、40%の人が孤独を感じていて、そして若年層の孤独感が強かったのです。 この結果を見て、とても胸が痛かったです。コロナ下とはいえ、日本はこんなにも寂しく厳しい社会になっているのだということを、数字で実

「わたし」というプリズムを光らせる

私はこんな人物です、ということを表現しようとすると、自分にはたくさんの側面があることに気づきませんか? そのたくさんの側面は、プリズムのようで、当て方によって違って光る… でも、一つの方向からの光の印象が強烈に残り、動かずに心に残っていることもあります。 私にとっては、「頑固だ」という言葉です。 まぁ、確かに、私は「頑固」です(汗)。 これが、ネガティブな側面として私の中にずっとこびりついてきました。 これは自分で語ってきたものではなく、周囲から言われたものです。 その発言に良いニュアンスがないことは明らかで、私はそのニュアンスが自分そのものだとして引き受けてきていました。 でもそうじゃないんだ、と、気づきました。 私は自分の考えや意思がはっきりしているほうで、場合によっては柔軟性に乏しいところがあるのだと思います。 でも「頑固な人」という表現にこめられていたのは、言った方にとって、私がその人の思うようではなかったということです。 つまり頑固なのはその人の方のはず!!! 外国に行けば、私の頑固なんて、ホントかわいいもんですよ~。 外国で過ごしたり、日本以外の人とコミュニケーションをとることで目が開かれました! こういうような、「あなたは〇〇だね」という言い方をする人に時々会うことがあります。 客観的な表現をしているようでありながら、あるいは、冗談のような雰囲気をまといながら、実は他者を非難したり卑下したりするこのような発言の仕方には注意が必要! この発言は、プリズムの光ではなく、まるでレーザーのよう。グサッと入ってきて、プリズムの動きを止めてしまうパワーを持っています。 私はこのことに気付いて以来、この類いの言葉も、こういう発言をする人との関係も、自分の中に入れないようにしています。 一方で、言われてとても納得というか、うれしかった言葉を受け取ったことがありました。 「直感の人」という言葉です。 これを言われたとき、「うん、確かに!」と、ものすご~く納得したのですが、言葉がスッと私の中に入ってきたのは、そこに非難も評価も感じなかったからだと思います。 むしろ興味深い側面として見てくれた温かさがありました。私のプリズムの中で、当たってなかったところに光を当ててくれたのです。 この違いはなんでしょう? 私は、「温かさ」「愛」「優しさ」を感じられたかどうか、にあると思いま

「恥」は自尊心との合わせ鏡

「恥」の感情について思い出すエピソードがあります。 娘のトイレトレーニングを本格的に始めたのが2歳の誕生日のころでした。夏生まれの子なので、スタートするのにちょうどよい季節だと思ったのです。 オムツもパンツも取ってみる(要するにほぼ裸)、トイレトレパンツ(分厚く布が重ねられたトレーニング用パンツ)をつけてみる、あるいは、オムツをつける(うちは就寝時以外はオムツも布でした)、いろいろな時間を過ごしていました。 オムツのときは、布ですからオシッコで濡れたのはわかるはずなんですが、「オシッコ出たー」とすぐ言わないことがほとんどでした。 特に遊びに夢中のとき。気持ち悪いだろうと思うんですが、子どものあの遊びへの集中力はすごいです。まさに全集中。 でもトイレトレパンツのときはすぐに言いに来ていました。オムツじゃなくてパンツをはいてるんだというのはちょっと誇らしいことのようでしたし、「オシッコに気を付けないといけないんだ!」と自分でも思っていたようでした。 他の人がいるときに「漏れちゃった」と自分で気づいたときは、バツが悪いような、恥ずかしそうな様子をしていました。なので、ササッと別の場所にいって、パパッと着替えました。 「恥」の気持ちって、こんな小さいときに、こんなふうに現れるんだと思ったのをよく覚えています。 保育所のベテラン先生も、「そういう時は大勢がいる前で『漏れた』と言ったり、着替えを強行しないほうがいいのよ」、と言っていました。もう「恥ずかしい」って気持ちがあるんだから、と。周りの大人は、子どもが示す「恥ずかしい」という様子を、しっかりとキャッチしてあげないといけないと話していました。 さらに成長してくると、「恥」はもっとはっきりしてきます。知らない人の前であいさつできずに、もじもじしたり、後ろに隠れたりする。 いつも元気いっぱいなのに、発表会では急に固まって後ろの壁にへばりついている。 だんだん、不安感や緊張感と合わさって現れてきているようです。 こういう態度の方が実は「恥ずかしい」ことだとみなされますが、小さいころは、そしてその後もしばらくは、自分の中の恥の感覚でいっぱいいっぱいになって、それがどう「見られることなのか」という他者からの評価まで追いつかない様子です。 そして、その評価に合わせて、あるいは、自分自身をしっかり感じながら、状況の中で自分を調整すること

大人げない/子どもっぽい

クライエントさんが、自分を「大人げない」とか、「子どもっぽい」と語られることがあります。 そういう自分に対して、恥ずかしい、悔しい、いたたまれない、もどかしい、辛い、イライラする、というような気持ちを感じています。 そして、落ち込み、自分を情けなく思い、自信を感じられなくなっています。 例えば「イライラして怒ってしまう自分をどうにかしたい」というご相談。 このテーマでカウンセリングに訪れる方は、怒りは家族に対して向けられることが多いようです。それ以外の人に対しては自制がきいていたり、さほど気にならなかったりしています。 家族や近い人なので大切にしたい、大切にすべきと思いつつ、イライラする気持ちを押さえられず、ドスドス歩いたり、ドアをバタンとしめたりなどで表してしまうことも多く語られます。 そして、そうやって「大人になれない」自分に対して、さらにイライラを感じてしまうのです。 また別のテーマとしては、「人とうまくコミュニケーションができない」というものがあります。 こういうときの「人」というのは、全ての人ではなく、自分が苦手なタイプの人と上手くコミュニケーションできないというものです。 一番苦手だと感じてるのが、配偶者だということも珍しいお話ではありません。 こういう配偶者の様子で共通しているのが、理路整然とたたみかけるように話して、クライエントさんの意見や気持ちに耳を傾けてくれない態度をとっているところです。上司や同僚でもあります。 クライエントさんは一生懸命話したり、なんとか論理的に話そうと思っていても、相手の勢いに圧倒されて上手くできないと思ったり、感情があふれてしまったりします。 相手の話のペースに巻き込まれ、自分が話したいことからズレていってしまっても、自分の話にもどすことができない。 こういう強くて勢いのある態度を取る人を苦手だと思ってしまう。 でも一方で、そんなふうにしっかりと話せない自分は「子どもっぽい」とも思ってしまう。 私は、20歳代のころ、ある活動を一緒にしていた女性が語ったことが今も強く印象に残っています。 その女性は賢く、落ち着いて、丁寧に、明確に、しっかりと話をする人で、私はとても尊敬していました。 そのころの私は、自分のふがいなさや至らなさが嫌になったり、自分にがっかりすることがよくありました。 そして、その女性の年の頃(60歳代)には、