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「安心」を感じるステップ 3

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「安心を感じるステップ1」に書きましたイールド。 自分の身体を何か、誰かに委ねる。  これは、緊張状態にある人にとって難しい動きであり、感覚です。 緊張状態がデフォルトの人にとっては、委ねるときに身体の緊張を緩めているつもりでも緩まないですし、緩めることへの抵抗や不安が起きる場合もあります。 抵抗や不安を感じたら、より緊張が増していきますし。 ですので、自分の身体の状態を試行錯誤するよりは、ガイアツを使ってみるとよいかもしれません。 ガイアツの例として。我が家のワンコ。 これぞまさにイールドです。 すっかりくつろいで身を委ねている、この重みや温かさをじんわりとじっくりと感じてみる。 そうすると、自分の身体も、重みと温かみに影響されて、何か少し違う感覚が生じてきます。 ペットがいないとか、ペットでは難しい場合、毛布でやってみることもできます。 「重い毛布」として販売されていますが、家にある普通の毛布でも。 寒いと辛いので、暖かい場所でやるか、カイロを首やほほに当てて、暖かくしてくださいね。 毛布をかぶり、その重みを感じる。身体を、毛布の重みのままに沈んでいくような感じで。 こんなふうに、外からくる重みをじっくりと感じることでイールドの本質を体験していくことができます。 悲しみなどの感情がわいてきて辛くなった場合は、長くやりすぎなのでストップしましょう。 セラピストと一緒にやったほうが安全です。

「安心」を感じるステップ 2

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安心は、完全に力を抜いてリラックスすることと、というわけではなく、ある程度の力が入っていながら「自分」でいられること、つまり、コントロール感が維持できていることと考えた方がよいと思います、 と前回のブログで書きました。 ある程度の力。 心理療法が進むと、重力感や根っこの感覚、芯がある感じが現れてきます。 これは大抵の方に自然と現れていて、この現象が共通しているのは興味深いものです。 しっかりしているのに緊張しているわけではなく、重みはあるけれど楽でもあるというような、安定した自由な感覚です。 まずは自分がどういう状態かに注意を向けていきます。 筋弛緩法は、身体の筋緊張を入れたり抜いたりすることで、自分の感覚に気づいていける、簡単でわかりやすい方法です。 私も筋弛緩法をアレンジして、筋緊張を意図的に入れることを提案したりしますが、私のセッションではさらに一歩進めていくようにしています。 単に筋肉の力を入れたり抜いたりだけでなく、力を入れているときや抜いたときの状態をより感じていけるようサポートしていきます。 また抜いたときの状態を、十分味わうことによってさらにその感覚を展開していくこともサポートします。 これは何をしているかというと、緊張やリラックスを感じることだけでなく、自分と身体の関係を体験してもらっているのです。 こういう体験をしていくと、身体は肉体(物体)としてだけでないことが展開されていきます。 イメージの世界、スピリチュアリティのような感覚、哲学的・実存的な思考へと広がっていきます。 とはいえ、こういう「ワーク」のようなことは、心理療法の中でスムーズに進むわけではありません。 世界が危険な人にとっては、「何かをする」のは苦痛を伴ったり、恐ろしいほどのパワーが必要だったりします。 絶望の中で、例えば、目線を上げて上を見てみるというようなことでさえ、絶望感のあまりできないものです。 続きは次回。

「安心」を感じるステップ 1

世界が危険に満ちたものだという体験が積み重なると、身体は常に緊張状態、世界に対して警戒した状態になり、リラックスがとても難しく感じます。 世界は危険だ、怖いとは思っていなくても、実は身体は緊張状態で、それに気づいていないということもよく見られます。 床に寝転び、目を閉じて力を抜いているところで、足や腕を持ち上げると軽い人は、無意識に力が入っています(よく見られます)。 ですので、身体の本質的なリラックスはなかなか難しい感覚です。 ボディーワークにおいて、yielding(イールド、イールディング。以下「イールド」と書きます)という概念に基づいたワークがあります。 日本ではロルフィングやフェルデンクライスなどで用いられています。 イールドは、身体を委ねる、預けるという動きや状態で、もともとはボディ・マインド・センタリングを提唱している Bonnie Bainbridge Cohen が主張しているものです。Bonnieは著書「 Basic Neurocellular Patterns: Exploring Developmental Movement 」のなかで、5つの発達上の動きを示しました。 イールドはその1つで、発達上では最初に現われるものです。 イールドは重力に対して自分の重みを預けながら、同時に、預けている対象の存在やその対象から伝わる力を受け取るという意味があり、自分の身体状態と、身体が関わる環境(他者)との相互作用が含まれています。 その点で、身体の力を完全に抜いたことにフォーカスするリラックスとは異なるとされています。 安心は、完全に力を抜いてリラックスすることと、というわけではなく、ある程度の力が入っていながら「自分」でいられること、つまり、コントロール感が維持できていることと考えた方がよいと思います。 例えば椅子の背にもたれかかると、まっすぐ座っているよりも背中の力が抜けているはずです。 そこで、抜けている力を感じられるようだったらそのまま身体の感覚に委ねていけます。 でも世界は危険な人にとっては、力が抜けることでまた緊張がさらに増します。 力を抜く=気を抜くとか丸腰になる=危険という図式が身体化しているためです。 そうすると、「リラックス感=危険」構図がさらに強化され、また、「力が抜けない」ことへの自責や諦め、恥、悲しみ、怒りなどが起きてしまいま...

一番ゆっくりな部分が大丈夫と思える速さで進む

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研修の先生からこの歌を教えていただきました。 Karen Druckerの「Gentle With Myself」。 I will only go as fast as the slowest part of me feels safe to go.  私の中の、一番ゆっくりな部分が大丈夫と思える速さでしか進まない。 「the slowest part of me:私の一番ゆっくりな部分」。 それは、疲れている部分。 傷ついている部分。 怖がっている部分。 小さいことを大切にしたい部分。 そういう部分じゃないでしょうか。 I will be gentle with myself. (自分に優しくします。) それは、一番ゆっくりな部分を知っていて、そのスピードで進むこと。 カウンセリングでも、一緒に見つけていきたい「部分」です。

年の瀬に。

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私のこの1年は、 自分も家族もアップダウンがたくさんあり、 できないことややらなかったことがたくさんあり、 「懐かしい人と会う」機会がたくさんあり、 よかったことも残念なこともたくさんありました。 そして、新しいクライエントさんたちとお会いすることができました。 セラピーもセラピストも、探すのはとても大変な作業だと知っています。 その中で、VIEWへアクセスしていただき、感謝申し上げます。 ブログの更新ができないまま年の瀬となりました。 いろいろなことを同時並行で行っていて、なかなか落ち着いて書く時間をとることができませんでした。 ブログは、二つの方向(テーマ)でリニューアルしようかな、と思っていますが、どうなることやら。 ベンチの霜に誰かが描いたハート。何か描きたくなるくらいきれいな初霜でした。 写真を撮っていたら「あなたが描いたの?」とお散歩の女性が声をかけてくれました。 仲良く朝日のほうへ歩いて行ったお二人を私はしばらく見ていました。 来年もまた、セラピストとして、1人の人間として、一歩ずつ歩んだり、立ち止まったり、休んだりしながらやって行きたいと思います。 また来年もどうぞよろしくお願いいたします。

回復のために、自分を「閉ざし」、居場所をつくる

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私が回復するには、自分の中にいるあらゆる者たちに居場所をつくってやらなければならない。(中略)自分の中にいるさまざまな者たちが、互いに妥協することなく共存できる、その均衡点を私の体の奥深くに見つけなければならない。あらゆる者がもうここに来ているのだ。私の体はあらゆる者が集まる場所になっているのだ。だから、それらとともに新しくつくりかえなければならない。(p.95) 「熊になったわたし」 ナスターシャ・マルタン著 この本は、私の「今年の1冊」。 人類学者の著者は、フィールドワーク先のカムチャッカの森で熊に襲われ、九死に一生を得る大けがをします。 冒頭の引用は、事故の後、フランスに戻って治療を受けていたところです。 熊によって負った傷害を、単に外科的な回復としてだけではとらえられない、深い混沌に著者は陥っていきます。 この引用文は、まさにセラピーで起きること。 悩みや苦しみや困難を、心理療法という方法で扱っていくとき、そこには、そのクライエントさんには、(そしてセラピストの私にも)さまざまな「者」が現れてきます。 悩みや苦しみや困難の中にいるときというのは、たいてい、悩んだり苦しんだりしている者、それを何とかしたいともがいている者、諦めや無力感を感じている者、孤独を感じている者、それでも毎日を生きようとしている者… こんなふうにあらゆる「者」が現れて来ます。 そして、セラピーを通して、あらゆる者が「互いに妥協することなく共存できる、その均衡点」を探っていくのです。 私が変容するためには、肉体と魂の手術を完成させて、私という開かれた世界を閉じる必要がある。肉体の傷口を縫合し、開かれた魂を閉じるのだ。肉体においても、魂においても、今すぐ境界を閉鎖しなければならない。(p.96) 著者は大けがをしたので、損傷した肉体の傷を閉じ、肉体が回復していく必要があります。 心理療法でも、自分を「閉じ」、境界をつくるというのは、とても重要なこととして扱います。 心理療法では、いろいろな“実験”を通して「境界」を引く、「境界」を感じる、「閉じる/開く」、「つながる/切る」、「境界」を広げる/狭める、ということを体験していきます。 それは、自分の中に集まった「あらゆる者」にとって大切な感覚であり、「あらゆる者」とともに行います。 この本に関してもう1つ。 著者は、フランスで手術と治療を終えた...

人生が私に呼びかける

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人生の意味とは? 誰もに一度は浮かんだことのある問い。 カウンセリングにおいても中核的で深淵なテーマです。 哲学者の森岡正博さんは、人生の意味とは?という問いにおいては、「人生があなたに呼びかける」のだと言っています。 (「 A Phenomenological Approach to the Philosophy of Meaning in Life 」 2025, Philosophia vol.53) 絶望、不安、空しさ、深い悲しみ。 生きていても仕方がない。 生きていることが辛い。 このような思いの中にいるとき、人生の意味って?という問いが浮かんできます。 それは「人生」が私に呼びかけてきているのだと、森岡さんは述べます。 この絶望や不安、空しさ、深い悲しみの中で、ではあなたはどうするのか?どう生きようとするのか? 「人生の意味」とは、自分の人生に対してどのような態度をとるのか、どのように関わろうとするのか、そういう私の態度が人生の意味をつくっていく、そしてこれを「人生の意味の哲学」と述べています。 人生の呼びかけに対しては、積極的な態度や消極的な態度、前向きな態度や後ろ向きの態度、あるいは停滞するような態度などがあり、「私」の主体的な意思とその行動選択という意味で書かれているようです。 例えば、「今この瞬間の自分の人生を、壊滅的な状況に耐えようとする姿勢で探り続けると、その態度が最も暗い時でも私を励まし、生き延びる可能性が徐々に目の前に現れ始め」、人生を諦めるという態度で自分の人生を探究すると陰鬱な人生になる、など、今この瞬間の態度によって、人生の意味はつくりあげられていく。 ですが、「態度」には様々なレベルがあり、「私」にもさまざまな「私」が同時に存在することを、私は心理療法の中で感じています。 絶望の中にいて、打ちのめされて身動きがとれず、ただ息をしているだけのような「私」と同時に、この苦しみから逃れたい、光を求めたいと切望する「私」がいる。 誰にも踏み込まれたくないし、誰にも自分のことはわからないと思う「私」と同時に、誰かを求め、誰かと共にいたいと思う「私」がいる。 もう命を終わらせたい、生きていたくないと思う「私」と同時に、優しさや愛や慈しみに喜びを感じる「私」もいる。 そういういろいろな私が同時に私の中に存在するなかで、それぞれの「私」が...

トラウマ化を防ぎ、トラウマを改善するもの

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「山」続きですが。 こちらの仕事と並行して従事している勤務先の仕事で、竹内洋岳さんの講演会を行いました。 日本人初、8,000m以上の14の山を全て登頂した方です。 14座完登した人を、その偉業を称え、14サミッターといいます。 8,000m級の登山では、これまでも数多くの死者が出ています。 竹内さんもまた、同行者は亡くなってしまったという大変な事故に遭い、九死に一生を得る登山をされています。 命に関わる大けがから救出された後、竹内さんは暴れて大激怒していたそうです。竹内さんご自身はその時の記憶がなかったそうですが。 「登山の哲学」NHK出版新書 407 「下山の哲学」太郎次郎社エディタス トラウマセラピーを行う心理士として興味をもったのは、記憶がない救助直後以降に大激怒して暴れていたというところ。 生命の危機は、強い恐怖の感情と身体状態を引き起こします。 命の危機のその瞬間に典型的に現れるのは凍りつきの反応。 その後に襲ってくるのは震え。それが恐怖の感情とつながります。 この一連の身体反応が完全に完了しなかった場合、恐怖の記憶は身体化する場合があります。 思い出すと恐ろしさに襲われるとか、そもそも思い出すことができないとか、 思い出として恐怖感はなくても、身体が覚えていて固まってしまうなど。 身体はまだあの時の危険を覚えていて、今も警戒状態をいつでも発動できるようにしている、と言えます。 でも、竹内さんが体験された怒り。 これは命のエネルギーを発露するパワーでもあるので、怒りによってトラウマ化が起きなかったのかもしれません。 ご著書を読んでて感じたのは、竹内さんが、常に第三者的な視点で自分と状況を見ていることでした。 トラウマに限らず、心理療法は、自分や状況を俯瞰して観ていくプロセスです。あるいは、結果的に俯瞰して観ることができるようになるもので、そのようなまなざしが、深い癒し、存在感、つながりの体験をもたらします。 第三者的な視点は、トラウマ化を防ぐことにも、トラウマ化した状態を改善することにも役立つと考えられます。 これは、竹内さんがされていたように、日々の積み重ねの中で身につけていくことができますし、誰でもそれは可能です。 セラピーでも、それが蓄積されているのを、クライエントさんから感じています。 サインもいただきました! ありがとうございます

トラウマを癒やすのに必要な感覚

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前回のブログで取り上げた「夜明けまえ、山の影で」 。 著者のシルヴィアは、性虐待や性被害を受けた仲間とともに、エベレストのベースキャンプを目指して歩いていました。 ベースキャンプでも標高は5,000m超。 高度順化のために何日かかけて歩いていくその途中、エベレストの頂が見えました。 私たちは黙ったまま、しばらくエベレストを見つめていた。 「お母さんみたい」ヒメナ(※参加者の1人)が小さな声で言った。 エベレストを見るとき、なぜささやき声になってしまうのか、私にはわかる。 圧倒されるからだ。自分の小ささを知り、自分が、自分よりもはるかに大きいものの一部であると感じる。自然を通してトラウマを癒やすのに必要なのが、この感覚だ。  この感覚は、自分でじっさいに経験してみないとわからない。トラウマはスプーンで簡単にすくって取り除けるようなものではない。あなたの中に巣くい、悠然と、ときに静かに、いつまでも居すわる。そしていつだって、ほんの一瞬で、あなたを破壊する力をもっている。 (p.144) 「大いなるもの」を感じる体験。このようなスピリチュアルなイメージや感覚は、心理療法ではとても意味深いものです。 大木。満点の星空。広がる大地。 日本のクライエントさんからは大自然が現れますが、海外では神が浮かぶ方もいるそうです。 私が初めて2,000mを超える山を登ったのは中学生の時でした。 苦しい登り道をただひたすら歩いて辿り着いた山の頂。 そこからはるか下方に、当時住んでいた街の灯が小さく瞬いていました。 あんなにちっぽけな瞬きに自分は暮らしていたのだ その時に感じたものは、私の表現力では言い表すことができません。 でも今もありありとあの灯が思い出されるのは、私の中に表象として残り続けているから。 思い出さなくても、私を支えてきた場面の一つなのでしょう。 今年の北アルプス 高所登山は、気軽にできるものではありませんが、「おおいなるもの」はあらゆるところに存在します。 誰もに「おおいなるもの」との出会い、つながりが、意味あるものとして存在することを願います。

”誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがある”

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「自分の歩いた道のりを振り返ってみないと、自分がどれだけ遠くまで来たのかわからないときがある。頂上に立つとは、たんに何かを成し遂げるということではない。長い時間をかけて影の中を歩き、その向こう側に何があるのかを知ることができる、ということだ。他の女性や、男性とともに歩く方法を学ぶということだ。ひとりで張りつめながら生きるのではなく、周りの人と助けあうことを学ぶということだ。誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがあると、知ることだ。」   シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著 『夜明けまえ、山の影で』双葉社 家の掃除の仕事をしに来ていた遠い親戚の男性に、6歳のころから数年にわたり性虐待を受けてきた著者は、被害を親に言えないまま成長します。男性に、「内緒だよ」「お父さんに頼まれたんだよ」と言われていたからです。 被害を受けることがなくなってからも数年の間、誰にも言えずにいた著者は、高校3年生のときに、厳格で支配的な父親の怒鳴り声が引き金になって「秘密」を吐き出します。そして、それをきっかけに受診した精神科医の勧めでアメリカに留学することになりました。“忌まわしい”思い出のある場所を去り、新しい地で人生を過ごすために。 しかし性虐待のトラウマによる影響が現れ始めます。ワーカホリックになり、アルコール依存とセックス依存を抱え、苦しむようになります。 さらに愛する人を失うという辛苦のどん底へいたり、故郷のペルーの母の勧めで、伝統的に行われてきたアヤワスカという幻覚剤を用いた儀式を受けます。そこで著者は、6歳の自分のイメージと出会います。 この女の子を、自由にしてあげたい。山に連れて行ってあげたい。 登山はその強い思いから始まりました。 そうして、最高峰のエベレストへ向かいます。 女の子を、地球で最も高いところへ連れて行ってあげるために。 体調や悪天候で困難を極めた中、著者は世界最高峰へたどり着きます。 そして、冒頭の引用に思い至るのです。 山登りのメタファーは、セッションの中で時々現れることがあります。 自分が歩いてきた道。これから歩いていく道。 頂上に至るということ。 そして下っていくということ。 共に歩む人。 歩調を合わせて同行しているわけではない、でも同じ山を登る誰かの存在。 登山をしてきた私にとって、「山」は身体に浸み込んでいる記憶。 ですので、クライエントさ...