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毒親の「毒」を解いていく

「毒親」という言葉。 私からは使わないようにしています。 その理由は、家族の状況や関係はそれぞれに違っているし、そのなかで経験したこと、そのことがどんなふうに影響しているかも、一人ひとり違っているからです。 クライエントさん自身が自分の親をそう「認定」されていたら、私も同じ言葉を使いますが、そうでない場合は使いません。 ですが今回はあえて「毒親」という言葉からスタートしたいと思います。 「毒親」が子どもたちにやってきたことは、明らかにひどい暴力から、「ひどいこと」だと気づきにくいレベルまで幅が広いのですが、「私の親は毒親だと思います」と言うクライエントさんとのカウンセリングから、共通するものを感じています。 それは、子どもの心を見ていない、ということです。 「毒親」のほとんどは、自覚がないようです。 自分がやっていることは「毒」だとは思ってなくて、むしろ「正しいこと」だとか、「良かれと思って」いたり、「仕方がなかった」と正当化するとか、「子どもが大変だったし」と子どものせいにしていたりすることが見られます。 子どもの心を見ていない、感じていない、というのは、 見ようとしない、感じようとしないという人や、 見ているつもり、感じているつもりの人まで、さまざまなです。 いずれにしても、「毒親」は自分のレンズを通して、見えているものだけ、見ようとするものだけを見ているというのが特徴のように思います。 そして、子どもの方が、親の眼の焦点が合うように、さまざまな工夫や努力を重ねてきました。 その努力は、子どもによってさまざまです。 親が見えているものを見せる子ども 親が見えていないから、自分を見てもらえるように工夫し続ける子ども 親が見えても大丈夫なことだけ見せようとする子ども この絶え間ない努力。それは、焦点が合えば、親はちゃんと見えるようになるのではないか、見てくれるのではないか、という、切なる願いからきていると思います。 その、見てもらいたかった本当の「自分」 知ってほしかった「自分」の思い。 カウンセリングでは少しずつ感じていけるようにしたいと思っています。 前回 、 前々回 で、「嫌だと言えるかどうか」ということをテーマに書きました。 これも同じことなのです。 「自分」という主体が感じること。 そしてそれをあらわすこと。 それが尊重され、認められ、受け止めてもらえ、応

差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログ で、差別とカウンセリングについて取り上げました。 アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。 それでずっと考えていました。 私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。 差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。 これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。 ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。 短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。 「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。 差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。 そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。 同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。 でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。 「モヤモヤ」はここにもありました。 被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。 これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。 人の心の中は自由だ、 それは確かにそうです。 でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。 女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。 「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。 そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。 このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。 趣味や服装などのような、単なる好

差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま