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4月, 2024の投稿を表示しています

涵養(かんよう)~自然に浸み込むペース

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これは、乾いた畑の土に水を浸み込ませていく工夫の動画です。 水袋が水流の先頭にあって、その重みで水がゆっくりと流れていくようにしています。 乾いた土に水を撒くと、表面を滑り落ち、流れてしまい、土の中に浸み込みません。 我が家の小さな家庭菜園スペースに、新しく苗や種を植えて水やりをしました。 かなり長い時間水を撒いたのですが、軽く掘ってみてびっくり。 ほんの表面しか濡れておらず、その下はまだカラカラ。 水を浸み込ませるには、霧のような細かい水を、スプリンクラーなどで時間をかけて撒いたり、この動画のように、ゆっくりとした流れを作らなければなりません。 水が土深く浸み込んでいくには、相当な時間がかかるのです。 「涵養(かんよう)」とは、地表の水が浸み込み、地下水の層へ水が供給されること。 土に水がしっかりと浸み込んでいくには、ゆっくりとした時間が必要だということに重ね、無理をしないで少しずつ養うこと、という意味もあります。 この「無理をしない」というのは、自然のペースであり、科学的には物理的可能な動き、と言えます。 人間の身体があり得ない方向へ曲がったり反ったりできないし、あり得ないスピードで動くこともできないのにもかかわらず、私たちは、心に対しては「ありえない」動きやスピードを期待してしまうことがあります。 心の自由さや無限さを知っているし、いろいろな人の、いろいろな状況を見聞きするので、ミラクルを求めたくなります。 自分の心の「乾き具合」、「土の状態」はともかく、しっとりと潤う緑豊かな大地に早くなってほしい、と願いたくなります。 この深く強い願いはそのままに、 でも同時に、心の大地にも目を向けていきたい。 初めはなかなか浸透せずにもどかしく感じても、ゆっくり地道に水をやり続けると、しっとりよい土になっていきます。

根は生きている

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昨年、ほんの2,3日であっという間に盆栽を枯らしてしまいました。 葉が急にしおれ、枯れていったのです。 うかつでした…。 盆栽初心者のアルアルですが…(泣) でも、もしかしたら木は生きているかもしれない、翌年にはまた葉が出てくるかも、と思い、植え替えをし、水やりや肥料を続けていました。 そうしたら…! …新しい芽吹き! 木の部分はやはり完全に枯れてしまっていたのですが、根はまだ生きていたのです。 「樹木たちの知られざる生活」には、500年ほど前に切り倒された切り株が、実はまだ生きているということが書かれています。 葉のない切り株は光合成ができないので生きていけないはずなのですが、近くにある他の木の根を通じて栄養を受け取っている、ということが書かれていました。 私の盆栽は鉢植えなので、他の木から栄養をもらっていたわけではないのですが、根が生き続け、そこから新しい命を生み出しているというのは、深い驚き、そしてよろこびがありました。 いえ、新しい命というのではなく、全体が命そのもの。 植物は、人のこころのメタファーとして受け取るものが多いなぁと感じているのですが、 心が暗く沈んだり、エネルギーを感じられないような中でも、 細胞の一つひとつ、身体そのものは命を続けていて、 それは頭や心では感じられなくても、確かにあるのだ、 そういうことを、この小さな盆栽から感じました。 …そうしてしばらくすると、また新しい芽が。 盆栽としては、「美しさ」の基準からは外れてしまったと思います。 でもこれもまた一つの世界。一つの宇宙。 そういう気持ちで、お世話を続けようと思っています。

自分と世界を遮る壁

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孤独のイメージって、どんな感じでしょうか。 真っ暗な場所の隅で一人うずくまっている ブロックの高い壁や鉄条網に囲まれていて外に出られないし、誰も入ってこられない 分厚い開かずのドアの前で立ちすくんでいる 真っ暗な夜の海に浮かぶ小舟 そこから出たいという気持ちと、 出るのは怖いという気持ち。 誰か助けに来てほしいという気持ちと、 誰にも入ってほしくないという気持ち。 孤独のイメージの中にいる「私」は、こんな相反する気持ちに揺れ、引き裂かれ、疲れ果ててしまいます。 「私」と、その「場所」や「障壁物」を分けてみることができると、 「私」がいた場所に入り口ができたり、その場所が開かれて、「私」に少しずつ近づいていくことができます。 「私」と一緒に、しばしの間留まってみて、そこから、その障壁物や場所を見てみると、 それが「私」を守るために存在したのだということが降りてきます。 障壁物の強固さ、誰もいない場所のその広さが、 「私」を守るためのものなのだったとわかります。 こんなにも強さや距離が必要なのだったと。 障壁物や場所の強さや広さがしてきた意味を知ると、その壁や部屋、場所は、喜んでくれます。 「私」を守ろうとしていることに、誰も気づかなかったし、「私」にさえその意味を忘れられていたのですから。 そうしていくと、障壁物も場所も、「私」を守る方法を変えてくれるようになります。 やりすぎないぐらい、ちょうどよいぐらい、大丈夫なぐらいを、 障壁物や場所だけに頑張らせないでいられる こんなプロセスが心の中で起きていきます。

身体に委ねる

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前回は(も)、自分の身体へ注意や意識を向けていくことについて書きましたが、「身体」そのものを体験することが増えていくと、深い安心感のようなものがつちかわれていきます。 「頭」で認識する自分や身体ではない、「身体」そのものの世界の体験。 大分前のことですが、私が体験したワークについて書きます。 それは身体へダイレクトにアプローチするタイプの心理療法の一つで、さまざまなワークがありました。 先生の指示のもとに行ったワークの一つは、立った姿勢から、ペアの人のサポートの元に、ものすごくゆっくりゆっくりと前へ倒れていく、というものでした。 立った姿勢でそのまま前へ倒れていくと、地面にうつぶせの状態になりますよね。私もそうでした。 でも参加者のうち数名は横向きに丸まって倒れていました。 このワークが終わり、先生は、 「横向きになっている人は、帝王切開で生まれた傾向があるんだよね」と言いました。 その参加者の中では、横向きになった人は全員帝王切開での出生で、うつ伏せの人は全員経腟分娩での出生…! みんなびっくり~、でした。 他のワークもいろいろ行って感じたのは、身体には、自分の頭では意識されていない「何か」があること。 それは、身体へ「委ねる」「まかせる」ことで体験されること。 その身体の体験は、良いも悪いも全くなく、ただそれだけであり、 むしろ身体は必要なことを知っている、 ということでした。 (頭では)よくわからないけれど、身体が知っているのだというのは、深い安心感、信頼感の感覚をもたらしてくれます。 でも、身体に委ねていくことが、身体に完全に明け渡してしまって、自分を見失ってしまうんじゃないかという不安や恐怖を「頭」が感じたり、 そもそも身体に注目するって???と、どうしたらよいか全くわからなくて困ったり、 ということは決して珍しいことではありませんし、その「能力がない」なんていうことも全くありません。 特に虐待や暴力のトラウマがある人にとっては、身体感覚をシャットアウトすることが生きのびるために安全だった過去の経験があると、身体へ注目することが、強い不安や恐怖感を引き起こすこともあります。 ですので(しつこいですが💦)安全な範囲で少しずつ、が大事。 誰もが、意識されていないだけで、安全な身体の感覚世界はあります。