投稿

ラベル(自己肯定)が付いた投稿を表示しています

自分のままでいられる世界へ ~絵本「ボルカ」から

イメージ
今回はジョン・バーニンガムの絵本、「ボルカ」(ほるぷ出版)を取り上げたいと思います。 ガチョウの夫婦に6羽の子どもたちが生まれましたが、そのうちの1羽のボルカには羽が全くはえてきませんでした。 お医者さんガチョウに診てもらいましたが、羽がないこと以外はどこも悪くありません。 羽がなくて寒いボルカのために、お母さんガチョウは羽を編んで着せてやりました。 でもそれを他のきょうだいたちは笑い、いじめました。 一緒にいたくないボルカはひとり隠れていたので、泳いだり飛んだりすることを覚えられませんでした。 忙しいお父さん・お母さんガチョウは、そんなことが起きているとは知らず夏が終わり、ボルカがいないことに気づかないまま、暖かいところへ旅立って行ってしまいました。 ここでは、障がい、そして、いじめ・虐待というテーマが連想されます。 先日参加したビブリオバトルで「ボルカ」を紹介された方は、「こんな経験をした人がいるんじゃないか、ボルカのような気持ちになったことがあるのではないかと思います」と言っていました。 お母さんガチョウはボルカのために羽を編む〝親心”は持っていますが、ボルカの痛みは知らないまま。ボルカを深く支える存在として描かれていません。お父さんガチョウも心配してお医者に連れて行っただけ。 きょうだい間でのいじめは親の無関心・無関与によって起きているさまが現れています。 「みにくいアヒルの子」と違う「ボルカ」のお話の魅力はここからです。 ひとり残されたボルカ。 とぼとぼと歩いていくと入り江に泊まる船が見えます。 雨をよけるために船に乗り込んだところ、犬のファウラーに吠えたてられました。でも事情を知ったファウラーは吠えるのを止め、ボルカを寝場所につれて行ってあげました。 ボルカは船乗りたちとも仲良しになり、一緒にロンドンまで行くことになります。 家族に置いていかれたひとりぼっちボルカでしたが、育った場所を離れていったことで、新しい出会いがありました。 ファウラーに吠えたてられるという命の危険にさらされながらも、話をすることで船の仲間になります。 これまでとは違う存在、これまでとは違うやりかた、 そこから新しい方向が開かれて行きます。 ロンドンに着き、船長はボルカを キュー植物園 に連れて行きました。 ガチョウだけでなく、いろんなかわった鳥たちも一緒に暮らすキュー植物園。だれ

「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ。」

イメージ
ムーミン好きな方ならきっとご存知の、スナフキンの名言。 『ムーミン谷の夏まつり』です。 洪水で流されたちびのミイが裁縫かごの中で眠っていると、偶然、スナフキンに出会い、食べ物をもらいました。 十分食べたかどうか、スナフキンはミイに聞きます。ミイは、「また眠くなっちゃった。いつもポケットの中が、いちばんよく眠れるの」と言いました。 それに対してスナフキンが言ったのがタイトルの一文です。 そしてスナフキンとミイが歩いていくと、公園がありました。 ですが、「公園への立ち入り禁止」と書かれた看板が立っています。 公園なのに! クライエントさんがこの場面について話してくれまして、私ももう一度この本を手に取りました。 公園には公園番の夫婦が住んでいて、そこに親がいない24人の子どもたちが毎日森からやって来ます。 公園の木々はきっちりと刈り込まれ、道はパキッとまっすぐ。 そして禁止の立て看板がたくさん立っています。「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「飛びはねるべからず」。 公園番の夫婦が公園を(子どもたちを)管理・監視しています。 こういうことが大っ嫌いなスナフキンは、片っ端から看板を抜き、子どもたちに「好きな場所へ行っていいんだよ!」と言いました。 でも子どもたちは誰も行こうとしません。 スナフキンについて行こうとするので、悩みつつスナフキンは子どもたちを連れて先へ進んで…。 子どもたちの様子は、とても示唆的だと思いました。 たくさんの禁止のメッセージと、それを見張る強い他者。その中にずっといると、「自分」がしたいことがわからなくなってしまう様子が現れています。 自分は何を求めているか。自分がしたいことは何か。 看板からも公園番からも解放されたのに、24人の子どもたちは自分のしたいようにすることができません。 代わりに今度はスナフキンにまとわりついています。 日本の子どもたちは、あふれる「禁止」のメッセージのなかで育っていると思います。 ブラック校則はその象徴。 明示されたルールだけでなく、暗示的なルールは「空気」として漂っています。 禁止のメッセージはこんなふうに、全て周りからきています。 そのメッセージは、大きいこともあれば小さいものもあり、大切なこともあれば、取るに足らないようなこともあります。 周りからきた禁止のメッセージはいつのまにか自分の中に入り込み、自分で自

自分が、自分の一番の友だちになる

イメージ
カウンセリングで行うことを一言で述べるとするならば、「自分が、自分の一番の友だちになること」です。 苦しんだり悲しんだりしている中で、最も苦しめたり悲ませているのは、実はクライエントさん自身であるという側面があるのです。 「自分は不十分だ」「自分はたいしたことない」「自分が悪い」というように自分を責めていたり、 時々うける褒め言葉や喜びの言葉を、「受け取るに値しない」とか「気を遣って言っているに違いない」と受け取れなかったり、 もっとより良い自分に、より素晴らしい自分にならなければと追い込んでいたり、 辛くて苦しい気持ちを閉じこめて耐えさせようとしたり、 周りから攻撃されているのがわかっていても、何もできなかったり。 自分を苦しめたり悲しませるやり方は、こんなふうにいろいろです。 こんなふうに自分に厳しくなっていたり、自分自身に対してお手上げな気持ちになっているのには、もちろん、理由や背景があります。 緊張感をもって生きてこなければならなかったでしょうし、それが続いて感覚がマヒしたようになってきていたりもします。 カウンセリングで行うのは、こんなふうに自分を攻撃したり、いじめたり、発破をかけたりしつづける自分ではなく、 ただ一緒にそばにいて、肩を抱いたり、見守ったり、やさしく声をかける自分を育てていくことです。 作家の高橋源一郎さんは、人生相談の回答で「あなた自身を救い出してあげる」という表現を度々されています。 「自分を救い出す」。 そのために私がカウンセリングで行うのは、クライエントさんに、「あなたが思ってるような、そんな自分じゃないよ」ということを伝えていくことです。 素晴らしいことがいっぱいあって、できていることもいっぱいあって、 ものすごく頑張っているし、よくやっているし、 うまくいったかどうかや、結果がどうかではなく、これまでの「道のり」、そのプロセス、試行錯誤、それはただただ、すごいことだった!ということ これを私は何度でも何度でも伝えたいのです。 まず、私が手を差し出していきたいのです。 差し出した私の手が見えて、その手をそっと握ってみようかと思えたり、 私が一緒にいるということを感じてもらえたりして、 そういうことに少しずつ慣れていくうちに、私の声がクライエントさんの心に届いていって、 そうして、自分を慈しむ自分が生まれてきます。 初めは恐る恐る、

背負いすぎている荷物

生きてきた中で背負ってきた荷物。 望まないにもかかわらず乗せられてしまった荷物や、自ら引き受けて負った荷物。 下ろせるものならば下ろしたい。 けれど、どうやって下ろしたらよいのかわからないとか、 誰も引き受けてくれないから、下ろすことはできないとか。 荷物がこんなにも大きく重いことも、 それなのに下ろして軽くすることができないことも、 どちらも辛いことです。 カウンセリングではしばしば、「肩の荷が下りたような感じ」という体感を表現してくださることがあります。 そこまでに至るプロセスはいろいろなのですが、 苦しんだ自分に気づき、悼み、悲しみ、 それを私と分かち合うなかで、 大きな息が吐きだされたあとに、肩の荷が下りて軽くなったような感覚を体験されます。 本当に大きく、重い荷物でした。 でも、ここに至るまで、それを背負って歩まざるをえなかったのですよね。 よく歩いてこられました。 よくここまでたどり着いてこられました。 「小休止」を体験されると、本当に背負うべき荷物や自ら背負っていきたいと思う荷物と、下ろしてもよい荷物とが、すっきりと整理されます。 そして、荷物を下ろしてみる。 負わなくてもよい荷物がない軽さを感じると、視線は、次の一歩へ向いています。 下ろした荷物に名残惜しいような気持ちも感じながら、でも、 向かいたいその先には、広がる空や地平線が見えてくるというお話をしてくださいます。 私はそこで、その明るく輝く空や、広がる地平線を一緒に感じさせてもらうのです。 こんなにも大きな荷物を背負いながらも歩んでこられたクライエントさんの力強さや忍耐力に敬意を感じながら、同時に、 新たな歩み、これまでとは違う歩みを、おだやかながらもしっかりと前を見て踏み出す、その確かさに、 人の生きる力と素晴らしさを感じさせてもらいます。

足跡をふりかえることの、特別な感覚

イメージ
10年に一度の寒波と言われた今日、私が住んでいるところは、昨晩から降り続いた雪が積もって、一面の銀世界でした。 転居が多かったとはいえ、ほとんど西日本で育った私にとって、雪は、何か特別な感じがするものです。 いつもとは違うように見える町。 車や人の往来が少なくなり、静けさが広がります。 鳥の鳴き声も、こんな日は聞こえません。 降り積もった新雪に足跡を残す。 たったそれだけのことに、心が躍るのはなぜなのでしょう。 一面の雪がうれしくて歩いた跡です 何もないところへ、自分が踏み込んだこと 一歩一歩を、ゆっくりと、しっかりと進めること その歩みが、何か特別な感じがすること そうして振り返ると、自分が歩んだ跡が見えること 新雪の中を歩くのは、こんな特別な感じを感じさせてくれるからでしょうか。 誰もがみな、生まれてから今まで、歩みを続けます。 その一歩一歩と進んできた足跡のない人は、一人としていません。 時折、止まっていたように感じたことがあったとしても、立ちすくんだその場には、いくつもの踏み跡があったことでしょう。 でもその足跡を自分で見て、感じることは、難しいことが多いかもしれません。 カウンセリングでは、クライエントさんの歩み、 一歩、一歩の足跡を 自分だけの、特別な歩みとして しっかりと感じていけることを目指しています。 「これが、私が歩んだ跡なのだ」という、 この特別な感じを、味わいたいと思います。

呪いの言葉2「ちゃんとする」

「ちゃんとする」。 これは、数ある呪いの言葉の一つではないか…と思います。 日本の子どもは小さい時から、いろんな場面で「ちゃんとする」の言葉を浴びてきて、その雨は激しさを増していっているような気がします。 私は子育て真っ最中なのですが、「ちゃんとする」のさじ加減、 これがとても難しい。 朝起きて、 学校へ遅れないよう家を出て、 忘れ物をしないようにして、 制服を指定された通りに着て、 出された課題を言われたとおりにこなして、 要求や叱責を納得いかないままでも受け入れて、 テストのための勉強をして、 自分の物を片付けたり整理して、 食事の時はマナーを守って、 身ぎれいにして、 やりたい遊びやゲームは制限付きで、 遅くならないように寝て。 これが、多くの日本の子どもたちが過ごす毎日。 「ちゃんとする」ことが山ほどある毎日…。 「ちゃんとする」の目的は、成長に必要な生活のリズムや、これから生きていく上で必要な力のためだったはずだと思いますが、今はもう、「ちゃんとする」こと自体が目的になってしまっているのでは。 この影響は、根深いところで溜まっているのではないでしょうか。 ちゃんとすることが目的になってしまっていると、いつも不安が付きまとっていたり、できない自分を恥じて自信を失ったり、常にイライラ感がとれなかったり、毎日疲労が残ったり…。 ずいぶん前のことですが、フィリピンの友人の実家に遊びに行きました。 マニラから車で数時間かけて行った小さな町。静かで、美しいところでした。 大家族的な暮らしをするフィリピン。彼女の家にも、4世代+親戚の人など、大勢が一緒に暮らしていました。 そこにいた5歳の子どもは、毎食、お皿に食事を盛ってもらって、好きなところへ持って行って食べていました。 ある日、食事を終えた私が玄関ポーチへ行くと、食べかけのお皿が柵の上に乗っていました。子どもはどこからともなく戻ってきて、その柵の上でしゃがみ(すごいバランス!)、続きを食べ始めました。すると外で小さな動物が横切りました。子どもは満面の笑みで動物を追いかけて行きました。 私はポーチのベンチに座って、食べ残したお皿を見ながら、おだやかな気持ちに包まれました。 日本だと、「ちゃんと椅子に座って食べなさい!」とか、「食事中にフラフラ席を立たない!」と叱られていそうなことでしたが、その家族の大人はみんな、気に

「好きなこと」も「得意なこと」もなくて

学校に行っていたころは、入学やクラス替えのたびに自己紹介の時間がありました。今もそういう時間があると思います。 私はこの時間がとっても苦痛でした。 名前以外、何も話せるようなことが思い浮かばず、毎回困っていました。 そこそこ好きなことや、やっていることはありましたが、熱中するほどではなかったですし、興味をもっても、さほど深堀りしていくほうではありませんでした。 そんなふうなので、特技と言えるようなものも何もなくて。 みんなに言えるほど「好き」なことも「得意」なこともない私は、こういう時間になると、自分を残念に思ったものでした。 自分は「たいしたことないなぁ」と思ってしまう時間でした。 先日、新聞の読者欄に、 「好きなことがほしい」という中学生の投稿 が掲載されていました。 好きなことも得意なことも何も思い浮かばない。でも他の子はちゃんと言えることがあって、発表している。私も好きなことや得意なことがほしい、という内容でした。 それを読んで、ものすごく共感しました。 そして思ったのは、たぶん、同じように思っている人は多いのじゃないかな…ということです。 もしかしたら、「推し」や「得意なこと」がある人の方が少ないかも。 「推し」や「得意なこと」がある人って、楽しそうに見えますよね。 楽しんでいるって、うらやましい気持ちになります。 自分が決して、楽しくない毎日を過ごしているわけではないのに。 得意なことがなくても、別に不幸というわけでもないのに。 結局私は「ものすごく好き」なことや「人に話してもよい“レベル”の特技」など何もないまま今に至っております。 でも、きっと、たぶん、 私のようなタイプの人は、何か一つのことに集中して熱が入るのではなく、 流れていくような日常の中で、やるべきこと、起こった出来事をこなしていっていたり、 ふとしたことに気持ちが動かされているのかも、と思います。 心が動かされるようなことを経験した時に、その経験した対象ではなく、 自分の心の動きのほうに、より関心が向いているとしたら。 そうだとしたら、わかりやすく「好き」で「得意」な具体物としては現れなくても、 心の中には、形にならないたくさんのものが積み重なっていっているのでは…。 こんなふうに思ったりします。 新聞の中学生に願うのは、熱中するものが見つかることよりも、 毎日を自分なりに過ごし、 好き

「恥」を誇り(プライド)に変える

イメージ
今年はコロナ禍を経て久しぶりにプライド・パレードが世界の各地で開催されましたね。 私は 20 年ほど前にカナダのトロントでこのパレードを見ました。カナダは移民国家ですが、私が滞在していた時に、トロント市の移民一世の人口が初めて半数を超えたというニュースに、町の人たちが歓喜したなど、多様性にオープンな都市です。ダウンタウンには通称「ゲイ・ストリート」(当時の呼称。今はどうなんでしょう?)があって、 LGBTQs の人々が集っていました。 そのトロントでのプライド・パレード。すごいです。今年の映像はこちら。「お祭り騒ぎ」という言葉がぴったり、活気にあふれ、参加する人も見る人もめちゃくちゃ盛り上がる楽しいパレードです。   私はプライド・パレードの「 pride 」という言葉が好きです。 胸が熱くなる感じがします。 日本語の否定的なニュアンスは全くなく、「誇り」という言葉そのものです。 性的少数者が生きづらく感じる理由の一つは、周りの人々や社会が持つ「恥」が、自分の中にも取り込まれていることです。 というよりも、「恥」は、周囲の人や社会が考える受け入れがたいこと、よくないこと、「普通」じゃないこと、という価値観を心の中に浸み込ませ、こびりつかせてしまう猛烈なパワーを持っています。 多数者や力をもつ人がこのパワーを使うのはこのためです。無意識にも意識的にも使って、自分の価値観を維持する環境をつくっています。そうすると、自分は変わらなくていいし、自分にとって居心地がよい環境を維持できますから。 だから少数者のほうが取り込んだんじゃなくて、取り込まされた、浸み込まされた、という言い方の方が正しいと思います。   この恥のパワーのやっかいなところは、恥が内面化されてしまうと、自分自身が恥ずべき存在なんだという価値観を信じこんでしまったり、違和感や居心地の悪さを感じていても、自分の中にある「恥」を、外に追い出すのがとても難しいことです。 これが、深刻な精神疾患(抑うつや不安など)の原因であったり、人間関係の困難を引き起こすだけでなく、自殺の要因ともなることが研究でも示されています。   前回の記事で、恥と孤独の関係について書きました。 自分の周りが、自分自身を否定するような言葉と視線に満ちあふれいているとしたら、自分を、自分の「恥」をさらけ出すことができるでしょうか? 想像するだけ

自分軸について

「自分軸」。 クライエントさんからこの言葉を教えていただきました。 自分の主体性を表す、わかりやすい言葉だなと思いました。 インターネットで検索してみると、いろいろ出てきました。イラストレーターでエッセイストの中山庸子さんは、タイトルずばり「 自分軸のつくりかた 」という本を書かれていたり、自分軸についての動画や、「自分軸手帳」というのもありました。 私はクライエントさんにお会いしていて、自分軸がない人はいないな、と思っています。 でもクライエントさん自身が自分軸を明確に感じられるようになったり、その自分軸からものごとを感じたり、発言したり、行動したりするまでには、いくつかのプロセスを踏んでいく流れがあります。 「自分軸」は、自分が考えること、思うことを決めたり、実行するという意味のようです。 このような決定や実行のベースには、自分自身についての体験があります。 それは身体の感じであったり、気持ちが感じられることであったり、今までとこれからを想ったりすることなどの体験。 感じたり思ったりする自分がいる、という体験です。 ごくシンプルな例はこんなこと。喉が渇いたあなたは、目の前にある水が入ったコップに手を延ばし、コップの水を飲んだとします。 これは、あなたがしたことですね。他の誰かではなく。 そう、「自分」がいます。喉が渇いたと知っている。コップの水を飲む行為をしたのは自分だと、あなたは知っている。 そして水が喉を通って行きました。その感じ。 乾いていた喉が潤って、ちょっとホッとした、その感じ。 それは他の誰でもない、あなたが感じた、あなただけの感覚。誰も邪魔することができない、あなた自身の感覚。 当たり前すぎるような、自然すぎるようなことですが、自分を感じるベースは、こういう感覚への注意からつながっていきます。 あなたがコップの水を飲んでいるのを見ている人がいました。 A「外は暑かったから、お水を飲んでホッとしたでしょう」とやさしく声をかけた人。 B「忙しいんだから水ぐらい自分で用意して飲んで!」とイライラして顔をそむけた人。 C「こんな少しのお水じゃ水分補給にならないよ、もっと飲まないと」と不安げに見つめる人。 潤ったあなたの身体は、こんなふうに言われてどんな感じがするでしょうか。 あなたの意思で手を延ばしてコップを取り飲んだという行為に、意味づけが加わる感じが生

「自己主張」という花を咲かせるには

周囲の人の顔色をうかがって生きている人にとって、自己主張するのはとても難しいことです。 周囲の顔色をうかがうようになったのは、いろいろな背景が考えられます。 幼少期から、大人にわかりやすい態度で喜怒哀楽などを示すタイプではなかった。 周囲の環境が緊張感に満ちていた。 たまに主張してみても、否定的な反応をされ、主張を引っ込めるしかなかった。 自分のペースに合わせてしっかりと応対してくれる経験が少なかった。 などなど…。 それを経験しているのが子どもであっても、大人であっても、その関係は対等ではなく、一方的なものです。 相互の違いを感じながら、でも相互に尊重するという、対等な関係ではありません。 こういう関係の中にいることで、「主張」をこころの奥底に閉じ込め、蓋をして、地中深くに埋めて、長い間放置してきました。 もうそれがあったことさえ忘れてしまうぐらいに。 このようなクライエントさんが、やっとの思いでできる『自己主張』は、欲求を表す言葉ではなく、要望の形をとることが多くあります。 例えば、夫から長い間、バカにされたり、きついことを言われたりしてきた女性は、夫に対して反抗や反論ができないことが多くみられます。 対等な夫婦喧嘩ならば、こんなふうに言い返したりするでしょう。 「そういうあなたは何様!?」 「で?何が言いたいわけ?」 でも言い返したら100倍になって返ってくるという恐怖感とともに、自分に問題があるのかもしれないという不安が襲ってくる。 だから、辛くて苦しいけれど、何もできずに耐える。そんな人がどれほど多いか…。 自分は嫌なんだ、傷ついているんだ、ということを感じられるようになっても、ようやく言える言葉が、「そんなふうに言わないでほしい」という要望が精一杯だったりすることがよくあります。 頑張って、勇気を振り絞って主張した気持ちなのですが、でもこれは明確な自己主張ではありません。 だからやっとの思いで言ったけれどスッキリしないままですし、たいていは相手に受け止められなかったり、逆ギレされたりして、「自己主張すべきではなかった」と、自己嫌悪に陥ってしまいます。 相手へのお願いの形をとるような要望ではなく、ホンモノの自己主張は、「私」という土壌をベースにして咲く花のようなもの。 その土壌は、「感情」という肥料がたっぷり必要です。 「私は」怒っている。 「私は」嫌だ。

誰にも備わる「成長に向かう力」

イメージ
春。 昨冬に植えたプシュキニアの球根が芽を出しています。土から緑の芽がちょこっと顔を出したのを見て、じわーっとうれしい気持ちが広がります。 春は、こんなふうにあちこちで新芽を見る時間がうれしいです。 芽吹きの初めはたいていどれも、ごくわずかなものです。とても小さかったり、色もわかりにくかったり。 それを見つけたときは、「あー!やっぱり出てきた!」「出てきてくれてよかったー!」と思います。 写真の球根も、植えてから長い間ずっと土の中でした。でもやっぱりいました! 写真では大きく見えますが(アップで撮りました!)、小指の先ほどもない小さな芽です。 こんなふうな成長に向かう力、発展の力は、人にもあります。 この力は、子どもから青年期だけに留まるものではありません。誰にも、いつでも備わっているのです。 最近の脳神経科学では、脳は生涯を通じて、機能的、構造的な変化をし続けていることがわかっています。 このことを私はカウンセリングで実感しています。高齢者、後期高齢者の年齢にあたるクライエントさんも、感動的な変容を体験されているからです。 ですが、打ちひしがれていたり、自信がなくなっていたり、自己嫌悪に陥っていたり、不安で苦しんでいるときには、この「力」を自分で感じとることは簡単ではありません。 それは私自身にあてはめても感じることです。 植物は、適切な環境があれば、その植物自身の生命力が発揮されます。 土の中で時期を待っていた球根が、春の光を浴びて芽を出すように、 葉を落として枯れたように立つ木の枝先に、小さな柔らかい芽が突き出すように。 人も同じように、備わっている力が引き出されるには、「適切な環境」が必要です。 カウンセリングで行うのは、この「適切な環境」の中で、その人が持っている「力」を引き出し、感じてもらうことです。 「あきらめよりも成長を選ぶ力であり、停滞よりも変化を求める力であり、自己嫌悪よりも自己に対する肯定であり、孤独よりも人との結びつきを選ぶ力だったり、バイタリティあるエネルギーをもつ力」( 「感情を癒す実践メソッド」 花川ゆう子著、金剛出版) ※この力をAEDP™セラピーではトランスフォーマンスといい、これを見つけ育むことを重視します。 自分をよりよくしたい、よりよい自分でありたいと願う力。 「デカルトの誤り」などたくさんの著書がある、神経学者のアントニオ・

「迷惑をかけてはいけません」の呪いを解く

「人に迷惑をかけないように。」 親や周囲の大人に言われてきたためか、こう思っている人は多いのではないでしょうか。 「迷惑」というのは、嫌な思いや不愉快な思いをすることを意味するので、「迷惑をかけない」というのは、人にそういう思いをさせないようにすることをさします。 ですが、「迷惑」という言葉のあいまいなところが拡大していって、そして「空気を読む」ということが相乗して、人をわずらわせてはいけないとか、負担をかけるべきではないとか、そして人の領域に踏み込むべきではないというようなニュアンスにまで広がっているように思います。 私は、これを「迷惑をかけてはいけませんの呪い」と命名したい。 呪いというのは強烈です。 呪いは他者(周囲)からかけられ、自分が呪いをかけられていることに気付きません。そうして苦しい状態が続いてしまいます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の背後にあるのは、我慢と頑張りを美徳とする価値観や社会ではないかと思います。 協調性が過度に求められ、差別、偏見、抑圧があちらこちらにある社会の中で、我慢させることはまるで空気のようにあって、頑張ることはどこでもいつでも求められています。 私が育ってきた中でもありましたが、娘の学校生活を通して、それがますます強くなっているのだと感じます。 これは、本当に、あまりにも大変すぎる。 本来の「迷惑」を越えた意味の広がりによって、「迷惑をかけてはいけませんの呪い」は孤立を生んでいます。 自分が抱える問題、困難、苦難を、人に頼ったり、助けてもらったりしてはいけない、すべきではないと考えてしまいます。 人に頼るのは、負担をかけてしまうかもしれないから。 それは自分の頑張りや我慢がまだ足りないから。 だから人に頼ったり助けてもらうようなことは恥である、と。 そしてますます、人に頼れず、助けてもらえず、孤独感が増していきます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の強烈さを実感したのが、先日発表された調査結果でした( 特定非営利活動法人『あなたのいばしょ』 が実施した「 コロナ下での人々の孤独に関する調査 」)。 対象者3000人の中で、40%の人が孤独を感じていて、そして若年層の孤独感が強かったのです。 この結果を見て、とても胸が痛かったです。コロナ下とはいえ、日本はこんなにも寂しく厳しい社会になっているのだということを、数字で実

「わたし」というプリズムを光らせる

私はこんな人物です、ということを表現しようとすると、自分にはたくさんの側面があることに気づきませんか? そのたくさんの側面は、プリズムのようで、当て方によって違って光る… でも、一つの方向からの光の印象が強烈に残り、動かずに心に残っていることもあります。 私にとっては、「頑固だ」という言葉です。 まぁ、確かに、私は「頑固」です(汗)。 これが、ネガティブな側面として私の中にずっとこびりついてきました。 これは自分で語ってきたものではなく、周囲から言われたものです。 その発言に良いニュアンスがないことは明らかで、私はそのニュアンスが自分そのものだとして引き受けてきていました。 でもそうじゃないんだ、と、気づきました。 私は自分の考えや意思がはっきりしているほうで、場合によっては柔軟性に乏しいところがあるのだと思います。 でも「頑固な人」という表現にこめられていたのは、言った方にとって、私がその人の思うようではなかったということです。 つまり頑固なのはその人の方のはず!!! 外国に行けば、私の頑固なんて、ホントかわいいもんですよ~。 外国で過ごしたり、日本以外の人とコミュニケーションをとることで目が開かれました! こういうような、「あなたは〇〇だね」という言い方をする人に時々会うことがあります。 客観的な表現をしているようでありながら、あるいは、冗談のような雰囲気をまといながら、実は他者を非難したり卑下したりするこのような発言の仕方には注意が必要! この発言は、プリズムの光ではなく、まるでレーザーのよう。グサッと入ってきて、プリズムの動きを止めてしまうパワーを持っています。 私はこのことに気付いて以来、この類いの言葉も、こういう発言をする人との関係も、自分の中に入れないようにしています。 一方で、言われてとても納得というか、うれしかった言葉を受け取ったことがありました。 「直感の人」という言葉です。 これを言われたとき、「うん、確かに!」と、ものすご~く納得したのですが、言葉がスッと私の中に入ってきたのは、そこに非難も評価も感じなかったからだと思います。 むしろ興味深い側面として見てくれた温かさがありました。私のプリズムの中で、当たってなかったところに光を当ててくれたのです。 この違いはなんでしょう? 私は、「温かさ」「愛」「優しさ」を感じられたかどうか、にあると思いま

「すべての山に登れ」

紅葉の季節。 近くの山に行きました。 見上げれば色づいた紅葉と空。足元は落ち葉がカサカサと優しい音をたてていました。    時々、近くの山に行きますが、以前はちょっと本格的な登山をしていました。日本ではアルプスや北海道などの山々。海外へも登山旅行を何度かしました。 「山ガール」や「中高年の山歩き」もまだなかった頃。山は比較的静かな場所でした。 私は、連れとのおしゃべりを楽しんだり、景色や自然を満喫するよりもむしろ、ただただ、もくもくと歩くのが好きなほうです。せっかくの景色や自然、鳥の声に目を向けないのは、もったいないような気もするのですが、山に行くと、そういう気持ちや欲求よりも、どうも身体が自然とズンズン動いていくようです。 「呼吸は自分の歩み、歩き方に合わせるのが大事だ。(中略)呼吸をうまくやるのは、登っているときに常に自分の体に問い続けることだ。『どのペースが一番楽だと思う?』とね。するとリズムが少しずつわかってくる」 〔「藤原章生のぶらっとヒマラヤ」毎日新聞2021年6月29日(火)夕刊。ネパールのダウラギリ登山中、スペイン人登山家カルロス・ソリアさん(81歳)がダウラギリ(8,167 m)登山で語った言葉。〕 呼吸のリズム。身体の声。 自分を見つめていくとき、体験を深めていくとき、カウンセリングでもとても大切なことです。 山を歩く、ということについては、こんな歌があります。 ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公のマリアが自分の方向性に戸惑っていたとき、修道院長が彼女に歌った歌です。  「すべての山に登れ」   すべての山を登りなさい 高きも低きをたずね あなたの知るすべての道 あらゆる小径をたどるのです すべての山を登りなさい あらゆる流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで あらゆる虹を追え あなたが与えうる限りの愛 その必要としている夢 来る日も来る日も あなたが生きつづけるかぎり すべての山を登りなさい すべてのせせらぎ 流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで すべての虹を追うのです (Sound of Music, "Climb every mountain") 生きていく中での迷い。方向性を見失って、立ちつくしてしまうような時。 暗闇の中で、トンネルの中で、身動きができないようなこと。 そういうなかでも、人は

ずっと深い土の中にある種、それはあなた

イメージ
私は車を運転しているときにラジオを楽しんでるんですが、 昨日、ベット・ミドラーの「ローズ」が流れてきました。 何回聞いてもいい歌だな…と思います。 初めて聞いたのは、ずっと以前、ラジオの英会話講座でした。 とても感動して、そのページは切り抜き、お守りのようにずっと手帳に挟んでいました。 歌の後半にこんな歌詞があります。 Just remember in the winter Far beneath the bitter snows Lies the seed that with the sun's love In the spring becomes the rose 【日本語訳】 思い出して。 冬、凍えるような雪のずっと下に種はあって、 太陽の愛を浴び、春には薔薇が咲くということを。 人からの攻撃や批判、無視、圧力などをたくさん受けてきた人は、それに苦しむだけでなく、その批判などを自分の中にも取り込んでいて、自分自身を責めるようになります。 DVや虐待、いじめなどを経験すると、自分自身を「価値がない」とか「不十分だ」とか、「私が悪い」というように、自分を傷つけるような思いを持つようになってしまうことはあるのです。 それでもその中で、クライエントさんの内側にある「力」が感じられることがあります。 そういうときは、私は、その力に注目したくなります。 その力は、この歌と同じ。 凍えるような雪のずっと下にある種。 セッションの中では、その「種」にもっと注目したいと思います。 その種は息吹き、芽を出し、根を張り、美しい花や、大きな緑の木へと成長するもの。 私もこの歌に支えられてきたなと思います。 たくさんの人がカバーしていますが、日本語訳の字幕がある動画をリンクします。 あなたの中の種を、感じてほしいと願いながら。 (広告が出たら、隅の「☓」をクリックしてくださいね。広告が消えて、字幕を見ることができます。)

体力づくりも自己肯定も、今日一日の積み重ねから

自分のことを「これでいい」とか「まぁOK」となかなか思えない というお話は、カウンセリングでしばしば語られます。 私がクライエントさんに、「がんばったんですね」と言うと、 ちょっと戸惑った表情を見せて、そして、 「・・・・自分なりにがんばったんだと思います。でも、☓☓☓・・・」 この「☓☓☓…」のところには、不十分さ、不完全さ、不満足感が続きます。 だって、私はそこまでじゃないから。そんなにたいしたことじゃないから。頑張ったかもしれないけど結果が伴ってないし。 だから気持ちは満たされない。 OK出せるような自分じゃない。 だからもっと頑張るしかない。もっと気遣いすべき。もっと我慢が必要。まだ努力は足りない…。 私はここで、ふたつ、伝えたいです。 ひとつめは、その真面目さ、真摯さ。 自分を甘やかしたり、なまけたりするんじゃなくて、頑張ろう、こなそう、なんとかしようと、やっぱり頑張っているんだ、と思います。 そういうふうにやってきたって、やっぱりすばらしいことだと思います。 (ここでまた、「そうかもしれないけど、いつもじゃないですよ」とか、「だけど頑張ってようやく平均レベルなんです」とか言う声が聞こえてきそうな気もします…笑) でも中身や結果じゃない、その純粋な一生懸命さは、ただただ、そのまま大切にしてほしい姿勢だと思うのです。 そしてふたつめは、このブログのタイトル。 「自分でOKと思えるまで頑張る」じゃなくて、「とりあえず今の頑張った部分(できたところ)をよろこぶ」のはどうでしょうか。 例えばフルマラソン。 いきなりそこそこの記録を出せる人はいません。それどころか、いきなり完走できる人もそういないでしょう。 どんな人でも、少しずつ練習を積み重ね、走行距離を伸ばしていきます。 並行して、柔軟体操や筋トレなどもしますよね。 完走という目標を達成するために、まず今、その頑張ったこと、やったこと、そのこと一つだけ、それだけに注目してみたいのです。 42.195キロのうちの、たった1キロなのかもしれない。でもまず1キロ走った! こんなふうに、「とりあえず今の頑張った部分(できたところ)」を、「その頑張った程度ぐらいによろこぶ」というのなら、ハードルが下がりませんか? 大満足じゃなくていいんです。小満足。 100%自信満々、じゃなくていいんです。その5%くらいだけとか。 こうい

大人げない/子どもっぽい

クライエントさんが、自分を「大人げない」とか、「子どもっぽい」と語られることがあります。 そういう自分に対して、恥ずかしい、悔しい、いたたまれない、もどかしい、辛い、イライラする、というような気持ちを感じています。 そして、落ち込み、自分を情けなく思い、自信を感じられなくなっています。 例えば「イライラして怒ってしまう自分をどうにかしたい」というご相談。 このテーマでカウンセリングに訪れる方は、怒りは家族に対して向けられることが多いようです。それ以外の人に対しては自制がきいていたり、さほど気にならなかったりしています。 家族や近い人なので大切にしたい、大切にすべきと思いつつ、イライラする気持ちを押さえられず、ドスドス歩いたり、ドアをバタンとしめたりなどで表してしまうことも多く語られます。 そして、そうやって「大人になれない」自分に対して、さらにイライラを感じてしまうのです。 また別のテーマとしては、「人とうまくコミュニケーションができない」というものがあります。 こういうときの「人」というのは、全ての人ではなく、自分が苦手なタイプの人と上手くコミュニケーションできないというものです。 一番苦手だと感じてるのが、配偶者だということも珍しいお話ではありません。 こういう配偶者の様子で共通しているのが、理路整然とたたみかけるように話して、クライエントさんの意見や気持ちに耳を傾けてくれない態度をとっているところです。上司や同僚でもあります。 クライエントさんは一生懸命話したり、なんとか論理的に話そうと思っていても、相手の勢いに圧倒されて上手くできないと思ったり、感情があふれてしまったりします。 相手の話のペースに巻き込まれ、自分が話したいことからズレていってしまっても、自分の話にもどすことができない。 こういう強くて勢いのある態度を取る人を苦手だと思ってしまう。 でも一方で、そんなふうにしっかりと話せない自分は「子どもっぽい」とも思ってしまう。 私は、20歳代のころ、ある活動を一緒にしていた女性が語ったことが今も強く印象に残っています。 その女性は賢く、落ち着いて、丁寧に、明確に、しっかりと話をする人で、私はとても尊敬していました。 そのころの私は、自分のふがいなさや至らなさが嫌になったり、自分にがっかりすることがよくありました。 そして、その女性の年の頃(60歳代)には、