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自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

セラピー・ジャーニー ~ぴったりのセラピストに出会う旅

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アメリカやイギリスなどの英語圏では、自分にぴったり合うカウンセラー/セラピストに出会うまでを「セラピー・ジャーニー」と言うそうです。   自分にぴったり合うセラピストを探すのは、簡単ではありません。 この動画に出ている女性・サフランは、複雑性PTSD、鬱、不安障害の診断があり、初めてセラピーを受けたのは13歳。 そして現在のセラピストまでに5人と会ってきたそうです。 まさに「出会いの旅」。 最初からぴったりと合う人を見つけられるかもしれませんし、何人もの人と試してみる必要があるかもしれません。 ぴったりだと思っていても、続けるうちに変化していくかもしれません。 動画中のセラピストによると、セラピストを判断するためのポイントは3つ。 セラピストとの関係 どのようなタイプのセラピーか テーマとする問題に適しているかどうか 日本の事情を加えると、  4.支払い可能な料金かどうか、あるいは交渉可能かどうか  5.継続の頻度や間隔が、自分の希望に合っているかどうか こういうことも含まれると思います。 思い切ってためしてみたけれどイマイチだった…というのは、労力もお金も時間もかかることなので、なかなかハードな作業です。 ですが、「1回(数回)試してみよう」というお気持ちでスタートされることは、全く構いませんし、大歓迎です。 なにより大切なのは、あなたの「旅」であること、 そしてそれがよい旅になること。 ご縁があれば、しばらくお時間を共にし、 ご縁がなくても、ひとときの出会いは大切なものと思っています。

クライエントとセラピストの関係と社会的位置~「ポラリスが降り注ぐ夜」から

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台湾出身の作家・ 李琴峰 さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」について短いエッセイを書く機会がありました。 「ポラリスが降り注ぐ夜」筑摩書房 7つの短編が収められていて、それぞれの短編の主人公が別の物語でも関係し、7つで全体を構成しています。 主人公、そして他の登場人物も、セクシュアル・マイノリティ。 李琴峰さん自身もレズビアンであることを公表されています。 エッセイを書こうとして、はたと立ち止まりました。 私は、誰に向けて、どう書こうとしているのか? 私はシスジェンダー女性です。 シスジェンダーというのは、生まれた時に当てられた性と、自分自身の性認識が一致していることを言います。つまり、性自認においてマジョリティです。 そして、シスジェンダー男性と法律的な婚姻をしています。ここでもマジョリティ。 「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいると、登場人物の痛みが、それぞれの物語の中で、それぞれの形や温度で伝わってきます。 セクシュアル・マイノリティとして生きていくことの痛み。 それは、マジョリティによってもたらされた痛み。 そうして痛みをもたらしている側にいる私は、この本について、どう書くのだろう? ということが、私を立ち止まらせました。 心理療法においても、セラピストとクライエントの、それぞれの社会的背景を踏まえてセッションを進めることの重要性が指摘されるようになっています。 セラピストは、セラピストという立場自体が、クライエントよりもパワーを持っています。 それに自覚的であるために、セラピスト自身が、自分の社会的位置を表明してセッションを進めるというやり方がある、と教えていただいたことがあります。 これは、双方ともが、開かれて安全な関係を作っていくためのプロセスです。 ですので、「決まった正しいやり方」があるわけではありません。 何がよいのか、どうすればより良いのか、一緒に探っていくことになります。 先のエッセイについては、ひとまず書いたものの、モヤモヤ感は残ったままでした。 自分の様々な意味での力不足はベースにありつつ、モヤモヤ感自体が、次へつなげてくれるのかもしれない、とも思いました。 終わりにせずに、自分の中で起こっていることを見つめていくプロセス。 カウンセリングと同じだなと思った次第です。

No feeling is final:どんな感情も最終地点ではない

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リルケの詩に、次の一節があります。 すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない この一節は、映画「ジョジョ・ラビット」の最後、エンドロールの直前に映し出されているので、ご存知の方も多いでしょう。 英語はこうです。 Let everything happen to you: beauty and terror. Just keep going. No feeling is final. 詩の原語はわからないのですが、英語からは、字幕とは異なるニュアンスを感じます。 字幕は、おそらく映画の展開に沿ったものなのかと思います。 こちら↓は私訳。 物事が起きるままにするのだ:美しいことも恐ろしいことも ただそのままに。 どんな感情もそれが最終地点ではないのだ。 カウンセリングは、このような時間や体験。 こんなふうに、今ここで、自分に起きている感情や感覚を、ただそのままにしていく。 深い喜びも、耐えられないのではないかと思うような悲しみや怒りも。 なぜなら、終わらない感情はないのです。 そしてその感情の向こうに、新しいものが開かれていくからです。 とはいえ、「感情をそのままに感じること」「耐えがたい感情に触れること」は、とても難しかったり、不安や恐れを感じたりします。 カウンセリングでサポートするのはここ。 あなたのなかで湧きおこったものを、ただただ大切にしていけるようサポートしていきます。

扉が閉じてしまったとき

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「今」が、これまでのように、こうやって続いていくだろうと、 それを意識するまでもなくここまできたけれど、その道が突然途絶えてしまうことがあります。 パートナーからの突然別れ話 家族の別離 大切な人の死 全力をかけてきたけれど叶わぬ結果 望まぬ転居… 一本の道の先が続いていると思っていたのに、突然目の前に重い扉が現れて、立ち止まざるを得なくなる、 そんなイメージが心の中で表されます。 扉を開けようと、押したり引いたりしてみたり、 でも扉はびくともせず、茫然と扉を見つめる。 身動きのとれなさ、 失われた未来 とまどい、悲しみ、怒り、不安 さまざまに襲いかかる感情に打ちひしがれる。 こんな辛いことはありません… そういうとき、その扉の前で、少し休みませんか。 カウンセリングでは、おひとりにせず、一緒にお供します。 あなたが自ら閉じた扉ではない、 それは明らかです。 一緒に悲しみ、怒りたいと思います。 そうして、十分に立ち止まり、十分に心も身体も休めてみると、 そこに新しい道があったことが見えてきます。 想像していた方向や、望んでいた方向ではなかったけれど、 思ってもみなかった新しい道。 「可能性」という道。 そこへ一歩踏み出すこと、 その道を歩んでいくこと、 それもまた、カウンセリングでは伴走させてもらいたいと思っています。

AEDP(加速化精神力動療法)をベースにしたカウンセリング

※この記事は、2021年にウェブサイトのプロフィール欄に記載していたものです。今回ウェブサイトを編集したため、こちらに改めて掲載することにしました。 社会人になってからのことです。 周りの人たちに、とても辛い出来事が起こりました。 私も、辛い気持ちにおそわれて、 毎日、毎日、涙を流していたものです。 のちに、嵐そのものは、止んでいったのですが、 心の中は静まっていないことを知り、 以下のような思いを抱くようになります。 「人は、心の中に安心と平和がもたらされなければ、 問題が解決したとは思えないし、 新たに歩みを進めようという気持ちにはなれない」 心の安心と平和は、どうすればもたらされるだろうか。 そのために、私は、何ができるだろうか。 心の奥深くに関心を持つようになった私は、 心理士への一歩を進み始めることにしました。 心理士として、いろいろなことを学び、 たくさんの人に支えられ、そうして出会ったのが、 AEDP™心理療法というセラピーです。 私がおこなうカウンセリングのベースとなっています。 ​ なぜ、AEDPなのか。 それは、AEDPを通して、 私自身の中に、 大きな感動と深い感謝が生まれたからです。 トレーニングでは、 講師がおこなった実際のセッション動画を視聴します。 そのとき、クライエントの劇的で素晴らしい変化を いくつも目の当たりにしました。 ​ 人が持っている生きる力。 人と人とが触れ合う中で生まれる慈愛の温かさ。 ​ トレーニングを受けた人たちは皆、 これらに深く心を動かされ、涙を流します。 ​ 私も、その一人でした。 AEDPをベースにした カウンセリングを始めてからは、 クライエントの素晴らしい力、 さらには、自分自身を生きる輝きに、 何度も胸を打たれています。 ​ こういう体験を一緒にさせてもらえることに、 深い感謝の気持ちを抱かせてもらえました。 ​ AEDPが大切にしていることは、 自分の感情や感覚をしっかりと感じること。 自分自身に深く触れること。 そして、ちから。 ​ あなたが、苦しみの中で、 ここへアクセスされたのは、 苦しみから抜け出そうとする「ちから」が あなたの中にあるから。 今まで、物事がうまくいかなかった と、感じているかもしれませんが、 それは、あなたが自分なりに「ちから」をつかって、 一生懸命がんばってきたからこその証

あなたの心に響く言葉

ブログを書き始めてから、書くことや文章、言葉についてよく考えます。 小説、エッセイなどを読んでいて、スルリと入ってくるものもあれば、どうにも引っかかってしまうものもあったり、 じんわりと響いて余韻が残るようなものや、心の中の本棚にそっと大切に置いておきたくなるようなものもあれば、 要点だけ掴んで読み飛ばしていくものや、途中で止まって放置しているようなものもあります。 X(Twitter)のほんの短い文章でさえ、不思議とその人の「質感」が現れていて。 どうしてなのかなぁと、 好きな文章と、そうでもない文章に触れながら、どう違うのかしばらく考えていました。 今のところ浮かんでいるのは、私は、書かれている内容ではなく、その文章からその人自身が感じられるかどうか、 書き手が、文章によって自分自身を隠すのではなく、文章によって自分自身を現わしているかどうか、 文章がその人自身かどうか、 ということに反応しているようだと気づいてきました。 こんなふうに感じるようになったのは、カウンセリングでの経験からなのだと思います。 カウンセリングは、二人で言葉を交わすことで進んでいきます。 カウンセリングにおいて、カウンセリングが「意味あるもの」となるのは、 「何について話したか」という内容よりも、 語られた言葉が「まことの言葉」なのかどうか 言葉と言葉の間にあるものもまた、「まことの間」なのかどうか 言葉を交わす二人の間がつながっているか 「意味あるもの」になるやり方や"タイプ"は、クライエントさんによってそれぞれ。 自分の中から言葉をじっくりと紡ぎ出すようなプロセスもあれば、 いろいろ話してみながら、そこからだんだんと浮かび上がってくるプロセスもあったり。 話してよかったなぁ 言葉になってよかった… こういう体験になったらと思いながら、 わたしもまた一緒に言葉を味わいたいと思っています。

「わかってもらえた」と感じられるまで

クライエントさんにとって、「わかってもらえている」と感じられることは、何よりも大きく、大事なことです。 私自身もクライエントとして、あるいはスーパーバイジー(指導者からカウンセリングについての指導を受ける者を「スーパーバイジー」と言います)として、「わかってもらえている」と感じられることがどれほど重要か実感します。 そういう自分自身の経験も踏まえて、私がカウンセラーとして日々思うのは、クライエントさんの忍耐力への感謝です。 自分の思いを、傷つきや苦しみを、自分自身を、それをまだ知らない私へ伝えようと頑張ったり、努力したりしてくれていること。 自分なりのやり方、自分なりの言葉を探ってくれていること。 それをするのに力を使い、気をつかい、頭も身体もつかっていること。 「わかってもらえていない」と感じる苦しさ、哀しさ、難しさ、空しさ、孤独感がありながらも、見切りをつけずに続けてくれているとき、 私のカウンセリングを受けることによって辛い気持ちをCLさんが感じることに、私もまた苦しくなり、恥じ入る気持ちが大きくなります。 同時に、踏ん張ってくれているその思いに応えたいという思い、 踏ん張ってくれていることへの深い畏敬と感謝があります。 私への不満や怒りをはっきりと出してくれたならば、それは私にとってとても助かりますし、有難いことです。 修復への糸口を提示してくれたのですから。 何となくのような違和感や居心地の悪さをCLさんは感じてるのではないか…、と私の方がつかめたとしたら、それを大事にしたい。 「わかってもらえた」という体験は、それ自体がカウンセリングでとても重要ですが、 そこへ至るまでのプロセスも重要です。 「わかってもらえた」という体験へ至るまでに、どれほどのエネルギーをクライエントさんがかけているだろう、 それをいつも心に置いています。

思いを声にすること

クライエントさんの内側にたくさんの思いがあるけれど、それが言葉にならないとき。 言いたいことはあるけれど、言葉にして言おうとすると止まってしまうようなとき、 クライエントさんの身体では、それが喉に現れることが多くみられます。 「喉に何かが詰まった感じがします」とか、「喉が締め付けられる感じです」と語ってくれます。 喉は、ギュッとした緊張感が現れたり、ゴクリと飲込む様子があったりします。 思いをまだうまく言葉にして伝えられない小さい子どもは、大声で泣いたり、大きな動きが出たり、叫び声のようなもので表したりします。 子どもが身体全部を使って表そうとするエネルギーは、大人になると、喉まわりに集約され、締め付けや詰まりとして現れているのかもしれません。 それは、思いを自由に、声にして出すことができないということを象徴しているようでもあり、身体に刻み込まれているようでもあります。 出したものを、思いっきり拒否されたり、 出しても相手に届かなかったり、 出すと批判された経験や、 出したらひどい目にあった、など そうすると、思いが現れることはネガティブな経験として記憶されるでしょうし、そういう思いを繰り返さないよう、思いが出ようとするのを喉が全力で止めるのも道理があります。 喉は、「危ないよ!」と、まるで門番のように注意深く守っているイメージがわきます。 そういう意味では、喉まわりは、これまで一生懸命頑張ってきてくれたのですよね。これ以上危ない目にも、辛い目にもあわないように…。 でもカウンセリングでは、その緊張を解きほぐし、内側にあった思いを、自分の言葉で、自分のペースで、自分の声で出していくことを応援しています。 そうやって出てきてくれた声は、クライエントさんそのものであることが、聞いている私にもしっかり伝わってきます。 思いがのった言葉、その声は、目には見えないものですが、確かに「ある」のです。 聞いている私にも伝わり、私も感じるその確かさは、「あぁ!!!」と腸(はらわた)に響くというか…、これを言葉では表す能力がないことが悔しく残念です~。 「言いたいこと」の内容よりもむしろ、クライエントさんの内側から立ち現れてきたものを、ただそのままに表出したとき、 それが「本当の声」。 クライエントさんが、喉を解放/開放し、声を自由に出させてあげるという体験。 私も現在挑戦中です。次

カウンセリングにおける「声」

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カウンセリングにおける「声」。 いろいろな側面を取り上げたいと思うので、何回かに分けて書こうと思います。 今回は、声の響きについて。 「声」はカウンセリングにおいて、とても興味深い要素です。 声は、発する人が、発する響きを身体で感じながら、同時に、耳から聞こえてくる音としても身体で感じています(音は波動なので、皮膚でも感じ取っています)。 また同時に、その声は聞き手に届き、聞き手の身体で感じます。 こうやって身体で感じ合う声は、話している内容以上に、身体に響きとして(また無音または間として)体験されています。 クライエントさんがある出来事を話しているとき、 私がクライエントさんに何かを伝えたとき、 意味として理解するだけにとどまらず、声の音の感じにも注意を向けながら、ゆっくりと聞いてみると、また違う体験が起こることがよくあります。 少しペースを落として、声が身体で響く様子、耳から聞こえてきて、身体に浸み込む様子、 大切な「ことば」については、こういう体験をしてみると、驚くほど違う体験になることがあります。 こういうときは、身体を、聞こえてくるもの・響いてくるものに預けていくような、そういう感じで、ゆっくりと行い、それを私はサポートしていきます。 このテーマについて、別の視点からも取り上げてみましょう。 以前、乳幼児健診における心理相談をしていたことがありました。 お部屋には、子どもが自分で手を延ばして手に取れる高さに絵本が数冊置いてあります。 どれも子どもに読み継がれている絵本なのですが、人気の1冊が、「もこ もこもこ」(谷川俊太郎・作、元永定正・絵)でした。 なんとも不思議な絵本なのです。 シンプルな形、明白な色彩と、短いオノマトペだけ。 子どもに読んであげると、どの子も食いつくように見て/聞いています。 カバーや紙が薄手なので、子どもが思い余って破ってしまってボロボロになっていました。 作者の谷川俊太郎さんが朗読している動画はこちら。 この絵本を読むとき、私は全身で読みます。絵と音に浸り、「しーん…」と言うときは、身体も「しーん…」として止まっています。 「もこっ」と言うときは、お腹から何かが出てくるような。 身体から読み上げる声の響きが子どもにも伝わっていきます。 この絵本で体験されることは、物語の言葉での内容ではなく、声と色彩の感覚世界。読み手のオノマトペの

カウンセリングが合わないと感じたとき

カウンセリングを始めてみたものの、満足できない、止めたいと思われたとき。 せっかく勇気を出してアクセスしてくださったのに、ご希望に添えなかったことは、大変心苦しく、本当に申し訳なく思います。 その感覚は大切にしていただきたいですし、どのような選択でも応援したいと思っていますので、中断や中止もしっかり受け止めたいと考えています。 カウンセリングには様々な治療方法があり、それぞれ異なる特徴があります。 一般の方にはとてもわかりにくいことですし、選択しづらいことでもありますので、無料コンサルテーションでご希望を伺い、それに合う心理療法の選択肢をご説明させていただきます。 これは、目的地までのルート選択というイメージです。 カウンセリングでもう一つ重要な点が、セラピストとの相性です。 これは、目的地までの同伴者のイメージです。 クライエントさんが、「違うルートがいい」と思ったり、「もっと自分に合った同伴者を探したい」と思われたならば、それを応援したいと思っています。 カウンセリングの効果において重要なのは、ルート選択以上に、同伴者であるという効果研究の結果があります。 カウンセラーの私は、クライエントさんのペース、歩き方、リズムや呼吸などに合わせていきます。 特に、クライエントさんの身体や気持ちに合わせていくことを心がけています。 「早くたどり着きたい!」と気がせくときは、その思いは大切にしつつ、身体やこころが自然に進んでいくようなペースを一緒に感じていきたいと考えています。 ですが多くのクライエントさんは、自分自身のペースやリズムではなく、他者(カウンセラー)のペースやリズムに合わせようとします。 これは、日本文化的な側面もありますが、それ以上に、一生懸命人に合わせようとしてきたり、人に合わせなければ生きていくことが困難だった、ということがあります。 ですから、クライエントさんに大事にしてもらいたいこと、そして私にとっても大事なのは、カウンセリングをしている中で感じた「違和感」や「引っ掛かり」です。どんなに小さなものでも。 これはクライエントさんが自分のために歩む道なのですから。 カウンセリングが上手く進んでいくときは、社交ダンスやチームダンス、合奏・合唱、フィギュアスケートのペアなどのように、二人の呼吸やリズムが合っています。 私は、クライエントさんが意識・無意識に感じ

セラピューティック・プレゼンス

先日、私がカウンセリングで主に用いているAEDP™セラピーのトレーニングに参加しました。テーマは「セラピューティック・プレゼンス」。 カウンセリング(心理療法)において、効果をもたらすいくつかの要素の中で、クライエントさんの前でセラピストがどのようであるか、クライエントさんとセラピストとの関係がどのようであるか、ということが重要であるという研究結果が出ています。 セラピューティック・プレゼンスは、セラピストの「ありよう(プレゼンス)」という意味です。 セラピューティック・プレゼンスは、 今ここにオープンであること、 今ここで起きていることをそのままに経験していくこと、 共にいて、感じ、関わっていくこと というようなことを指しています。 これが、カウンセリングに重要なのです。 プレゼンス。 これまでどんな人の、どんなときにプレゼンスを感じたかを思い出してみたのですが、3つぐらいのカテゴリがあるかなと思いました。 1つは、静謐な存在感が伝わってくる人。 私やほかのことに気づいていても気を取られず、ただただ「あるがまま」のような状態にいます。座禅中や瞑想中のような感じです。 その静かな存在感に、だんだん私も、その人のことも他のことも気にならなくなっていって、自分の内側の世界に入っていくような、そういうプレゼンスを示す人です。 2つ目は、一緒にいてくれている、と強く感じられる人。 “本当に”私の話に、私の言葉に、耳を傾け、心を傾けていて、寄り添っている、一緒にいるということをしっかりと感じさせてくれます。 その深い関りに、緊張感が解け、自分自身が現れてくるような、そういうプレゼンスを示す人。 3つ目は、後からじんわりと響き、ずっと心に残る人。 一緒にいたその時は、当たり前のような、何でもないような時間だったけれど、いつの間にか心の大切な場所に残っています。 出会えてよかったなあ、有難いことだなあと、思い出すたび感じる、心の中に存在(プレゼンス)する人。 セラピストとしての私は、正直、十分な「セラピューティック・プレゼンス」があるかどうか自信がありません。 (それでトレーニングを受けているわけですが。) 今も、これからも、大事な課題だと思っています。

話したくないことは話さなくていい

カウンセリングでは、話したくないことは話さなくて構いません、もちろん。 こんな書き出しを読んで、ホッとするでしょうか。それとも、不安になるでしょうか。 その両方を感じるかもしれません。 話したくない話。 話したいけれど、言葉にならない、言葉にするのが難しい話。 秘密、というわけではないけれど、心の中から外には出て行かない、出て行けないようなこと。 話したくない、話せない、と私に言ってくれるならば、 それがあるのだ、ということを伝えてくれています。 それを伝えてくれていることを、大切にしたいと思っています。 また、それを伝えてくれることに深い感謝の気持ちがわきます。 クライエントさんの心の中に、重要な「何か」があるのだということを共有してくれたことに。 話をする、というのは、なかなか力がいることだと思います。 それが重要な出来事や記憶であるほど、そこには、たくさんの思いや反応が埋め込まれています。 相手に「正しく」理解してもらうためには、何度も何度も推敲するような労力が必要でしょうし、もしかしたら、もうこれまで散々その努力をしすぎてきて、ヘトヘトかもしれません。 話さなくていい、というのは、こういう労力を一人で負わないでほしいな、という思いがあります。 前回 で触れましたが、「物語」をつくっていく過程をサポートしたいと思います。 話したいけれど、しんどくなってしまうということもあります。 その時の出来事が甦ってきて、その時に感じたことや感覚が強まっていくと、自分の手に負えない不安や恐怖感が大きくなります。 その時にそんなにも辛い経験をされたのですから、カウンセリングでまたそれを感じてほしくありません。 クライエントさんが、自分の心の中にあるそれと、距離を取りすぎるのでもなく、近づきすぎるのでもないぐらいを感じながら、その話のある一片に注目してみるということもできます。 ”その話”を語らなくても、カウンセリング中の今、ここでは、たくさんのことが起こっています。 話さないでいいって言われてどんな気持ちになったか。 話したくないと思ったときに、どんなことが起きているか。 話さないでいると、身体や心では何が起きているか。 できれば伝えてもらいたいと思うのは、このような、「今、どんなことが起こっているのか」。 そこには、たくさんのものがあります。 カウンセリングはこんなふうにし

回復のための物語を織る

たくさんの禁止のメッセージによって、自分がどうしたいかわからなくなるだけでなく、嫌悪感が自分自身に向かい、自分を恥ずべき存在で無価値だと感じるようになるということについて、 前々回 、 前回 書いてきました。 前回 の最後、コメディアンのハンナ・ギャズビーが、こんなふうな深い傷つきからの回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと言っています。 物語には笑いや怒りもあるはず。 でも回復に必要なのは、その笑いや怒りの感情や体験自体ではなく、それを通して物語っていくことです。 自分自身の物語。 それは、世界との関りの中で紡がれていきます。 語る人がいて、聞く人がいる。 聞いていた人が語り、語っていた人がそれを聞く。 物語はこうやって、一人ひとりの中に織られていきます。 「ムーミン谷の夏まつり」では、ムーミンパパが作った脚本での演劇が始まりましたが、当初予定していなかった人たちや観客がどんどん舞台にあがっていき、劇が「劇」じゃない方向へ展開していきます。 これは即興「劇」になってしまったようでいて、生活や人生は「舞台」そのものであり、そこで繰り広げられることは「劇」そのものだということを表しているようです。 こんなふうにもともとの脚本がどんどん変化していったのは、突然加わった人たちとの展開。 人々とのやりとり、反応、そういったものが、「劇」をより面白く展開させていっています。 回復のために必要な物語は、どんな場や、どんな方法でもできます。 家族や友だちの間で。仲間との中で。たまたま集った人との間で。 当事者グループは、物語を比較的安全な方法でつくっていく場です。 私も以前にこういう場・時間を持ったことがあり、物語が、ゆっくりじんわりと紡がれていくことの大きさを知っています。 カウンセリングは、自分の周りの人との間で行うのには不安だったり、難しいときに利用すると良いのだと思います。 自分とカウンセラーという、とても小さな枠の中で、カウンセラーは、織機の縦糸のような存在としてイメージするのはどうでしょうか。 ピンと張られた縦糸。それはいつも同じ状態でそこにあります。だからそれを気にすることなく、自分のペースで、自分の入れたいように横糸を織り込んでいく。 こうして自分のリズムやペースがつかめていくなかで、きっと自分だけのすばらしい織物が出来上がっていきます。 

セルフ・ケアを成功させる極意。

安心する、って難しいかもしれません。 安心の気持ちや感じを知らないならば、そもそも、それがどんなものかわからないでしょう。 何となく知っているようでも、いつもどこかに緊張感や不安があるなら、”本当の”安心感や安心の体験とは思えない。 不安や緊張感などが続くと疲れてしまいます。疲れが慢性的になると、眠れなくなったり、身体的な不調にもつながります。 本やウェブサイトには、セルフ・ケアや安心のためのハウツーがたくさんあり、具体的に示してくれています。 セルフ・コントロールのために、参考にして取り入れている方も多いのではないでしょうか。 自分のセフル・コントロールやセルフ・ケアが上手くいっているかどうかは、「良い感覚が少しでもあった」、ということを目安にするといいと思います。 また、良い感覚はなかったとしても、「前よりはマシ」という感じがあったなら、それもOKです。 そしてここが重要なのですが、 その良い感覚やマシな感じがずっと続いていなくてもいい のです。 その理由。 それは、「安心感」を感じるために大切なのは、安心している状態やリラックスした状態が続いていることではなく、 安心感の体験がちゃんと起きていること だからなのです。 ほんの少しであっても、たとえ一瞬であっても、自分の身体と心は、安心の感覚へと変化できている。 そしてそれに自分で気が付けている。 これはセルフ・ケアにおいてとても重要で、ほんの少しでも、ほんの一瞬でもあるならば、セルフ・ケアは上手くいっています。 自分の身体と心はちゃんと反応している。そして、自分はそれをちゃんと知っている。 逆に、やってみたセルフ・ケアなどで、良い感覚は感じられなかったし、マシにもならなかったならば、その感じを感じた時に、その方法は、ひとまず今は止めましょう! それは自分には(今は)合っていなかっただけです。 感じられなかったことは、努力や工夫が足りないのではありません。 何よりも、「あれ?良くなってないぞ?」「あんまり変わらないぞ?」と 感じていること自体 が、とてもとても大切なのです。 セルフ・ケアを、こんな視点から見てほしいなと思うのは、こういう積み重ねは、自分の身体や心への信頼感を作っていくプロセスでもあるからなのです。 カウンセリングでは、クライエントさんが気が付いていることだけでなく、気が付いていなさそうなことにも目

自分が、自分の一番の友だちになる

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カウンセリングで行うことを一言で述べるとするならば、「自分が、自分の一番の友だちになること」です。 苦しんだり悲しんだりしている中で、最も苦しめたり悲ませているのは、実はクライエントさん自身であるという側面があるのです。 「自分は不十分だ」「自分はたいしたことない」「自分が悪い」というように自分を責めていたり、 時々うける褒め言葉や喜びの言葉を、「受け取るに値しない」とか「気を遣って言っているに違いない」と受け取れなかったり、 もっとより良い自分に、より素晴らしい自分にならなければと追い込んでいたり、 辛くて苦しい気持ちを閉じこめて耐えさせようとしたり、 周りから攻撃されているのがわかっていても、何もできなかったり。 自分を苦しめたり悲しませるやり方は、こんなふうにいろいろです。 こんなふうに自分に厳しくなっていたり、自分自身に対してお手上げな気持ちになっているのには、もちろん、理由や背景があります。 緊張感をもって生きてこなければならなかったでしょうし、それが続いて感覚がマヒしたようになってきていたりもします。 カウンセリングで行うのは、こんなふうに自分を攻撃したり、いじめたり、発破をかけたりしつづける自分ではなく、 ただ一緒にそばにいて、肩を抱いたり、見守ったり、やさしく声をかける自分を育てていくことです。 作家の高橋源一郎さんは、人生相談の回答で「あなた自身を救い出してあげる」という表現を度々されています。 「自分を救い出す」。 そのために私がカウンセリングで行うのは、クライエントさんに、「あなたが思ってるような、そんな自分じゃないよ」ということを伝えていくことです。 素晴らしいことがいっぱいあって、できていることもいっぱいあって、 ものすごく頑張っているし、よくやっているし、 うまくいったかどうかや、結果がどうかではなく、これまでの「道のり」、そのプロセス、試行錯誤、それはただただ、すごいことだった!ということ これを私は何度でも何度でも伝えたいのです。 まず、私が手を差し出していきたいのです。 差し出した私の手が見えて、その手をそっと握ってみようかと思えたり、 私が一緒にいるということを感じてもらえたりして、 そういうことに少しずつ慣れていくうちに、私の声がクライエントさんの心に届いていって、 そうして、自分を慈しむ自分が生まれてきます。 初めは恐る恐る、

オンラインでのカウンセリングってどうでしょう?②

以前にも書きました が、コロナ禍以降、オンラインでのカウンセリングが一般的になりました。 そして、対面とオンラインのカウンセリングの効果などについての研究も示されてきています。 私はこれまで対面でカウンセリングを行ってきましたが、コロナ禍でカウンセリングを開業し、オンラインのみで行っています。 前回書きましたように、対面とオンラインで、実施上の違いはあるものの、カウンセリングの進み方や「効果」の点では違いがないと感じています。 私がカウンセリングで用いているAEDP™という心理療法のアプローチは、アメリカのAEDP™研究所によるものです。その研究所の教員によるトークイベント(ウェビナー)が先月あり、このテーマが挙げられました。 そこでも、オンラインという環境でも違いはないというお話が、教員からも参加者からも出されていました。 その理由の一つとして話されたことは、クライエントさんがいる場所についてでした。 クライエントさんの多くは自宅からアクセスされています。 そこは「自分の」場所。 いつもいる、慣れている空間にいることが、クライエントさんにとって安心感につながっているのではないかというお話でした。 オンライン以前は、クライエントさんはカウンセラーの場所を訪れる、というやり方でした。 そこに慣れるまでは、クライエントさんにとっては、きっと緊張感を感じながらお部屋に入っていたと思います。私自身、カウンセリングやSV(カウンセリングの指導)を受けるときは、部屋に入るまで、そして入ってから少しの間、緊張感を感じていました。 そこは「カウンセラーの場所」なので、カウンセラーの空間/世界に入っていくことに伴う緊張感があるのだと思います。 ご自宅ではなく、ネットカフェ等からアクセスされる方もおられます。 そこは自分の「場所」ではありませんが、カウンセラーの場所でもありません。 馴染んだ場所ではないですが、誰の場所でもない。 そういう安心感があるかもしれません。 オンラインならではの「場所」。それがクライエントさんにとって、カウンセリングにとって良い側面となっている可能性を、私もオンライン・カウンセリングを行う中で感じています。

肩書の洋服を着た「私」と、裸の「私」と。

ものすごく前なのですが(20年前?30年前?)、今もよく覚えている新聞記事があります。 書いていたのは、当時、大学教員として有名な女性。現在は別の領域で活動されています。 内容は、小さい子どもを公園に連れて行って遊ばせている時、自分が、「大学の有名な先生」ではなく、「○○ちゃん(子どもの名前)のお母さん」という、無名の存在になることの心地良さについて書いていました。 自分でも不思議なのですが、その時の印象が、今も記憶に残っています。 先生の学問分野が、私が当時興味を持っていたことで、先生の活躍は、私にとっては憧れでもありました。その人が、そうではないことについて心地よさを感じていたことに、意外な気持ちになったのかなと思います。 成長するにつれ、大人になるにつれ、人は、いろいろな立場性や属性を持ったり、意識するようになります。 仕事や学校の中で、家族の中、地域などで、どんな立場にいるか、 逆に、そういう立場を持たないという立場性、 性別の認識、 年齢 人種や民族などなど 他にも、いろいろな立場や属性があります。 これらは全部、周りから来たものです。 そうして、認識したり、意識するようになったその立場や属性が、「私」をつくってもきました。 だから、自分がどのような立場や属性でいるかということは、「私」にとって、とても重要な要素になります。 一方で、そのような立場性や属性という洋服を脱いだ「本当の私」がいる、 そういうことを思ったことはありませんか? 何者でもない、ただそのままの「私」。 でも、これらは普段、さほど区別してないような、ごちゃごちゃになってるような、 というよりも、「本当の私」は感じられないままでいるということのほうが多いのではないかと思います。 最初に書いた大学の先生。その方は、いつもの大きな属性ではない自分でいられていることに気づき、心地よさを感じていました。 「大学の先生」「お母さん」という属性が変化するさまを心地よく感じていたのが、その方の最も中核の部分、つまり、「本当の私」だったのではないかと思います。 カウンセリングでは、まわりからきて、自分の内側でも規定しているようなたくさんの属性や立場性を大事にしつつ、 それが「本当の私」にとってどういうものなのか、 そして「本当の私」はどう感じてるのか、 それを、行ったり来たりしながら感じていくプロセスがあ

毒親の「毒」を解いていく

「毒親」という言葉。 私からは使わないようにしています。 その理由は、家族の状況や関係はそれぞれに違っているし、そのなかで経験したこと、そのことがどんなふうに影響しているかも、一人ひとり違っているからです。 クライエントさん自身が自分の親をそう「認定」されていたら、私も同じ言葉を使いますが、そうでない場合は使いません。 ですが今回はあえて「毒親」という言葉からスタートしたいと思います。 「毒親」が子どもたちにやってきたことは、明らかにひどい暴力から、「ひどいこと」だと気づきにくいレベルまで幅が広いのですが、「私の親は毒親だと思います」と言うクライエントさんとのカウンセリングから、共通するものを感じています。 それは、子どもの心を見ていない、ということです。 「毒親」のほとんどは、自覚がないようです。 自分がやっていることは「毒」だとは思ってなくて、むしろ「正しいこと」だとか、「良かれと思って」いたり、「仕方がなかった」と正当化するとか、「子どもが大変だったし」と子どものせいにしていたりすることが見られます。 子どもの心を見ていない、感じていない、というのは、 見ようとしない、感じようとしないという人や、 見ているつもり、感じているつもりの人まで、さまざまなです。 いずれにしても、「毒親」は自分のレンズを通して、見えているものだけ、見ようとするものだけを見ているというのが特徴のように思います。 そして、子どもの方が、親の眼の焦点が合うように、さまざまな工夫や努力を重ねてきました。 その努力は、子どもによってさまざまです。 親が見えているものを見せる子ども 親が見えていないから、自分を見てもらえるように工夫し続ける子ども 親が見えても大丈夫なことだけ見せようとする子ども この絶え間ない努力。それは、焦点が合えば、親はちゃんと見えるようになるのではないか、見てくれるのではないか、という、切なる願いからきていると思います。 その、見てもらいたかった本当の「自分」 知ってほしかった「自分」の思い。 カウンセリングでは少しずつ感じていけるようにしたいと思っています。 前回 、 前々回 で、「嫌だと言えるかどうか」ということをテーマに書きました。 これも同じことなのです。 「自分」という主体が感じること。 そしてそれをあらわすこと。 それが尊重され、認められ、受け止めてもらえ、応

差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログ で、差別とカウンセリングについて取り上げました。 アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。 それでずっと考えていました。 私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。 差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。 これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。 ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。 短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。 「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。 差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。 そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。 同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。 でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。 「モヤモヤ」はここにもありました。 被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。 これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。 人の心の中は自由だ、 それは確かにそうです。 でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。 女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。 「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。 そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。 このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。 趣味や服装などのような、単なる好