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「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」

「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」 崔実さん著作の「 pray human 」の中の会話です。 本当に辛いとき。 それは言葉にならない。言葉にできないもの。 あまりに深すぎて、重すぎて、 あまりに強すぎて、苦しすぎて、 語るよりもずっと手前のところでうずくまるような。 言葉になる前に引きずり込まれてしまうような。 そして痛みを言葉にすることで、 それが「ほんとう」になってしまう不安や恐怖。 沈黙は、カウンセリングの中でよく生まれます。 私はむしろ、クライエントさんが沈黙の中に留まれるよう、促していきます。 他者といても沈黙していられる、 それは一人ではない、他者(私)がいるなかで、 自分の内側に、 自分の世界に入って、 じっくりとそこに留まること、 その世界で感じられるさまざまな感情や感覚を受け取っていくこと カウンセリングでの沈黙は、そういう時間です。 初めてのセッションで、何を話したらよいか戸惑って、言葉にならないという方は少なくありません。 そういうとき、私は、 「言葉が出てくるまで、ゆっくり待ってみてあげませんか」 と言うことがあります。 私(セラピスト)のペースではなく、クライエントさん自身の内側から出てくるペースを、一緒に大事にしたいなと思うのです。 そうすると、ただ、一緒に沈黙の中にいる時間が流れることがあります。 クライエントさんの目から涙がこぼれてくることもあります。 「でも、その方がずっと痛みが伝わってきた。人が沈黙しているときこそ、最も耳を傾けるべき瞬間なのかもしれないね」 「pray human」での、タイトルの会話のあとに続く言葉です。 「沈黙に耳を傾ける」。 カウンセリングではもう少し付け加えたい…。 一緒に沈黙する。 その沈黙のそばにいる。

体力づくりも自己肯定も、今日一日の積み重ねから

自分のことを「これでいい」とか「まぁOK」となかなか思えない というお話は、カウンセリングでしばしば語られます。 私がクライエントさんに、「がんばったんですね」と言うと、 ちょっと戸惑った表情を見せて、そして、 「・・・・自分なりにがんばったんだと思います。でも、☓☓☓・・・」 この「☓☓☓…」のところには、不十分さ、不完全さ、不満足感が続きます。 だって、私はそこまでじゃないから。そんなにたいしたことじゃないから。頑張ったかもしれないけど結果が伴ってないし。 だから気持ちは満たされない。 OK出せるような自分じゃない。 だからもっと頑張るしかない。もっと気遣いすべき。もっと我慢が必要。まだ努力は足りない…。 私はここで、ふたつ、伝えたいです。 ひとつめは、その真面目さ、真摯さ。 自分を甘やかしたり、なまけたりするんじゃなくて、頑張ろう、こなそう、なんとかしようと、やっぱり頑張っているんだ、と思います。 そういうふうにやってきたって、やっぱりすばらしいことだと思います。 (ここでまた、「そうかもしれないけど、いつもじゃないですよ」とか、「だけど頑張ってようやく平均レベルなんです」とか言う声が聞こえてきそうな気もします…笑) でも中身や結果じゃない、その純粋な一生懸命さは、ただただ、そのまま大切にしてほしい姿勢だと思うのです。 そしてふたつめは、このブログのタイトル。 「自分でOKと思えるまで頑張る」じゃなくて、「とりあえず今の頑張った部分(できたところ)をよろこぶ」のはどうでしょうか。 例えばフルマラソン。 いきなりそこそこの記録を出せる人はいません。それどころか、いきなり完走できる人もそういないでしょう。 どんな人でも、少しずつ練習を積み重ね、走行距離を伸ばしていきます。 並行して、柔軟体操や筋トレなどもしますよね。 完走という目標を達成するために、まず今、その頑張ったこと、やったこと、そのこと一つだけ、それだけに注目してみたいのです。 42.195キロのうちの、たった1キロなのかもしれない。でもまず1キロ走った! こんなふうに、「とりあえず今の頑張った部分(できたところ)」を、「その頑張った程度ぐらいによろこぶ」というのなら、ハードルが下がりませんか? 大満足じゃなくていいんです。小満足。 100%自信満々、じゃなくていいんです。その5%くらいだけとか。 こうい

「ようこそ」のあたたかさ

私は子どものころ、転校を繰り返していました。 活発でも明るい性格でもなかった私にとって、転校はとてもストレスなことでした。クラスに馴染み、学習に追いつき、学校生活を乗り切るのに、毎回大変な思いをしてきたことを覚えています。 新しい学校に移ったときのことを思い返してみると、学校や先生が、私を歓迎する態度を示してくれた記憶がありません。転校がストレスとして記憶されているのは、そのためかもしれません。 朝、担任の先生と一緒に教室に向かい、挨拶をしたら、指定の席に座るように言われ、そのまますぐに、他のみんなにとっての「いつもの」授業が始まっていました。どの学校でも同じでした。私は自己紹介しますが、どの学校でも、先生やクラスメートの自己紹介はありませんでした。施設のオリエンテーションも、もちろんありません。 一番衝撃的に覚えているのは小学校3年生のとき。2学期の途中での転校でした。 転入の挨拶を終え、席についたら、先生が「〇〇をやろう」と言いました。 クラスのみんながワッと歓声を上げ、うれしそうにノートを机に広げていました。何をするのかわからなかったのですが、私もみんなと同じことをしようと、とりあえずノートを机に出しました。 そして先生が黒板に式を書きました。 見たこともない式でした。 り+み=50 り3+み4=170 私は全くわからず、どうしたらいいかもわからず、ただ座っているだけでした。 そうすると一人、そしてまた一人と、ノートを持って子どもたちが先生の机に行きます。先生は丸付けをしているのでした。 いつの間にか、クラスの全員が先生の机から一列に並び、私一人がぽつんと座っていました。 黒板の前に一列に並んだクラスメートは、みんな私を見ていました。 あの時のいたたまれない気持ちは、今でも覚えています。 わからなかったのは当然でした。 それは、中学の数学問題(方程式)だったのです。 「〇〇をやろう」の〇〇がわからなかったのもそのためでした。 (「り」はりんご、「み」はみかん。「り3」は「りんごが3個」、「み4」は「みかんが4個」と意味していました。x+y=50、3x+4y=170と同じ意味です。) あの先生は、なぜ私が来た初日に、小学3年生がわかるはずもない問題を出したんだろう。 そして私には何のフォローもアドバイスもなく、机に一人放置したんだろう。 あの頃私は、そんな疑問を

大人げない/子どもっぽい

クライエントさんが、自分を「大人げない」とか、「子どもっぽい」と語られることがあります。 そういう自分に対して、恥ずかしい、悔しい、いたたまれない、もどかしい、辛い、イライラする、というような気持ちを感じています。 そして、落ち込み、自分を情けなく思い、自信を感じられなくなっています。 例えば「イライラして怒ってしまう自分をどうにかしたい」というご相談。 このテーマでカウンセリングに訪れる方は、怒りは家族に対して向けられることが多いようです。それ以外の人に対しては自制がきいていたり、さほど気にならなかったりしています。 家族や近い人なので大切にしたい、大切にすべきと思いつつ、イライラする気持ちを押さえられず、ドスドス歩いたり、ドアをバタンとしめたりなどで表してしまうことも多く語られます。 そして、そうやって「大人になれない」自分に対して、さらにイライラを感じてしまうのです。 また別のテーマとしては、「人とうまくコミュニケーションができない」というものがあります。 こういうときの「人」というのは、全ての人ではなく、自分が苦手なタイプの人と上手くコミュニケーションできないというものです。 一番苦手だと感じてるのが、配偶者だということも珍しいお話ではありません。 こういう配偶者の様子で共通しているのが、理路整然とたたみかけるように話して、クライエントさんの意見や気持ちに耳を傾けてくれない態度をとっているところです。上司や同僚でもあります。 クライエントさんは一生懸命話したり、なんとか論理的に話そうと思っていても、相手の勢いに圧倒されて上手くできないと思ったり、感情があふれてしまったりします。 相手の話のペースに巻き込まれ、自分が話したいことからズレていってしまっても、自分の話にもどすことができない。 こういう強くて勢いのある態度を取る人を苦手だと思ってしまう。 でも一方で、そんなふうにしっかりと話せない自分は「子どもっぽい」とも思ってしまう。 私は、20歳代のころ、ある活動を一緒にしていた女性が語ったことが今も強く印象に残っています。 その女性は賢く、落ち着いて、丁寧に、明確に、しっかりと話をする人で、私はとても尊敬していました。 そのころの私は、自分のふがいなさや至らなさが嫌になったり、自分にがっかりすることがよくありました。 そして、その女性の年の頃(60歳代)には、