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根は生きている

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昨年、ほんの2,3日であっという間に盆栽を枯らしてしまいました。 葉が急にしおれ、枯れていったのです。 うかつでした…。 盆栽初心者のアルアルですが…(泣) でも、もしかしたら木は生きているかもしれない、翌年にはまた葉が出てくるかも、と思い、植え替えをし、水やりや肥料を続けていました。 そうしたら…! …新しい芽吹き! 木の部分はやはり完全に枯れてしまっていたのですが、根はまだ生きていたのです。 「樹木たちの知られざる生活」には、500年ほど前に切り倒された切り株が、実はまだ生きているということが書かれています。 葉のない切り株は光合成ができないので生きていけないはずなのですが、近くにある他の木の根を通じて栄養を受け取っている、ということが書かれていました。 私の盆栽は鉢植えなので、他の木から栄養をもらっていたわけではないのですが、根が生き続け、そこから新しい命を生み出しているというのは、深い驚き、そしてよろこびがありました。 いえ、新しい命というのではなく、全体が命そのもの。 植物は、人のこころのメタファーとして受け取るものが多いなぁと感じているのですが、 心が暗く沈んだり、エネルギーを感じられないような中でも、 細胞の一つひとつ、身体そのものは命を続けていて、 それは頭や心では感じられなくても、確かにあるのだ、 そういうことを、この小さな盆栽から感じました。 …そうしてしばらくすると、また新しい芽が。 盆栽としては、「美しさ」の基準からは外れてしまったと思います。 でもこれもまた一つの世界。一つの宇宙。 そういう気持ちで、お世話を続けようと思っています。

自分と世界を遮る壁

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孤独のイメージって、どんな感じでしょうか。 真っ暗な場所の隅で一人うずくまっている ブロックの高い壁や鉄条網に囲まれていて外に出られないし、誰も入ってこられない 分厚い開かずのドアの前で立ちすくんでいる 真っ暗な夜の海に浮かぶ小舟 そこから出たいという気持ちと、 出るのは怖いという気持ち。 誰か助けに来てほしいという気持ちと、 誰にも入ってほしくないという気持ち。 孤独のイメージの中にいる「私」は、こんな相反する気持ちに揺れ、引き裂かれ、疲れ果ててしまいます。 「私」と、その「場所」や「障壁物」を分けてみることができると、 「私」がいた場所に入り口ができたり、その場所が開かれて、「私」に少しずつ近づいていくことができます。 「私」と一緒に、しばしの間留まってみて、そこから、その障壁物や場所を見てみると、 それが「私」を守るために存在したのだということが降りてきます。 障壁物の強固さ、誰もいない場所のその広さが、 「私」を守るためのものなのだったとわかります。 こんなにも強さや距離が必要なのだったと。 障壁物や場所の強さや広さがしてきた意味を知ると、その壁や部屋、場所は、喜んでくれます。 「私」を守ろうとしていることに、誰も気づかなかったし、「私」にさえその意味を忘れられていたのですから。 そうしていくと、障壁物も場所も、「私」を守る方法を変えてくれるようになります。 やりすぎないぐらい、ちょうどよいぐらい、大丈夫なぐらいを、 障壁物や場所だけに頑張らせないでいられる こんなプロセスが心の中で起きていきます。

自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

扉が閉じてしまったとき

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「今」が、これまでのように、こうやって続いていくだろうと、 それを意識するまでもなくここまできたけれど、その道が突然途絶えてしまうことがあります。 パートナーからの突然別れ話 家族の別離 大切な人の死 全力をかけてきたけれど叶わぬ結果 望まぬ転居… 一本の道の先が続いていると思っていたのに、突然目の前に重い扉が現れて、立ち止まざるを得なくなる、 そんなイメージが心の中で表されます。 扉を開けようと、押したり引いたりしてみたり、 でも扉はびくともせず、茫然と扉を見つめる。 身動きのとれなさ、 失われた未来 とまどい、悲しみ、怒り、不安 さまざまに襲いかかる感情に打ちひしがれる。 こんな辛いことはありません… そういうとき、その扉の前で、少し休みませんか。 カウンセリングでは、おひとりにせず、一緒にお供します。 あなたが自ら閉じた扉ではない、 それは明らかです。 一緒に悲しみ、怒りたいと思います。 そうして、十分に立ち止まり、十分に心も身体も休めてみると、 そこに新しい道があったことが見えてきます。 想像していた方向や、望んでいた方向ではなかったけれど、 思ってもみなかった新しい道。 「可能性」という道。 そこへ一歩踏み出すこと、 その道を歩んでいくこと、 それもまた、カウンセリングでは伴走させてもらいたいと思っています。

自分のままでいられる世界へ ~絵本「ボルカ」から

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今回はジョン・バーニンガムの絵本、「ボルカ」(ほるぷ出版)を取り上げたいと思います。 ガチョウの夫婦に6羽の子どもたちが生まれましたが、そのうちの1羽のボルカには羽が全くはえてきませんでした。 お医者さんガチョウに診てもらいましたが、羽がないこと以外はどこも悪くありません。 羽がなくて寒いボルカのために、お母さんガチョウは羽を編んで着せてやりました。 でもそれを他のきょうだいたちは笑い、いじめました。 一緒にいたくないボルカはひとり隠れていたので、泳いだり飛んだりすることを覚えられませんでした。 忙しいお父さん・お母さんガチョウは、そんなことが起きているとは知らず夏が終わり、ボルカがいないことに気づかないまま、暖かいところへ旅立って行ってしまいました。 ここでは、障がい、そして、いじめ・虐待というテーマが連想されます。 先日参加したビブリオバトルで「ボルカ」を紹介された方は、「こんな経験をした人がいるんじゃないか、ボルカのような気持ちになったことがあるのではないかと思います」と言っていました。 お母さんガチョウはボルカのために羽を編む〝親心”は持っていますが、ボルカの痛みは知らないまま。ボルカを深く支える存在として描かれていません。お父さんガチョウも心配してお医者に連れて行っただけ。 きょうだい間でのいじめは親の無関心・無関与によって起きているさまが現れています。 「みにくいアヒルの子」と違う「ボルカ」のお話の魅力はここからです。 ひとり残されたボルカ。 とぼとぼと歩いていくと入り江に泊まる船が見えます。 雨をよけるために船に乗り込んだところ、犬のファウラーに吠えたてられました。でも事情を知ったファウラーは吠えるのを止め、ボルカを寝場所につれて行ってあげました。 ボルカは船乗りたちとも仲良しになり、一緒にロンドンまで行くことになります。 家族に置いていかれたひとりぼっちボルカでしたが、育った場所を離れていったことで、新しい出会いがありました。 ファウラーに吠えたてられるという命の危険にさらされながらも、話をすることで船の仲間になります。 これまでとは違う存在、これまでとは違うやりかた、 そこから新しい方向が開かれて行きます。 ロンドンに着き、船長はボルカを キュー植物園 に連れて行きました。 ガチョウだけでなく、いろんなかわった鳥たちも一緒に暮らすキュー植物園。だれ

声を受け止める。

「声」シリーズのブログ、これまでは、なかなか言葉にならない、声にならないことについて書いてきました。 その一方で、一方的に“持論”をぶちまけるような人もいます。 自分の意見や考えを、他者の隙入る間がないような強い勢いで語り、ただ自分の意見を通そうとしているだけように見えます。 こういう人に出会うと、私は黙ってしまうことが多いと思います。 クライエントさんにも、精神的虐待をする親、モラハラのパートナーや上司などから高圧的に一方的に言われて、自分の思いをちゃんと言えないことを苦しく感じていたり、言い返せない自分を不甲斐ないと責めてしまう人がいます。 これは言い返せない方の問題ではありません。 それは、対話ではないからです。 対話は、声をぶつけるものではない。声を届けるもの。 一方的な人は、対話の経験がないのかもしれない、と思った経験がありました。 大学院のとき、海外のドラマセラピーの先生の特別講義に参加しました。 ドラマセラピーは、文字通り、演技を通してのセラピー。 その先生はホロコーストの生存者家族なのですが、ホロコーストの被害者と加害者の対話の方法としてドラマセラピーを行ってきた方でした。 戦争の被害と加害をテーマにしたその特別講義では、会場からの語りを受けて、ステージ上で、プレイバックシアターが行われました。 プレイバックシアター :観客や参加者が自分の体験した出来事を語り、それをその場ですぐに即興劇として演じる(プレイバックする)独創的な即興演劇。芸術的な側面を持つ一方で、その場で演じるもの(アクター)、語るもの(テラー)、観るもの(観客)が互いにつながり合い、「自分のことを語る、他者の気持ちを受け止めてそれを味わう、そしてそれらを表現する」ことを通して、共感や知恵、勇気や癒しをも、もたらされることになる。そのため、劇場の舞台はもちろん、ワークショップや教育の場、臨床や治療現場など広く活用されている。(Wikipediaより) 何人かの即興演劇の後、私のすぐ近くの高齢男性が指名されました。講義の初めから何度も手を挙げて語るチャンスを求めていたその人は、ようやく手にしたマイクに向かい、とても強い勢いで、日本の侵略戦争を正当化する話と、韓国・朝鮮への攻撃を語りました。ヘイトスピーチそのものでした。 私は、怒りで打ち震えながら、涙が流れていました。すぐ近くに、知り合い

回復のための物語を織る

たくさんの禁止のメッセージによって、自分がどうしたいかわからなくなるだけでなく、嫌悪感が自分自身に向かい、自分を恥ずべき存在で無価値だと感じるようになるということについて、 前々回 、 前回 書いてきました。 前回 の最後、コメディアンのハンナ・ギャズビーが、こんなふうな深い傷つきからの回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと言っています。 物語には笑いや怒りもあるはず。 でも回復に必要なのは、その笑いや怒りの感情や体験自体ではなく、それを通して物語っていくことです。 自分自身の物語。 それは、世界との関りの中で紡がれていきます。 語る人がいて、聞く人がいる。 聞いていた人が語り、語っていた人がそれを聞く。 物語はこうやって、一人ひとりの中に織られていきます。 「ムーミン谷の夏まつり」では、ムーミンパパが作った脚本での演劇が始まりましたが、当初予定していなかった人たちや観客がどんどん舞台にあがっていき、劇が「劇」じゃない方向へ展開していきます。 これは即興「劇」になってしまったようでいて、生活や人生は「舞台」そのものであり、そこで繰り広げられることは「劇」そのものだということを表しているようです。 こんなふうにもともとの脚本がどんどん変化していったのは、突然加わった人たちとの展開。 人々とのやりとり、反応、そういったものが、「劇」をより面白く展開させていっています。 回復のために必要な物語は、どんな場や、どんな方法でもできます。 家族や友だちの間で。仲間との中で。たまたま集った人との間で。 当事者グループは、物語を比較的安全な方法でつくっていく場です。 私も以前にこういう場・時間を持ったことがあり、物語が、ゆっくりじんわりと紡がれていくことの大きさを知っています。 カウンセリングは、自分の周りの人との間で行うのには不安だったり、難しいときに利用すると良いのだと思います。 自分とカウンセラーという、とても小さな枠の中で、カウンセラーは、織機の縦糸のような存在としてイメージするのはどうでしょうか。 ピンと張られた縦糸。それはいつも同じ状態でそこにあります。だからそれを気にすることなく、自分のペースで、自分の入れたいように横糸を織り込んでいく。 こうして自分のリズムやペースがつかめていくなかで、きっと自分だけのすばらしい織物が出来上がっていきます。 

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

安心が怖い

安心、リラックス、楽… こういう感じを、深く深く感じたいというのは、誰もが心の底から願っていることではないでしょうか。 「安心」のタネは、お母さんのお腹に宿ったときに撒かれます。 お腹から出てきてからは、育ててくれる大人がたくさんの「安心」をくれることで、安心の感覚を身体が覚えていきます。 成長するにつれ、言葉でのやりとりも「安心」を確かなものにしていきます。 こういう経験の積み重ねによって「安心」のタネは育っていくので、これらが十分・適切になかったならば、安心を感じることが難しいと感じられるでしょう。 十分・適切になかったというのは、逆に言えば、危険な状況や、大丈夫かもしれないけれど先が見通せない不確定な状況の中にいたことが多かったということです。 そうすると、いつも緊張感を保っていなければならない状態になります。そうしなければ、周りの人や状況にすばやく対処できないですから。 緊張感を常に保っていると、それを緩めるのは怖いですし、不安です。 緊張感を緩めていいことがなかった経験があるほど、その恐怖や不安は大きくなります。 安心を感じるのが難しいのは、こういう背景があります。 安心を感じたい。でも緊張感を緩めるのは怖い。 これは、よく見られることです。 安心と緊張という両極端の拮抗の間にいるのはとても辛いので、たいていは慣れ親しんだ緊張状態へ自分を持って行きます。 そうすると、困惑や絶望的な気持ち、自分はダメだ、というような気持ちになったりします。疲労困憊で、救世主のような人が現れること、突然人生が変わるようなことを求めたい気持ちになったり。 こういうこともごく普通で、ごく自然なことです。 安心の体験は、まず、ほんのちょっぴりから始めるのをお勧めしています。 世界が変わるような深い安心やリラックスではなく、「え?」と思うぐらいの小さな小さな安心。 そんなちっさい経験だと深い満足感がないんですけど(笑)、でも、緊張に満ちた心身は、そのくらいだと道を譲ってくれるようです。 誰でも皆、「安心のタネ」を持っています。 安心のタネはいつでも芽吹くのを待ってくれています。 一気に成長させ、花を咲かせるのではなく、ゆっくりでも確実に、タネの育つペースのままに、安心の体験を積み重ねていく。 安心は、こうやって「慣れ」ていくことができます。

背負いすぎている荷物

生きてきた中で背負ってきた荷物。 望まないにもかかわらず乗せられてしまった荷物や、自ら引き受けて負った荷物。 下ろせるものならば下ろしたい。 けれど、どうやって下ろしたらよいのかわからないとか、 誰も引き受けてくれないから、下ろすことはできないとか。 荷物がこんなにも大きく重いことも、 それなのに下ろして軽くすることができないことも、 どちらも辛いことです。 カウンセリングではしばしば、「肩の荷が下りたような感じ」という体感を表現してくださることがあります。 そこまでに至るプロセスはいろいろなのですが、 苦しんだ自分に気づき、悼み、悲しみ、 それを私と分かち合うなかで、 大きな息が吐きだされたあとに、肩の荷が下りて軽くなったような感覚を体験されます。 本当に大きく、重い荷物でした。 でも、ここに至るまで、それを背負って歩まざるをえなかったのですよね。 よく歩いてこられました。 よくここまでたどり着いてこられました。 「小休止」を体験されると、本当に背負うべき荷物や自ら背負っていきたいと思う荷物と、下ろしてもよい荷物とが、すっきりと整理されます。 そして、荷物を下ろしてみる。 負わなくてもよい荷物がない軽さを感じると、視線は、次の一歩へ向いています。 下ろした荷物に名残惜しいような気持ちも感じながら、でも、 向かいたいその先には、広がる空や地平線が見えてくるというお話をしてくださいます。 私はそこで、その明るく輝く空や、広がる地平線を一緒に感じさせてもらうのです。 こんなにも大きな荷物を背負いながらも歩んでこられたクライエントさんの力強さや忍耐力に敬意を感じながら、同時に、 新たな歩み、これまでとは違う歩みを、おだやかながらもしっかりと前を見て踏み出す、その確かさに、 人の生きる力と素晴らしさを感じさせてもらいます。

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

萌芽更新~修復と成長

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春を迎え、初心者ガーデナーである私は、作業がしたくてウズウズする季節です。 仕事や家庭の用事があると、どうしても庭仕事は後回しになってしてしまいますが、先日は思い切って時間を作りました。 作業のときはいつも無心になっていくので、心のモヤモヤしたものや疲れなどが、不思議と軽くなるのを感じます。 初心者なものですので、図書館で、たくさん庭づくりの本を借りました。 その一つにこんなことが書いてありました。木を切断した切り口の観察から生まれたモデル(CODIT)についてです。 「(CODITモデルを簡単に言うと)木は枯れたり腐り始めたところに、強力な壁を作って、健康な部分にまでその影響がおよぶのを防ぐってことなんだよ。木の防御本能ってすごいんだよ。」 『ポール・スミザーの剪定読本』ポール・スミザー著、講談社 人も、誰かや何かに心を傷つけられると、もう二度とこんな辛い思いで苦しまないように、心は警戒し、防御を働かせる機能があります。 はっきりと覚えているような大きな出来事だけでなく、小さな傷つきの積み重ねでも、この強力な防御の働きは生まれます。 傷みはつらく、苦しい。 生きていく最後の力を保っていくためには、その傷みの影響を小さくする必要があるかもしれません。防御は、そこで機能してくれているのです。 自分なりに獲得した防御が上手く機能し、心身の健康がある程度維持できているのであれば、それは「よい防御」であり、「必要な防御」でしょう。 切り取った枝の跡は残っても、木と一体化した特有の美しさがあるように。 枝を適切に切り取ることで、幹の生命力が増すように。 里山の管理に、「萌芽更新」という木々の再生方法があるそうです。 「広葉樹を伐採した翌年には、根株からびっしりと休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新である。また、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む。」(wikipediaより引用) 木は自らを防御しながら、いえ、防御することで、生命力を維持している。 こんな木を見ると、木の生命力、たくましさ、空に向かって伸びる若木のみずみずしさに、心が動かされます。 ロンドン南東部のサリー州に、イギリス国防省の医療リハビリテーション・センターがあり、復員兵士がPTSD治療を受けて

苦難の後の「成長」(ポスト・トラウマティック・グロース)

PTSDやトラウマという言葉は、かなり一般的になりました。 とても衝撃的な出来事を経験したり、それに触れたりするなどによって(トラウマ)、強いショックを受け、それが心身の不調などに現れることをいいます(PTSD)。 一方、「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」というのは、大きな心の傷を受けた後に、ストレス状態から回復し、さらに「成長」する、自分が成長したと感じられることをいいます。 死の危険にさらされるようなトラウマ体験に限らず、このような変容は起こります。 人生に起きる苦難、試練、逆境。 自ら望んだわけではありませんから、その苦しみ、痛みは非常に辛いものです。 しかしそこから、何かをつかんでいく人もたくさんいることを、私は臨床を続けているなかで、確かに見てきました。 例えば離婚。 自らが望まないなかでの離婚は、とても辛く苦しいことです。 同時に、相手への怒りがかきたてられたりもします。 複雑な気持ちを見ていくと、自分の両親との関係や、子どもの時に経験した、さまざまな心の傷が現れてくることもあります。 苦しくて辛い気持ちですが、その気持ちにもっと近づくことができていくと、自分自身や家族、これまでのこと、いろんなことを振り返って見ていけるようになることがあります。 「感謝」の気持ちは、その先から生まれてきていることが多いです。 辛さや哀しさがなくなっているわけではない。 でも同時に同じくらい、感謝の気持ちが生まれてくるのです。 それは、自分に起きた出来事を振り返ることができているなかで、わかったこと、見えたこと、感じたことがあって、 そうやってわかったことで、新しい自分になれているような感じが生まれています。 それが感謝だと。 「自分の人生を生きている」。そういう感じが伝わってきます。 「ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ。」 (「ゲド戦記Ⅲさいはての島へ」ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店) クライエントさんが「感謝」を感じているときの語りには、クライエントさんが、自分の人生に起きたことを受け入れ、それを自分のものにした力が伝わってきます。 私が、自分自身の経験からも、たくさんのクライエントさんとの出会いからも思うのは、辛い出来

「THE INVITATION」~真実の自分を感じる

THE INVITATION という詩があります。 ずっと以前に発表され、インターネットを通じで広がり、日本語にも翻訳されています( 『ただ、それだけ』 オーリア・マウンテン・ドリーマー 、小沢瑞穂・訳、サンマーク出版/残念ながら品切れ重版未定です)。 私がこの詩に出会ったのは、大学院の授業でした。 カナダのトロント大学から招聘された先生の「スピリチュアル教育」の授業です。 先生が言う教育におけるスピリチュアリティとは、魂が動かされるようなこと、という意味。それが子どもの成長にとても大切なことなんだというテーマでした。 例えば、「このタイルを2段飛ばしであそこまで行きつく!」と決めて集中しているような瞬間(子どもアルアル)。 浜辺で光るガラスのかけらを見つけて大喜びし、大事に宝物箱にしまうとき(親にとってはゴミ~)。 そういう、子どもが熱中しているときの瞳のきらめき、それがスピリチュアリティだと。 その授業では、学生それぞれの「スピリチュアル」な体験をシェアし、それをみんなで味わうという、とても心が満たされる時間でした。 この感覚は、カウンセリングセッションの中でも大切にしている体験です。 深く心が動かされるような感情体験。 それは、身体中が感覚で満たされたり、突き動かされたりするような体験です。 THE INVITATIONの詩に戻りますが、作者のOriahさんは、その先生と同じトロントの方でした。しかも以前私が滞在したところからすぐ近くに事務所があったことを知りました。 この詩がずっと私の心に残っているのは、こういうつながりに感じるものがあったからかもしれません。 この詩のメッセージはダイレクトで、パワフルです。Oriahさんの、ネイティブアメリカンのシャーマニズムの体験からきているのだろうと思います。 あなたがどこで何を誰と学んできたかに興味はない 私が知りたいのは すべてが消え去ったとき あなたの内側から支えるものは何か (11パラグラフ目より) 私は、このパワフルさにひるんでしまいそうになる一方、仲間がいるんだ、というような気持にもなります。こんなふうに思うのは、とても勇気がいることであり、孤独な気持ちにもなる。でも、遠くで、こういう人がいるんだ、というような気持ち。 この詩が、インターネットを通じで、たくさんの言語に翻訳されて世界中に広まったのは、こんな

ずっと深い土の中にある種、それはあなた

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私は車を運転しているときにラジオを楽しんでるんですが、 昨日、ベット・ミドラーの「ローズ」が流れてきました。 何回聞いてもいい歌だな…と思います。 初めて聞いたのは、ずっと以前、ラジオの英会話講座でした。 とても感動して、そのページは切り抜き、お守りのようにずっと手帳に挟んでいました。 歌の後半にこんな歌詞があります。 Just remember in the winter Far beneath the bitter snows Lies the seed that with the sun's love In the spring becomes the rose 【日本語訳】 思い出して。 冬、凍えるような雪のずっと下に種はあって、 太陽の愛を浴び、春には薔薇が咲くということを。 人からの攻撃や批判、無視、圧力などをたくさん受けてきた人は、それに苦しむだけでなく、その批判などを自分の中にも取り込んでいて、自分自身を責めるようになります。 DVや虐待、いじめなどを経験すると、自分自身を「価値がない」とか「不十分だ」とか、「私が悪い」というように、自分を傷つけるような思いを持つようになってしまうことはあるのです。 それでもその中で、クライエントさんの内側にある「力」が感じられることがあります。 そういうときは、私は、その力に注目したくなります。 その力は、この歌と同じ。 凍えるような雪のずっと下にある種。 セッションの中では、その「種」にもっと注目したいと思います。 その種は息吹き、芽を出し、根を張り、美しい花や、大きな緑の木へと成長するもの。 私もこの歌に支えられてきたなと思います。 たくさんの人がカバーしていますが、日本語訳の字幕がある動画をリンクします。 あなたの中の種を、感じてほしいと願いながら。 (広告が出たら、隅の「☓」をクリックしてくださいね。広告が消えて、字幕を見ることができます。)

どこでもいい、逃げる場所があるなら、そこへ逃げよう

西原理恵子さんが連載している「りえさん手帖」第196回(毎日新聞2021年7月26日朝刊)に、こういうコマがありました。 「小学校の休み時間は(意地悪の)標的にされないようにいつも図書室に逃げてた。 たくさんの絵本が私を救ってくれた」 ※括弧内は私が補足したものです。 2020東京オリンピック開会式のドタバタの中で、いじめ問題がありました。そのいじめ行為の中に、図書室ですごす子どもを揶揄する表現があり、とても胸が痛んでいました。 私も、図書室を心のよりどころにしていた時期があったからです。 西原理恵子さんのマンガは、そのすぐ後に掲載されていました。 大人になって、今、はっきりと思うし、断言できるのは、 「そこがまだ少しでも安全だと感じられるなら、そこに逃げていい!」 図書館でも。保健室でも。校庭の片隅でも。 それは、自分が自分のために、自分を少しでも守るためにとっている行動。 「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」 (『西の魔女が死んだ』梨木果歩、新潮文庫) いじめられた経験がある人は少なくないと思います。 カウンセリングのなかでも、過去のいじめ体験のお話が出ることがあります。 話しているなかで、それが今のクライエントさんに影響していることも浮かび上がってきます。 カウンセリングの中では、その過去の体験についてのワークをすることがあります。 ワークで大切なのは、 その時は、助けがなかったり、 一人だったり、 何もできずに耐えるしかなかったり、 そういう出来事だったかもしれない。 でも、カウンセリングの中では、今、ここでは、その痛みを抱えているクライエントさんを一人にはしない。 そうやって、痛みだけの記憶を、違うものに書きかえる、というワークができます。 過去を変えることはできない。 でも、苦しんでいる今の自分を変えることは、不可能ではない。 それが、カウンセリングで、カウンセラーと一緒におこなうものです。