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ケアと「境界線」① 奪われた「私」という存在

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ケアは、一人では生きていることができない、生きていることが難しい状態、困難をどうにもできないでいる人や動物などに対して、そのそばにいる人が、自分の身体と時間と心を差し出すこと。 小さなケアから、日々の大きなケアまで、ケアは人と人をつなぎ、ともに生きていくうえでとても大切な営みです。 でも、ケアが「私」という存在を奪うことも起きます。 イスラエルの社会学者であるオルナ・ドーナト著作の「母親になって後悔してる」は、世界中で翻訳され、大きな反響がありました。日本でも多くのメディアでとりあげられています。 子どもを持ったことは後悔していない、子どもは愛している、でも母親になったことは後悔してる。 この思いは、「母親とは献身的で、愛情深いもの」という社会神話の影にある、母親という役割の過重な負担からきていることを、この本は記しています。 「母親」という役割=仕事は、ケアそのもの。 前回のブログ でも書きましたが、ケアは、他者の存在と深く関わるコミュニケーション。 「母親」を課せられたとたん、ケアは毎日延々と続きます。 赤ちゃんの頃は、母乳やミルクをあげ、おむつを替え、寝かせて、というような、身体への関りが主ですが、次第にこころの交流でもケアが大きくなっていきます。 このように、他者(子ども)の様子によって自分が動かなければならない状態が続くと、「私」でいる時間は必然的に少なくなっていってしまう。 薄れてしまった「私」は、いつのまにかケア対象の人に同化してくことが見られます。 そうして、「私」でいられないことへのストレスやフラストレーションを感じたり、自分自身が「自分」という存在を忘れてしまうような状態にまでなることもあったりします。 他者へのケアが続きすぎて自分が失われてしまうような状態にまでなるのは、「母親」に限りません。 「アダルトチルドレン」は、依存症の親を持つ子どもが、親の保護者のようになっていることを指す言葉ですが、これも、親へのさまざまな「ケア」の結果です。 親が依存症でなくても、親が困難を抱えていたり、精神的に不安定だったりしていた場合に、親への過重なケアの関係は生まれます。 こうして、過度なケア、一方的なケアは、「私」という境界を侵食していってしまうのです。 散歩で見つけたハートの石。 でも、どれほど浸食されていったとしても「私」は決してなくなることも消えるこ...

毒親の「毒」を解いていく

「毒親」という言葉。 私からは使わないようにしています。 その理由は、家族の状況や関係はそれぞれに違っているし、そのなかで経験したこと、そのことがどんなふうに影響しているかも、一人ひとり違っているからです。 クライエントさん自身が自分の親をそう「認定」されていたら、私も同じ言葉を使いますが、そうでない場合は使いません。 ですが今回はあえて「毒親」という言葉からスタートしたいと思います。 「毒親」が子どもたちにやってきたことは、明らかにひどい暴力から、「ひどいこと」だと気づきにくいレベルまで幅が広いのですが、「私の親は毒親だと思います」と言うクライエントさんとのカウンセリングから、共通するものを感じています。 それは、子どもの心を見ていない、ということです。 「毒親」のほとんどは、自覚がないようです。 自分がやっていることは「毒」だとは思ってなくて、むしろ「正しいこと」だとか、「良かれと思って」いたり、「仕方がなかった」と正当化するとか、「子どもが大変だったし」と子どものせいにしていたりすることが見られます。 子どもの心を見ていない、感じていない、というのは、 見ようとしない、感じようとしないという人や、 見ているつもり、感じているつもりの人まで、さまざまなです。 いずれにしても、「毒親」は自分のレンズを通して、見えているものだけ、見ようとするものだけを見ているというのが特徴のように思います。 そして、子どもの方が、親の眼の焦点が合うように、さまざまな工夫や努力を重ねてきました。 その努力は、子どもによってさまざまです。 親が見えているものを見せる子ども 親が見えていないから、自分を見てもらえるように工夫し続ける子ども 親が見えても大丈夫なことだけ見せようとする子ども この絶え間ない努力。それは、焦点が合えば、親はちゃんと見えるようになるのではないか、見てくれるのではないか、という、切なる願いからきていると思います。 その、見てもらいたかった本当の「自分」 知ってほしかった「自分」の思い。 カウンセリングでは少しずつ感じていけるようにしたいと思っています。 前回 、 前々回 で、「嫌だと言えるかどうか」ということをテーマに書きました。 これも同じことなのです。 「自分」という主体が感じること。 そしてそれをあらわすこと。 それが尊重され、認められ、受け止めてもらえ、応...

親に対する罪悪感の苦しみ

  「親を捨ててもいいですか」のタイトルのブログ の終わりに書いた、罪悪感についてもう少し書いてみます。 このテーマ、ウェブ上でたくさん取り上げられています。 親子問題がテーマ(たいていは母と自分の関係)のカウンセリングの中で語られる罪悪感は、自分が親を満足させられない、親を大切にできない、ということからくるものです。 ところで、そもそも「罪悪感」は、文字通り、自分が行った罪や悪行に対する感情で、自分が悪かった、自分は良くなかったと思うときに感じる感情です。また、自分が十分しなかった、できなかったと考えるときにも罪悪感は生まれます。 罪悪感は、自分が自分を責める感情です。 すると、そもそも「罪」とは何か?というテーマがあります。 罪は、さまざまな側面があります。 法的、社会的、宗教的、慣習的など…。 でもカウンセリングで語られる罪悪感は、ちょっと違うように思います。 クライエントさんが感じている「罪」は、親(または「世間」)が罪だと見なすものですが、その「罪」を「犯させる」原因が親の側にあるということです。 クライエントさんにとっては、親を避けたい、親が嫌だと思うほど、親の言動が辛いのですから。 親は、クライエントさんにこういうことを繰り返し言っています。 「親にそんなひどいことを言う(する)なんて!」 「なんでちゃんと連絡くれないの!」 「私は一人でこんなに寂しいのに」 クライエントさんの罪悪感が完全に消える唯一の方法が、親が子ども(クライエントさん)に感謝したり、「あなたは十分」だと認めることですが、これは残念ながら叶わぬ幻想であることが多いです。 カウンセリングをしていくと、クライエントさんは、自分がそこまで悪いわけではないとか、自分はそこそこ十分頑張っていると思えるようになります。 しかしクライエントさんにとって苦しく難しいのが、それを心から完全には思えないこと。親が自分に無関係な存在ではないからです。 親と、また親が出すメッセージと、完全に境界をとることが、とても難しい。 ある程度はできるようになります。あまり会わないようにする、連絡を控える、一人で会わないなど。 でもそれだけでは、罪の感覚から100%解放されることはありません。 そのことを突き詰めていくと、いろいろな感情があります。 親が、私のことを大切に思ってくれていない、私の気持ちを考えよう...

「親を捨ててもいいですか」

 少し前ですが、NHK「クローズアップ現代+」で、 「親を捨ててもいいですか? 虐待・束縛をこえて」 という放送がありました(2021年5月6日放送)。 コメンテーターとして、臨床心理士の信田さよ子さんが出演されていました。 「親を捨ててもいいですか?」というタイトルには、大人になった子どもの、親に対する「責任」を前提としているニュアンスが伺えます。 信田さよ子さんは、「 母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き 」で、母の呪縛に苦しむ娘を取り上げました。 それは、私がカウンセリングで出会うたくさんのクライエントさんたちの苦しみと同じ物語でした。 それが十数年前。 母と娘の関係における苦しみは、それよりも前から、フェミニズムの中で明らかにされてきたものです。 そうなのです。このテーマは、もう何十年も前から臨床の中で扱われてきているのです。 娘が母から受けている苦しみは、さまざまです。 呪縛、コントロール、抑圧、攻撃、冷淡や無視。 カウンセリングに来るクライエントさんはみんな、そんな母の期待や要求に何とか応えようと一生懸命です。 でもどれだけ頑張っても、決して認めてもらったり、受け止めてもらったり、感謝してもらったりということがない。 その繰り返しに疲れて、要求の強い母から頑張って距離を取るようにしても、完全に距離を取ったり(縁を切るとか)、邪険にしたりできず、押し寄せるパワーに崩れまいと、必死に壁を支えているような気持ちでいる人が多くいます。 同時に、こんなふうに距離を取ってしまっていることへの根深い罪悪感にさいなまれ、苦しんでもいます。 親を捨てたい。離れたい。 でも離れることへの罪悪感が襲う。 信田さよ子さんは番組の中でこんなふうに言っておられました。 『聞く人が聞いたら不愉快でしょうけど、私は「親を捨てたい」と言わなきゃいけないところまで追い詰められてる人のことを思うと、本当に心が痛む。だからもし、私がカウンセラーとしてそういうことを聞いたら「いいんじゃないですか」、「親に対してNOって言うこともOKですよ」と言ってあげたいです。 誰もそういうふうに言ってくれないから。「親を捨てたい」、「いいですよ」なんて言ってくれないわけですから。カウンセラーぐらいは言ってあげてもいいんじゃないかと思います。』 私も信田さんの言葉に同感・同意します。 そう言わたら、どれだ...