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自分と世界を遮る壁

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孤独のイメージって、どんな感じでしょうか。 真っ暗な場所の隅で一人うずくまっている ブロックの高い壁や鉄条網に囲まれていて外に出られないし、誰も入ってこられない 分厚い開かずのドアの前で立ちすくんでいる 真っ暗な夜の海に浮かぶ小舟 そこから出たいという気持ちと、 出るのは怖いという気持ち。 誰か助けに来てほしいという気持ちと、 誰にも入ってほしくないという気持ち。 孤独のイメージの中にいる「私」は、こんな相反する気持ちに揺れ、引き裂かれ、疲れ果ててしまいます。 「私」と、その「場所」や「障壁物」を分けてみることができると、 「私」がいた場所に入り口ができたり、その場所が開かれて、「私」に少しずつ近づいていくことができます。 「私」と一緒に、しばしの間留まってみて、そこから、その障壁物や場所を見てみると、 それが「私」を守るために存在したのだということが降りてきます。 障壁物の強固さ、誰もいない場所のその広さが、 「私」を守るためのものなのだったとわかります。 こんなにも強さや距離が必要なのだったと。 障壁物や場所の強さや広さがしてきた意味を知ると、その壁や部屋、場所は、喜んでくれます。 「私」を守ろうとしていることに、誰も気づかなかったし、「私」にさえその意味を忘れられていたのですから。 そうしていくと、障壁物も場所も、「私」を守る方法を変えてくれるようになります。 やりすぎないぐらい、ちょうどよいぐらい、大丈夫なぐらいを、 障壁物や場所だけに頑張らせないでいられる こんなプロセスが心の中で起きていきます。

孤独がつのる12月に

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12月。 クリスマスや年末年始の行事が、社会を華やかな雰囲気や忙しい空気感にする時期。 寂しさや空しさは、そんな中でより一層強く感じられます。 辛く苦しい時は、明るいもの、華やかなもの、優しいものさえ、 苦しみをより一層強く、悲しみをより一層深くさせます。 孤独は、近代が生み出した感情だそうです。 宗教や共同体からの解放によって、「個人」が生まれたこと、 自由を得たことで、「個人」として孤立することになり、 孤独はそこから必然的に生まれたという考察があります。 情報があふれ、SNSで知らない人々の様子さえ自分の世界に入りこみ、 「自分」でいるために、より多くの消費や、より強いパワーが必要となり、 人との交流でさえ、自分を価値づけるものになってしまっていて、 孤独感を埋めようとしても、その深い穴を埋めるために疲れてしまう。 今はそういう時代のように感じます。 このブログに辿り着いてくださったのは、心のどこかで深い孤独感を抱えているかもしれません。 まずは、辿り着いてくれてよかった。 そして読んでくださってありがとうございます。 私は寂しさが押し寄せるときはたいてい、自然の中へでかけます。 今の時期は、木は葉を落としていても、次の小さな芽吹きを見つけることができ、 川はただただ流れる。 鳥たちも、いつものように餌をさがし、毛づくろいをし、羽を休めていて そういう「いつもと変わらなさ」の中にいることで、孤独感を心の箱に静かに収めていける感じになります。 誰もが孤独から逃れられない今の時代の中、自分なりの過ごしかたが、読んでくれたあなたにもありますように…。 【参考】 新矢昌昭(2001),近代における孤独の誕生, 佛大社会学 第26号 フェイ・バウンド・アルバーティ(2023), 私たちはいつから「孤独」になったのか, みすず書房

扉が閉じてしまったとき

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「今」が、これまでのように、こうやって続いていくだろうと、 それを意識するまでもなくここまできたけれど、その道が突然途絶えてしまうことがあります。 パートナーからの突然別れ話 家族の別離 大切な人の死 全力をかけてきたけれど叶わぬ結果 望まぬ転居… 一本の道の先が続いていると思っていたのに、突然目の前に重い扉が現れて、立ち止まざるを得なくなる、 そんなイメージが心の中で表されます。 扉を開けようと、押したり引いたりしてみたり、 でも扉はびくともせず、茫然と扉を見つめる。 身動きのとれなさ、 失われた未来 とまどい、悲しみ、怒り、不安 さまざまに襲いかかる感情に打ちひしがれる。 こんな辛いことはありません… そういうとき、その扉の前で、少し休みませんか。 カウンセリングでは、おひとりにせず、一緒にお供します。 あなたが自ら閉じた扉ではない、 それは明らかです。 一緒に悲しみ、怒りたいと思います。 そうして、十分に立ち止まり、十分に心も身体も休めてみると、 そこに新しい道があったことが見えてきます。 想像していた方向や、望んでいた方向ではなかったけれど、 思ってもみなかった新しい道。 「可能性」という道。 そこへ一歩踏み出すこと、 その道を歩んでいくこと、 それもまた、カウンセリングでは伴走させてもらいたいと思っています。

自分のままでいられる世界へ ~絵本「ボルカ」から

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今回はジョン・バーニンガムの絵本、「ボルカ」(ほるぷ出版)を取り上げたいと思います。 ガチョウの夫婦に6羽の子どもたちが生まれましたが、そのうちの1羽のボルカには羽が全くはえてきませんでした。 お医者さんガチョウに診てもらいましたが、羽がないこと以外はどこも悪くありません。 羽がなくて寒いボルカのために、お母さんガチョウは羽を編んで着せてやりました。 でもそれを他のきょうだいたちは笑い、いじめました。 一緒にいたくないボルカはひとり隠れていたので、泳いだり飛んだりすることを覚えられませんでした。 忙しいお父さん・お母さんガチョウは、そんなことが起きているとは知らず夏が終わり、ボルカがいないことに気づかないまま、暖かいところへ旅立って行ってしまいました。 ここでは、障がい、そして、いじめ・虐待というテーマが連想されます。 先日参加したビブリオバトルで「ボルカ」を紹介された方は、「こんな経験をした人がいるんじゃないか、ボルカのような気持ちになったことがあるのではないかと思います」と言っていました。 お母さんガチョウはボルカのために羽を編む〝親心”は持っていますが、ボルカの痛みは知らないまま。ボルカを深く支える存在として描かれていません。お父さんガチョウも心配してお医者に連れて行っただけ。 きょうだい間でのいじめは親の無関心・無関与によって起きているさまが現れています。 「みにくいアヒルの子」と違う「ボルカ」のお話の魅力はここからです。 ひとり残されたボルカ。 とぼとぼと歩いていくと入り江に泊まる船が見えます。 雨をよけるために船に乗り込んだところ、犬のファウラーに吠えたてられました。でも事情を知ったファウラーは吠えるのを止め、ボルカを寝場所につれて行ってあげました。 ボルカは船乗りたちとも仲良しになり、一緒にロンドンまで行くことになります。 家族に置いていかれたひとりぼっちボルカでしたが、育った場所を離れていったことで、新しい出会いがありました。 ファウラーに吠えたてられるという命の危険にさらされながらも、話をすることで船の仲間になります。 これまでとは違う存在、これまでとは違うやりかた、 そこから新しい方向が開かれて行きます。 ロンドンに着き、船長はボルカを キュー植物園 に連れて行きました。 ガチョウだけでなく、いろんなかわった鳥たちも一緒に暮らすキュー植物園。だれ

続けられること、続くことが支えになる

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私はヨガを続けて25年ぐらいになりました。 初めて経験してから、いろいろな種類のヨガに参加し、現在の先生のクラスは早10年経ちました。 約25年の間、引越しや出産等で途切れながらも、毎日の生活を送るのがやっとな気持ちだった時でも、ヨガだけは続けることができました。  ヨガは好きですが、深めたり極めたりしたいほどの熱意があるわけではなく、 ヨガに行くのがワクワクするというのでもなく、 ヨガレッスンの日以外に、自分で取り組むということもありません。 でも、「ちょっとめんどくさいなぁ」とか「気が乗らないなー」と思うことは一度もありませんでした。 地味に続けられること、続くことは、生活の上で、生きてく上で、じんわりと役にたっていると感じます。 私の友人は、心身ともにダウンし、働くことも人と会うこともできずに辛かった時期に、毎日、新聞の中で心に残った一文を書き留めるということは続けられたそうです。 何とはなしにやっていたことだったけれど、続けられていたこと、続いていたことが、支えになっていたと思うと、回復の後に話していました。 これは、「〇〇をやろう」と思ってやっていくことではなく、日々の中ですでにやっていることの中にあるように思います。 それは、心や身体が、無意識に、自然と、行っているセルフ・ケアなのではないでしょうか。 そういう何でもないようなことに小さな重みづけが感じられた時、 回復が進んでいたり、何とか日々をやり過ごせていけるようになったりしていき、 そこに、「生きている私」が姿を現わしてくるように思います。 最後に、大好きなメイ・サートンの「独り居の日記」から。 私にできることといえば、瞬間瞬間を、一時間一時間を、生き続けることだけだーーー小鳥に餌をやり、部屋を片づけ、たとえ私の内部には築きえなくとも、せめて私の身の周りに、秩序と平和を創造することだ。

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

「明日に架ける橋」になる

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調べ物をしていて(一応、心理療法についての学術的なことです…💦)、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」に辿り着きました。ふしぎ。 子どもの頃から耳にしたことのある歌ですが、改めて聞いてみて、とても響きました。 これって、カウンセリングのプロセスそのもの…! When you're weary, feeling small  When tears are in your eyes,  I will dry them all  疲れ果て、自分がちっぽけな存在だと感じ、 涙がにじんできたなら、 私がその涙を拭ってあげる I'm on your side  When times get rough  And friends just can't be found  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたの味方。 つらいときも、 友だちがいないときも、 激しい流れに架かる橋のように 私が橋になろう When you're down and out  When you're on the street  When evening falls so hard  I will comfort you  どん底にいるとき。 ひとり街をさまよい歩くとき。 夕暮れがつらく寂しいとき。 私が慰めてあげる I'll take your part  When darkness comes  And pain is all around  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたを支えよう 暗闇がたちこめ、 苦しくてたまらないときも 激しい流れに架かる橋のように、 私が橋になろう カウンセリングでは、クライエントさんを独りぼっちにしない、ということをとても大切にしています。 クライエントさんが抱えている辛い気持ち、 クライエントさんは、それをずっと一人で抱え、対処

「長生きしたくない」

「長く生きたいと思わないんです」 クライエントさんからこういう言葉を聞くことがあります。 死にたいというわけではない、 生きたくないというわけでもない。 長生きしたくない。 クライエントさんが、今、どれほどヘトヘトなのかが伝わってきます。 疲弊しているというだけでなく、孤独な労苦を背負っていることも。 選択肢がない 助けがない 逃げることができない どうしようもない そして、そんな自分に誰も気づいていない。 自分の中のこの重さ この孤独感に、 誰も気づいていないこと、 気づこうともしないこと。 孤独感がますます深まる。 やるべきことだとわかってるから、ちゃんとやるし(逃げられないし) これまで通りに生きてはいく(選択肢はないし) しんどくてもやるしかない(他の誰もやらないし) わかってる。 でもこれがいつまでも続くと思うと、 それは考えたくないくらい重い。 「不幸」まではいかないかもしれないけど、 楽しみや喜び 安心と安堵感 そういうことが見えない。 「長生きしたくない」の言葉から、 こんなふうな思いが語られます。 どれほどの苦しみや孤独感があるかが伝わってきます。 こういうことに、カウンセラーは無力だな…と思います。 立場や関係上、一緒に手伝ってあげたり、お茶しにいったりというようなことはできませんから。 カウンセリングの空間とは、クライエントさんの心の場所でもあると思っています。 その場所の土台は私が用意しましたが、建物は一緒に作り上げ、 建物を探検したり、作り直したり、飾ったり、片付けたりしながら、 自分の「居場所」をつくる。 カウンセリングはそういう作業のイメージがあります。 「長生きしたくないんです」 私も一緒にいるその建物の中で、その言葉を響かせて、 響きの余韻を一緒に感じる。 その言葉の音が、建物の中で反射し、 私にあたって反射し、 どんなふうに響きが変わるか、 この繊細な変化を大切にしたい空間なのです。

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

叶わない思いと一緒にいること

先日、スーパーに入ったとき、ちょうど同じタイミングで入ってきた親子がいました。ベビーカーに乗っていた小さな男の子が、グズグズと泣いている声が聞こえました。 男の子はどうもお店に入るのを嫌がっていた様子です。たぶん、何か他のことを求めていたのに、思うようにならなくてグズグズしていたようです。 お母さんは優しく声をかけていましたが、急いで買い物をすませたい様子でした。 すると男の子はお店中に響くような金切声を上げて、盛大に泣き始めました。 これって、子育てアルアルですよね…。 お母さんはやること山盛りですから、いつも子どもに合わせて行動するのは無理ですし、 子どものほうも、自分の思いを主張するのはごく自然なことです。 この場面にであい、心に浮かんだことがありました。 それは、子どもだけじゃなく、大人も、自分の思いを受け止めてもらいたいものだよなぁ、ということ。 「受け止めてもらう」ではなく、「一緒にいてもらう」という言い方でもいいかもしれません。 「わたしはこれをしたい!」とか「これは嫌だ!」という思いが、そのままかなわないことは、子どもであっても大人であっても、たくさんあります。 最初は、思いを通すことが重要でした。小さいことでも大きいことでも。「私が」望むことなのですから。 でもそのとおりにならないと、怒りや悲しみのような気持ちがあふれてきます。 子どもはそれをそのまま周囲へぶつけてきますし、大人も、大人なりの表現で、あるいはその人なりの表現で、周りへ伝えたりぶつけたりします。 思うようにならないとき、その思いをただただ聞いてもらうとか、 「そうだよねぇ」と共感してもらったり、 「〇〇がよかったんだよね」と思いを知っててもらったり。 そういうことで、気持ちは落ち着いていきます。 冒頭の男の子も、金切声を上げた時にはもう、思いが通らなかったこと自体よりも、それを放置されたと感じた気持ちのほうに苦しくなっていたのだろうと思います。 たぶん、少し止まって、自分の方を向いてくれて、「〇〇したかったんだよね」と言ってもらえたら、金切声にまではならなかったのだろうと思います。 (これが子育て真っ最中はとっても難しくて大変なんですけどね💦) クライエントさんのお話を聞いていると、クライエントさんにとって大事なときに、「聞いてもらう」「見ててもらう」「そばにいてもらう」「声をかけ

秘密と孤独

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秘密を持たない人はいないと思います。 秘密にしていることを自分でも自覚していないような秘密もあるかもしれません。 Michael Slepian博士によると、人は一度に平均13個の秘密を持っているそうです。そしてそのうち5個は誰にも話したことがない。 最もよく見られた秘密は嘘をついたことでした。 嘘は秘密を守る方法の一つなのですが、嘘をついたこと自体が秘密になる、という構造があります。 「秘密を持つことの本当の問題は、秘密を隠すことではなく、秘密と共に生きていかなければならないこと」だと博士は言っています。 秘密は孤独と背中合わせです。 秘密の内容が、恥の感情と関係することも指摘されています。 その秘密が、「私は悪い人間だ」「価値のない人間だ」という評価に結び付いているとき、秘密はさらに心の奥底へとしまわれ、誰にも見せないよう孤立していきます。 そんな奥へとしまわれながら、でも常にその秘密は自分につきまとい、秘密によってもたらされた恥の感情に傷つけられてしまいます。 「秘密」の難しさは、秘密を隠すことではなく、秘密について一人で考え、一人で抱えていくこと。 秘密は、それが個人にとってとても重要なものだからこそ、誰かに打ちあけ、誰かと共有することで、孤独感や辛さを和らげてくれます。 カウンセリングは、クライエントさんが持っている「秘密」を他者(カウンセラー)と共有する場所だと言えるでしょう。 カウンセリングは、心のなかを探究していくプロセス。 自覚している「秘密」だけでなく、心の中で陰に隠れていたような気持ちや自分に出会う作業だからです。 秘密に関してカウンセリングでしばしば出される別のテーマについては、また別のブログで書きたいと思います。 Slepian博士のお話はこちらから聞くことができます。 秘密にまつわる様々なお話だけでなく、博士の個人的な経験も語っておられ、とても興味深いお話です。(英語)

どこでもいい、逃げる場所があるなら、そこへ逃げよう

西原理恵子さんが連載している「りえさん手帖」第196回(毎日新聞2021年7月26日朝刊)に、こういうコマがありました。 「小学校の休み時間は(意地悪の)標的にされないようにいつも図書室に逃げてた。 たくさんの絵本が私を救ってくれた」 ※括弧内は私が補足したものです。 2020東京オリンピック開会式のドタバタの中で、いじめ問題がありました。そのいじめ行為の中に、図書室ですごす子どもを揶揄する表現があり、とても胸が痛んでいました。 私も、図書室を心のよりどころにしていた時期があったからです。 西原理恵子さんのマンガは、そのすぐ後に掲載されていました。 大人になって、今、はっきりと思うし、断言できるのは、 「そこがまだ少しでも安全だと感じられるなら、そこに逃げていい!」 図書館でも。保健室でも。校庭の片隅でも。 それは、自分が自分のために、自分を少しでも守るためにとっている行動。 「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」 (『西の魔女が死んだ』梨木果歩、新潮文庫) いじめられた経験がある人は少なくないと思います。 カウンセリングのなかでも、過去のいじめ体験のお話が出ることがあります。 話しているなかで、それが今のクライエントさんに影響していることも浮かび上がってきます。 カウンセリングの中では、その過去の体験についてのワークをすることがあります。 ワークで大切なのは、 その時は、助けがなかったり、 一人だったり、 何もできずに耐えるしかなかったり、 そういう出来事だったかもしれない。 でも、カウンセリングの中では、今、ここでは、その痛みを抱えているクライエントさんを一人にはしない。 そうやって、痛みだけの記憶を、違うものに書きかえる、というワークができます。 過去を変えることはできない。 でも、苦しんでいる今の自分を変えることは、不可能ではない。 それが、カウンセリングで、カウンセラーと一緒におこなうものです。

「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」

「けど、人って本当に辛いとき、黙るしかないんだね」 崔実さん著作の「 pray human 」の中の会話です。 本当に辛いとき。 それは言葉にならない。言葉にできないもの。 あまりに深すぎて、重すぎて、 あまりに強すぎて、苦しすぎて、 語るよりもずっと手前のところでうずくまるような。 言葉になる前に引きずり込まれてしまうような。 そして痛みを言葉にすることで、 それが「ほんとう」になってしまう不安や恐怖。 沈黙は、カウンセリングの中でよく生まれます。 私はむしろ、クライエントさんが沈黙の中に留まれるよう、促していきます。 他者といても沈黙していられる、 それは一人ではない、他者(私)がいるなかで、 自分の内側に、 自分の世界に入って、 じっくりとそこに留まること、 その世界で感じられるさまざまな感情や感覚を受け取っていくこと カウンセリングでの沈黙は、そういう時間です。 初めてのセッションで、何を話したらよいか戸惑って、言葉にならないという方は少なくありません。 そういうとき、私は、 「言葉が出てくるまで、ゆっくり待ってみてあげませんか」 と言うことがあります。 私(セラピスト)のペースではなく、クライエントさん自身の内側から出てくるペースを、一緒に大事にしたいなと思うのです。 そうすると、ただ、一緒に沈黙の中にいる時間が流れることがあります。 クライエントさんの目から涙がこぼれてくることもあります。 「でも、その方がずっと痛みが伝わってきた。人が沈黙しているときこそ、最も耳を傾けるべき瞬間なのかもしれないね」 「pray human」での、タイトルの会話のあとに続く言葉です。 「沈黙に耳を傾ける」。 カウンセリングではもう少し付け加えたい…。 一緒に沈黙する。 その沈黙のそばにいる。

「ようこそ」のあたたかさ

私は子どものころ、転校を繰り返していました。 活発でも明るい性格でもなかった私にとって、転校はとてもストレスなことでした。クラスに馴染み、学習に追いつき、学校生活を乗り切るのに、毎回大変な思いをしてきたことを覚えています。 新しい学校に移ったときのことを思い返してみると、学校や先生が、私を歓迎する態度を示してくれた記憶がありません。転校がストレスとして記憶されているのは、そのためかもしれません。 朝、担任の先生と一緒に教室に向かい、挨拶をしたら、指定の席に座るように言われ、そのまますぐに、他のみんなにとっての「いつもの」授業が始まっていました。どの学校でも同じでした。私は自己紹介しますが、どの学校でも、先生やクラスメートの自己紹介はありませんでした。施設のオリエンテーションも、もちろんありません。 一番衝撃的に覚えているのは小学校3年生のとき。2学期の途中での転校でした。 転入の挨拶を終え、席についたら、先生が「〇〇をやろう」と言いました。 クラスのみんながワッと歓声を上げ、うれしそうにノートを机に広げていました。何をするのかわからなかったのですが、私もみんなと同じことをしようと、とりあえずノートを机に出しました。 そして先生が黒板に式を書きました。 見たこともない式でした。 り+み=50 り3+み4=170 私は全くわからず、どうしたらいいかもわからず、ただ座っているだけでした。 そうすると一人、そしてまた一人と、ノートを持って子どもたちが先生の机に行きます。先生は丸付けをしているのでした。 いつの間にか、クラスの全員が先生の机から一列に並び、私一人がぽつんと座っていました。 黒板の前に一列に並んだクラスメートは、みんな私を見ていました。 あの時のいたたまれない気持ちは、今でも覚えています。 わからなかったのは当然でした。 それは、中学の数学問題(方程式)だったのです。 「〇〇をやろう」の〇〇がわからなかったのもそのためでした。 (「り」はりんご、「み」はみかん。「り3」は「りんごが3個」、「み4」は「みかんが4個」と意味していました。x+y=50、3x+4y=170と同じ意味です。) あの先生は、なぜ私が来た初日に、小学3年生がわかるはずもない問題を出したんだろう。 そして私には何のフォローもアドバイスもなく、机に一人放置したんだろう。 あの頃私は、そんな疑問を