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呪いの言葉2「ちゃんとする」

「ちゃんとする」。 これは、数ある呪いの言葉の一つではないか…と思います。 日本の子どもは小さい時から、いろんな場面で「ちゃんとする」の言葉を浴びてきて、その雨は激しさを増していっているような気がします。 私は子育て真っ最中なのですが、「ちゃんとする」のさじ加減、 これがとても難しい。 朝起きて、 学校へ遅れないよう家を出て、 忘れ物をしないようにして、 制服を指定された通りに着て、 出された課題を言われたとおりにこなして、 要求や叱責を納得いかないままでも受け入れて、 テストのための勉強をして、 自分の物を片付けたり整理して、 食事の時はマナーを守って、 身ぎれいにして、 やりたい遊びやゲームは制限付きで、 遅くならないように寝て。 これが、多くの日本の子どもたちが過ごす毎日。 「ちゃんとする」ことが山ほどある毎日…。 「ちゃんとする」の目的は、成長に必要な生活のリズムや、これから生きていく上で必要な力のためだったはずだと思いますが、今はもう、「ちゃんとする」こと自体が目的になってしまっているのでは。 この影響は、根深いところで溜まっているのではないでしょうか。 ちゃんとすることが目的になってしまっていると、いつも不安が付きまとっていたり、できない自分を恥じて自信を失ったり、常にイライラ感がとれなかったり、毎日疲労が残ったり…。 ずいぶん前のことですが、フィリピンの友人の実家に遊びに行きました。 マニラから車で数時間かけて行った小さな町。静かで、美しいところでした。 大家族的な暮らしをするフィリピン。彼女の家にも、4世代+親戚の人など、大勢が一緒に暮らしていました。 そこにいた5歳の子どもは、毎食、お皿に食事を盛ってもらって、好きなところへ持って行って食べていました。 ある日、食事を終えた私が玄関ポーチへ行くと、食べかけのお皿が柵の上に乗っていました。子どもはどこからともなく戻ってきて、その柵の上でしゃがみ(すごいバランス!)、続きを食べ始めました。すると外で小さな動物が横切りました。子どもは満面の笑みで動物を追いかけて行きました。 私はポーチのベンチに座って、食べ残したお皿を見ながら、おだやかな気持ちに包まれました。 日本だと、「ちゃんと椅子に座って食べなさい!」とか、「食事中にフラフラ席を立たない!」と叱られていそうなことでしたが、その家族の大人はみんな、気に

「好きなこと」も「得意なこと」もなくて

学校に行っていたころは、入学やクラス替えのたびに自己紹介の時間がありました。今もそういう時間があると思います。 私はこの時間がとっても苦痛でした。 名前以外、何も話せるようなことが思い浮かばず、毎回困っていました。 そこそこ好きなことや、やっていることはありましたが、熱中するほどではなかったですし、興味をもっても、さほど深堀りしていくほうではありませんでした。 そんなふうなので、特技と言えるようなものも何もなくて。 みんなに言えるほど「好き」なことも「得意」なこともない私は、こういう時間になると、自分を残念に思ったものでした。 自分は「たいしたことないなぁ」と思ってしまう時間でした。 先日、新聞の読者欄に、 「好きなことがほしい」という中学生の投稿 が掲載されていました。 好きなことも得意なことも何も思い浮かばない。でも他の子はちゃんと言えることがあって、発表している。私も好きなことや得意なことがほしい、という内容でした。 それを読んで、ものすごく共感しました。 そして思ったのは、たぶん、同じように思っている人は多いのじゃないかな…ということです。 もしかしたら、「推し」や「得意なこと」がある人の方が少ないかも。 「推し」や「得意なこと」がある人って、楽しそうに見えますよね。 楽しんでいるって、うらやましい気持ちになります。 自分が決して、楽しくない毎日を過ごしているわけではないのに。 得意なことがなくても、別に不幸というわけでもないのに。 結局私は「ものすごく好き」なことや「人に話してもよい“レベル”の特技」など何もないまま今に至っております。 でも、きっと、たぶん、 私のようなタイプの人は、何か一つのことに集中して熱が入るのではなく、 流れていくような日常の中で、やるべきこと、起こった出来事をこなしていっていたり、 ふとしたことに気持ちが動かされているのかも、と思います。 心が動かされるようなことを経験した時に、その経験した対象ではなく、 自分の心の動きのほうに、より関心が向いているとしたら。 そうだとしたら、わかりやすく「好き」で「得意」な具体物としては現れなくても、 心の中には、形にならないたくさんのものが積み重なっていっているのでは…。 こんなふうに思ったりします。 新聞の中学生に願うのは、熱中するものが見つかることよりも、 毎日を自分なりに過ごし、 好き

「気持ち」を受け取る

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすることなのだと思います。 以前書いた記事「 心に残る人 」、私は、あの人の気持ちを受け取っていたのだなと思います。 そしてあの人は、私に「気持ち」を贈ってくれていたのだと、亡くなった今はしみじみと感じるのです。 私は「気持ち」を贈るのも受け取るのも、かつてはあまり上手にはできませんでした。 私から贈られてもうれしくないんじゃないかとか、 返って気を遣わせてしまうんじゃないかと思うと、 これなら迷惑ではないだろうと思うような、 なるべく相手の気を遣わせないようなだけの量や内容の「気持ち」を選んで贈っていたのだと思います。 でもいつもうまくできたわけではありませんでした。 受け取るのも下手だったのは、幼少期から覚えています。 プレゼントをもらっても、どう喜びを伝えたらいいかわからないし、 それよりも、「こんなことしてもらって気を遣わせてしまってる」と不安になったりしたものでした。 子どもなのに。 相手が私のためにかける “ 労力 ” が少ないと、ホッとして、 相手が私のためにすることを、労力を使わせてしまっている、と思うことがありました。 今の私は、そういう面ではすっかり変わったと思います。 今の私は、人と気持ちを交わすことを、とても大切なことと思っています。 それは、私に贈ってきてくれていたものを、私が受け取れるようになり、私の中にあるということを感じられるようになり、それをありがたいと思うようになってきたことと重なっています。 たくさんの出会いがあり、年相応ぐらいにはいろいろな経験をして、そして心理療法のトレーニングを受け、先生や仲間の支えを得て、 周りにたくさんあった「気持ち」に気づくようになりました。 「心に残る人」の方は、心を動かされるような、でも深く安定しているようでもある感じの「気持ち」を贈ってくれました。 クライエントさんからもたくさんいただいています。 お一人お一人との出会いと時間が、私の中にあります。 クライエントさんの涙、力強いよろこび、静かな充足。 私に見せてくれたたくさんの「気持ち」、私への「気持ち」、 クライエントさんから、いつもたくさんいただいています。 だから、私の心の中には、クライエントさんお一人お一人が存在してて、 その存在を感じることは、私にとって大切なことなのです。 それが、「カウ