「好きなこと」も「得意なこと」もなくて

学校に行っていたころは、入学やクラス替えのたびに自己紹介の時間がありました。今もそういう時間があると思います。

私はこの時間がとっても苦痛でした。

名前以外、何も話せるようなことが思い浮かばず、毎回困っていました。

そこそこ好きなことや、やっていることはありましたが、熱中するほどではなかったですし、興味をもっても、さほど深堀りしていくほうではありませんでした。

そんなふうなので、特技と言えるようなものも何もなくて。


みんなに言えるほど「好き」なことも「得意」なこともない私は、こういう時間になると、自分を残念に思ったものでした。

自分は「たいしたことないなぁ」と思ってしまう時間でした。



先日、新聞の読者欄に、「好きなことがほしい」という中学生の投稿が掲載されていました。

好きなことも得意なことも何も思い浮かばない。でも他の子はちゃんと言えることがあって、発表している。私も好きなことや得意なことがほしい、という内容でした。

それを読んで、ものすごく共感しました。

そして思ったのは、たぶん、同じように思っている人は多いのじゃないかな…ということです。

もしかしたら、「推し」や「得意なこと」がある人の方が少ないかも。



「推し」や「得意なこと」がある人って、楽しそうに見えますよね。

楽しんでいるって、うらやましい気持ちになります。

自分が決して、楽しくない毎日を過ごしているわけではないのに。

得意なことがなくても、別に不幸というわけでもないのに。



結局私は「ものすごく好き」なことや「人に話してもよい“レベル”の特技」など何もないまま今に至っております。


でも、きっと、たぶん、

私のようなタイプの人は、何か一つのことに集中して熱が入るのではなく、

流れていくような日常の中で、やるべきこと、起こった出来事をこなしていっていたり、

ふとしたことに気持ちが動かされているのかも、と思います。



心が動かされるようなことを経験した時に、その経験した対象ではなく、

自分の心の動きのほうに、より関心が向いているとしたら。


そうだとしたら、わかりやすく「好き」で「得意」な具体物としては現れなくても、

心の中には、形にならないたくさんのものが積み重なっていっているのでは…。


こんなふうに思ったりします。



新聞の中学生に願うのは、熱中するものが見つかることよりも、

毎日を自分なりに過ごし、

好きな気持ちも、嫌いな気持ちも、

楽しいことも、不愉快なことも、

興味をひかれ、そして飽きていくこと

こういう心の経験をたくさんしていってもらいたいなーと思いました。


一つのことに熱がこもることも面白いですが、

バラエティに富んだ心の動きの総体、それが他の誰でもない「自分」そのものを表すのだと思います。