ケアと「境界線」① 奪われた「私」という存在

ケアは、一人では生きていることができない、生きていることが難しい状態、困難をどうにもできないでいる人や動物などに対して、そのそばにいる人が、自分の身体と時間と心を差し出すこと。
小さなケアから、日々の大きなケアまで、ケアは人と人をつなぎ、ともに生きていくうえでとても大切な営みです。


でも、ケアが「私」という存在を奪うことも起きます。

「母親になって後悔してる」 オルナ・ドーナト著、2022年発行、新潮社

イスラエルの社会学者であるオルナ・ドーナト著作の「母親になって後悔してる」は、世界中で翻訳され、大きな反響がありました。日本でも多くのメディアでとりあげられています。
子どもを持ったことは後悔していない、子どもは愛している、でも母親になったことは後悔してる。
この思いは、「母親とは献身的で、愛情深いもの」という社会神話の影にある、母親という役割の過重な負担からきていることを、この本は記しています。

「母親」という役割=仕事は、ケアそのもの。
前回のブログでも書きましたが、ケアは、他者の存在と深く関わるコミュニケーション。
「母親」を課せられたとたん、ケアは毎日延々と続きます。
赤ちゃんの頃は、母乳やミルクをあげ、おむつを替え、寝かせて、というような、身体への関りが主ですが、次第にこころの交流でもケアが大きくなっていきます。

このように、他者(子ども)の様子によって自分が動かなければならない状態が続くと、「私」でいる時間は必然的に少なくなっていってしまう。
薄れてしまった「私」は、いつのまにかケア対象の人に同化してくことが見られます。
そうして、「私」でいられないことへのストレスやフラストレーションを感じたり、自分自身が「自分」という存在を忘れてしまうような状態にまでなることもあったりします。


他者へのケアが続きすぎて自分が失われてしまうような状態にまでなるのは、「母親」に限りません。


「アダルトチルドレン」は、依存症の親を持つ子どもが、親の保護者のようになっていることを指す言葉ですが、これも、親へのさまざまな「ケア」の結果です。
親が依存症でなくても、親が困難を抱えていたり、精神的に不安定だったりしていた場合に、親への過重なケアの関係は生まれます。

こうして、過度なケア、一方的なケアは、「私」という境界を侵食していってしまうのです。

散歩で見つけたハートの石。



でも、どれほど浸食されていったとしても「私」は決してなくなることも消えることもありません。
カウンセリングでは、それを少しずつ、身体から取り戻していきます。
遠くにあったぼんやりしたものがはっきりしてくるような、
土の中深くにあったものが、少しずつ芽吹いてくるようなプロセス。

このテーマ、次回へも続きます。