「ケア」と「私」

 「ケア」というカタカナ用語、元は英語のcareですが、日本語でしっくりくるのは「お世話」でしょうか。

でも、「お世話」ほど関与が大きくないものも「ケア」には含まれているように思います。


ブログがすっかりご無沙汰になっていたのは(前回からなんと1か月以上空いてしまいました💦)、私が「ケア」で謀殺されていたからでした。

これまでの人生で最も忙しい時間だったかもしれません…。

この間は、考えること、時間をとること、ゆっくりすること、そういったことが全くできませんでした。




ケアは、自分自身に対しても使う言葉ですが(セルフ・ケア)、そこには2人あるいは2つ以上の対象が存在します。

私と、もう一人の誰か。

私と、私

私と、ペット

私と、植物


それから、ケアは、相手の様子や状態と呼応しながら行うものなので、頭で考えて行うよりも、身体が反応したり、動いたりしていきます。

例えば、赤ちゃんが泣いたらパッと気づき、駆け寄って様子を見に行ったりしますが、そうする前に、すでに赤ちゃんの様子を気にしている状態が起きています。すぐに駈け寄れるのは、身体がそういう「ケアモード」になっているからです。



「ケアモード」の私=身体の状態と、そうでない私=身体の状態の両方が、ある程度のバランスをもって行ったり来たりしているのがよいのではないかと、私は思います。


ケアモードは、もう1人やもう一つの存在との関係・つながりを感じられる時間。

「私」にとらわれすぎずにいられる時間。

今、ここを感じる時間。

さまざまな感情を感じる時間。


ケアを外れた「私」の状態は、

自分のペースを感じる時間。

物事を深く考えたり、イマジネーションを広げる時間。

過去を思い、未来へとつながる時間。


でも一方、ケアモードは、

自分を見失う時間。

今、ここに縛られ、いろいろなことが無計画になっていくような感覚。

強すぎる感情が辛くなる時間。


そして、ただ「私」でいる状態は、

他者とのつながりが感じられず、孤立を感じる時間。

思考が出口なくグルグルとめぐる時間。

過去に後悔し、未来を不安に思う時間。


どちらかに偏っているな…と感じた時に、反対のほうの時間をとってみるとよいかもしれません。