通い合う「気持ち」②
目の前の人との「気持ち」のやりとり。
それがコミュニケーションであり、その人とのつながりを紡ぐ時間であり、それが二人の関係となります。
前回のブログ記事で、気持ちを、
贈りすぎる、贈らなさすぎる、受け取りすぎる、受け取らなさすぎる、
ということを書きました。
他者との間で紡がれる関係ですから、「…すぎる」ときは、相手も「…すぎる」状態です。
自分が「気持ちを贈りすぎている」とき、相手は「受け取らなさ過ぎている」。
自分が「気持ちを受け取りすぎている」とき、相手は「気持ちを贈らなさすぎている」
というようなことが起きています。
ですから、「…すぎる」ことが良くないとか悪いというわけではなく、
あくまで他者との関係において、「気持ち」がどんなふうに流れているかという、動きの特徴そのものにすぎません。
そしてその特徴が、自分にとって相手にとって、二人にとって、心地よい範囲ではない、ということだと考えます。
「…すぎる」のかどうかは、自分の感覚や気持ちが教えてくれます。
それは、満たされなさや寂しさ
苛立ちや怒り
不安や恐れ
身体は、硬くなったり、冷たくなったり、
疲れを感じていたり、地に足がついていないような感じだったり。
こういう感じが常態化していたならば、寄る辺ない感じや、焦燥感、不確かな感じがつきまとっているかもしれません。
ある会議に出席したとき、私はその場で居心地の悪い感覚を感じ始めました。
外に出て空気を吸いたい…と身体が欲しているような感じ。
その場でもちろん呼吸はしていましたが、「外の空気を吸いたい」という比喩で感じられていた身体の感覚は、息が詰まるような、息苦しいような感じです。
でもそれを意識に上らせることなく、じっとその時間を耐えていました(席を立つわけにはいかず、しょうがなくて😢)。
でも身体は相当正直だったようです。
会議という、テーマが決まった場においても、「気持ち」の通い合いがあるかどうかは、会議の進行や成果に大きく影響を及ぼします。
そこでは、話の流れが一方通行的で、出席者の気持ちが通い合っていないと感じていたのだと思います。
それぞれが、それぞれの思いを行き来することができていないような感じ。
そういう行き詰った感じが、私の身体において、息が詰まるという感覚として生まれていました。
自分の身体や、自分の内側で起こっていることは、たくさんのことを知らせてくれていると思います。
これを、今まであまり意識されてこなかったクライエントさんは少なくありません。
でもちょっとしたきっかけから、
あるいは、セッションでの積み重ねを経て、
この豊かな世界を感じ取れるようになっていきます。
それが、自分にとっても、相手にとっても、その場にとっても、
とても役立つ、とても意義深いものになり、
一度それが自分のものになると、
それからの世界は違ったものとして体験されていくように思います。