「怒り」を感じるために必要な「主体」についてのお話
今回も「怒り」について書いてみようと思って過去のブログを振り返ってみたら(「怒り」のタグ)、これまで11回書いていました。
でもまだ書こうと思ったのは、「怒り」はやはり重要な感情であり、また同時に難しい感情でもあるからです。
先日同業の方が、長く続けているクライエントさんに主体が現れてきたら、セラピストへ(その同業の方へ)怒りが向けられてきたということを話していました。
これはとても興味深いことだと思いました。
怒りの感情が現れるには、怒りを「怒り」として認識する「主体」が必要なのです。
人の発達段階で怒りの感情が生まれるのは生後4か月~12か月ごろではないかという研究があります。(しかしあまり明確にはわかっていないようです。)
赤ちゃんの時からすでにある感覚や感情としての怒り。
しかしそれを知覚し、認識し、言葉にし、表したり伝えたりするには、まだ長い発達段階を経なければなりません。
そのプロセスにおいては、他者(特に養育者)との関りが重要になりますし、周りの人々が怒りに対してどのような価値を持っているか、つまり怒りに対する文化的価値に大きな影響を受けます。
一方、近年注目を集めている感情の構成主義理論という研究によると、感情は生得的にあるものではなく、環境との相互作用によって、経験的につくられ、学習されていくものであるとされます。
自分の身体で起きている様々な生理的、神経的反応と、それに関連する他者の表情や言動などとの結びつきによって、自分の身体的反応は「怒り」という言葉で表されるものだと学習していく、という理論です。
「私」が「私である」と感じること、そのような「私」を自己といいますが、その最も基盤となるのが身体です。
私は私の身体を持っている、これは私の身体で起きていることであると、無意識レベルから意識レベルまで知覚していることによって、「私」は「私である」と経験していきます。
そして、知覚し、行為している身体を「主体」といいます。
主体(=身体)が知覚し、行為し、そうして「私」という認識がつくられていくのです。
👆は膨大な理論をギューッとまとめてしまっているので、大雑把すぎる上にわかりにくいかもしれません。すみません…。
怒りについて取り上げると、その時に身体で起きた生理的な、神経的な反応状態があります。
そこにはすでにそれを知覚する「主体」(からだ)はあるのですが、そうやって知覚されたものが「怒り」という言葉として認識されていない場合、その身体反応は不快な状態としてしかとらえられていなかったり、あるいはもっとあいまいな「モヤモヤ」などとして捉えられていたりします。
心理療法では、セッションの最中の、今の、この反応状態に注目します。
そして、それをしっかり感じていきます。(安全な範囲でね。)
反応状態を無意識に知覚している「主体」に、それを意識的に注目してもらい、その反応状態を認識していき、主体がそれに言葉を与えていきます。
これは、私の身体におきている、私の反応で、私の感情なのだ、それは「怒り」なのだ、と意識されたときに、ようやく身体と主体と「私」が一連のものとしてしっかりと結びつくのです。
最初に述べた同業の方のお話は、セッションを続ける中で、「身体―主体―私」が統合されていったために、セラピーやセラピストに感じていた様々な違和感を怒りとして主張できるようになったのだと考えられます。
怒りの感情を感じ、それを表すことができるようになるのに重要な概念である「主体」。
次回は、「怒り」を例に、どうやって「身体―主体―私」を体験していくかについて、もう少し具体的に書いてみようと思います。