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差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま

足跡をふりかえることの、特別な感覚

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10年に一度の寒波と言われた今日、私が住んでいるところは、昨晩から降り続いた雪が積もって、一面の銀世界でした。 転居が多かったとはいえ、ほとんど西日本で育った私にとって、雪は、何か特別な感じがするものです。 いつもとは違うように見える町。 車や人の往来が少なくなり、静けさが広がります。 鳥の鳴き声も、こんな日は聞こえません。 降り積もった新雪に足跡を残す。 たったそれだけのことに、心が躍るのはなぜなのでしょう。 一面の雪がうれしくて歩いた跡です 何もないところへ、自分が踏み込んだこと 一歩一歩を、ゆっくりと、しっかりと進めること その歩みが、何か特別な感じがすること そうして振り返ると、自分が歩んだ跡が見えること 新雪の中を歩くのは、こんな特別な感じを感じさせてくれるからでしょうか。 誰もがみな、生まれてから今まで、歩みを続けます。 その一歩一歩と進んできた足跡のない人は、一人としていません。 時折、止まっていたように感じたことがあったとしても、立ちすくんだその場には、いくつもの踏み跡があったことでしょう。 でもその足跡を自分で見て、感じることは、難しいことが多いかもしれません。 カウンセリングでは、クライエントさんの歩み、 一歩、一歩の足跡を 自分だけの、特別な歩みとして しっかりと感じていけることを目指しています。 「これが、私が歩んだ跡なのだ」という、 この特別な感じを、味わいたいと思います。

カウンセリングとカウンセラーへの感謝の気持ちの本質とは

私が心理職としての勉強と訓練を始めたころ、 「『先生のおかげです』とクライエントさんに感謝されるようなカウンセリングは失敗だよ」 ということを、何人かの先生に言われました。 無理のない自然な経過の中で、クライエントさんが、自らの力で変化していくこと、 カウンセラーの“おかげ”ではないと思うくらい「自然に起こったこと」で、 カウンセリングはなくていいや、と、自分でやっていきたくなるような クライエントさんが自らの力を自然につけて、自然に「卒業」していくようなカウンセリングが“良い”カウンセリングであり、カウンセラーとしての力なのだ、 ということを教えられました。 私が行っているカウンセリングのアプローチであるAEDP™セラピーはこれとは全く逆で、 カウンセリングにおける変容の経験が、人生における大きな体験の一つとして記憶に残るような、明確な体験を重視しています。 それが、カウンセリングの効果の重要な要素の一つであるという考え方です。 AEDP™セラピーの訓練を受けて思うのは、「感謝されたら失敗だよ」と言っておられた先生方がみな、私にとっては心に深く残る、非常に印象深い方であるという逆説的な思いです。 情が深く、人間性が豊かで、命や人生の真理を体現しているような深みがあり、 優しい声、そして眼差しがクリアなのにあたたかく 大きな存在感があります。 だから私の心の中には、教えを受けた先生方の存在がずっとありますし、 先生方に支えてもらってきた、先生方の“おかげで”今の私がいる、という 深い感謝の思いがあります。 このような思いは、心理職として、一人の人間として必要不可欠であることを、今の私ははっきりと感じています。 「生きていてよかった」と感じられることはいろいろあると思いますが、 人との出会いが意味あるものとして心の中に感じられるとういうことは、その大きな一つではないでしょうか。 だから私は、クライエントさんが私への感謝を示してくださったとき、 二重の意味で「よかったー!」と思うのです。 一つは、クライエントさんにとって、私との出会いとカウンセリングが意味あるものとして明確に体験されたということ、 そして、感謝の感情がもたらす喜びをクライエントさんが感じていること。 深い感謝は、人とつながり、自分自身ともつながりを感じるときに生まれてきます。 このようなクライエントさん

「迷い」の意味とカウンセリング

「迷い」は、カウンセリングでよく出てくるテーマです。 離婚や転職などの、人生における大きな選択の前では、決断に不安を感じますよね…。 大きな選択に限らず、どちらがよいか、どうすべきかという迷いは、日々たくさんあると思います。 メニューを見てどれにするか時間がかかったり、どの服を買うかなかなか決められずに結局買わなかったりとか(←私のことです~💦) 事の大小や重要度に関わらず、「迷い」の前提には、自由があります。 自分で決める。自分で選ぶ。 だから、最善を選びたいし、無駄にしたり失敗はしたくない。 どんなに小さなことであれ、「どうでもいいような」ことであってさえ、そこには、自分にとって大切な何かがある、ということを示してくれています。 「迷い」がどのようなテーマでも、クライエントさんは既に「答えを持っている」ことがほとんどだなぁと思います。 だからカウンセリングでは、答えが出てくるというよりは、答えが見えるようになる、という表現の方が、私はしっくりくる感じがあります。 霧の中にいたけれど、霧がサーッとはれたような感じや、 真っ暗なトンネルの中で足元ばかり見ていたけれど、ふと顔を上げたら出口の光が見えた感じ、 枝分かれしている道にいて、自分が行く道だけがハッキリと見える感じ。 迷っている状態は不安定な感じだったり、苦しく感じたりするので、「早く答えがほしい」気持ちになります。 赤ちゃんから乳幼児期ぐらいまでの子どもは「迷う」ということがありません。小さな子どもは、自分の感覚のままに生きているからです。 そのような感覚(「直感」)は、自分の身体に、自分の内側の世界にあって、自分のコアが感じているもの。 直感を感じること。直感を大切にし、直感に従うこと。 カウンセリングでは、その直感に、静かに優しく気持ちを向けていき、直感をそのままに感じていくプロセスを進めていきます。 このプロセスは、ある程度時間がかかります。 事の大小にもよりますし、クライエントさんの心や環境の状態にもよります。 ですが、「時間がかかる」ことは、悪いわけでも、問題ということも、全くありません。 霧、トンネル、枝別れの道のようなイメージの状態そのものもまた、クライエントさんにとって大切な「何か」なのです。 霧や暗闇の濃さ、先が見えない道の険しさは、「時間をかけろ」「慎重になれ」というメッセージ。 そのメ

「明日に架ける橋」になる

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調べ物をしていて(一応、心理療法についての学術的なことです…💦)、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」に辿り着きました。ふしぎ。 子どもの頃から耳にしたことのある歌ですが、改めて聞いてみて、とても響きました。 これって、カウンセリングのプロセスそのもの…! When you're weary, feeling small  When tears are in your eyes,  I will dry them all  疲れ果て、自分がちっぽけな存在だと感じ、 涙がにじんできたなら、 私がその涙を拭ってあげる I'm on your side  When times get rough  And friends just can't be found  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたの味方。 つらいときも、 友だちがいないときも、 激しい流れに架かる橋のように 私が橋になろう When you're down and out  When you're on the street  When evening falls so hard  I will comfort you  どん底にいるとき。 ひとり街をさまよい歩くとき。 夕暮れがつらく寂しいとき。 私が慰めてあげる I'll take your part  When darkness comes  And pain is all around  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたを支えよう 暗闇がたちこめ、 苦しくてたまらないときも 激しい流れに架かる橋のように、 私が橋になろう カウンセリングでは、クライエントさんを独りぼっちにしない、ということをとても大切にしています。 クライエントさんが抱えている辛い気持ち、 クライエントさんは、それをずっと一人で抱え、対処

「自分のペース」。どうやったらつかめるようになるでしょう?

20歳代のころ、とても仕事が忙しかった時がありました。 その業務を終えたあと、微熱が10日ほど続きました。風邪の症状はなく、ただ熱っぽくて重だるい。 あの10日ほどの微熱は、私の身心には過重すぎたことによる反応だったのかなと自己診断しています。 また私は、強いストレスが続くと、決まってぎっくり腰になりました。動けないぐらい重いのも、気を付ければ普通に動ける程度に軽いのも含め、これまで何度やらかしたことか…(泣)。 自分のペースではなかったときに、私はこういう「反応」が出ています。 前回のブログ は、「自分のペース」がテーマでした。 「自分のペース」。 これを感じ、知ること自体、簡単ではないですよね…。 自分のペースって何でしょう? どうやったらそれを感じることができるでしょうか。 モラハラやDVの夫と離れる決意をし、自分の「家」に暮らすようになったクライエントさんは、「本当にホッとしています!」「こんなに毎日が楽だなんて!」と言います。 パワハラをする上司や同僚、そこまでではなくても、周りを顧みないような一方的なペースで仕事をする人と一緒に働かざるを得なかった方が、職場環境が変わって、「なんてやりやすいんだ!」と晴れ晴れするお話も聞きます。 周囲に嫌な人や意地悪な人がいるわけではないけれど、毎日定刻に合わせて動かなければならない通勤や通学、 決められていたり、求められている時間で動かなければならないこと。 そこから解放されて、心身ともにホッとしたこと。これは、多くの人が経験していると思います。 自分のペースを感じるためには、環境からの影響ができるだけないスペースにいる必要があることを、こういうお話が示してくれています。 そのスペースは、空間でもあり、時間でもあります。 そういうスペースをとっても、自分のペースがわからない、という方は少なくありません。 子どもの頃に虐待を受けた人や養育者の関わりが強すぎた人、 いじめやハラスメント、暴力を受けたことがある人、 子育てや介護をしている人、 こういう方は、自分のペースがわからなくなっていることが多く見られます。 周囲が「良い/悪い」環境・人かどうかということに関わらず、共通するのは、周囲の人や状況に合わせざるをえないとか、本能的に反応・対応し続けなければならない、という点です。 周囲からの介入や圧力にさらされて生きてきた人

自分のペースをつかんだ先にあるもの

「生きづらさ」「生きにくさ」という言葉が用いられるようになったのは、40年ほど前のことだそうです。 社会の中で生きていくことの難しさ、 他者との関係の難しさ、 そして、自分自身についての難しさ、 「生きづらい」「生きにくい」は、これらが絡み合っています。 「生きづらい」「生きにくい」の背景には、自分のペースではない、という感じがあると思います。 スピードやものごとの理解、うごきかた、 身体や心が、何か合わない感じ、調整が難しい感じを感じていて、 それが積み重なって、疲れ、混乱、自信喪失、イライラ、孤独がつのってきた状態ではないでしょうか。 カウンセリングに訪れるかたは、経緯や、今の問題・テーマに違いはあっても、「生きづらい」感じを感じておられます。 クライエントさんがその辛さを抱えていらっしゃることに、とても胸が痛みます。 カウンセリングでクライエントさんが自分のペースを感じていくと、 そこに、変わることのなかった真の自分を発見されます。 真の自分を発見するまでの道のりでは、 これまで周囲へ適応しようと調整してきた試行錯誤の、たくさんの努力やエネルギーに気づきますし、 カウンセリングに来たことも、その「何とかしたい」という切なる思いからであったことに気づかれます。 自分がつかってきたそれらの力を振り返ってみると、 そのパワフルさに圧倒されたり、胸を張れるような誇らしい気持ちが湧いたり、 あんまりにもすごくて涙を流されることもあります。 クライエントさんが「真の自分」を発見する、その場に居合わせるというのは、 カウンセラーとして、言葉にならない体験です。 頑張って言葉にするなら、「胸がいっぱい…」でしょうか…。 これを体験したクライエントさんは、芸術的な表現をされる方もいらっしゃいます。 絵を描かれたり、作曲、写真など それらの自己表現がとてもすばらしいです。 アートの本質を感じさせてもらえる経験です。 そこまで至ったクライエントさんの努力に敬意を表するとともに、 一緒にその過程を進めたことに、感謝の気持ちを持ちます。 クライエントさんが自分のペースを感じていくこと自体が、カウンセリングでは最初からある程度の段階まで、とても重要なことだなと考えています。 この過程も試行錯誤。 クライエントさんと一緒に大切にしたいプロセスです。

怒りを「マネジメント」するために重要なこと

前回 、衝動的な強い怒りは、意識のコントロールが効きにくい、神経生理学的な反応であると書きました。 神経生理学的な反応というのは、身体の反応そのもののことです。 熱いものを触って手を引っ込めるとか、突然飛んできたボールにギュッと目を瞑るなどは、意識が及ばない反射的な反応ですが、これと同じようなことが脳の中で起こっています。 初めはある程度落ち着いて話していたのに、どんどんエスカレートし、”感情的”に怒っているような場合も、脳の中では、同じような神経生理学的な反応が起きていると考えられます。 ですので、強い怒りが生じているときは、目が見開き、身体に力が入り、顔が赤くなったりなどのような、はっきりとした身体的な反応が現れます。 ところで、感情は怒りも含めて「自然に」起きます。 「自然に」というのは、意識してとか、意図的にではなく、身体的な反応として起きるものです。 そうすると、それぞれの人の身体(の状態)によって、感情も異なって体験されます。 もう少しわかりやすくするために、脚の柔軟性を例に挙げてみましょう。 身体が硬いと、開脚範囲が狭いですよね。90度とか。(←私) さらに前屈すると痛み地獄…。もうムリ!限界!みたいな感じ。身体は余計に硬直します。 でも毎日少しずつ柔軟運動をしていると、脚は前よりも少しずつ広く開けるようになり、痛みは前よりもずっと軽くなっていきます。 そうすると開脚で感じる痛みは、感じつつも、大丈夫な痛みになっていきます。 感情もこんなふうに、いつもよりも少しだけ深く感じていくことを続けていくことで、感じられかたが変わっていきます。 衝動的だった怒りは、怒りをちゃんと感じつつも、衝動性がなくなっていく。 耐えがたかった悲しみは、やっぱり悲しいけれど、悲しみに圧倒されるわけではなくなっていく。 パニックになったり、頭が真っ白になっていたような動揺は、緊張や不安は感じつつも、どうしようか考えることができている。 アンガー・マネジメントのよいところは、「マネジメント」することというよりは、「怒り」に注目するということそのものではないかと思います。 自分はどういうことで「怒り」を感るのだろう? 自分の怒りは、周囲の人や自分自身に、どんな影響をもたらしているのだろう? そうやって注目していること自体は、自分の中で、何か変化をもたらしたいという真摯な思いからきて

「長生きしたくない」

「長く生きたいと思わないんです」 クライエントさんからこういう言葉を聞くことがあります。 死にたいというわけではない、 生きたくないというわけでもない。 長生きしたくない。 クライエントさんが、今、どれほどヘトヘトなのかが伝わってきます。 疲弊しているというだけでなく、孤独な労苦を背負っていることも。 選択肢がない 助けがない 逃げることができない どうしようもない そして、そんな自分に誰も気づいていない。 自分の中のこの重さ この孤独感に、 誰も気づいていないこと、 気づこうともしないこと。 孤独感がますます深まる。 やるべきことだとわかってるから、ちゃんとやるし(逃げられないし) これまで通りに生きてはいく(選択肢はないし) しんどくてもやるしかない(他の誰もやらないし) わかってる。 でもこれがいつまでも続くと思うと、 それは考えたくないくらい重い。 「不幸」まではいかないかもしれないけど、 楽しみや喜び 安心と安堵感 そういうことが見えない。 「長生きしたくない」の言葉から、 こんなふうな思いが語られます。 どれほどの苦しみや孤独感があるかが伝わってきます。 こういうことに、カウンセラーは無力だな…と思います。 立場や関係上、一緒に手伝ってあげたり、お茶しにいったりというようなことはできませんから。 カウンセリングの空間とは、クライエントさんの心の場所でもあると思っています。 その場所の土台は私が用意しましたが、建物は一緒に作り上げ、 建物を探検したり、作り直したり、飾ったり、片付けたりしながら、 自分の「居場所」をつくる。 カウンセリングはそういう作業のイメージがあります。 「長生きしたくないんです」 私も一緒にいるその建物の中で、その言葉を響かせて、 響きの余韻を一緒に感じる。 その言葉の音が、建物の中で反射し、 私にあたって反射し、 どんなふうに響きが変わるか、 この繊細な変化を大切にしたい空間なのです。

「気持ち」を受け取る

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすることなのだと思います。 以前書いた記事「 心に残る人 」、私は、あの人の気持ちを受け取っていたのだなと思います。 そしてあの人は、私に「気持ち」を贈ってくれていたのだと、亡くなった今はしみじみと感じるのです。 私は「気持ち」を贈るのも受け取るのも、かつてはあまり上手にはできませんでした。 私から贈られてもうれしくないんじゃないかとか、 返って気を遣わせてしまうんじゃないかと思うと、 これなら迷惑ではないだろうと思うような、 なるべく相手の気を遣わせないようなだけの量や内容の「気持ち」を選んで贈っていたのだと思います。 でもいつもうまくできたわけではありませんでした。 受け取るのも下手だったのは、幼少期から覚えています。 プレゼントをもらっても、どう喜びを伝えたらいいかわからないし、 それよりも、「こんなことしてもらって気を遣わせてしまってる」と不安になったりしたものでした。 子どもなのに。 相手が私のためにかける “ 労力 ” が少ないと、ホッとして、 相手が私のためにすることを、労力を使わせてしまっている、と思うことがありました。 今の私は、そういう面ではすっかり変わったと思います。 今の私は、人と気持ちを交わすことを、とても大切なことと思っています。 それは、私に贈ってきてくれていたものを、私が受け取れるようになり、私の中にあるということを感じられるようになり、それをありがたいと思うようになってきたことと重なっています。 たくさんの出会いがあり、年相応ぐらいにはいろいろな経験をして、そして心理療法のトレーニングを受け、先生や仲間の支えを得て、 周りにたくさんあった「気持ち」に気づくようになりました。 「心に残る人」の方は、心を動かされるような、でも深く安定しているようでもある感じの「気持ち」を贈ってくれました。 クライエントさんからもたくさんいただいています。 お一人お一人との出会いと時間が、私の中にあります。 クライエントさんの涙、力強いよろこび、静かな充足。 私に見せてくれたたくさんの「気持ち」、私への「気持ち」、 クライエントさんから、いつもたくさんいただいています。 だから、私の心の中には、クライエントさんお一人お一人が存在してて、 その存在を感じることは、私にとって大切なことなのです。 それが、「カウ

「老後とピアノ」と私、そしてカウンセリング

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数年前にピアノを始めた私は、「老後とピアノ」のタイトルを見て、「これは読まなければ!」と思っていました。まさに私のために書かれた本ではないですか! そして読みました。とっても楽しく! 53歳のとき、執筆依頼をきっかけに、40数年ぶりにピアノを始めた著者の、ピアノへの熱中と悪戦苦闘ぶりに、クスリと笑ったり、共感しまくり。 そして、深く深く心に響いてきました。 この本のタイトル、「老後 の ピアノ」でも、「老後 に ピアノ」でもない。「老後 と ピアノ」。 そう、この本は、ピアノを通して、どう生きるかということが書かれてあったのです。 この本に書かれている、私が心を動かされた文章をご紹介したいと思います。 著者は、間違えないように緊張感を保って練習しまくり、それでも上達しないのでさらに練習しまくっていました(ホントにすごい練習量です!)。 でも手に痛みが出て練習ができなくなってしまったときに、ある本に出会いました。その本には、筋肉の緊張が痛みや故障へと発展すると書いていました。そして気づいたのです。 私が私の体をきちんと使うことができたなら、そう自分の体を否定せず、ちゃんと見つめて、認めて、いたわり、きちんと解放してやれば、そこにこそ私の演奏のゴールがあるってこと?誰かの真似をしたり、目指したりする必要なんてないってこと…? 私たちは誰でも、「こうありたい」と思う自分があります。希望や願望、理想、夢、あるいは、「こうあるべし」というような規範も。 こうだったらよかったのに。 でも違う自分。 私もあります。こうだったらよかったなぁ…と思わずにはいられない、性格や状況など…。 ピアノはまさにその一つ。 小さいころに習える状況になかった。それはしょうがない。 でも小さいころから音楽が身近な中でいられてたら、こんなふうに思うように動かない手を前に、自分にがっかりすることもなかったのにーー-!と思いますよ、自分のヘタクソなピアノの音を聴いて。哀しい限りです。 でもそうじゃなくて、自分(の体)をちゃんと見てあげて、ちゃんと使うことができたら。 そうしたら、それは「自分の」ゴールに向かうことになるのではないか… そうしてピアノの発表会に臨んだ著者は、同じように悪戦苦闘する他の人の演奏を聴きながら深く心を動かされました。 全力で、心を込めて、勇気を出して、どんなひどい失敗をしてもどうに

「癒し志向」のカウンセリングとは?

私がカウンセリングで取り入れているAEDP™心理療法は、「癒し志向」のアプローチです。 「癒し志向」というのは、問題の原因を見つけて、それを解決したり改善するというような考え方とは違うもの、という意味です。 今の問題や苦しみの原因は何か?とか、なぜこんなことになったのか?とか、何が悪かったり問題だったのだろうか、 というようなことは、あまり重視していません。 問題や原因を見つけて、それを取り除いたり、改善することができれば、「よくなる」というのは、一つの考え方です。 身体の病気は、そういう考えに基づいて治療しています。 問題や原因を見つけることができれば、納得感が生まれるでしょう。 その納得感は、安心感へとつながるかもしれません。 問題や原因がわかれば対処のしようがあると、期待が持てるように思うでしょう。 問題解決タイプの心理療法が役に立つことはもちろんあります。 でもそれが、根源的な苦しみの癒しにはつながらないことも、やはり多くあります。 そもそものテーマが、深く残る傷つきであればなおさらです。 心は、身体へのアプローチのようにいかないことも多いのです。 それは私自身、実感します。 自分の中にあるいろいろな痛み、悲しみ。 若い時にいろいろとやらかしてきましたし(汗)、何が問題なのか、わかってはいました。 知っていたし、理解もしていて、納得感はありましたが、 でもその納得感は、決して「癒し」ではありませんでした。 何というか、単に「知っている」というだけの感じです。 「癒し志向」というのは、苦しかったり悲しかったりしたことを、ちゃんと悼む作業であり、 その中で生きてきた力を称賛する作業であり、 そして何より、それを一人じゃなくて、誰かと一緒に行う作業です。 変えられない過去なのに、わざわざ悼む作業をしたりとか、 ダメダメだと感じる自分を変える練習をするわけでもないのに、 なぜ「癒し志向」に効果があるのでしょうか? それは、キーワードが二つあります。 一つは「ちゃんと」。 「ちゃんと」とか「しっかりと」、あるいは「適切に」、「十分に」悼む。 これが、今まで抱えていた過去についての感じや、自分自身についての感じを、大きく変えていくのです。 もう一つは「一人じゃなくて誰か(カウンセラー)と」。 これが苦手だったり、拒否感を示す方もいます。 でもその苦手さや拒否感に、クライ

自分を主人公にする時間

自らカウンセリングの門をたたかれる方は、もしかしたら、自分のことよりも、自分以外の誰かのことを優先させてきた方が多いのかもしれません。 いえ、優先させてきたというのではなく、いつのまにか優先するようになっていた、という言い方の方が合っているように思います。 カウンセリングでは、クライエントさんが主人公です。もちろん。 ですから私は、クライエントさんに「それはどんな気持ちがしますか?」と聞いたりしますが、「えっ?」と一瞬戸惑われたり、自分じゃない他の誰かのことを話し出したりします。 私に一生懸命、出来事や状態についてお話してくださるかたも多くいらっしゃいます。 クライエントさんにとっては「一生懸命」ではないのかもしれません。 それが普通で、いつもの自分なのかもしれません。 状況や背景を理解するために、クライエントさんがお話してくださる内容は、もちろん大切です。 でも“私のために”話してくださる必要はないのです。 「今はあなたのための時間なので、自分のためにたくさん時間と空間をとって、自分のペースを大切にしていいんですよ」 と言うと、どうしたらいいか戸惑われて、緊張する方もいらっしゃいます。 (これらのどれが起きても、私はもちろんサポートします~) 自分の中で起こっていることに注意を向け、自分の気持ちや感覚を感じ、そうして自分自身を理解するようになってくると、クライエントさんは、過去の自分が、どれほど他の人のことばかり優先していたのか気づきます。 どれほど、自分自身を犠牲にしたり、後回しにしたり、抑圧していたか、 そして、自分で自分のことが、こんなにもわからなくなってしまっていたということに気づかれます。 クライエントさんが、自分自身に目を向け、自分の気持ちや感覚を感じ取り、ただそのままでいられるようになったり、 自分の気持ちや考えを言葉にするようになったり、 もっと言えば、自分はこうしたい!といった欲求や要望をはっきりと言えるようになるまで、 カウンセリングでは、ある程度の時間をかけて行っていきます。 これは、初めの頃は、とても居心地が悪くて、不安な気持ちになったりするのです。 言葉も知らない、初めての国に降り立ったような感じでしょうか。 あんまりにも慣れていなくて、あんまりにも初めてで。 でもカウンセリングでは一人じゃありません。 カウンセラーというガイドが一緒にい

罪悪感の中にある共感の気持ちをひらく

罪悪感は、自分に向けられる苦しい感情です。 以前のブログで、「前提としての『罪』があるのかどうか」、ということを書きました。 今回は、少し違った視点から、この苦しい感情について書いてみます。 カウンセリングでテーマとなる罪悪感は、自分は悪いことをしてしまったとか、悪いことをしようとしている、ということが頭の中に渦巻いている状態です。 その行為や考えは受け入れがたいものであるために、この苦しい気持ちが自分に押し寄せ、打ちひしがれます。 その行為や考えは、自分だって喜んでやったとか、望んでいたというものでもないので、自分が求めてもいない結果に苦しみます。 以前のことであれば、その当時にはどういうことかわからなかった、あるいは、考えることができなかった、ということもあるでしょう。でもその意味を知る今は、過去を悔いる思いにさいなまれてしまいます。 これが重なっていったり、ずっと大きく残ったままでいると、自分自身の存在までも否定し、非難する気持ちになっていきます。 カウンセリングでは、この気持ちを、ゆっくりと、ゆっくりと、ひも解いていきたいと思っています。 そうしてひも解いたその「気持ちの箱」の中をのぞくと、いろいろなものがあることが見えてきます。 その一つが、クライエントさんの、他者を思う大きな気持ち。 罪悪感は、たいていは、誰かとのなかで起きた出来事から生まれます。 一つの大きな出来事かもしれないし、小さな日常が積み重なっていったかもしれません。 そこにいたその相手との関係の中で、罪悪感は生まれ、育っていきます。 そしてクライエントさんは、その相手のことを、重要な存在として思う気持ちが、しっかりとあることが見えてきます。 クライエントさんが他者に向けるその思い。 クライエントさんにとっての、その人。 それもまた、とても大切な感情だと思うのです。 罪悪感の背後にあったその思いを、箱の中から取り出して、ちゃんと光を当ててあげたいと思います。 その人は、どんなふうに重要なのか。クライエントさんの人生において、どんな存在の人なのか。 カウンセリングでは、たくさん聞かせてもらいたい。 「その罪悪感について、もっと話してもらえませんか?」

難しいテーマは、一旦仮置きする

カウンセリングの中では、いろいろな出来事、記憶、人との関係、自分自身などについて語っていくことがあります。 そうやって話しながら、そこに心の中の深いテーマが浮かび上がってきたり、あるいは、そのテーマに近づいていったりするような感じが出てきます。 そのテーマは、話題の「入口」となっていた現在の問題や苦しみの根底にあるような、あるいは、中心にあるようなもので、それを掘り下げていくことは、改善、解決、解放などにつながりそうです。 ですがそれに向き合うのは、かなり負担感があるものです。 なぜなら、そのテーマが生まれて、そのまま今まで存在してきたのは、改善や解決などがそもそも難しすぎたり、大きすぎたりしたから。 改善や解決は難しすぎたから、避けたり蓋したりしてきたわけですから、今さら向き合うのかと思うと、負担感や拒否感が出るのは自然なことでしょう。 きっと向き合ったり、深めたりしたほうがいいのはわかっている。 それがテーマだし、問題なのだともわかっている。 でも今それはやりたくない。 今なんとか均衡を保っているのだから、そのまま置いておきたい…。 もう見えてしまっている、自分でもわかっている、あの「テーマ/問題」は、一旦どこかへ置いておくんだ… 今じゃない… そう思うならば、その「テーマ」を箱に詰めて蓋をして、一旦置いておきましょう。 カウンセリングでは、私もそのイメージ作業を一緒にします。 あそこに置いてある、 誰も知らない、大きい、重い、でも大事な「テーマ」。 セラピストは、クライエントさんがそうやって仮置きした、その作業の立会人です。 一緒に作業すれば、もう一人ではないのです。

私のなかの『わたし』と出会う

カウンセリングは、クライエントさんと私(セラピスト)の二人で行うものです。 でもそこに、私は、もう一人連れて来たい「人」がいます。 それは、クライエントさんの中のクライエントさん。クライエントさんの「わたし」とか「自分」という感じを感じる部分です。(記述すると長いのでここでは短く『わたし』と書きますね)。 その『わたし』は、クライエントさんの心のうちにあります。 クライエントさんがカウンセリングに来るとき、クライエントさんは、自分の心の中にあるその『わたし』の存在を知っている場合も、知らない場合もあります。 『わたし』はいるって感じている場合でも、その『わたし』のことをよくよく知らないことは多いかもしれません。 『わたし』はどの人の心の内側にもいるイメージが私にはあります。 そして私がカウンセリングで行いたいこと、とても大切にしたいこと、カウンセリングで目指していることは、クライエントさんが『わたし』と仲良くなることなのです。 『わたし』にとっての一番の親友がクライエントさんになったらいいな~という思いがあります。 でもそれはなんだかよくわかりにくいことかもしれません。 「私は私で、私の中の『わたし』も私です」 こんなふうな言い方をされる人はいませんが、 自分の内側に目を向けていくということがよくわからない、イメージできないし、ピンとこないというのは、ある意味とっても普通でよくあることです。 なぜなら、『わたし』はたいてい、心の奥深くに、ひっそりと隠れていて、クライエントさんにさえその存在を感じさせないようにしていることもあります。 『わたし』は危機探知がバツグンに良くて、ぜったい大丈夫!と感じられない限りは、その存在を見せてくれることはありません。 だけど『わたし』は、ずっと待っているのです。 誰かに気づいてもらうこと。 一緒にいてもらうこと。 思いを知ってもらうこと、聞いてもらうこと。 だから私(セラピスト)は、クライエントさんが私にいろいろとお話してくれることを大切にしたいと思いつつも、そこにクライエントさんの『わたし』がいるのかをとても気にしています。 『わたし』が一緒に会話に参加していないように感じるときは、クライエントさんにちょっとだけ待ってもらいたい…。 そして『わたし』を二人で一緒に迎えたいのです。 「どうぞいらっしゃい」 「ずっと待ってたよ」って。

どんなカウンセリングですか?どんな効果がありますか?

私はAEDP™セラピーという心理療法を用いたカウンセリグを行っています。 AEDP™セラピーがどのようなものか、そして、どのような効果や変化をもたらすかについて書いていきたいと思います。 AEDP™セラピーを一言で言うと、「あなたが傷みを体験したところで、当時よりも力を感じられるよう手助けをすること」です。 カウンセリングを求めている方は、「こころ」が痛んでいます。 その痛みは、具体的ではっきりしている場合も、あまりはっきりせず漠然と感じられている場合もあるでしょう。ある一つの出来事で生じた痛みかもしれませんし、いろいろなことが積み重なってきたのかもしれません。 それがこんなふうに今のあなたのこころに苦しみをもたらしているのは、苦しい出来事、喪失や被害、人間関係のこじれなどが起きたそのときに、 ただそばにいてくれる誰か、支えてくれる誰かを感じられなかったことが影響していると考えられます。 AEDP™のカウンセラーは、その深い孤独を解き放つことを重視します。 あの時は一人だった。 でも「今」は一人ではない。 こうやって、今、ここで、カウンセラーと一緒にいるのだということ、それを感じてもらうことを大切にしています。 そして、痛みを受けるだけだったあの時とは違う「今、ここで」、「カウンセラーと一緒に」、新しい体験を進めます。 あの時にできなかったこと、難しかったことを。 たくさん泣く。ちゃんと怒る。言いたいことを言う。 こういった体験を一緒に進めていきます。 あの時に十分感じることなく凍結してきた感情を、十分に、しっかりと感じると、 台風の後は必ず晴れやかな青空が広がるように、 大波の後は必ずおだやかな小波が打ち寄せるように、 感情に変化が起こります。 この変化は、自分自身についての変化へとつながっていきます。 こういう体験をカウンセリングで一つひとつ繰り返していくことで、安定的で、満ち足りた自分、 「これが私なんだ」という感覚を感じることができるようになっていきます。 もう一つAEDP™セラピーで大切にしていることは、誰もが持つポジティブな(肯定的な)側面にしっかりと光をあてることです。 生物は根源的に「生きよう」とする方向へと向かっています。 過去の苦しみに対処し、なんとか生き抜いてきたからこそ、カウンセリングを受けようと思っているのです。 自分で知っている力に、そし

どんなことについてカウンセリングできますか?

VIEW(吉嶋)は、どのようなテーマや問題に対応できるのか?というご質問について、二つの点から書きたいと思います。 まず一つ目ですが、『どのようなことでも可能です』。 実は、扱いたいテーマや、困ったり苦しんだりされている問題がどういうものかというよりも、「どのように」対応しているか、どのような心理療法なのか、ということが、クライエントさんにとって重要だと思います。 心理療法はたくさんの種類があり、テーマや問題への進め方や、クライエントさんとどのように話をするかということも、心理療法によって異なっています。 ですので、クライエントさんが、ご自身のテーマ・問題をどんなふうに解決したり深めたりしていきたいかということや、カウンセラーとどんなふうに話したいかということが、納得感、満足感に大きく関係してきます。 旅行を例にしてみましょう。 旅行先は同じでも、楽しみ方はいろいろ。みなさん異なっていると思います。 パッケージツアーと個人旅行のどちらが好き? どんなことを楽しいと思うんでしょうか?観光地をたくさん効率よく見て回りたい?一つのところでゆっくり過ごしたい?高級ホテル、それともテント泊? これを心理療法に例えるのは無理があると承知していますが、「どのように」が、お一人おひとりにとって重要なのだという例えとしてイメージしていただけたらと思います。 私の「どのように」については、ウェブサイト(プロフィール)やこれまでのブログをご覧ください。 また、 別のブログ記事 で詳しく書いています。 「どのようなことでも可能です」と書きましたが、その中で、私がこれまで比較的多く受けてきたテーマや問題を、「どんなテーマや問題に対応していますか?」という質問への二つ目のお答えとして書きます。 家族との関係     配偶者やパートナー :不和、離婚、DV。     子どもの相談 :不登校、引きこもり、子どもの「問題」行動、子育ての難しさや子どもとの関係、子どもへの虐待、離婚にまつわる子どもとの関係など。     親との関係 :親からの虐待や親による傷つき体験、過干渉、無視や無関心、きょうだい間差別など。     依存症をもつ家族との関係。 対人関係:職場や友人などとの関係性の問題。 自分自身について:自分の性格、自信がもてない、自己否定感、対人関係の難しさ、不安の強さ、生きづらさ。 差別や暴力

オンラインでのカウンセリングってどうでしょう?①

オンラインでのカウンセリングは比較的新しいことですので、不安を感じる方もいらっしゃると思います。それで今回のテーマは「オンライン」という方法について書いていきます。 VIEWは現在のところ、カウンセリングをオンラインでのみご提供しております。 オンラインでだけで開業をスタートしたきっかけは、やはりコロナ禍でした。 北米では、コロナ禍でロックダウンしたと同時に、カウンセリングサービスは一斉にオンラインに切り替えられました。それでもカウンセリングを希望する人はそれまでよりも増えたそうです。 オンラインと対面を比較する研究はそれまでも行われていましたが、コロナ禍以降にはさらに広範な研究が行われています。研究はまだ途上のようですが、オンラインは対面と比べても効果に違いはないという結果が出ています。 私が行っているアメリカの心理療法のカウンセラーの方たちも、コロナ禍でオンライン対応に切り替えていました。そして、「心配していたほど問題はなく、思ったより上手くいく」というコメントでした。 こういう背景があり、私もオンラインでの実施をスタートした次第です。 オンラインで行っていて、細かいところでの違いはありますが、私もやはり、対面よりも「劣る」とか「難しい」などを感じたことはありません。 問題があるとすれば、通信や機器の状態に影響を受けることがある、ということですが、これはある程度起こり得ることを想定して、対応できるようにしています。 クライエントさんは、ご自宅からアクセスされている方が多いのですが、別の場所を用意してアクセスされている方もいらっしゃいます。 その場所がクライエントさんにとってどういう場所かによって、セッションに影響が出ることがありますが、それも含めて進めていっています。 クライエントさんにお願いしているのは、ある程度の大きさの画面のご使用です。ある程度の大きさがあると、カウンセラー(私)の存在をよりしっかりと感じてもらいやすくなるからです。 でもわざわざご用意していただく必要はありません。スマホからでもOKです。 オンラインのよさは、やはり、距離を超えること、でしょう。 私のクライエントさんも、日本各地だけでなく、海外にもいらっしゃいます。こんなふうに、簡単には会えなかったであろうクライエントさんとお会いできるのは、オンラインならではです。 でもやはり、人と会う、

カウンセリングの期間について

カウンセリングはどのくらいの期間が必要ですか?というのも、よく寄せられる質問です。 お答えとしては、「クライエントさんによって異なります」になります。 ご希望でしたら、1回のみ、ということも可能です。 1回のみというのは、次のように展開することがあります。 心理療法(心理セラピー)として1回で終了できるような展開 「お試し」のような感じで体験していただくような展開 問題や状況などを整理して、どんなふうにご自身のテーマを扱っていくかということを理解するような時間となる展開 どんなふうに展開するかはクライエントさんのご希望や状態によりますが、ひとまず1回で終了できるように対応いたします。 数回程度で、クライエントさんが抱えていた問題や、扱いたいテーマが完結することもあります。 これまでの経験でも、ごく少ない回数で問題(症状など)が解決したり、希望を感じることができるようになって終了となったことがあります。 期間や回数を事前にお申し出いただいた場合は、その中で対応いたします。 例えば、3か月間とか、10回、などと具体的にご提示いただいた場合は、どういうことをテーマにしたり、どんなゴールをイメージされているかなどをうかがって、そこを目指して進めていくようにしています。 この場合は、テーマをより絞って集中して進めていくことになりますが、終了の時期がはっきりしているので、クライエントさんのほうも、モチベーションを明確にもちやすいようです。 比較的長い場合は、1年~3年ぐらいでしょうか。カウンセリングの実施頻度にもよりますが。 長くなるのは、いろいろな背景や理由があります。 でも長くなってきた場合は、どちらかというと、さらに長く続ける方が多いように思います。 それはおそらく、自分の「こころ」の深淵に触れていくと、ある程度継続的に、自分のこころを感じる時間の、生活での位置づけが大きくなるからだと思います。 私もカウンセリングを受けているのですが、それは自分自身を深く知っていくというための時間なので、「終わり」はないな~と感じています。カウンセラーと過ごす時間自体が、生活や人生の中で重要な位置づけとなっているという感じです。 こういう目的だと、頻回にカウンセリングをする必要はなくて、ある程度の間隔をおいて定期的に行ったり、時々気が向いたときに受けたり、ということになっていきます。 こ