差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ…

いろいろな気持ちが交差しています。

これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。


差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。

私もそうです。

差別は、暴力や抑圧と地続きです。

家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。

生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。


身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。

差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。

そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。


この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。

私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。


私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。

それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。

(※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。)

そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。

「嫌だ」ということを言いにくい相手、

「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、

ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。


こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。



話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。


「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。

そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。

こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきます。


また、カウンセリングやカウンセラー(私)に対して「嫌だ」ということも、とても重要だと考えています。

クライエントさんにとって、カウンセラーに対して「嫌だ」というのは、ものすごく勇気がいることです。力関係があるとき、「嫌だ」の感覚を「気遣い」というオブラートでくるんで、心の中に閉じ込めてしまうでしょう。

それは、クライエントさんがこれまで様々なところでしなければならなかったこと。

それをカウンセリングで再演させてしまっていては、問題の本質は変わらないままで、私が逆にそれに加担してしまっていることになります。


だからこそ、「嫌だ」と言えることや、それをきちんとテーマにして話ができるようにすること自体を、カウンセリングのプロセスとして大切にしたいと思っています。


とはいえ、「嫌だ」は、やはり簡単ではありません。

さまざまな負の感情がかきたてられます。

だから、ゆっくり、そして丁寧に、

尊重の気持ちをもって、試行錯誤し、それを積み重ねていく。

心の中に浸透している差別・抑圧・暴力をほどいていくこのプロセスは、私たちそれぞれの生活の中だけでなく、社会の差別・抑圧・暴力を変えていくことにもつながると思っています。 



追記:これを記述した後に考えたことをこちらに載せています。合わせてご一読いただけたらうれしいです。