ケアと「境界線」② ケアの関係の中で安全な境界体験をするには

ケアは、自分と世界(誰か/何か)をつなぐ中で行われているもの。

その関係性は、いつも安全であるわけでも、双方向的というわけでもありません。

むしろ、ケアする側とされる側は固定していることが多いですし、

ケアする側は相手に入り込みすぎてしまったり、ケアされる側も、相手から入り込まれすぎたり、

ということが容易く起きてしまう関係でもあります。


自分への侵入を、特に幼少期から受けてきた人にとって、ケアを受け取ることは危険なことになりますし、

誰か/何かをケアすることにおいては、その対象との距離感がつかめず、遠すぎたり近すぎたりして、

それでまたしんどく辛くなってしまう、

ということがあります。


すると、誰か/何かとつながることへの、切なる望みと同時に、侵入体験からくる不安と恐怖も同時におきるという、正反対の感情や感覚が、自分を混乱させ、苦しませます。

そんななかで、どうやって安全なケアの関係を体験していくことができるか、「庭仕事の真髄」にヒントがあります。


著者はイギリスの精神科医で、園芸療法士。

この本は、園芸が、どれほど人の回復と癒しに効果があるのかを、たくさんの例を挙げながら述べています。


なぜそのような効果があるのか?


それは、植物は決して人を拒否しないということ、

やりすぎややらなさすぎの間違いを行っても、植物は痛みも不満も訴えないこと、

剪定や間引きなどの破壊的行為をしても、それが植物の成長を促すことであったり、驚異的な回復力を見せたりもすること、

ということを述べています。


「植物の世話は、恐怖を感じることのない関係の中で、自分自身を解放できるようになるとヒルダ(注:NYの刑務所の園芸療法士)は確信しているのだ。草木は人間に対して即座に反応したり返事をしたりすることがない。また、ひるんだり微笑んだり、あるいは痛みを感じたりしても、言うまでもなく人間にはわからない。それが植物の有益な効果の重要な部分だ。幼いころに十分に大事にされなかった場合、それどころか実際に経験したものが虐待や暴力だった場合、後の人生の中で何かを大事にする仕方を学ぶのは、困難に満ちたものとなる。心の中にひな形がないというだけでなく、他者の中のもろさが自分の中の最悪のものを引き出す可能性がある。これが、虐待が無意識のうちに繰り返される理由だ。すなわち、動物や人間の弱さは、自身もかつて犠牲者だった人の、残酷でサディスティックな衝動の引き金となりうる。しかし、植物のもろさは小動物や弱い人間のもろさとは異なっている。植物に痛みを加えることができないという事実は、残酷な行為を呼びこまないという意味だ。植物を扱うのは、大事にすることや優しさを学ぶための安全なやり方であり、間違った結果を招くことはほとんどない。」



誰か/何かとのつながりでの困難がある場合には、このように、安全な対象から進めていくことが良いでしょう。

日本でも園芸療法士という資格を持って活動されている方がいらっしゃいます。

精神・心理的なテーマでの園芸療法は精神科の病院で取り入れているところがあるようですが、あまり広く行われていないのは残念。


ですが、初心者でも育てやすい植物から始めてみると、「セラピー」という枠組みでなくても、誰でも挑戦しやすいと思います。