「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?➂

「進撃の巨人」の登場人物の中で、一人の人を強く激しく信じ、求めるジーク、ミカサ、始祖ユミル。

3人とも、その相手との出会いは、大きな傷つき体験がありました。

恐怖や受傷という点では同じですが、それが起きた経緯はやや異なっています。

ジークと始祖ユミルは、養育者や生育環境における重要な他者からの、適切・適度な安全や安心を得ることがない育ちがありました。

一方ミカサは、優しい両親の元で健やかに育っていましたが、その両親が目の前で斬殺されるという衝撃を体験しました(そしてその場に居合わせたエレンに助けられるのです)。



トラウマの心理療法では、これを分けて考えるやり方があります(※)。


ジークがクサヴァーに対して抱く強い思慕、そこからくるクサヴァーの思想を受け継ぐ強烈な意思。

これは、両親から暴力を伴って否定され続けてきた虐待による発達性のトラウマの影響と考えることができます。


始祖ユミルがフリッツ王の意のままに奴隷として生き、自分が死んでもなお、「道」という一切の孤独の世界で、フリッツ王の影を引きずったまま奴隷として存在し続けたこと。

これは、自分がおかれた状況とフリッツ王の暴力支配の恐怖による迎合反応と考えられます。


ミカサは、両親を惨殺された経験がその後に影響を及ぼしているとして、単回性のトラウマエピソードにあたります。



このようにみていくと、3人ともが抱く「愛」の様相は異なっています。

そのため、ジークと始祖ユミルが、内面化された他者の思想から解放されていくプロセスも異なってきます。

ジークは、クサヴァーとの間で経験した安心や充足感を自分のリソースとしながら、両親との関係による傷つきを処理し(癒し)、そうすることによって、クサヴァーの思想ではなく、自分自身の内側から出てくる考えを見つけていくことになるでしょう。

クサヴァーを慕う気持ちは大切にしながらも、クサヴァーをなぞった思想ではなく、自分自身の思想を。


始祖ユミルのフリッツ王への「愛」は、その場を生きのびるための迎合反応でした。

肉体の死後に閉じこもった「道」の世界は、誰も彼女に危害を加えないという意味では安全な場所でした。

しかしそれは誰をも排除しなければならない孤立と孤独の世界。その世界でたった一人、あれは「愛」だったのだと思うしかない世界。

ですから、始祖ユミルには、そのような反応を引き起こした度重なる虐待と暴力の反応を「解除」しながら、同時に、安心と安全を身体で感じていくことになります。

そうして、それは「愛」ではなく「適応のための反応」だったのだと受け止めていく。

「道」に現われたエレンは、「俺がこの世を終わらせてやる」と言い、始祖ユミルはエレンに力を委ねました。でもそれは、始祖ユミルの孤独を解放するものではありません。

始祖ユミルに必要なのは、誰かによってではなく、自分自身で終わらせること、自分にはその選択ができること、そして何より、それを誰かとともに安全に体験することだったと思います。


命を救い、その後の生活を共に生きたエレンへのミカサの「愛」。

他の2人とは異なり、ミカサの思いは「愛」そのものだったと思います。

日常の中で、エレンとたくさんの積み重ねてきたこと。

彼女にとってそれは全てだったでしょう。

でもそれは、生きていくなかで変わっていくこともある。

ミカサにとって難しく苦しかったのは、エレンの変化を受け入れることができないことだったのかもしれないと思います。

エレンはそれに気づいていた。自分は変わったのに、ミカサは以前の自分をずっと見ている。

そこからそれぞれが解き放たれるために必要だったのが、あの最期の場面だったのではないか…と思います。

そういう愛の形もある。

だからエレンはミカサのなかで生き続けるのだろうと思います。



「愛」のように感じるもの、みえるもの、

それを解きほぐしてみたブログ3回でした。



※3人とも、出来事としてはトラウマですが、その出来事による「症状」はPTSD/CPTSDの診断基準には当てはまらないと考えられます。また、アニメとはいえ、このように心理学的に分析することについては、次回のブログで書きたいと思います。