「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」
たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、前回からの続きです。
禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。
『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。
禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。
このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。
①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき
②助けがないとき
➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき
これは、とても辛く、怖いことです。
禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。
こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。
これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。
スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。
そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。
禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。
とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。
(世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。
自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。
(暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかったのは)私には、その程度の価値しかないと思ったからなのです。
それ(自分)は罰に値する罪(だと思っていました)。
ハンナ・ギャズビーは、社会や人々からうけてきた直接・間接の暴力やメッセージなどによって、どれほど傷をうけ、それを内面化してきたかということを、コメディらしくユーモアを交えながらも、ハッキリと怒りを表しています。
でも、笑いも怒りも、中毒のようだと言っています。
回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと。
そして物語は人との間でつむがれ豊かになっていくということを語っていました。
今回も長くなってきましたので、続きます。
次回は、このテーマとカウンセリングについて書こうと思っています。