クライエントとセラピストの関係と社会的位置~「ポラリスが降り注ぐ夜」から

台湾出身の作家・李琴峰さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」について短いエッセイを書く機会がありました。

ポラリスが降り注ぐ夜、筑摩書房
「ポラリスが降り注ぐ夜」筑摩書房


7つの短編が収められていて、それぞれの短編の主人公が別の物語でも関係し、7つで全体を構成しています。

主人公、そして他の登場人物も、セクシュアル・マイノリティ。

李琴峰さん自身もレズビアンであることを公表されています。


エッセイを書こうとして、はたと立ち止まりました。

私は、誰に向けて、どう書こうとしているのか?


私はシスジェンダー女性です。

シスジェンダーというのは、生まれた時に当てられた性と、自分自身の性認識が一致していることを言います。つまり、性自認においてマジョリティです。

そして、シスジェンダー男性と法律的な婚姻をしています。ここでもマジョリティ。


「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいると、登場人物の痛みが、それぞれの物語の中で、それぞれの形や温度で伝わってきます。

セクシュアル・マイノリティとして生きていくことの痛み。

それは、マジョリティによってもたらされた痛み。


そうして痛みをもたらしている側にいる私は、この本について、どう書くのだろう?

ということが、私を立ち止まらせました。



心理療法においても、セラピストとクライエントの、それぞれの社会的背景を踏まえてセッションを進めることの重要性が指摘されるようになっています。

セラピストは、セラピストという立場自体が、クライエントよりもパワーを持っています。

それに自覚的であるために、セラピスト自身が、自分の社会的位置を表明してセッションを進めるというやり方がある、と教えていただいたことがあります。

これは、双方ともが、開かれて安全な関係を作っていくためのプロセスです。

ですので、「決まった正しいやり方」があるわけではありません。

何がよいのか、どうすればより良いのか、一緒に探っていくことになります。



先のエッセイについては、ひとまず書いたものの、モヤモヤ感は残ったままでした。

自分の様々な意味での力不足はベースにありつつ、モヤモヤ感自体が、次へつなげてくれるのかもしれない、とも思いました。


終わりにせずに、自分の中で起こっていることを見つめていくプロセス。

カウンセリングと同じだなと思った次第です。