差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログで、差別とカウンセリングについて取り上げました。

アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。

それでずっと考えていました。


私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。

差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。

これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。

ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。

短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。


「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。

差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。

そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。

同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。

でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。

「モヤモヤ」はここにもありました。


被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。

これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。

人の心の中は自由だ、

それは確かにそうです。

でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。

女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。

「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。

そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。

このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。

趣味や服装などのような、単なる好みとは全く異なっている意味が含まれています。

そしてこのような価値観は、「考えることは自由」などと言ってそのままにするのではなく、やはり変えていかなければならないものだと、私は思います。



このことを、前回のブログ記事では、明確に書いていませんでした。

今回で十分とは思っていませんが、「嫌だ」の違いは明白なのです。