「undo aloneness」~AEDP™セラピーの選択と実践②
私がAEDP™セラピーという心理療法でカウンセリングをしていきたいと思い、今も研鑽を続けているのはなぜか?
AEDPの何が私を惹きつけ、心を打つのか?
AEDPの何に共感しているのか?
私が感じた感動やよろこびを、クライエントさんも感じてくれているのではないか、と思えるのはなぜか?
その前に、私が、社会人を経て心理職へ転職することになったきっかけの一つについて話したいと思います。
プロフィールに少し書いていますが、私は、転職して心理職になりました。
そのきっかけは、私の身近なところで起きたいくつかの出来事でした。
当時私は、若かったこともあるのでしょうが、すごく一生懸命でした。なんとか解決したいと思い、心を痛め、行動していました。
でも何よりもつらかったのは、理解されない感じ、腫れ物に触るように距離を置かれているような感じ、ひどい場合は、批判されているような態度。
疎外感と孤独感が続いていました。
起こってしまったことは、もうどうしようもない。けれど、その時に必要だったのは、私の話に耳を傾けてくれること。
そして、その人の、本当の声を聞かせてくれることでした。
心からの対話を必要としていたのです。
つらかったのは、起きた出来事だけでなく、その後、つながりをもてなかったこと、孤独な状態にいたことだったのだと、今はわかります。
実は初めのころ、混乱した気持ちの最中、私は相談機関にアクセスしました。しかしその対応は求めていることではなく、それどころか、ぞんざいな感じが伝わり、怒りも覚え、ヘルプを求めることをきっぱりとあきらめたのでした。
私が孤独感を感じ続けていたのは、この残念な経験からスタートしました。
しかしその後しばらくしてから、「とても大切なことだと思うので、話を聞かせてほしい」と言う人が現れました。
その人の目には、真摯さが感じられました。
話を始めていくと、他にも耳を傾けようとしてくれる人が現れました。
こうやって始まった対話は、それぞれの心の奥へと一歩踏み出し、深く触れる時間となりました。
話す私も、聞く人たちも、答えを求めているわけでも、答えを導こうとしたわけでもなかった。私も、その人たちの心の声を聞く役にも回りました。
ただ、それぞれの本心とともにいたのでした。
そうやって初めて、私は、悲しく苦しかった涙が癒されていったのを経験したのです。
この時の経験は、AEDP™セラピーでは、「他者との関係性の体験から孤独を癒す」という作業にあたります。
「undo aloneness」。
集まって話を進めていった場は、語る人の安全感を何よりも重視しました。
AEDP™セラピーも、安全感・安心感をとても大切にしていて、その中で初めて、防衛が緩み、感情や関係性、自己感などの体験が進むと考えます。
安全だからこそ、疎外感と痛みを感じた経験をシェアしようと踏み出せた。
安全をみんなで守っていったから、その辛い経験をより探求することができた。
そうやって、理解してもらえた、受け止めてもらえたという経験を通して、「これが自分なんだ」「これでよかったんだ」と感じることができたこと。
AEDP™セラピーに出会うまでは、私が経験したプロセスが、心理療法としてできるということや、理論的、技術的に可能なのだということを知りませんでした。
私がAEDP™セラピーに惹きつけられ、選択している背景に、この経験と思いがあります。
「癒し」という感覚的な体験をもたらすのに、理論と技術があるということ。
人と人のつながり、そのつながりによってもたらされる充足感に、理論と技術があるということ。
安全な場や安心感をつくることにも、理論と技術があるということ。
そしてこういうことが、開かれ、安定し、強さと柔軟性がある、豊かで満たされた自己感覚をもたらす、そういう理論と技術があるということ。
感情的なことは「プライベートなこと」に留めようとしていたり、だからこそ、人にさらすのは「恥ずかしいこと」のように見なされたり、
「オトナ」な姿勢をもとめる社会では、「コドモっぽい」「オンナっぽい」とか、しっかりしてない、ちゃんとしてない、と見られてしまって、
だから、自分も自分に対して、あふれ出る豊かな感情を押しとどめたり、小さいものにしたり、
場合によっては無視したり、気づかなかったり。
そういうなか、AEDP™セラピーは、それこそが、人が生きていくために、とても大切なことだと、
理論的にも技術的にも可能なのだと示しくれたと思いました。
決して、独りよがりだったり、倫理性に欠けたりするようなやりかたではなく、
学術的に可能なのだと。
始まったばかりのセミナーでは、この、学術的な背景も含めて学んでいっているところです。