恥の感情に必要なのは「誰か」の存在

恥を感じたとき、

自分を恥ずかしい存在だと感じているとき、

その恥の感情に必要なのは、そばにいてくれる「誰か」。


〈はじらい〉は、

自分をうめる穴をほり、

その中にうずくまる。

モグラみたいに。

『〈きもち〉はなにをしているの?』ティナ・オジェヴィッツ文、アレクサンドラ・ザヨンツ絵、森絵都訳、河出書房新社


この文章は、恥についてぴったりな表現だなと思います。


土の中が生活の場であるモグラのように、

恥は誰にも見られない地中で力をもっています。

恥が生まれ出たのは、その言動が「よくないもの」なのではなく、その言動をする「自分がよくないもの」だというメッセージを与えられたから。

否定されるような「わたし」は、人目につかないようにしなければならない。

そうやって「恥ずかしい自分」は、土に穴をほってうずまっててもらい、決して地上には現れないようにする必要があります。


そうやって人には見えないようにうずめている恥は、

モグラのように、地中で最も力を発揮していきます。

人には見えないけれど、自分という土の中では、いつまでも元気で居座りつづけるのです。



モグラは地上に出ると、太陽の光で上手く動けなくなるように、

恥も、明るいところに出してはっきりと見えるようにすることで、身動きがとれなくなります。

そこで必要なのが、仲間や、安全で安心できる誰か。


恥が最も必要とするのが、その恥からくる痛みと孤独を知っている、わかってくれる誰か。

恥を感じたときは、「誰か」が必要なのです。



安心できる「誰か」と一緒に、

土の中で元気にしている恥を太陽の元にさらし、

しっかり見てみてほしい。


それは本当に恥ずべきこと?

もしそれが恥ずべきことであるなら、それはその言動であって、自分という存在ではない!


そういうことを、その「誰か」と一緒に知ってほしいなと思います。

恥ずべき存在の人など、一人もいませんから。