大人げない/子どもっぽい

クライエントさんが、自分を「大人げない」とか、「子どもっぽい」と語られることがあります。

そういう自分に対して、恥ずかしい、悔しい、いたたまれない、もどかしい、辛い、イライラする、というような気持ちを感じています。

そして、落ち込み、自分を情けなく思い、自信を感じられなくなっています。


例えば「イライラして怒ってしまう自分をどうにかしたい」というご相談。

このテーマでカウンセリングに訪れる方は、怒りは家族に対して向けられることが多いようです。それ以外の人に対しては自制がきいていたり、さほど気にならなかったりしています。

家族や近い人なので大切にしたい、大切にすべきと思いつつ、イライラする気持ちを押さえられず、ドスドス歩いたり、ドアをバタンとしめたりなどで表してしまうことも多く語られます。

そして、そうやって「大人になれない」自分に対して、さらにイライラを感じてしまうのです。


また別のテーマとしては、「人とうまくコミュニケーションができない」というものがあります。

こういうときの「人」というのは、全ての人ではなく、自分が苦手なタイプの人と上手くコミュニケーションできないというものです。

一番苦手だと感じてるのが、配偶者だということも珍しいお話ではありません。

こういう配偶者の様子で共通しているのが、理路整然とたたみかけるように話して、クライエントさんの意見や気持ちに耳を傾けてくれない態度をとっているところです。上司や同僚でもあります。

クライエントさんは一生懸命話したり、なんとか論理的に話そうと思っていても、相手の勢いに圧倒されて上手くできないと思ったり、感情があふれてしまったりします。

相手の話のペースに巻き込まれ、自分が話したいことからズレていってしまっても、自分の話にもどすことができない。

こういう強くて勢いのある態度を取る人を苦手だと思ってしまう。

でも一方で、そんなふうにしっかりと話せない自分は「子どもっぽい」とも思ってしまう。



私は、20歳代のころ、ある活動を一緒にしていた女性が語ったことが今も強く印象に残っています。

その女性は賢く、落ち着いて、丁寧に、明確に、しっかりと話をする人で、私はとても尊敬していました。

そのころの私は、自分のふがいなさや至らなさが嫌になったり、自分にがっかりすることがよくありました。

そして、その女性の年の頃(60歳代)には、自分も成長して、「大人」になることができるのだろうかと思っていました。

ところがその人は、「この年になっても自分を恥ずかしいと思うことはたくさんある」とおっしゃいました。

その一言は、その時の私には衝撃でした!

年を重ねれば(もちろん努力も必要でしょうが)、落ち着き、自信をもち、悠然となれるように思っていたのです…。


ですが、その一言で、私は、人はいつまでも経験や学びが必要なんだということや、「恥ずかしい」ことは恐れることではないんだ、ということに気づかされました。

とはいえ、その後もずっと私は、自分のいたらなさに翻弄されているわけですが…(汗)。


作家の梨木香歩さんは、こんなふうに書いておられます。 

 

いい年をして、いつまでも何かあるたび恐縮して恥じ入っているのは、情けないような気がすごくするけれど、もうここまで長年「自分」をやっていると、諦めも湧いてきて、開き直って最後までこのままで行くしかない、とも思う。羞恥心、というものが、世の中のあちこちに周到に張られている、「傲慢」の罠に引っかからないための、せめてもの手立ての一つになるような気もして。それともこの開き直りもまた「加齢に伴う」属性の一つなのだろうか。メンタル・タフネスとは「面の皮の厚さ」のことか。いやいやそっちの迷路には入るまい。恥をかくことより、ものが見えなくなることのほうがもっと怖いのだから。(「ぐるりのこと」梨木香歩、新潮文庫)

  

「開き直り」とは、”自分はこれでいくんだ”、という感じでしょうか…。

「これでいい」とまでは言えないけれど、そうは言いたくないけれど、「これでしかない」というような…。

自信いっぱいに自分を認められるわけではないけれど、でも否定しない…。


心の中には、いろいろな自分がいると思います。

できてない自分、ダメな自分、恥ずかしい自分…。

でも、頑張った自分、(それなりに)できている自分もいるはず。

私が尊敬していた女性は、その全部を知っていたのだと思います。

カウンセリングでは、そのどれもに、ちゃんとスポットライトをあててあげたい。

全部あなた。

全部一緒に見てあげたい、という気持ちでいます。