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悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

緊張感をほどく~災害や事故などの後で

2024年。 新しい一年が始まりました。 今年はお正月から大きな地震が襲いました。 被災された方、地震の影響を受けた方には、心よりお見舞い申し上げます。 寒さが厳しくなっていく中、一日も早い安心と回復を願います。 地震は、私がいた場所でもけっこうな揺れがあり、しばらく気分が悪くなりました。 阪神淡路大震災以後、ほんの少しの揺れでも身体が反応するようになりました。 身体が緊張し、こわばり、本来ならすぐに身を守る行動をするべきなのですが、すぐに動くことができません。 頭ではわかっていることですが、身体が即応しないのです。 「あれほどの地震はそうめったに起きないだろう」という過信が頭にインプットされてしまっているのかもしれません。 直接の被害がなくても、揺れなどによって身体が反応したり、 ニュースの緊迫感が伝わってくることで、緊張感が高まったりすることがあります。 「今」が安全で大丈夫であれば、その緊張感などの身体の反応は、ある程度したら回復し、元の状態に戻れるのですが、 ふだんから緊張感や不安感が高かったり、敏感に感じやすい人は、なかなか元に戻りにくい傾向があります。 緊迫感自体は、安全確保のために必要な反応なのですが、「大丈夫」なはずの状況にいてもその緊迫感が持続してしまうのです。 そうすると、「今は大丈夫じゃないのだ!」「こんな苦しいのはもう無理だ!」「もう私は終わりだ!」「死んでしまうかもしれない!」 という絶望的な気持ちになっていくこともあります。 こういうとき、 安全確保のための情報収集として必要がない限り、ニュースや情報から一旦離れましょう。 「今、ここ」は安全で、危機は起こってないということを身体で確認しましょう。目に入るものをいくつかしっかりと見たり(「本がある」「マグカップがある」など)、座っている床や椅子などを感じてみましょう。 身体に緊張感を感じられていたら、その部分を動かしてみましょう。わざと力をギューっと入れて、パッと抜いてみるのでもOKです。 もう少し大きな動きや大きな呼吸をしてみてもいいと思います。立ち上がって歩いてみたり、大きく息を吐いたり。 ここまでくると、気分や緊張感に変化が起きているはずです。 カウンセリングでは、こういうプロセスを一緒に行っています。

孤独がつのる12月に

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12月。 クリスマスや年末年始の行事が、社会を華やかな雰囲気や忙しい空気感にする時期。 寂しさや空しさは、そんな中でより一層強く感じられます。 辛く苦しい時は、明るいもの、華やかなもの、優しいものさえ、 苦しみをより一層強く、悲しみをより一層深くさせます。 孤独は、近代が生み出した感情だそうです。 宗教や共同体からの解放によって、「個人」が生まれたこと、 自由を得たことで、「個人」として孤立することになり、 孤独はそこから必然的に生まれたという考察があります。 情報があふれ、SNSで知らない人々の様子さえ自分の世界に入りこみ、 「自分」でいるために、より多くの消費や、より強いパワーが必要となり、 人との交流でさえ、自分を価値づけるものになってしまっていて、 孤独感を埋めようとしても、その深い穴を埋めるために疲れてしまう。 今はそういう時代のように感じます。 このブログに辿り着いてくださったのは、心のどこかで深い孤独感を抱えているかもしれません。 まずは、辿り着いてくれてよかった。 そして読んでくださってありがとうございます。 私は寂しさが押し寄せるときはたいてい、自然の中へでかけます。 今の時期は、木は葉を落としていても、次の小さな芽吹きを見つけることができ、 川はただただ流れる。 鳥たちも、いつものように餌をさがし、毛づくろいをし、羽を休めていて そういう「いつもと変わらなさ」の中にいることで、孤独感を心の箱に静かに収めていける感じになります。 誰もが孤独から逃れられない今の時代の中、自分なりの過ごしかたが、読んでくれたあなたにもありますように…。 【参考】 新矢昌昭(2001),近代における孤独の誕生, 佛大社会学 第26号 フェイ・バウンド・アルバーティ(2023), 私たちはいつから「孤独」になったのか, みすず書房

扉が閉じてしまったとき

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「今」が、これまでのように、こうやって続いていくだろうと、 それを意識するまでもなくここまできたけれど、その道が突然途絶えてしまうことがあります。 パートナーからの突然別れ話 家族の別離 大切な人の死 全力をかけてきたけれど叶わぬ結果 望まぬ転居… 一本の道の先が続いていると思っていたのに、突然目の前に重い扉が現れて、立ち止まざるを得なくなる、 そんなイメージが心の中で表されます。 扉を開けようと、押したり引いたりしてみたり、 でも扉はびくともせず、茫然と扉を見つめる。 身動きのとれなさ、 失われた未来 とまどい、悲しみ、怒り、不安 さまざまに襲いかかる感情に打ちひしがれる。 こんな辛いことはありません… そういうとき、その扉の前で、少し休みませんか。 カウンセリングでは、おひとりにせず、一緒にお供します。 あなたが自ら閉じた扉ではない、 それは明らかです。 一緒に悲しみ、怒りたいと思います。 そうして、十分に立ち止まり、十分に心も身体も休めてみると、 そこに新しい道があったことが見えてきます。 想像していた方向や、望んでいた方向ではなかったけれど、 思ってもみなかった新しい道。 「可能性」という道。 そこへ一歩踏み出すこと、 その道を歩んでいくこと、 それもまた、カウンセリングでは伴走させてもらいたいと思っています。

AEDP(加速化精神力動療法)をベースにしたカウンセリング

※この記事は、2021年にウェブサイトのプロフィール欄に記載していたものです。今回ウェブサイトを編集したため、こちらに改めて掲載することにしました。 社会人になってからのことです。 周りの人たちに、とても辛い出来事が起こりました。 私も、辛い気持ちにおそわれて、 毎日、毎日、涙を流していたものです。 のちに、嵐そのものは、止んでいったのですが、 心の中は静まっていないことを知り、 以下のような思いを抱くようになります。 「人は、心の中に安心と平和がもたらされなければ、 問題が解決したとは思えないし、 新たに歩みを進めようという気持ちにはなれない」 心の安心と平和は、どうすればもたらされるだろうか。 そのために、私は、何ができるだろうか。 心の奥深くに関心を持つようになった私は、 心理士への一歩を進み始めることにしました。 心理士として、いろいろなことを学び、 たくさんの人に支えられ、そうして出会ったのが、 AEDP™心理療法というセラピーです。 私がおこなうカウンセリングのベースとなっています。 ​ なぜ、AEDPなのか。 それは、AEDPを通して、 私自身の中に、 大きな感動と深い感謝が生まれたからです。 トレーニングでは、 講師がおこなった実際のセッション動画を視聴します。 そのとき、クライエントの劇的で素晴らしい変化を いくつも目の当たりにしました。 ​ 人が持っている生きる力。 人と人とが触れ合う中で生まれる慈愛の温かさ。 ​ トレーニングを受けた人たちは皆、 これらに深く心を動かされ、涙を流します。 ​ 私も、その一人でした。 AEDPをベースにした カウンセリングを始めてからは、 クライエントの素晴らしい力、 さらには、自分自身を生きる輝きに、 何度も胸を打たれています。 ​ こういう体験を一緒にさせてもらえることに、 深い感謝の気持ちを抱かせてもらえました。 ​ AEDPが大切にしていることは、 自分の感情や感覚をしっかりと感じること。 自分自身に深く触れること。 そして、ちから。 ​ あなたが、苦しみの中で、 ここへアクセスされたのは、 苦しみから抜け出そうとする「ちから」が あなたの中にあるから。 今まで、物事がうまくいかなかった と、感じているかもしれませんが、 それは、あなたが自分なりに「ちから」をつかって、 一生懸命がんばってきたからこその証

あなたの心に響く言葉

ブログを書き始めてから、書くことや文章、言葉についてよく考えます。 小説、エッセイなどを読んでいて、スルリと入ってくるものもあれば、どうにも引っかかってしまうものもあったり、 じんわりと響いて余韻が残るようなものや、心の中の本棚にそっと大切に置いておきたくなるようなものもあれば、 要点だけ掴んで読み飛ばしていくものや、途中で止まって放置しているようなものもあります。 X(Twitter)のほんの短い文章でさえ、不思議とその人の「質感」が現れていて。 どうしてなのかなぁと、 好きな文章と、そうでもない文章に触れながら、どう違うのかしばらく考えていました。 今のところ浮かんでいるのは、私は、書かれている内容ではなく、その文章からその人自身が感じられるかどうか、 書き手が、文章によって自分自身を隠すのではなく、文章によって自分自身を現わしているかどうか、 文章がその人自身かどうか、 ということに反応しているようだと気づいてきました。 こんなふうに感じるようになったのは、カウンセリングでの経験からなのだと思います。 カウンセリングは、二人で言葉を交わすことで進んでいきます。 カウンセリングにおいて、カウンセリングが「意味あるもの」となるのは、 「何について話したか」という内容よりも、 語られた言葉が「まことの言葉」なのかどうか 言葉と言葉の間にあるものもまた、「まことの間」なのかどうか 言葉を交わす二人の間がつながっているか 「意味あるもの」になるやり方や"タイプ"は、クライエントさんによってそれぞれ。 自分の中から言葉をじっくりと紡ぎ出すようなプロセスもあれば、 いろいろ話してみながら、そこからだんだんと浮かび上がってくるプロセスもあったり。 話してよかったなぁ 言葉になってよかった… こういう体験になったらと思いながら、 わたしもまた一緒に言葉を味わいたいと思っています。

「わかってもらえた」と感じられるまで

クライエントさんにとって、「わかってもらえている」と感じられることは、何よりも大きく、大事なことです。 私自身もクライエントとして、あるいはスーパーバイジー(指導者からカウンセリングについての指導を受ける者を「スーパーバイジー」と言います)として、「わかってもらえている」と感じられることがどれほど重要か実感します。 そういう自分自身の経験も踏まえて、私がカウンセラーとして日々思うのは、クライエントさんの忍耐力への感謝です。 自分の思いを、傷つきや苦しみを、自分自身を、それをまだ知らない私へ伝えようと頑張ったり、努力したりしてくれていること。 自分なりのやり方、自分なりの言葉を探ってくれていること。 それをするのに力を使い、気をつかい、頭も身体もつかっていること。 「わかってもらえていない」と感じる苦しさ、哀しさ、難しさ、空しさ、孤独感がありながらも、見切りをつけずに続けてくれているとき、 私のカウンセリングを受けることによって辛い気持ちをCLさんが感じることに、私もまた苦しくなり、恥じ入る気持ちが大きくなります。 同時に、踏ん張ってくれているその思いに応えたいという思い、 踏ん張ってくれていることへの深い畏敬と感謝があります。 私への不満や怒りをはっきりと出してくれたならば、それは私にとってとても助かりますし、有難いことです。 修復への糸口を提示してくれたのですから。 何となくのような違和感や居心地の悪さをCLさんは感じてるのではないか…、と私の方がつかめたとしたら、それを大事にしたい。 「わかってもらえた」という体験は、それ自体がカウンセリングでとても重要ですが、 そこへ至るまでのプロセスも重要です。 「わかってもらえた」という体験へ至るまでに、どれほどのエネルギーをクライエントさんがかけているだろう、 それをいつも心に置いています。

自分のままでいられる世界へ ~絵本「ボルカ」から

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今回はジョン・バーニンガムの絵本、「ボルカ」(ほるぷ出版)を取り上げたいと思います。 ガチョウの夫婦に6羽の子どもたちが生まれましたが、そのうちの1羽のボルカには羽が全くはえてきませんでした。 お医者さんガチョウに診てもらいましたが、羽がないこと以外はどこも悪くありません。 羽がなくて寒いボルカのために、お母さんガチョウは羽を編んで着せてやりました。 でもそれを他のきょうだいたちは笑い、いじめました。 一緒にいたくないボルカはひとり隠れていたので、泳いだり飛んだりすることを覚えられませんでした。 忙しいお父さん・お母さんガチョウは、そんなことが起きているとは知らず夏が終わり、ボルカがいないことに気づかないまま、暖かいところへ旅立って行ってしまいました。 ここでは、障がい、そして、いじめ・虐待というテーマが連想されます。 先日参加したビブリオバトルで「ボルカ」を紹介された方は、「こんな経験をした人がいるんじゃないか、ボルカのような気持ちになったことがあるのではないかと思います」と言っていました。 お母さんガチョウはボルカのために羽を編む〝親心”は持っていますが、ボルカの痛みは知らないまま。ボルカを深く支える存在として描かれていません。お父さんガチョウも心配してお医者に連れて行っただけ。 きょうだい間でのいじめは親の無関心・無関与によって起きているさまが現れています。 「みにくいアヒルの子」と違う「ボルカ」のお話の魅力はここからです。 ひとり残されたボルカ。 とぼとぼと歩いていくと入り江に泊まる船が見えます。 雨をよけるために船に乗り込んだところ、犬のファウラーに吠えたてられました。でも事情を知ったファウラーは吠えるのを止め、ボルカを寝場所につれて行ってあげました。 ボルカは船乗りたちとも仲良しになり、一緒にロンドンまで行くことになります。 家族に置いていかれたひとりぼっちボルカでしたが、育った場所を離れていったことで、新しい出会いがありました。 ファウラーに吠えたてられるという命の危険にさらされながらも、話をすることで船の仲間になります。 これまでとは違う存在、これまでとは違うやりかた、 そこから新しい方向が開かれて行きます。 ロンドンに着き、船長はボルカを キュー植物園 に連れて行きました。 ガチョウだけでなく、いろんなかわった鳥たちも一緒に暮らすキュー植物園。だれ

自由な感情⇔止まってしまう感情②

前回からの続きです。 こんなふうに「自分」「私」という監督官と感情との間で起こる動きや流れが、ときに緊張をもたらし、監督官に打撃を与えてしまうことにもなるようなとき、 助っ人を読んでみましょう! 人間関係でも、仲良しでラブラブなときは二人きりでいたいものですが、不穏な雰囲気のときは、居心地が悪くなってきます。 相手と正面から向き合うのはキツイ。 関係が危機的なのに逃げることもできないときに有効なのは、第三者! 「身体(感覚)」にご登場いただきましょう。 その気持ちが起こっている時、 あるいは、そのことを考えていると、 身体にはどんなことが起きているのでしょう? こんなふうにして身体に登場してもらいます。 身体は、 「お腹が痛い」とか「胸がドキドキする」などのように、生理的な感覚として、 「喉がつまる」「肩に重しが乗ってるように重い」のように、生理的な表現があるイメージとして、 あるいは「胸のモヤモヤが煙のように充満している」「身体に丸い玉があって冷たい」のように、イメージそのものとして体験されることもあります。 身体に登場してもらうと、感情によって圧倒されそうだったり、批判されて苦しく逃げたくなっている監督官は、不思議と落ち着きを取り戻します。 まるで、身体の登場によって逃げ場ができたような。 今、身体はどんなふうだろう?と観ていってあげると、 身体に起こっているいろいろなことをメッセージとして受け取っていけるようになり、 そうすると、「感情」はそのパワフルさを自然とトーンダウンして、待っていてくれるようです。 しだいに監督官は落ち着きを取り戻し、自分のペースでいられるようになります。 こうやって、 「感情」から「身体」へ注意をシフトしていくこと、 そして、注意をシフトしていったことで、観察力を維持できている「自分」「私」。 これが「主体性」。 (やっとテーマである「主体性」の言葉が出てきました!💦) そして大事なことがもう一つ。 この「自分」「私」は、いつも身体を観ながら落ち着いていられていることによって「自分」「私」でいられているのではなく、 感情に圧倒されそうになったり、感情をスルーしようとしていても、 そのたびに気づいて、 「身体はどうかな~」と観ていく。 ただただ、この繰り返しをするのでOKなのです。 そう。カンペキな監督になんてなれないし、なる必要はな

自由な感情⇔止まってしまう感情①

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辛い気持ちにはいろいろなものがあります。 例えばとても悲しいとか、すごく腹が立つとか、強い嫌悪感とか どんどん膨らんで襲ってくる不安感、自分はダメで不十分な人間だと思う自己否定感 人を羨やみ嫉妬でイライラする気持ちや、孤独で孤立無援の恐怖感… 「辛い気持ち」としてまとめられるこのような感情の中で、 その気持ちがどんどん膨らんだり大きくなったりして、自分を圧倒してくるようなものと、 逆に、少し感じたものの、いつの間にか小さくなって、モヤモヤだけが残るような感情があるのではないでしょうか。 喜びや満足の気持ちもいろいろあります。 喜び、愛、希望、誇りや達成感、やすらぎ、感謝、興味(ワクワク)、やる気や興奮、楽しく愉快な気持ち、感動、スッキリさわやかな感じ。 このような感情の中でも、その感情を自然に感じられるものと、 少し感じたりはするけれど、大きくなってくると止めてしまうような感情があります。 感情が、ネガティブかポジティブかに関係なく、感情が勝手に(あるいは自然に)大きくなるタイプのものと、勝手に小さくなるタイプのものがあります。 感情のこんな動きに関わっているものは、自分の中にありまして、 それを「自分」や「私」と名付けてみましょう。 「自分」や「私」は、感情に対する監督官。 「自分」や「私」にとって必要だと判断した感情はGOサインを出し、逆に不必要だと判断すると、STOPサインを出します。 STOPサインにはいろいろあって、 「それを感じるのは止めといたほうがいい」ぐらいのマイルドなものから、 「そんなことを感じてはヤバい!危ない!よくない!」と命令するものもあったり、 まるでサブリミナルかのように隠れて働かせるようなサインもあります。 監督官にとって、自分のマネジメントが上手くいったかどうかは重要です。 監督官が抑え込みたいタイプの感情がたくさん現れているのは、「負け越し」。 この失敗のダメージは監督生命にとって致命的になります。 抑え込みたいタイプの感情は、こんなふうに、監督官としての評価基準となります。 図にしてみるとこんな感じ↓ はてさて、監督官には勝機はあるのでしょうか? あるとしたらどんなふうに? また長くなってしまったので次回に続きます。 前回までの記事で取り上げた「主体性」をテーマにしているはずなのに、「主体性」の一言も出てこないままですが、一応ち