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「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ。」

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ムーミン好きな方ならきっとご存知の、スナフキンの名言。 『ムーミン谷の夏まつり』です。 洪水で流されたちびのミイが裁縫かごの中で眠っていると、偶然、スナフキンに出会い、食べ物をもらいました。 十分食べたかどうか、スナフキンはミイに聞きます。ミイは、「また眠くなっちゃった。いつもポケットの中が、いちばんよく眠れるの」と言いました。 それに対してスナフキンが言ったのがタイトルの一文です。 そしてスナフキンとミイが歩いていくと、公園がありました。 ですが、「公園への立ち入り禁止」と書かれた看板が立っています。 公園なのに! クライエントさんがこの場面について話してくれまして、私ももう一度この本を手に取りました。 公園には公園番の夫婦が住んでいて、そこに親がいない24人の子どもたちが毎日森からやって来ます。 公園の木々はきっちりと刈り込まれ、道はパキッとまっすぐ。 そして禁止の立て看板がたくさん立っています。「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「飛びはねるべからず」。 公園番の夫婦が公園を(子どもたちを)管理・監視しています。 こういうことが大っ嫌いなスナフキンは、片っ端から看板を抜き、子どもたちに「好きな場所へ行っていいんだよ!」と言いました。 でも子どもたちは誰も行こうとしません。 スナフキンについて行こうとするので、悩みつつスナフキンは子どもたちを連れて先へ進んで…。 子どもたちの様子は、とても示唆的だと思いました。 たくさんの禁止のメッセージと、それを見張る強い他者。その中にずっといると、「自分」がしたいことがわからなくなってしまう様子が現れています。 自分は何を求めているか。自分がしたいことは何か。 看板からも公園番からも解放されたのに、24人の子どもたちは自分のしたいようにすることができません。 代わりに今度はスナフキンにまとわりついています。 日本の子どもたちは、あふれる「禁止」のメッセージのなかで育っていると思います。 ブラック校則はその象徴。 明示されたルールだけでなく、暗示的なルールは「空気」として漂っています。 禁止のメッセージはこんなふうに、全て周りからきています。 そのメッセージは、大きいこともあれば小さいものもあり、大切なこともあれば、取るに足らないようなこともあります。 周りからきた禁止のメッセージはいつのまにか自分の中に入り込み、自分で自

安心が怖い

安心、リラックス、楽… こういう感じを、深く深く感じたいというのは、誰もが心の底から願っていることではないでしょうか。 「安心」のタネは、お母さんのお腹に宿ったときに撒かれます。 お腹から出てきてからは、育ててくれる大人がたくさんの「安心」をくれることで、安心の感覚を身体が覚えていきます。 成長するにつれ、言葉でのやりとりも「安心」を確かなものにしていきます。 こういう経験の積み重ねによって「安心」のタネは育っていくので、これらが十分・適切になかったならば、安心を感じることが難しいと感じられるでしょう。 十分・適切になかったというのは、逆に言えば、危険な状況や、大丈夫かもしれないけれど先が見通せない不確定な状況の中にいたことが多かったということです。 そうすると、いつも緊張感を保っていなければならない状態になります。そうしなければ、周りの人や状況にすばやく対処できないですから。 緊張感を常に保っていると、それを緩めるのは怖いですし、不安です。 緊張感を緩めていいことがなかった経験があるほど、その恐怖や不安は大きくなります。 安心を感じるのが難しいのは、こういう背景があります。 安心を感じたい。でも緊張感を緩めるのは怖い。 これは、よく見られることです。 安心と緊張という両極端の拮抗の間にいるのはとても辛いので、たいていは慣れ親しんだ緊張状態へ自分を持って行きます。 そうすると、困惑や絶望的な気持ち、自分はダメだ、というような気持ちになったりします。疲労困憊で、救世主のような人が現れること、突然人生が変わるようなことを求めたい気持ちになったり。 こういうこともごく普通で、ごく自然なことです。 安心の体験は、まず、ほんのちょっぴりから始めるのをお勧めしています。 世界が変わるような深い安心やリラックスではなく、「え?」と思うぐらいの小さな小さな安心。 そんなちっさい経験だと深い満足感がないんですけど(笑)、でも、緊張に満ちた心身は、そのくらいだと道を譲ってくれるようです。 誰でも皆、「安心のタネ」を持っています。 安心のタネはいつでも芽吹くのを待ってくれています。 一気に成長させ、花を咲かせるのではなく、ゆっくりでも確実に、タネの育つペースのままに、安心の体験を積み重ねていく。 安心は、こうやって「慣れ」ていくことができます。

セルフ・ケアを成功させる極意。

安心する、って難しいかもしれません。 安心の気持ちや感じを知らないならば、そもそも、それがどんなものかわからないでしょう。 何となく知っているようでも、いつもどこかに緊張感や不安があるなら、”本当の”安心感や安心の体験とは思えない。 不安や緊張感などが続くと疲れてしまいます。疲れが慢性的になると、眠れなくなったり、身体的な不調にもつながります。 本やウェブサイトには、セルフ・ケアや安心のためのハウツーがたくさんあり、具体的に示してくれています。 セルフ・コントロールのために、参考にして取り入れている方も多いのではないでしょうか。 自分のセフル・コントロールやセルフ・ケアが上手くいっているかどうかは、「良い感覚が少しでもあった」、ということを目安にするといいと思います。 また、良い感覚はなかったとしても、「前よりはマシ」という感じがあったなら、それもOKです。 そしてここが重要なのですが、 その良い感覚やマシな感じがずっと続いていなくてもいい のです。 その理由。 それは、「安心感」を感じるために大切なのは、安心している状態やリラックスした状態が続いていることではなく、 安心感の体験がちゃんと起きていること だからなのです。 ほんの少しであっても、たとえ一瞬であっても、自分の身体と心は、安心の感覚へと変化できている。 そしてそれに自分で気が付けている。 これはセルフ・ケアにおいてとても重要で、ほんの少しでも、ほんの一瞬でもあるならば、セルフ・ケアは上手くいっています。 自分の身体と心はちゃんと反応している。そして、自分はそれをちゃんと知っている。 逆に、やってみたセルフ・ケアなどで、良い感覚は感じられなかったし、マシにもならなかったならば、その感じを感じた時に、その方法は、ひとまず今は止めましょう! それは自分には(今は)合っていなかっただけです。 感じられなかったことは、努力や工夫が足りないのではありません。 何よりも、「あれ?良くなってないぞ?」「あんまり変わらないぞ?」と 感じていること自体 が、とてもとても大切なのです。 セルフ・ケアを、こんな視点から見てほしいなと思うのは、こういう積み重ねは、自分の身体や心への信頼感を作っていくプロセスでもあるからなのです。 カウンセリングでは、クライエントさんが気が付いていることだけでなく、気が付いていなさそうなことにも目

自分が、自分の一番の友だちになる

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カウンセリングで行うことを一言で述べるとするならば、「自分が、自分の一番の友だちになること」です。 苦しんだり悲しんだりしている中で、最も苦しめたり悲ませているのは、実はクライエントさん自身であるという側面があるのです。 「自分は不十分だ」「自分はたいしたことない」「自分が悪い」というように自分を責めていたり、 時々うける褒め言葉や喜びの言葉を、「受け取るに値しない」とか「気を遣って言っているに違いない」と受け取れなかったり、 もっとより良い自分に、より素晴らしい自分にならなければと追い込んでいたり、 辛くて苦しい気持ちを閉じこめて耐えさせようとしたり、 周りから攻撃されているのがわかっていても、何もできなかったり。 自分を苦しめたり悲しませるやり方は、こんなふうにいろいろです。 こんなふうに自分に厳しくなっていたり、自分自身に対してお手上げな気持ちになっているのには、もちろん、理由や背景があります。 緊張感をもって生きてこなければならなかったでしょうし、それが続いて感覚がマヒしたようになってきていたりもします。 カウンセリングで行うのは、こんなふうに自分を攻撃したり、いじめたり、発破をかけたりしつづける自分ではなく、 ただ一緒にそばにいて、肩を抱いたり、見守ったり、やさしく声をかける自分を育てていくことです。 作家の高橋源一郎さんは、人生相談の回答で「あなた自身を救い出してあげる」という表現を度々されています。 「自分を救い出す」。 そのために私がカウンセリングで行うのは、クライエントさんに、「あなたが思ってるような、そんな自分じゃないよ」ということを伝えていくことです。 素晴らしいことがいっぱいあって、できていることもいっぱいあって、 ものすごく頑張っているし、よくやっているし、 うまくいったかどうかや、結果がどうかではなく、これまでの「道のり」、そのプロセス、試行錯誤、それはただただ、すごいことだった!ということ これを私は何度でも何度でも伝えたいのです。 まず、私が手を差し出していきたいのです。 差し出した私の手が見えて、その手をそっと握ってみようかと思えたり、 私が一緒にいるということを感じてもらえたりして、 そういうことに少しずつ慣れていくうちに、私の声がクライエントさんの心に届いていって、 そうして、自分を慈しむ自分が生まれてきます。 初めは恐る恐る、

オンラインでのカウンセリングってどうでしょう?②

以前にも書きました が、コロナ禍以降、オンラインでのカウンセリングが一般的になりました。 そして、対面とオンラインのカウンセリングの効果などについての研究も示されてきています。 私はこれまで対面でカウンセリングを行ってきましたが、コロナ禍でカウンセリングを開業し、オンラインのみで行っています。 前回書きましたように、対面とオンラインで、実施上の違いはあるものの、カウンセリングの進み方や「効果」の点では違いがないと感じています。 私がカウンセリングで用いているAEDP™という心理療法のアプローチは、アメリカのAEDP™研究所によるものです。その研究所の教員によるトークイベント(ウェビナー)が先月あり、このテーマが挙げられました。 そこでも、オンラインという環境でも違いはないというお話が、教員からも参加者からも出されていました。 その理由の一つとして話されたことは、クライエントさんがいる場所についてでした。 クライエントさんの多くは自宅からアクセスされています。 そこは「自分の」場所。 いつもいる、慣れている空間にいることが、クライエントさんにとって安心感につながっているのではないかというお話でした。 オンライン以前は、クライエントさんはカウンセラーの場所を訪れる、というやり方でした。 そこに慣れるまでは、クライエントさんにとっては、きっと緊張感を感じながらお部屋に入っていたと思います。私自身、カウンセリングやSV(カウンセリングの指導)を受けるときは、部屋に入るまで、そして入ってから少しの間、緊張感を感じていました。 そこは「カウンセラーの場所」なので、カウンセラーの空間/世界に入っていくことに伴う緊張感があるのだと思います。 ご自宅ではなく、ネットカフェ等からアクセスされる方もおられます。 そこは自分の「場所」ではありませんが、カウンセラーの場所でもありません。 馴染んだ場所ではないですが、誰の場所でもない。 そういう安心感があるかもしれません。 オンラインならではの「場所」。それがクライエントさんにとって、カウンセリングにとって良い側面となっている可能性を、私もオンライン・カウンセリングを行う中で感じています。

ラナンキュラスはゆっくりと花開く

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私はパクチーが大好きでして、これまでに何度も栽培を試みてきたものの、いつも失敗してきました。 芽が出なかったり、芽が出てもナメクジに食べられたり、芽が大きくならずに死んでしまったり。 パクチー栽培がこんなに難しいとは。 冬にしては暖かい日が続いていた今年の初め頃、ずいぶん前に植えた種が芽を出しました。芽が出るはずの期間はとうに過ぎていたのに。すっかり忘れてさえいたぐらいです。 それから、死んでしまわないよう、毎日見ていました。 見てるからって成長するというわけでもないんですけどね。 一つだけ芽吹いたパクチー。少しずつ少しずつ大きくなってきてくれました。 そうしていると、また別のところでパクチーの芽が! ヤッター!と喜んで、これまた丁寧に水やりしてきました。 するとなんと、これまたずーーーっと前に撒いた人参の種も芽が!!! 今はパクチーはワサワサしてます💓 植物の成長は、私の浅はかな知識や経験を越えたところで、その生命の力のままに芽吹き、育っていってくれています。 私はただただ気にしたり気をもんでいるだけ…。 昨年の冬に植えたラナンキュラスの球根。 すぐに芽が出て葉がしげったものの、なかなか花芽がつきませんでした。 3月の終わりになって急に気温が上がってきたころ、花芽が伸びてきました! でも蕾から花開くまで、何日も何日もたっています。 こんなにもゆっくりと開く花。 そのゆっくりとした動きが、私の心にも積み重なっていきます。 心の動きや流れを、私は植物と重ねてみることがあります。 クライエントさんも、そして私自身も、”あるべき”流れやエネルギーのままに添っていく、 そういう感覚を大事にしたいなと思っています。

背負いすぎている荷物

生きてきた中で背負ってきた荷物。 望まないにもかかわらず乗せられてしまった荷物や、自ら引き受けて負った荷物。 下ろせるものならば下ろしたい。 けれど、どうやって下ろしたらよいのかわからないとか、 誰も引き受けてくれないから、下ろすことはできないとか。 荷物がこんなにも大きく重いことも、 それなのに下ろして軽くすることができないことも、 どちらも辛いことです。 カウンセリングではしばしば、「肩の荷が下りたような感じ」という体感を表現してくださることがあります。 そこまでに至るプロセスはいろいろなのですが、 苦しんだ自分に気づき、悼み、悲しみ、 それを私と分かち合うなかで、 大きな息が吐きだされたあとに、肩の荷が下りて軽くなったような感覚を体験されます。 本当に大きく、重い荷物でした。 でも、ここに至るまで、それを背負って歩まざるをえなかったのですよね。 よく歩いてこられました。 よくここまでたどり着いてこられました。 「小休止」を体験されると、本当に背負うべき荷物や自ら背負っていきたいと思う荷物と、下ろしてもよい荷物とが、すっきりと整理されます。 そして、荷物を下ろしてみる。 負わなくてもよい荷物がない軽さを感じると、視線は、次の一歩へ向いています。 下ろした荷物に名残惜しいような気持ちも感じながら、でも、 向かいたいその先には、広がる空や地平線が見えてくるというお話をしてくださいます。 私はそこで、その明るく輝く空や、広がる地平線を一緒に感じさせてもらうのです。 こんなにも大きな荷物を背負いながらも歩んでこられたクライエントさんの力強さや忍耐力に敬意を感じながら、同時に、 新たな歩み、これまでとは違う歩みを、おだやかながらもしっかりと前を見て踏み出す、その確かさに、 人の生きる力と素晴らしさを感じさせてもらいます。

感情反応“遅延型”

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アレルギー反応に、すぐに反応する即時型と、症状が後になって現れる遅延型があります。 感情も、その場ですぐ感じるときと、後になってから感じることがありませんか? 感情がどのように現れてくるかという「タイプ診断」のようなものがあるわけではありませんが、このようなアレルギー反応で例えるならば、私の感情は”遅延型“だなぁと思います。 感情を、それを感じるはずのその場ではぼんやりとしか感じられず、後になって、ジワジワと感情が実感されてくることが多くあります。 特に不快・不愉快なほうの感情が遅れてやってくる傾向が強いです。 思い起こすと、私はどうも感情は全般的に”遅延型”な反応だったと思います。 小さなころから、うれしいことも悲しいことも、ワクワクすることも嫌なことも、パッとその場では現れず、ゆ~っくりと、ジワ~ッと感じているほうだったのを覚えています。 心の中でそれを感じている頃には、その出来事やそれに関わった人たちは移って行ってしまっているので、周りの人はきっとよくわからなかったでしょうし、私もまた、気持ちを共有するタイミングを失っていたと思います。 自分がこんなふうなので、感情という波がどんなふうに心へ打ち寄せてくるのかは、人によって、状況によって多様なのだとわかります。 波が、入江と岸壁では違っているし、天候や季節によっても違っているように。 感情がいつ現れ、いつ心の中で大きくなるのか、というタイミングの問題。 「スムーズさ」の点では大事だとは思いますが、私はあまり重視していません。 「なんでその時に言わないんだ!」と怒って言う人がいますし、逆に、「なぜ自分はその場でちゃんと気持ちを言えないんだろう」と辛い気持ちになる人もいますが、タイミングの問題にしてしまうと、タイミングを合わせること自体が優先されてしまうように思います。 でもそれは、誰の、何のためのタイミング? それよりもむしろ、感情という波が、自然のままに打ち寄せてきたことを大切にしたいのです。 そうやって岸にやってきたものを、ただその流れや音や匂いのままに感じる。 いつやってきてもいい。 感情が、感情自体の動きのままに、ただそのままにやってきたならば、それは本当に大切な「気持ち」。 ゆっくりとゆっくりとやってきたのであっても、 波が、静かに、じんわりと砂浜に染み入る感じを、カウンセリングで一緒に見ていたいと思い

肩書の洋服を着た「私」と、裸の「私」と。

ものすごく前なのですが(20年前?30年前?)、今もよく覚えている新聞記事があります。 書いていたのは、当時、大学教員として有名な女性。現在は別の領域で活動されています。 内容は、小さい子どもを公園に連れて行って遊ばせている時、自分が、「大学の有名な先生」ではなく、「○○ちゃん(子どもの名前)のお母さん」という、無名の存在になることの心地良さについて書いていました。 自分でも不思議なのですが、その時の印象が、今も記憶に残っています。 先生の学問分野が、私が当時興味を持っていたことで、先生の活躍は、私にとっては憧れでもありました。その人が、そうではないことについて心地よさを感じていたことに、意外な気持ちになったのかなと思います。 成長するにつれ、大人になるにつれ、人は、いろいろな立場性や属性を持ったり、意識するようになります。 仕事や学校の中で、家族の中、地域などで、どんな立場にいるか、 逆に、そういう立場を持たないという立場性、 性別の認識、 年齢 人種や民族などなど 他にも、いろいろな立場や属性があります。 これらは全部、周りから来たものです。 そうして、認識したり、意識するようになったその立場や属性が、「私」をつくってもきました。 だから、自分がどのような立場や属性でいるかということは、「私」にとって、とても重要な要素になります。 一方で、そのような立場性や属性という洋服を脱いだ「本当の私」がいる、 そういうことを思ったことはありませんか? 何者でもない、ただそのままの「私」。 でも、これらは普段、さほど区別してないような、ごちゃごちゃになってるような、 というよりも、「本当の私」は感じられないままでいるということのほうが多いのではないかと思います。 最初に書いた大学の先生。その方は、いつもの大きな属性ではない自分でいられていることに気づき、心地よさを感じていました。 「大学の先生」「お母さん」という属性が変化するさまを心地よく感じていたのが、その方の最も中核の部分、つまり、「本当の私」だったのではないかと思います。 カウンセリングでは、まわりからきて、自分の内側でも規定しているようなたくさんの属性や立場性を大事にしつつ、 それが「本当の私」にとってどういうものなのか、 そして「本当の私」はどう感じてるのか、 それを、行ったり来たりしながら感じていくプロセスがあ