肩書の洋服を着た「私」と、裸の「私」と。

ものすごく前なのですが(20年前?30年前?)、今もよく覚えている新聞記事があります。

書いていたのは、当時、大学教員として有名な女性。現在は別の領域で活動されています。

内容は、小さい子どもを公園に連れて行って遊ばせている時、自分が、「大学の有名な先生」ではなく、「○○ちゃん(子どもの名前)のお母さん」という、無名の存在になることの心地良さについて書いていました。


自分でも不思議なのですが、その時の印象が、今も記憶に残っています。

先生の学問分野が、私が当時興味を持っていたことで、先生の活躍は、私にとっては憧れでもありました。その人が、そうではないことについて心地よさを感じていたことに、意外な気持ちになったのかなと思います。


成長するにつれ、大人になるにつれ、人は、いろいろな立場性や属性を持ったり、意識するようになります。

仕事や学校の中で、家族の中、地域などで、どんな立場にいるか、

逆に、そういう立場を持たないという立場性、

性別の認識、

年齢

人種や民族などなど


他にも、いろいろな立場や属性があります。


これらは全部、周りから来たものです。

そうして、認識したり、意識するようになったその立場や属性が、「私」をつくってもきました。

だから、自分がどのような立場や属性でいるかということは、「私」にとって、とても重要な要素になります。


一方で、そのような立場性や属性という洋服を脱いだ「本当の私」がいる、

そういうことを思ったことはありませんか?

何者でもない、ただそのままの「私」。


でも、これらは普段、さほど区別してないような、ごちゃごちゃになってるような、

というよりも、「本当の私」は感じられないままでいるということのほうが多いのではないかと思います。


最初に書いた大学の先生。その方は、いつもの大きな属性ではない自分でいられていることに気づき、心地よさを感じていました。

「大学の先生」「お母さん」という属性が変化するさまを心地よく感じていたのが、その方の最も中核の部分、つまり、「本当の私」だったのではないかと思います。


カウンセリングでは、まわりからきて、自分の内側でも規定しているようなたくさんの属性や立場性を大事にしつつ、

それが「本当の私」にとってどういうものなのか、

そして「本当の私」はどう感じてるのか、

それを、行ったり来たりしながら感じていくプロセスがあります。


自分の中で感じられるもの、

それを大切にしています。