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自分が、自分の一番の友だちになる

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カウンセリングで行うことを一言で述べるとするならば、「自分が、自分の一番の友だちになること」です。 苦しんだり悲しんだりしている中で、最も苦しめたり悲ませているのは、実はクライエントさん自身であるという側面があるのです。 「自分は不十分だ」「自分はたいしたことない」「自分が悪い」というように自分を責めていたり、 時々うける褒め言葉や喜びの言葉を、「受け取るに値しない」とか「気を遣って言っているに違いない」と受け取れなかったり、 もっとより良い自分に、より素晴らしい自分にならなければと追い込んでいたり、 辛くて苦しい気持ちを閉じこめて耐えさせようとしたり、 周りから攻撃されているのがわかっていても、何もできなかったり。 自分を苦しめたり悲しませるやり方は、こんなふうにいろいろです。 こんなふうに自分に厳しくなっていたり、自分自身に対してお手上げな気持ちになっているのには、もちろん、理由や背景があります。 緊張感をもって生きてこなければならなかったでしょうし、それが続いて感覚がマヒしたようになってきていたりもします。 カウンセリングで行うのは、こんなふうに自分を攻撃したり、いじめたり、発破をかけたりしつづける自分ではなく、 ただ一緒にそばにいて、肩を抱いたり、見守ったり、やさしく声をかける自分を育てていくことです。 作家の高橋源一郎さんは、人生相談の回答で「あなた自身を救い出してあげる」という表現を度々されています。 「自分を救い出す」。 そのために私がカウンセリングで行うのは、クライエントさんに、「あなたが思ってるような、そんな自分じゃないよ」ということを伝えていくことです。 素晴らしいことがいっぱいあって、できていることもいっぱいあって、 ものすごく頑張っているし、よくやっているし、 うまくいったかどうかや、結果がどうかではなく、これまでの「道のり」、そのプロセス、試行錯誤、それはただただ、すごいことだった!ということ これを私は何度でも何度でも伝えたいのです。 まず、私が手を差し出していきたいのです。 差し出した私の手が見えて、その手をそっと握ってみようかと思えたり、 私が一緒にいるということを感じてもらえたりして、 そういうことに少しずつ慣れていくうちに、私の声がクライエントさんの心に届いていって、 そうして、自分を慈しむ自分が生まれてきます。 初めは恐る恐る、

オンラインでのカウンセリングってどうでしょう?②

以前にも書きました が、コロナ禍以降、オンラインでのカウンセリングが一般的になりました。 そして、対面とオンラインのカウンセリングの効果などについての研究も示されてきています。 私はこれまで対面でカウンセリングを行ってきましたが、コロナ禍でカウンセリングを開業し、オンラインのみで行っています。 前回書きましたように、対面とオンラインで、実施上の違いはあるものの、カウンセリングの進み方や「効果」の点では違いがないと感じています。 私がカウンセリングで用いているAEDP™という心理療法のアプローチは、アメリカのAEDP™研究所によるものです。その研究所の教員によるトークイベント(ウェビナー)が先月あり、このテーマが挙げられました。 そこでも、オンラインという環境でも違いはないというお話が、教員からも参加者からも出されていました。 その理由の一つとして話されたことは、クライエントさんがいる場所についてでした。 クライエントさんの多くは自宅からアクセスされています。 そこは「自分の」場所。 いつもいる、慣れている空間にいることが、クライエントさんにとって安心感につながっているのではないかというお話でした。 オンライン以前は、クライエントさんはカウンセラーの場所を訪れる、というやり方でした。 そこに慣れるまでは、クライエントさんにとっては、きっと緊張感を感じながらお部屋に入っていたと思います。私自身、カウンセリングやSV(カウンセリングの指導)を受けるときは、部屋に入るまで、そして入ってから少しの間、緊張感を感じていました。 そこは「カウンセラーの場所」なので、カウンセラーの空間/世界に入っていくことに伴う緊張感があるのだと思います。 ご自宅ではなく、ネットカフェ等からアクセスされる方もおられます。 そこは自分の「場所」ではありませんが、カウンセラーの場所でもありません。 馴染んだ場所ではないですが、誰の場所でもない。 そういう安心感があるかもしれません。 オンラインならではの「場所」。それがクライエントさんにとって、カウンセリングにとって良い側面となっている可能性を、私もオンライン・カウンセリングを行う中で感じています。

ラナンキュラスはゆっくりと花開く

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私はパクチーが大好きでして、これまでに何度も栽培を試みてきたものの、いつも失敗してきました。 芽が出なかったり、芽が出てもナメクジに食べられたり、芽が大きくならずに死んでしまったり。 パクチー栽培がこんなに難しいとは。 冬にしては暖かい日が続いていた今年の初め頃、ずいぶん前に植えた種が芽を出しました。芽が出るはずの期間はとうに過ぎていたのに。すっかり忘れてさえいたぐらいです。 それから、死んでしまわないよう、毎日見ていました。 見てるからって成長するというわけでもないんですけどね。 一つだけ芽吹いたパクチー。少しずつ少しずつ大きくなってきてくれました。 そうしていると、また別のところでパクチーの芽が! ヤッター!と喜んで、これまた丁寧に水やりしてきました。 するとなんと、これまたずーーーっと前に撒いた人参の種も芽が!!! 今はパクチーはワサワサしてます💓 植物の成長は、私の浅はかな知識や経験を越えたところで、その生命の力のままに芽吹き、育っていってくれています。 私はただただ気にしたり気をもんでいるだけ…。 昨年の冬に植えたラナンキュラスの球根。 すぐに芽が出て葉がしげったものの、なかなか花芽がつきませんでした。 3月の終わりになって急に気温が上がってきたころ、花芽が伸びてきました! でも蕾から花開くまで、何日も何日もたっています。 こんなにもゆっくりと開く花。 そのゆっくりとした動きが、私の心にも積み重なっていきます。 心の動きや流れを、私は植物と重ねてみることがあります。 クライエントさんも、そして私自身も、”あるべき”流れやエネルギーのままに添っていく、 そういう感覚を大事にしたいなと思っています。

背負いすぎている荷物

生きてきた中で背負ってきた荷物。 望まないにもかかわらず乗せられてしまった荷物や、自ら引き受けて負った荷物。 下ろせるものならば下ろしたい。 けれど、どうやって下ろしたらよいのかわからないとか、 誰も引き受けてくれないから、下ろすことはできないとか。 荷物がこんなにも大きく重いことも、 それなのに下ろして軽くすることができないことも、 どちらも辛いことです。 カウンセリングではしばしば、「肩の荷が下りたような感じ」という体感を表現してくださることがあります。 そこまでに至るプロセスはいろいろなのですが、 苦しんだ自分に気づき、悼み、悲しみ、 それを私と分かち合うなかで、 大きな息が吐きだされたあとに、肩の荷が下りて軽くなったような感覚を体験されます。 本当に大きく、重い荷物でした。 でも、ここに至るまで、それを背負って歩まざるをえなかったのですよね。 よく歩いてこられました。 よくここまでたどり着いてこられました。 「小休止」を体験されると、本当に背負うべき荷物や自ら背負っていきたいと思う荷物と、下ろしてもよい荷物とが、すっきりと整理されます。 そして、荷物を下ろしてみる。 負わなくてもよい荷物がない軽さを感じると、視線は、次の一歩へ向いています。 下ろした荷物に名残惜しいような気持ちも感じながら、でも、 向かいたいその先には、広がる空や地平線が見えてくるというお話をしてくださいます。 私はそこで、その明るく輝く空や、広がる地平線を一緒に感じさせてもらうのです。 こんなにも大きな荷物を背負いながらも歩んでこられたクライエントさんの力強さや忍耐力に敬意を感じながら、同時に、 新たな歩み、これまでとは違う歩みを、おだやかながらもしっかりと前を見て踏み出す、その確かさに、 人の生きる力と素晴らしさを感じさせてもらいます。

感情反応“遅延型”

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アレルギー反応に、すぐに反応する即時型と、症状が後になって現れる遅延型があります。 感情も、その場ですぐ感じるときと、後になってから感じることがありませんか? 感情がどのように現れてくるかという「タイプ診断」のようなものがあるわけではありませんが、このようなアレルギー反応で例えるならば、私の感情は”遅延型“だなぁと思います。 感情を、それを感じるはずのその場ではぼんやりとしか感じられず、後になって、ジワジワと感情が実感されてくることが多くあります。 特に不快・不愉快なほうの感情が遅れてやってくる傾向が強いです。 思い起こすと、私はどうも感情は全般的に”遅延型”な反応だったと思います。 小さなころから、うれしいことも悲しいことも、ワクワクすることも嫌なことも、パッとその場では現れず、ゆ~っくりと、ジワ~ッと感じているほうだったのを覚えています。 心の中でそれを感じている頃には、その出来事やそれに関わった人たちは移って行ってしまっているので、周りの人はきっとよくわからなかったでしょうし、私もまた、気持ちを共有するタイミングを失っていたと思います。 自分がこんなふうなので、感情という波がどんなふうに心へ打ち寄せてくるのかは、人によって、状況によって多様なのだとわかります。 波が、入江と岸壁では違っているし、天候や季節によっても違っているように。 感情がいつ現れ、いつ心の中で大きくなるのか、というタイミングの問題。 「スムーズさ」の点では大事だとは思いますが、私はあまり重視していません。 「なんでその時に言わないんだ!」と怒って言う人がいますし、逆に、「なぜ自分はその場でちゃんと気持ちを言えないんだろう」と辛い気持ちになる人もいますが、タイミングの問題にしてしまうと、タイミングを合わせること自体が優先されてしまうように思います。 でもそれは、誰の、何のためのタイミング? それよりもむしろ、感情という波が、自然のままに打ち寄せてきたことを大切にしたいのです。 そうやって岸にやってきたものを、ただその流れや音や匂いのままに感じる。 いつやってきてもいい。 感情が、感情自体の動きのままに、ただそのままにやってきたならば、それは本当に大切な「気持ち」。 ゆっくりとゆっくりとやってきたのであっても、 波が、静かに、じんわりと砂浜に染み入る感じを、カウンセリングで一緒に見ていたいと思い

肩書の洋服を着た「私」と、裸の「私」と。

ものすごく前なのですが(20年前?30年前?)、今もよく覚えている新聞記事があります。 書いていたのは、当時、大学教員として有名な女性。現在は別の領域で活動されています。 内容は、小さい子どもを公園に連れて行って遊ばせている時、自分が、「大学の有名な先生」ではなく、「○○ちゃん(子どもの名前)のお母さん」という、無名の存在になることの心地良さについて書いていました。 自分でも不思議なのですが、その時の印象が、今も記憶に残っています。 先生の学問分野が、私が当時興味を持っていたことで、先生の活躍は、私にとっては憧れでもありました。その人が、そうではないことについて心地よさを感じていたことに、意外な気持ちになったのかなと思います。 成長するにつれ、大人になるにつれ、人は、いろいろな立場性や属性を持ったり、意識するようになります。 仕事や学校の中で、家族の中、地域などで、どんな立場にいるか、 逆に、そういう立場を持たないという立場性、 性別の認識、 年齢 人種や民族などなど 他にも、いろいろな立場や属性があります。 これらは全部、周りから来たものです。 そうして、認識したり、意識するようになったその立場や属性が、「私」をつくってもきました。 だから、自分がどのような立場や属性でいるかということは、「私」にとって、とても重要な要素になります。 一方で、そのような立場性や属性という洋服を脱いだ「本当の私」がいる、 そういうことを思ったことはありませんか? 何者でもない、ただそのままの「私」。 でも、これらは普段、さほど区別してないような、ごちゃごちゃになってるような、 というよりも、「本当の私」は感じられないままでいるということのほうが多いのではないかと思います。 最初に書いた大学の先生。その方は、いつもの大きな属性ではない自分でいられていることに気づき、心地よさを感じていました。 「大学の先生」「お母さん」という属性が変化するさまを心地よく感じていたのが、その方の最も中核の部分、つまり、「本当の私」だったのではないかと思います。 カウンセリングでは、まわりからきて、自分の内側でも規定しているようなたくさんの属性や立場性を大事にしつつ、 それが「本当の私」にとってどういうものなのか、 そして「本当の私」はどう感じてるのか、 それを、行ったり来たりしながら感じていくプロセスがあ

毒親の「毒」を解いていく

「毒親」という言葉。 私からは使わないようにしています。 その理由は、家族の状況や関係はそれぞれに違っているし、そのなかで経験したこと、そのことがどんなふうに影響しているかも、一人ひとり違っているからです。 クライエントさん自身が自分の親をそう「認定」されていたら、私も同じ言葉を使いますが、そうでない場合は使いません。 ですが今回はあえて「毒親」という言葉からスタートしたいと思います。 「毒親」が子どもたちにやってきたことは、明らかにひどい暴力から、「ひどいこと」だと気づきにくいレベルまで幅が広いのですが、「私の親は毒親だと思います」と言うクライエントさんとのカウンセリングから、共通するものを感じています。 それは、子どもの心を見ていない、ということです。 「毒親」のほとんどは、自覚がないようです。 自分がやっていることは「毒」だとは思ってなくて、むしろ「正しいこと」だとか、「良かれと思って」いたり、「仕方がなかった」と正当化するとか、「子どもが大変だったし」と子どものせいにしていたりすることが見られます。 子どもの心を見ていない、感じていない、というのは、 見ようとしない、感じようとしないという人や、 見ているつもり、感じているつもりの人まで、さまざまなです。 いずれにしても、「毒親」は自分のレンズを通して、見えているものだけ、見ようとするものだけを見ているというのが特徴のように思います。 そして、子どもの方が、親の眼の焦点が合うように、さまざまな工夫や努力を重ねてきました。 その努力は、子どもによってさまざまです。 親が見えているものを見せる子ども 親が見えていないから、自分を見てもらえるように工夫し続ける子ども 親が見えても大丈夫なことだけ見せようとする子ども この絶え間ない努力。それは、焦点が合えば、親はちゃんと見えるようになるのではないか、見てくれるのではないか、という、切なる願いからきていると思います。 その、見てもらいたかった本当の「自分」 知ってほしかった「自分」の思い。 カウンセリングでは少しずつ感じていけるようにしたいと思っています。 前回 、 前々回 で、「嫌だと言えるかどうか」ということをテーマに書きました。 これも同じことなのです。 「自分」という主体が感じること。 そしてそれをあらわすこと。 それが尊重され、認められ、受け止めてもらえ、応

差別・抑圧・暴力とカウンセリング(追記)

前回のブログ で、差別とカウンセリングについて取り上げました。 アップしたあと、スッキリしない感じ、モヤモヤした感じが残っています。 それでずっと考えていました。 私が前回のブログで書いたことは、差別や抑圧の問題の中のごく一側面にすぎない、ということ。これが「モヤモヤ」の一つであることは間違いありません。 差別や抑圧の体験、それが心の中にどんなふうに残っているか。 これはとても大きなテーマであり、また、一人ひとり特有のものです。 ですが私は「『嫌だ』と言えるかどうか」というところだけを取り上げました。 短いブログ記事の中で取り上げる上で、それは一つの切り口でしかないことはわかっていたものの、記事として残ると、書いたのがそれだけだったことにモヤモヤしたのだと思います。 「モヤモヤ」はまた別のことも言っています。 差別や抑圧は、具体的な発言や行動、それらをベースにした法制度などで現れます。 そのとき、差別や抑圧の対象となる人や集団に対して(例えば女性、障害者、高齢者、外国人、LGBTQなど)、「嫌だと言って何が悪い」「嫌だというのも自由だ」という主張がよく出てきます。 同じ「嫌だ」ですが、前回のブログで取り上げた「嫌だ」とは全く別のものです。 でもこの二つが同じ言葉であるために、けむに巻かれてしまう感覚に陥る。 「モヤモヤ」はここにもありました。 被差別・抑圧の対象者に向けられる「嫌だと言う自由」。 これは信条の自由を主張しているようでいて、その中身は差別や抑圧を肯定しようとする信念です。 人の心の中は自由だ、 それは確かにそうです。 でもここでの「嫌」は、ある特定の人に対して、気が合うかどうかという単なる相性のことではなく、その人の属性に向けられていたり、属性をもつ集団へ向けられています。 女性である、障害がある、高齢者である、LGBTQである、〇〇人である、などです。 「嫌だと言う自由」を主張されて、私たちがとても傷つき、苦しむのは、私たち自身がどうにもしようのないことを理由に、それへの嫌悪を、心の自由として主張されるからです。 そしてまた、そのような嫌悪や排除の気持ちや考えは、社会の中でこれまで作られてきた価値観がもとになってもいます。 このような主張の大きさによって、実際に、さまざまな不利益と不平等がつくられ、維持されています。 趣味や服装などのような、単なる好

差別・抑圧・暴力とカウンセリング

政治家の様々な差別発言に、憤り、悲しみ、悔しさ、あきらめ… いろいろな気持ちが交差しています。 これまでも今も、政治家に限らず、差別発言や差別行為は、あらゆるところで起こっていたし、今も起こっています。 差別と無関係に過ごせる人は、この世界には一人もいないでしょう。 私もそうです。 差別は、暴力や抑圧と地続きです。 家庭や学校、職場、社会、国と国、あらゆる状況や関係性において、差別があり、暴力や抑圧があります。 生まれた時から、私たちはみなこの世界で生きていきます。 身体的な暴力行為や、暴力を伴ったいじめなど、「わかりやすい」暴力の背景には、「わかりにくい」暴力(的)行為があり、その根底には差別があります。 差別は、力関係に基づいた、あらゆる言動、価値観、法制度だと私は考えています。 そしてこの力関係は、いろいろな形で現れ、社会にも家庭にも、人の心の中にも浸透しています。 この浸透はとても根深いので、差別・抑圧・暴力として気づかないことは多くあります。 私自身、すぐに気づけることもあれば、心の奥深くに「モヤモヤ」としてだけ残っていたり、気づかないこともたくさんあります。 私はこのテーマについて、シンプルに考えてみるようにしています。 それは、嫌なことをされたり言われたりしたときに「嫌だ」と言えるかどうか。 (※ここでの「嫌だ」は、差別や暴力行為等に対する反抗としての「嫌」で、好き嫌いや嗜好性のことではありません。) そして、嫌だと言ったとき、相手がその言動をストップし、話し合いが持てるかどうか。 「嫌だ」ということを言いにくい相手、 「嫌だ」ということを伝えても、否定したり無視したり、逆に高圧的になったり暴力をふるったり、あるいは自分へ不利益を与えるような相手、 ここには差別・抑圧・暴力となる力関係があると考えられます。 こう考えると、「嫌だ」と言えない場面は、山ほどあるのに気付くのではないでしょうか。 話をカウンセリングに向けると、私はいろいろな意味で、クライエントさんが「嫌だ」ということは、とても重要なことだと思っています。 「嫌だ」と感じてもいいのだ、言ってもいいのだということ。 そして実際に「嫌だ」とカウンセリングの中で言葉にしてもらうこと。 こういう体験は、自分の感覚や思いに気づき、それを大切にすること、つまり、自分を大切にするということにつながっていきま

足跡をふりかえることの、特別な感覚

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10年に一度の寒波と言われた今日、私が住んでいるところは、昨晩から降り続いた雪が積もって、一面の銀世界でした。 転居が多かったとはいえ、ほとんど西日本で育った私にとって、雪は、何か特別な感じがするものです。 いつもとは違うように見える町。 車や人の往来が少なくなり、静けさが広がります。 鳥の鳴き声も、こんな日は聞こえません。 降り積もった新雪に足跡を残す。 たったそれだけのことに、心が躍るのはなぜなのでしょう。 一面の雪がうれしくて歩いた跡です 何もないところへ、自分が踏み込んだこと 一歩一歩を、ゆっくりと、しっかりと進めること その歩みが、何か特別な感じがすること そうして振り返ると、自分が歩んだ跡が見えること 新雪の中を歩くのは、こんな特別な感じを感じさせてくれるからでしょうか。 誰もがみな、生まれてから今まで、歩みを続けます。 その一歩一歩と進んできた足跡のない人は、一人としていません。 時折、止まっていたように感じたことがあったとしても、立ちすくんだその場には、いくつもの踏み跡があったことでしょう。 でもその足跡を自分で見て、感じることは、難しいことが多いかもしれません。 カウンセリングでは、クライエントさんの歩み、 一歩、一歩の足跡を 自分だけの、特別な歩みとして しっかりと感じていけることを目指しています。 「これが、私が歩んだ跡なのだ」という、 この特別な感じを、味わいたいと思います。