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「迷い」の意味とカウンセリング

「迷い」は、カウンセリングでよく出てくるテーマです。 離婚や転職などの、人生における大きな選択の前では、決断に不安を感じますよね…。 大きな選択に限らず、どちらがよいか、どうすべきかという迷いは、日々たくさんあると思います。 メニューを見てどれにするか時間がかかったり、どの服を買うかなかなか決められずに結局買わなかったりとか(←私のことです~💦) 事の大小や重要度に関わらず、「迷い」の前提には、自由があります。 自分で決める。自分で選ぶ。 だから、最善を選びたいし、無駄にしたり失敗はしたくない。 どんなに小さなことであれ、「どうでもいいような」ことであってさえ、そこには、自分にとって大切な何かがある、ということを示してくれています。 「迷い」がどのようなテーマでも、クライエントさんは既に「答えを持っている」ことがほとんどだなぁと思います。 だからカウンセリングでは、答えが出てくるというよりは、答えが見えるようになる、という表現の方が、私はしっくりくる感じがあります。 霧の中にいたけれど、霧がサーッとはれたような感じや、 真っ暗なトンネルの中で足元ばかり見ていたけれど、ふと顔を上げたら出口の光が見えた感じ、 枝分かれしている道にいて、自分が行く道だけがハッキリと見える感じ。 迷っている状態は不安定な感じだったり、苦しく感じたりするので、「早く答えがほしい」気持ちになります。 赤ちゃんから乳幼児期ぐらいまでの子どもは「迷う」ということがありません。小さな子どもは、自分の感覚のままに生きているからです。 そのような感覚(「直感」)は、自分の身体に、自分の内側の世界にあって、自分のコアが感じているもの。 直感を感じること。直感を大切にし、直感に従うこと。 カウンセリングでは、その直感に、静かに優しく気持ちを向けていき、直感をそのままに感じていくプロセスを進めていきます。 このプロセスは、ある程度時間がかかります。 事の大小にもよりますし、クライエントさんの心や環境の状態にもよります。 ですが、「時間がかかる」ことは、悪いわけでも、問題ということも、全くありません。 霧、トンネル、枝別れの道のようなイメージの状態そのものもまた、クライエントさんにとって大切な「何か」なのです。 霧や暗闇の濃さ、先が見えない道の険しさは、「時間をかけろ」「慎重になれ」というメッセージ。 そのメ

感情に振り回されるのは「悪いこと」じゃない

「感情に振り回されないようになりたい」「もう少し落ち着いていられるようになりたい」と言うクライエントさんは少なくありません。 自分の感情のアップダウンが辛いし、 そういう状態で物事をこなすのは本当に大変で、 そして、そんなふうな自分を恥じたり、不十分だと感じたり。 「自分はちゃんといられていない」と感じているお話は、よく語られます。 身体や心の「反応」は、とても自然なことです。 でも「こんなことで動揺したり緊張するなんて」と思うと、自分がいたたまれないような気持ちになりますよね…。 このテーマについて、伝えたいこと、大事にしたいことがあります。 それは、 反応自体は何も悪くない 、ということです。 他の人よりも敏感な(そう感じるような)背景や原因はさまざまに考えられますが、それが何であれ、反応自体は自然だということ。 それに、このテーマに注目しているというのは、もうすでに、反応に完全に巻き込まれてしまっているわけではないのです! なぜなら、①反応に気づいていて、②それを何とかしたい、と願う自分がいるのです。 完全に自分を見失っていたら、こういう思いは出てきません。 でも、そこまでわかってたとしても、その状態を自分でどうにもできない、というのが、辛いところだと想像します。 これに対しては、意識的にできることがあります。 ①と②までできているのはすばらしいです! その上で、ちょっとしたことをやってみるのを提案します。 それは、状況を変えることではなく、身体反応を変化させること、です。 しかも、「わざわざ」「時間をかけて」やることではなく、すぐその場でできることが便利です。 こういうとき、心臓がドキドキしているとか、肩に力が入っているとか、お腹がぎゅっとするとか、手が冷たくなるとか、身体がいろいろに反応していると思います。 なので、身体に働きかけるようなことが役に立つことが多いです。 大きく息を吐く。 逆に身体にもっと力を入れて(手をぎゅっと握るなど)、パッと抜く。 少し歩く。 目に留まったものを声に出していくつか言っていく。 トイレで用を足す。 これらは例ですが、微妙であっても、身体には何か変化が起きていると思います。 こういうことをいくつかやってみると、ピークの緊張感や動揺よりは、少しマシになるでしょう。 そしたら、さっきよりもちょっとマシになったかな?どうかな?と自

「明日に架ける橋」になる

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調べ物をしていて(一応、心理療法についての学術的なことです…💦)、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」に辿り着きました。ふしぎ。 子どもの頃から耳にしたことのある歌ですが、改めて聞いてみて、とても響きました。 これって、カウンセリングのプロセスそのもの…! When you're weary, feeling small  When tears are in your eyes,  I will dry them all  疲れ果て、自分がちっぽけな存在だと感じ、 涙がにじんできたなら、 私がその涙を拭ってあげる I'm on your side  When times get rough  And friends just can't be found  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたの味方。 つらいときも、 友だちがいないときも、 激しい流れに架かる橋のように 私が橋になろう When you're down and out  When you're on the street  When evening falls so hard  I will comfort you  どん底にいるとき。 ひとり街をさまよい歩くとき。 夕暮れがつらく寂しいとき。 私が慰めてあげる I'll take your part  When darkness comes  And pain is all around  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  Like a bridge over troubled water  I will lay me down  私はあなたを支えよう 暗闇がたちこめ、 苦しくてたまらないときも 激しい流れに架かる橋のように、 私が橋になろう カウンセリングでは、クライエントさんを独りぼっちにしない、ということをとても大切にしています。 クライエントさんが抱えている辛い気持ち、 クライエントさんは、それをずっと一人で抱え、対処

「自分のペース」。どうやったらつかめるようになるでしょう?

20歳代のころ、とても仕事が忙しかった時がありました。 その業務を終えたあと、微熱が10日ほど続きました。風邪の症状はなく、ただ熱っぽくて重だるい。 あの10日ほどの微熱は、私の身心には過重すぎたことによる反応だったのかなと自己診断しています。 また私は、強いストレスが続くと、決まってぎっくり腰になりました。動けないぐらい重いのも、気を付ければ普通に動ける程度に軽いのも含め、これまで何度やらかしたことか…(泣)。 自分のペースではなかったときに、私はこういう「反応」が出ています。 前回のブログ は、「自分のペース」がテーマでした。 「自分のペース」。 これを感じ、知ること自体、簡単ではないですよね…。 自分のペースって何でしょう? どうやったらそれを感じることができるでしょうか。 モラハラやDVの夫と離れる決意をし、自分の「家」に暮らすようになったクライエントさんは、「本当にホッとしています!」「こんなに毎日が楽だなんて!」と言います。 パワハラをする上司や同僚、そこまでではなくても、周りを顧みないような一方的なペースで仕事をする人と一緒に働かざるを得なかった方が、職場環境が変わって、「なんてやりやすいんだ!」と晴れ晴れするお話も聞きます。 周囲に嫌な人や意地悪な人がいるわけではないけれど、毎日定刻に合わせて動かなければならない通勤や通学、 決められていたり、求められている時間で動かなければならないこと。 そこから解放されて、心身ともにホッとしたこと。これは、多くの人が経験していると思います。 自分のペースを感じるためには、環境からの影響ができるだけないスペースにいる必要があることを、こういうお話が示してくれています。 そのスペースは、空間でもあり、時間でもあります。 そういうスペースをとっても、自分のペースがわからない、という方は少なくありません。 子どもの頃に虐待を受けた人や養育者の関わりが強すぎた人、 いじめやハラスメント、暴力を受けたことがある人、 子育てや介護をしている人、 こういう方は、自分のペースがわからなくなっていることが多く見られます。 周囲が「良い/悪い」環境・人かどうかということに関わらず、共通するのは、周囲の人や状況に合わせざるをえないとか、本能的に反応・対応し続けなければならない、という点です。 周囲からの介入や圧力にさらされて生きてきた人

自分のペースをつかんだ先にあるもの

「生きづらさ」「生きにくさ」という言葉が用いられるようになったのは、40年ほど前のことだそうです。 社会の中で生きていくことの難しさ、 他者との関係の難しさ、 そして、自分自身についての難しさ、 「生きづらい」「生きにくい」は、これらが絡み合っています。 「生きづらい」「生きにくい」の背景には、自分のペースではない、という感じがあると思います。 スピードやものごとの理解、うごきかた、 身体や心が、何か合わない感じ、調整が難しい感じを感じていて、 それが積み重なって、疲れ、混乱、自信喪失、イライラ、孤独がつのってきた状態ではないでしょうか。 カウンセリングに訪れるかたは、経緯や、今の問題・テーマに違いはあっても、「生きづらい」感じを感じておられます。 クライエントさんがその辛さを抱えていらっしゃることに、とても胸が痛みます。 カウンセリングでクライエントさんが自分のペースを感じていくと、 そこに、変わることのなかった真の自分を発見されます。 真の自分を発見するまでの道のりでは、 これまで周囲へ適応しようと調整してきた試行錯誤の、たくさんの努力やエネルギーに気づきますし、 カウンセリングに来たことも、その「何とかしたい」という切なる思いからであったことに気づかれます。 自分がつかってきたそれらの力を振り返ってみると、 そのパワフルさに圧倒されたり、胸を張れるような誇らしい気持ちが湧いたり、 あんまりにもすごくて涙を流されることもあります。 クライエントさんが「真の自分」を発見する、その場に居合わせるというのは、 カウンセラーとして、言葉にならない体験です。 頑張って言葉にするなら、「胸がいっぱい…」でしょうか…。 これを体験したクライエントさんは、芸術的な表現をされる方もいらっしゃいます。 絵を描かれたり、作曲、写真など それらの自己表現がとてもすばらしいです。 アートの本質を感じさせてもらえる経験です。 そこまで至ったクライエントさんの努力に敬意を表するとともに、 一緒にその過程を進めたことに、感謝の気持ちを持ちます。 クライエントさんが自分のペースを感じていくこと自体が、カウンセリングでは最初からある程度の段階まで、とても重要なことだなと考えています。 この過程も試行錯誤。 クライエントさんと一緒に大切にしたいプロセスです。

怒りを「マネジメント」するために重要なこと

前回 、衝動的な強い怒りは、意識のコントロールが効きにくい、神経生理学的な反応であると書きました。 神経生理学的な反応というのは、身体の反応そのもののことです。 熱いものを触って手を引っ込めるとか、突然飛んできたボールにギュッと目を瞑るなどは、意識が及ばない反射的な反応ですが、これと同じようなことが脳の中で起こっています。 初めはある程度落ち着いて話していたのに、どんどんエスカレートし、”感情的”に怒っているような場合も、脳の中では、同じような神経生理学的な反応が起きていると考えられます。 ですので、強い怒りが生じているときは、目が見開き、身体に力が入り、顔が赤くなったりなどのような、はっきりとした身体的な反応が現れます。 ところで、感情は怒りも含めて「自然に」起きます。 「自然に」というのは、意識してとか、意図的にではなく、身体的な反応として起きるものです。 そうすると、それぞれの人の身体(の状態)によって、感情も異なって体験されます。 もう少しわかりやすくするために、脚の柔軟性を例に挙げてみましょう。 身体が硬いと、開脚範囲が狭いですよね。90度とか。(←私) さらに前屈すると痛み地獄…。もうムリ!限界!みたいな感じ。身体は余計に硬直します。 でも毎日少しずつ柔軟運動をしていると、脚は前よりも少しずつ広く開けるようになり、痛みは前よりもずっと軽くなっていきます。 そうすると開脚で感じる痛みは、感じつつも、大丈夫な痛みになっていきます。 感情もこんなふうに、いつもよりも少しだけ深く感じていくことを続けていくことで、感じられかたが変わっていきます。 衝動的だった怒りは、怒りをちゃんと感じつつも、衝動性がなくなっていく。 耐えがたかった悲しみは、やっぱり悲しいけれど、悲しみに圧倒されるわけではなくなっていく。 パニックになったり、頭が真っ白になっていたような動揺は、緊張や不安は感じつつも、どうしようか考えることができている。 アンガー・マネジメントのよいところは、「マネジメント」することというよりは、「怒り」に注目するということそのものではないかと思います。 自分はどういうことで「怒り」を感るのだろう? 自分の怒りは、周囲の人や自分自身に、どんな影響をもたらしているのだろう? そうやって注目していること自体は、自分の中で、何か変化をもたらしたいという真摯な思いからきて

アンガー・マネジメントではコントロールできない怒り

怒りのコントロールは、家族との関係や職場、教育などの場において、重要なことだと考えられるようになり、「アンガー・マネジメント」という、怒りを調整するプログラムやトレーニングがあります。 以前のブログにも書きましたが、「怒り」は自然な感情ですから、それ自体が問題というわけではありません。 それでも、怒りを他者にぶつけてしまうのは問題となる場合がありますし、強すぎる怒りを感じること自体、自分にとって辛いことでもあります。 怒りのネガティブなパワーが、他者に向かっても、自分に向かっても、問題だったり、苦しかったりします。 「アンガー・マネジメント」でよく示されているのは、怒りを鎮めるのではなく、「一呼吸置く」「10数える」「モードを変える」など、怒っている状態から距離をとる方法です。 そしてそれを意識し、練習するということが提案されています。 そうすると、衝動性が抑えられ、怒りの本当の意味や目的を理解し、それに応じた対応ができる、というものです。 そんなのわかってる~! って思いませんか? 気を付けることはできるんです。 だって、自分で「問題だ」と自覚しているし、「何とかしよう」とも思ってますから。 そうやってある程度意識できている範囲では、何とか怒らないようにできますが、 でも時々爆発してしまう。 ......そして落ち込む.....  そういうことはありませんか?(←私はあります💦子育てアルアルでございます) 「アンガー・マネジメント」のプログラムやトレーニングなどに取り組んでいても、最も難しい点はここにあると思います。 それは、怒りという、人間の生物的な反応の性質が十分に反映されていないことが背景にあると考えられます。 頑張って取り組んできたのにも関わらず、衝動的な怒りパワーは莫大です。そのパワフルさに圧倒され、自分の努力不足や能力不足のように感じてしまいます。 怒ってしまったこと、そのことで生じた問題に直面し、自分を恥じる気持ちも生まれてしまいます。 たいていの場合は、私たちは、自分が置かれている状況を意識したり、理解していて、怒りは感じても、その中で何とか対応しようとします。 でも衝動性のある怒り(これが問題とみなされるほうの「怒り」です)は、神経生理学的な反応なので、「考える」ときの脳神経よりもずっと早いスピードで、別の脳神経が反応します。 だから、せっかく

「長生きしたくない」

「長く生きたいと思わないんです」 クライエントさんからこういう言葉を聞くことがあります。 死にたいというわけではない、 生きたくないというわけでもない。 長生きしたくない。 クライエントさんが、今、どれほどヘトヘトなのかが伝わってきます。 疲弊しているというだけでなく、孤独な労苦を背負っていることも。 選択肢がない 助けがない 逃げることができない どうしようもない そして、そんな自分に誰も気づいていない。 自分の中のこの重さ この孤独感に、 誰も気づいていないこと、 気づこうともしないこと。 孤独感がますます深まる。 やるべきことだとわかってるから、ちゃんとやるし(逃げられないし) これまで通りに生きてはいく(選択肢はないし) しんどくてもやるしかない(他の誰もやらないし) わかってる。 でもこれがいつまでも続くと思うと、 それは考えたくないくらい重い。 「不幸」まではいかないかもしれないけど、 楽しみや喜び 安心と安堵感 そういうことが見えない。 「長生きしたくない」の言葉から、 こんなふうな思いが語られます。 どれほどの苦しみや孤独感があるかが伝わってきます。 こういうことに、カウンセラーは無力だな…と思います。 立場や関係上、一緒に手伝ってあげたり、お茶しにいったりというようなことはできませんから。 カウンセリングの空間とは、クライエントさんの心の場所でもあると思っています。 その場所の土台は私が用意しましたが、建物は一緒に作り上げ、 建物を探検したり、作り直したり、飾ったり、片付けたりしながら、 自分の「居場所」をつくる。 カウンセリングはそういう作業のイメージがあります。 「長生きしたくないんです」 私も一緒にいるその建物の中で、その言葉を響かせて、 響きの余韻を一緒に感じる。 その言葉の音が、建物の中で反射し、 私にあたって反射し、 どんなふうに響きが変わるか、 この繊細な変化を大切にしたい空間なのです。

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

沈む気持ちの、その後ろにあるもの

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なんだか落ち込むなぁとか、気分が沈む…というとき、自分の中にある「恥」の感覚がムクムクと顔を出しているのを感じます。 ふと思いたって、これまでの「恥」にまつわる体験を、一つひとつ思い返してみました。 でるわ、でるわ。 なかなかキツイ作業です(苦笑)。 それで整理してみると、こんな感じかなと思いました。 読んでくださっているみなさんも、大小・多少や深刻さの違いはあれど、おそらく、すべて経験したことがあるのではないでしょうか。 「意図的な経験」のほうは、されたことについての記憶がはっきりしていることが多いと思います。 その痛みは明確ですが、でも逆に、明確であるために、反発したり抵抗する力も生みやすいものです。 一方、「無意識的な経験」のほうは、姿かたちが見えないし、「良かれと思って」とか「悪気はないのだから」、「それが普通だし」と行われるので、受けた傷に無自覚であることが多いと思います。 またその痛みは明確ではなく、ちょっとしたすり傷のような感じだったり、何となくの違和感だったり、場合によっては、相手や自分の状況への感謝の気持ちや、「頑張ろう!」という”向上心”として感じたりするかもしれません。 そうやって積み重なったものに気が付くこと自体に、大きなエネルギーを必要とするような、そういう経験です。 そして、こういう「恥」の経験は、一つひとつのエピソードとして記憶されているだけでなく、変換されて心に残ります。 その変換されたものは、「自分を全否定する感じ」。 自分の無価値さを感じることや、存在する意味、生きる意欲をそぐような感じ。 この自己否定や無価値感が大きくなると、抑うつ的な状態になったり、身体症状が現れたり、誰とも会いたくなくなったり、 そして、自分を傷つけたい気持ちが強くなったり、死んでしまいたいという苦しさを感じたりします。 その気分のうしろに、いろいろな恥の体験と恥の感情があり、それが今のその辛い感じや感覚に影響を及ぼしている、 そういうことは多くみられます。 こんな辛くて苦しい気持ちをどう扱えばよいか…。 長くなりましたので次回へ。