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自分のペースをつかんだ先にあるもの

「生きづらさ」「生きにくさ」という言葉が用いられるようになったのは、40年ほど前のことだそうです。 社会の中で生きていくことの難しさ、 他者との関係の難しさ、 そして、自分自身についての難しさ、 「生きづらい」「生きにくい」は、これらが絡み合っています。 「生きづらい」「生きにくい」の背景には、自分のペースではない、という感じがあると思います。 スピードやものごとの理解、うごきかた、 身体や心が、何か合わない感じ、調整が難しい感じを感じていて、 それが積み重なって、疲れ、混乱、自信喪失、イライラ、孤独がつのってきた状態ではないでしょうか。 カウンセリングに訪れるかたは、経緯や、今の問題・テーマに違いはあっても、「生きづらい」感じを感じておられます。 クライエントさんがその辛さを抱えていらっしゃることに、とても胸が痛みます。 カウンセリングでクライエントさんが自分のペースを感じていくと、 そこに、変わることのなかった真の自分を発見されます。 真の自分を発見するまでの道のりでは、 これまで周囲へ適応しようと調整してきた試行錯誤の、たくさんの努力やエネルギーに気づきますし、 カウンセリングに来たことも、その「何とかしたい」という切なる思いからであったことに気づかれます。 自分がつかってきたそれらの力を振り返ってみると、 そのパワフルさに圧倒されたり、胸を張れるような誇らしい気持ちが湧いたり、 あんまりにもすごくて涙を流されることもあります。 クライエントさんが「真の自分」を発見する、その場に居合わせるというのは、 カウンセラーとして、言葉にならない体験です。 頑張って言葉にするなら、「胸がいっぱい…」でしょうか…。 これを体験したクライエントさんは、芸術的な表現をされる方もいらっしゃいます。 絵を描かれたり、作曲、写真など それらの自己表現がとてもすばらしいです。 アートの本質を感じさせてもらえる経験です。 そこまで至ったクライエントさんの努力に敬意を表するとともに、 一緒にその過程を進めたことに、感謝の気持ちを持ちます。 クライエントさんが自分のペースを感じていくこと自体が、カウンセリングでは最初からある程度の段階まで、とても重要なことだなと考えています。 この過程も試行錯誤。 クライエントさんと一緒に大切にしたいプロセスです。

怒りを「マネジメント」するために重要なこと

前回 、衝動的な強い怒りは、意識のコントロールが効きにくい、神経生理学的な反応であると書きました。 神経生理学的な反応というのは、身体の反応そのもののことです。 熱いものを触って手を引っ込めるとか、突然飛んできたボールにギュッと目を瞑るなどは、意識が及ばない反射的な反応ですが、これと同じようなことが脳の中で起こっています。 初めはある程度落ち着いて話していたのに、どんどんエスカレートし、”感情的”に怒っているような場合も、脳の中では、同じような神経生理学的な反応が起きていると考えられます。 ですので、強い怒りが生じているときは、目が見開き、身体に力が入り、顔が赤くなったりなどのような、はっきりとした身体的な反応が現れます。 ところで、感情は怒りも含めて「自然に」起きます。 「自然に」というのは、意識してとか、意図的にではなく、身体的な反応として起きるものです。 そうすると、それぞれの人の身体(の状態)によって、感情も異なって体験されます。 もう少しわかりやすくするために、脚の柔軟性を例に挙げてみましょう。 身体が硬いと、開脚範囲が狭いですよね。90度とか。(←私) さらに前屈すると痛み地獄…。もうムリ!限界!みたいな感じ。身体は余計に硬直します。 でも毎日少しずつ柔軟運動をしていると、脚は前よりも少しずつ広く開けるようになり、痛みは前よりもずっと軽くなっていきます。 そうすると開脚で感じる痛みは、感じつつも、大丈夫な痛みになっていきます。 感情もこんなふうに、いつもよりも少しだけ深く感じていくことを続けていくことで、感じられかたが変わっていきます。 衝動的だった怒りは、怒りをちゃんと感じつつも、衝動性がなくなっていく。 耐えがたかった悲しみは、やっぱり悲しいけれど、悲しみに圧倒されるわけではなくなっていく。 パニックになったり、頭が真っ白になっていたような動揺は、緊張や不安は感じつつも、どうしようか考えることができている。 アンガー・マネジメントのよいところは、「マネジメント」することというよりは、「怒り」に注目するということそのものではないかと思います。 自分はどういうことで「怒り」を感るのだろう? 自分の怒りは、周囲の人や自分自身に、どんな影響をもたらしているのだろう? そうやって注目していること自体は、自分の中で、何か変化をもたらしたいという真摯な思いからきて

アンガー・マネジメントではコントロールできない怒り

怒りのコントロールは、家族との関係や職場、教育などの場において、重要なことだと考えられるようになり、「アンガー・マネジメント」という、怒りを調整するプログラムやトレーニングがあります。 以前のブログにも書きましたが、「怒り」は自然な感情ですから、それ自体が問題というわけではありません。 それでも、怒りを他者にぶつけてしまうのは問題となる場合がありますし、強すぎる怒りを感じること自体、自分にとって辛いことでもあります。 怒りのネガティブなパワーが、他者に向かっても、自分に向かっても、問題だったり、苦しかったりします。 「アンガー・マネジメント」でよく示されているのは、怒りを鎮めるのではなく、「一呼吸置く」「10数える」「モードを変える」など、怒っている状態から距離をとる方法です。 そしてそれを意識し、練習するということが提案されています。 そうすると、衝動性が抑えられ、怒りの本当の意味や目的を理解し、それに応じた対応ができる、というものです。 そんなのわかってる~! って思いませんか? 気を付けることはできるんです。 だって、自分で「問題だ」と自覚しているし、「何とかしよう」とも思ってますから。 そうやってある程度意識できている範囲では、何とか怒らないようにできますが、 でも時々爆発してしまう。 ......そして落ち込む.....  そういうことはありませんか?(←私はあります💦子育てアルアルでございます) 「アンガー・マネジメント」のプログラムやトレーニングなどに取り組んでいても、最も難しい点はここにあると思います。 それは、怒りという、人間の生物的な反応の性質が十分に反映されていないことが背景にあると考えられます。 頑張って取り組んできたのにも関わらず、衝動的な怒りパワーは莫大です。そのパワフルさに圧倒され、自分の努力不足や能力不足のように感じてしまいます。 怒ってしまったこと、そのことで生じた問題に直面し、自分を恥じる気持ちも生まれてしまいます。 たいていの場合は、私たちは、自分が置かれている状況を意識したり、理解していて、怒りは感じても、その中で何とか対応しようとします。 でも衝動性のある怒り(これが問題とみなされるほうの「怒り」です)は、神経生理学的な反応なので、「考える」ときの脳神経よりもずっと早いスピードで、別の脳神経が反応します。 だから、せっかく

「長生きしたくない」

「長く生きたいと思わないんです」 クライエントさんからこういう言葉を聞くことがあります。 死にたいというわけではない、 生きたくないというわけでもない。 長生きしたくない。 クライエントさんが、今、どれほどヘトヘトなのかが伝わってきます。 疲弊しているというだけでなく、孤独な労苦を背負っていることも。 選択肢がない 助けがない 逃げることができない どうしようもない そして、そんな自分に誰も気づいていない。 自分の中のこの重さ この孤独感に、 誰も気づいていないこと、 気づこうともしないこと。 孤独感がますます深まる。 やるべきことだとわかってるから、ちゃんとやるし(逃げられないし) これまで通りに生きてはいく(選択肢はないし) しんどくてもやるしかない(他の誰もやらないし) わかってる。 でもこれがいつまでも続くと思うと、 それは考えたくないくらい重い。 「不幸」まではいかないかもしれないけど、 楽しみや喜び 安心と安堵感 そういうことが見えない。 「長生きしたくない」の言葉から、 こんなふうな思いが語られます。 どれほどの苦しみや孤独感があるかが伝わってきます。 こういうことに、カウンセラーは無力だな…と思います。 立場や関係上、一緒に手伝ってあげたり、お茶しにいったりというようなことはできませんから。 カウンセリングの空間とは、クライエントさんの心の場所でもあると思っています。 その場所の土台は私が用意しましたが、建物は一緒に作り上げ、 建物を探検したり、作り直したり、飾ったり、片付けたりしながら、 自分の「居場所」をつくる。 カウンセリングはそういう作業のイメージがあります。 「長生きしたくないんです」 私も一緒にいるその建物の中で、その言葉を響かせて、 響きの余韻を一緒に感じる。 その言葉の音が、建物の中で反射し、 私にあたって反射し、 どんなふうに響きが変わるか、 この繊細な変化を大切にしたい空間なのです。

沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

沈む気持ちの、その後ろにあるもの

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なんだか落ち込むなぁとか、気分が沈む…というとき、自分の中にある「恥」の感覚がムクムクと顔を出しているのを感じます。 ふと思いたって、これまでの「恥」にまつわる体験を、一つひとつ思い返してみました。 でるわ、でるわ。 なかなかキツイ作業です(苦笑)。 それで整理してみると、こんな感じかなと思いました。 読んでくださっているみなさんも、大小・多少や深刻さの違いはあれど、おそらく、すべて経験したことがあるのではないでしょうか。 「意図的な経験」のほうは、されたことについての記憶がはっきりしていることが多いと思います。 その痛みは明確ですが、でも逆に、明確であるために、反発したり抵抗する力も生みやすいものです。 一方、「無意識的な経験」のほうは、姿かたちが見えないし、「良かれと思って」とか「悪気はないのだから」、「それが普通だし」と行われるので、受けた傷に無自覚であることが多いと思います。 またその痛みは明確ではなく、ちょっとしたすり傷のような感じだったり、何となくの違和感だったり、場合によっては、相手や自分の状況への感謝の気持ちや、「頑張ろう!」という”向上心”として感じたりするかもしれません。 そうやって積み重なったものに気が付くこと自体に、大きなエネルギーを必要とするような、そういう経験です。 そして、こういう「恥」の経験は、一つひとつのエピソードとして記憶されているだけでなく、変換されて心に残ります。 その変換されたものは、「自分を全否定する感じ」。 自分の無価値さを感じることや、存在する意味、生きる意欲をそぐような感じ。 この自己否定や無価値感が大きくなると、抑うつ的な状態になったり、身体症状が現れたり、誰とも会いたくなくなったり、 そして、自分を傷つけたい気持ちが強くなったり、死んでしまいたいという苦しさを感じたりします。 その気分のうしろに、いろいろな恥の体験と恥の感情があり、それが今のその辛い感じや感覚に影響を及ぼしている、 そういうことは多くみられます。 こんな辛くて苦しい気持ちをどう扱えばよいか…。 長くなりましたので次回へ。

通い合う「気持ち」②

目の前の人との「気持ち」のやりとり。 それがコミュニケーションであり、その人とのつながりを紡ぐ時間であり、それが二人の関係となります。 前回のブログ記事で、気持ちを、 贈りすぎる、贈らなさすぎる、受け取りすぎる、受け取らなさすぎる、 ということを書きました。 他者との間で紡がれる関係ですから、「…すぎる」ときは、相手も「…すぎる」状態です。 自分が「気持ちを贈りすぎている」とき、相手は「受け取らなさ過ぎている」。 自分が「気持ちを受け取りすぎている」とき、相手は「気持ちを贈らなさすぎている」 というようなことが起きています。 ですから、「…すぎる」ことが良くないとか悪いというわけではなく、 あくまで他者との関係において、「気持ち」がどんなふうに流れているかという、動きの特徴そのものにすぎません。 そしてその特徴が、自分にとって相手にとって、二人にとって、心地よい範囲ではない、ということだと考えます。 「…すぎる」のかどうかは、自分の感覚や気持ちが教えてくれます。 それは、満たされなさや寂しさ 苛立ちや怒り 不安や恐れ 身体は、硬くなったり、冷たくなったり、 疲れを感じていたり、地に足がついていないような感じだったり。 こういう感じが常態化していたならば、寄る辺ない感じや、焦燥感、不確かな感じがつきまとっているかもしれません。 ある会議に出席したとき、私はその場で居心地の悪い感覚を感じ始めました。 外に出て空気を吸いたい…と身体が欲しているような感じ。 その場でもちろん呼吸はしていましたが、「外の空気を吸いたい」という比喩で感じられていた身体の感覚は、息が詰まるような、息苦しいような感じです。 でもそれを意識に上らせることなく、じっとその時間を耐えていました(席を立つわけにはいかず、しょうがなくて😢)。 でも身体は相当正直だったようです。 会議という、テーマが決まった場においても、「気持ち」の通い合いがあるかどうかは、会議の進行や成果に大きく影響を及ぼします。 そこでは、話の流れが一方通行的で、出席者の気持ちが通い合っていないと感じていたのだと思います。 それぞれが、それぞれの思いを行き来することができていないような感じ。 そういう行き詰った感じが、私の身体において、息が詰まるという感覚として生まれていました。 自分の身体や、自分の内側で起こっていることは、たくさん

通い合う「気持ち」 ①

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすること。 「気持ちを受け取る」 のタイトル記事に書きました。 でもこれは、簡単なことではありませんね…。 私たちの悩みのほとんどは、人間関係からきますから。 人間関係が表立った問題ではないように見えても、背後に、人間関係のテーマが腰をすえていたりします。 「気持ち」は、「…すぎる」というのが苦手です。 気持ちを贈りすぎる 気持ちを贈らなさすぎる 気持ちを受け取りすぎる 気持ちを受け取らなさすぎる 気持ちを贈りすぎているとき。 贈り続けるのは、相手が受け取ってないと感じているからでしょうか。 相手が求める通りのものを贈っているはずなのに、と。 それで、贈り方がよくないのかと思い悩みつつ、手を変え品を変えて工夫したり。 どうやっても、いつまでたっても、相手が受け取ったと感じられず、焦燥感、自責感、罪悪感のような気持ちがわいてきませんか。受け取ってくれない相手への怒りや苛立ち、自分への意地を感じるかもしれません。 気持ちを贈らなさすぎるとき。 私の気持ちなんて相手には必要ないだろう、と思って贈らないのでしょうか。 それとも、受け取ってもらえないかもしれないと思うと足がすくむでしょうか。 相手は、贈る必要がないと感じる人なのでしょうか? それとも贈ろうとしている思いや言葉を、相手に先に気づいてほしいと願っているのでしょうか。 贈らずにため込んだその思いや言葉はどんどんたまって、息苦しく、出口の見えない孤立感が大きくなっていきます。 気持ちを受け取りすぎるとき。 せっかく贈ってくれているのだから、受け取らなければ、と思ってしまうのでしょうか。 それとも、相手が満足するために受け取っているのでしょうか。そうすれば、やたらめったら贈るのは止めてくれるんじゃないかと期待して。 受け取りすぎているとき、相手の気持ちが自分の心のスペースをどんどん占領して、自分の心のためのスペースを侵食していきます。 その圧迫に苦しさ、怒り、不安が生まれてきます。 気持ちを受け取らなさすぎるとき。 冷たい気持ちや強い気持ちは、受け取るのは勇気がいるものです。 でもあたたかい気持ちややさしい気持ちも、受け取るのは勇気がいるのかもしれません。 受け取るのは怖いでしょうか。 どうやって受け取ればよいか、そして、受け取ってどう反応したらよいか、戸惑うでしょうか。

呪いの言葉2「ちゃんとする」

「ちゃんとする」。 これは、数ある呪いの言葉の一つではないか…と思います。 日本の子どもは小さい時から、いろんな場面で「ちゃんとする」の言葉を浴びてきて、その雨は激しさを増していっているような気がします。 私は子育て真っ最中なのですが、「ちゃんとする」のさじ加減、 これがとても難しい。 朝起きて、 学校へ遅れないよう家を出て、 忘れ物をしないようにして、 制服を指定された通りに着て、 出された課題を言われたとおりにこなして、 要求や叱責を納得いかないままでも受け入れて、 テストのための勉強をして、 自分の物を片付けたり整理して、 食事の時はマナーを守って、 身ぎれいにして、 やりたい遊びやゲームは制限付きで、 遅くならないように寝て。 これが、多くの日本の子どもたちが過ごす毎日。 「ちゃんとする」ことが山ほどある毎日…。 「ちゃんとする」の目的は、成長に必要な生活のリズムや、これから生きていく上で必要な力のためだったはずだと思いますが、今はもう、「ちゃんとする」こと自体が目的になってしまっているのでは。 この影響は、根深いところで溜まっているのではないでしょうか。 ちゃんとすることが目的になってしまっていると、いつも不安が付きまとっていたり、できない自分を恥じて自信を失ったり、常にイライラ感がとれなかったり、毎日疲労が残ったり…。 ずいぶん前のことですが、フィリピンの友人の実家に遊びに行きました。 マニラから車で数時間かけて行った小さな町。静かで、美しいところでした。 大家族的な暮らしをするフィリピン。彼女の家にも、4世代+親戚の人など、大勢が一緒に暮らしていました。 そこにいた5歳の子どもは、毎食、お皿に食事を盛ってもらって、好きなところへ持って行って食べていました。 ある日、食事を終えた私が玄関ポーチへ行くと、食べかけのお皿が柵の上に乗っていました。子どもはどこからともなく戻ってきて、その柵の上でしゃがみ(すごいバランス!)、続きを食べ始めました。すると外で小さな動物が横切りました。子どもは満面の笑みで動物を追いかけて行きました。 私はポーチのベンチに座って、食べ残したお皿を見ながら、おだやかな気持ちに包まれました。 日本だと、「ちゃんと椅子に座って食べなさい!」とか、「食事中にフラフラ席を立たない!」と叱られていそうなことでしたが、その家族の大人はみんな、気に

「好きなこと」も「得意なこと」もなくて

学校に行っていたころは、入学やクラス替えのたびに自己紹介の時間がありました。今もそういう時間があると思います。 私はこの時間がとっても苦痛でした。 名前以外、何も話せるようなことが思い浮かばず、毎回困っていました。 そこそこ好きなことや、やっていることはありましたが、熱中するほどではなかったですし、興味をもっても、さほど深堀りしていくほうではありませんでした。 そんなふうなので、特技と言えるようなものも何もなくて。 みんなに言えるほど「好き」なことも「得意」なこともない私は、こういう時間になると、自分を残念に思ったものでした。 自分は「たいしたことないなぁ」と思ってしまう時間でした。 先日、新聞の読者欄に、 「好きなことがほしい」という中学生の投稿 が掲載されていました。 好きなことも得意なことも何も思い浮かばない。でも他の子はちゃんと言えることがあって、発表している。私も好きなことや得意なことがほしい、という内容でした。 それを読んで、ものすごく共感しました。 そして思ったのは、たぶん、同じように思っている人は多いのじゃないかな…ということです。 もしかしたら、「推し」や「得意なこと」がある人の方が少ないかも。 「推し」や「得意なこと」がある人って、楽しそうに見えますよね。 楽しんでいるって、うらやましい気持ちになります。 自分が決して、楽しくない毎日を過ごしているわけではないのに。 得意なことがなくても、別に不幸というわけでもないのに。 結局私は「ものすごく好き」なことや「人に話してもよい“レベル”の特技」など何もないまま今に至っております。 でも、きっと、たぶん、 私のようなタイプの人は、何か一つのことに集中して熱が入るのではなく、 流れていくような日常の中で、やるべきこと、起こった出来事をこなしていっていたり、 ふとしたことに気持ちが動かされているのかも、と思います。 心が動かされるようなことを経験した時に、その経験した対象ではなく、 自分の心の動きのほうに、より関心が向いているとしたら。 そうだとしたら、わかりやすく「好き」で「得意」な具体物としては現れなくても、 心の中には、形にならないたくさんのものが積み重なっていっているのでは…。 こんなふうに思ったりします。 新聞の中学生に願うのは、熱中するものが見つかることよりも、 毎日を自分なりに過ごし、 好き