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沈む気持ち、そこからの修復

前回 から続きます。 落ち込み、不安、傷つき、上手くいってないような感じ そういう感じから、「自分は価値がない」「自分は意味がない」「自分はダメだ」…というような感覚に広がっているようなとき、 二つのルート、それぞれを目指したいと思います。 ルート① その気持ちを自分の中から出してあげる。 イメージする力が必要ですが、例えば、身体の中にあるその「感じ」を口から出して、テーブルの前に置く、 心の中に一つ箱をイメージして、その中にその気持ちを入れて、そっと蓋をする、などです。 イメージするのは簡単ではないのですが、大事なのは、その気持ちが自分の全部にならないようにすること、 逆に言うと、その気持ちに自分を占領されないようにすることです。 ルート② その気持ちのルーツをたどる。 こういう感じがいつもつきまとっていたり、ふとしたことで「パターン」のように襲われてくるとしたら、 その気持ちが生まれたルーツがあると思われます。 それを丁寧に探っていくと、そこには、たぶん、傷ついたままでいる小さな自分がいるかもしれません。 それは、 前回のブログの表 のどれかに当てはまる経験ではないかと思います。 具体的な記憶として思い浮かばないとしても、「無意識的な経験」や「メッセージ性のある経験」が及ぼしてきたダメージは、じわじわと積み重なっていることがあります。 その気持ちは、そういう出来事で傷ついた自分出しているヘルプサイン。 そしたら、何とか助けに行ってあげたいです。 それからもう一つ、大切にしたい視点があります。 落ち込んだり、不安でたまらなくなったり、自分の無価値さに苦しんでいる中でも、 人は、100%そのままではないところがあります。 気分が落ち込んでいても、社会生活を維持しようとしている人は多くいます。学校や仕事に行ったり、家族のために食事を作ったりとか。 もう少し細かいところでは、 辛い気持ちで涙が流れていたけど、いつの間にか寝ていたり、 食欲がなくても、ふっと何か口にしていたり、 トイレには行きますし。 どれほど心が悲鳴をあげていても、その中で身体は何か別のことをしている、 そういうところに、私は身体のエネルギーを感じます。 何でもないような、ごく当たり前のような身体の営み、 身体にとっての「いつものこと」。 それは、内側から、ゆっくりと、少しずつ、少しずつなされている修復

沈む気持ちの、その後ろにあるもの

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なんだか落ち込むなぁとか、気分が沈む…というとき、自分の中にある「恥」の感覚がムクムクと顔を出しているのを感じます。 ふと思いたって、これまでの「恥」にまつわる体験を、一つひとつ思い返してみました。 でるわ、でるわ。 なかなかキツイ作業です(苦笑)。 それで整理してみると、こんな感じかなと思いました。 読んでくださっているみなさんも、大小・多少や深刻さの違いはあれど、おそらく、すべて経験したことがあるのではないでしょうか。 「意図的な経験」のほうは、されたことについての記憶がはっきりしていることが多いと思います。 その痛みは明確ですが、でも逆に、明確であるために、反発したり抵抗する力も生みやすいものです。 一方、「無意識的な経験」のほうは、姿かたちが見えないし、「良かれと思って」とか「悪気はないのだから」、「それが普通だし」と行われるので、受けた傷に無自覚であることが多いと思います。 またその痛みは明確ではなく、ちょっとしたすり傷のような感じだったり、何となくの違和感だったり、場合によっては、相手や自分の状況への感謝の気持ちや、「頑張ろう!」という”向上心”として感じたりするかもしれません。 そうやって積み重なったものに気が付くこと自体に、大きなエネルギーを必要とするような、そういう経験です。 そして、こういう「恥」の経験は、一つひとつのエピソードとして記憶されているだけでなく、変換されて心に残ります。 その変換されたものは、「自分を全否定する感じ」。 自分の無価値さを感じることや、存在する意味、生きる意欲をそぐような感じ。 この自己否定や無価値感が大きくなると、抑うつ的な状態になったり、身体症状が現れたり、誰とも会いたくなくなったり、 そして、自分を傷つけたい気持ちが強くなったり、死んでしまいたいという苦しさを感じたりします。 その気分のうしろに、いろいろな恥の体験と恥の感情があり、それが今のその辛い感じや感覚に影響を及ぼしている、 そういうことは多くみられます。 こんな辛くて苦しい気持ちをどう扱えばよいか…。 長くなりましたので次回へ。

通い合う「気持ち」②

目の前の人との「気持ち」のやりとり。 それがコミュニケーションであり、その人とのつながりを紡ぐ時間であり、それが二人の関係となります。 前回のブログ記事で、気持ちを、 贈りすぎる、贈らなさすぎる、受け取りすぎる、受け取らなさすぎる、 ということを書きました。 他者との間で紡がれる関係ですから、「…すぎる」ときは、相手も「…すぎる」状態です。 自分が「気持ちを贈りすぎている」とき、相手は「受け取らなさ過ぎている」。 自分が「気持ちを受け取りすぎている」とき、相手は「気持ちを贈らなさすぎている」 というようなことが起きています。 ですから、「…すぎる」ことが良くないとか悪いというわけではなく、 あくまで他者との関係において、「気持ち」がどんなふうに流れているかという、動きの特徴そのものにすぎません。 そしてその特徴が、自分にとって相手にとって、二人にとって、心地よい範囲ではない、ということだと考えます。 「…すぎる」のかどうかは、自分の感覚や気持ちが教えてくれます。 それは、満たされなさや寂しさ 苛立ちや怒り 不安や恐れ 身体は、硬くなったり、冷たくなったり、 疲れを感じていたり、地に足がついていないような感じだったり。 こういう感じが常態化していたならば、寄る辺ない感じや、焦燥感、不確かな感じがつきまとっているかもしれません。 ある会議に出席したとき、私はその場で居心地の悪い感覚を感じ始めました。 外に出て空気を吸いたい…と身体が欲しているような感じ。 その場でもちろん呼吸はしていましたが、「外の空気を吸いたい」という比喩で感じられていた身体の感覚は、息が詰まるような、息苦しいような感じです。 でもそれを意識に上らせることなく、じっとその時間を耐えていました(席を立つわけにはいかず、しょうがなくて😢)。 でも身体は相当正直だったようです。 会議という、テーマが決まった場においても、「気持ち」の通い合いがあるかどうかは、会議の進行や成果に大きく影響を及ぼします。 そこでは、話の流れが一方通行的で、出席者の気持ちが通い合っていないと感じていたのだと思います。 それぞれが、それぞれの思いを行き来することができていないような感じ。 そういう行き詰った感じが、私の身体において、息が詰まるという感覚として生まれていました。 自分の身体や、自分の内側で起こっていることは、たくさん

通い合う「気持ち」 ①

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすること。 「気持ちを受け取る」 のタイトル記事に書きました。 でもこれは、簡単なことではありませんね…。 私たちの悩みのほとんどは、人間関係からきますから。 人間関係が表立った問題ではないように見えても、背後に、人間関係のテーマが腰をすえていたりします。 「気持ち」は、「…すぎる」というのが苦手です。 気持ちを贈りすぎる 気持ちを贈らなさすぎる 気持ちを受け取りすぎる 気持ちを受け取らなさすぎる 気持ちを贈りすぎているとき。 贈り続けるのは、相手が受け取ってないと感じているからでしょうか。 相手が求める通りのものを贈っているはずなのに、と。 それで、贈り方がよくないのかと思い悩みつつ、手を変え品を変えて工夫したり。 どうやっても、いつまでたっても、相手が受け取ったと感じられず、焦燥感、自責感、罪悪感のような気持ちがわいてきませんか。受け取ってくれない相手への怒りや苛立ち、自分への意地を感じるかもしれません。 気持ちを贈らなさすぎるとき。 私の気持ちなんて相手には必要ないだろう、と思って贈らないのでしょうか。 それとも、受け取ってもらえないかもしれないと思うと足がすくむでしょうか。 相手は、贈る必要がないと感じる人なのでしょうか? それとも贈ろうとしている思いや言葉を、相手に先に気づいてほしいと願っているのでしょうか。 贈らずにため込んだその思いや言葉はどんどんたまって、息苦しく、出口の見えない孤立感が大きくなっていきます。 気持ちを受け取りすぎるとき。 せっかく贈ってくれているのだから、受け取らなければ、と思ってしまうのでしょうか。 それとも、相手が満足するために受け取っているのでしょうか。そうすれば、やたらめったら贈るのは止めてくれるんじゃないかと期待して。 受け取りすぎているとき、相手の気持ちが自分の心のスペースをどんどん占領して、自分の心のためのスペースを侵食していきます。 その圧迫に苦しさ、怒り、不安が生まれてきます。 気持ちを受け取らなさすぎるとき。 冷たい気持ちや強い気持ちは、受け取るのは勇気がいるものです。 でもあたたかい気持ちややさしい気持ちも、受け取るのは勇気がいるのかもしれません。 受け取るのは怖いでしょうか。 どうやって受け取ればよいか、そして、受け取ってどう反応したらよいか、戸惑うでしょうか。

呪いの言葉2「ちゃんとする」

「ちゃんとする」。 これは、数ある呪いの言葉の一つではないか…と思います。 日本の子どもは小さい時から、いろんな場面で「ちゃんとする」の言葉を浴びてきて、その雨は激しさを増していっているような気がします。 私は子育て真っ最中なのですが、「ちゃんとする」のさじ加減、 これがとても難しい。 朝起きて、 学校へ遅れないよう家を出て、 忘れ物をしないようにして、 制服を指定された通りに着て、 出された課題を言われたとおりにこなして、 要求や叱責を納得いかないままでも受け入れて、 テストのための勉強をして、 自分の物を片付けたり整理して、 食事の時はマナーを守って、 身ぎれいにして、 やりたい遊びやゲームは制限付きで、 遅くならないように寝て。 これが、多くの日本の子どもたちが過ごす毎日。 「ちゃんとする」ことが山ほどある毎日…。 「ちゃんとする」の目的は、成長に必要な生活のリズムや、これから生きていく上で必要な力のためだったはずだと思いますが、今はもう、「ちゃんとする」こと自体が目的になってしまっているのでは。 この影響は、根深いところで溜まっているのではないでしょうか。 ちゃんとすることが目的になってしまっていると、いつも不安が付きまとっていたり、できない自分を恥じて自信を失ったり、常にイライラ感がとれなかったり、毎日疲労が残ったり…。 ずいぶん前のことですが、フィリピンの友人の実家に遊びに行きました。 マニラから車で数時間かけて行った小さな町。静かで、美しいところでした。 大家族的な暮らしをするフィリピン。彼女の家にも、4世代+親戚の人など、大勢が一緒に暮らしていました。 そこにいた5歳の子どもは、毎食、お皿に食事を盛ってもらって、好きなところへ持って行って食べていました。 ある日、食事を終えた私が玄関ポーチへ行くと、食べかけのお皿が柵の上に乗っていました。子どもはどこからともなく戻ってきて、その柵の上でしゃがみ(すごいバランス!)、続きを食べ始めました。すると外で小さな動物が横切りました。子どもは満面の笑みで動物を追いかけて行きました。 私はポーチのベンチに座って、食べ残したお皿を見ながら、おだやかな気持ちに包まれました。 日本だと、「ちゃんと椅子に座って食べなさい!」とか、「食事中にフラフラ席を立たない!」と叱られていそうなことでしたが、その家族の大人はみんな、気に

「好きなこと」も「得意なこと」もなくて

学校に行っていたころは、入学やクラス替えのたびに自己紹介の時間がありました。今もそういう時間があると思います。 私はこの時間がとっても苦痛でした。 名前以外、何も話せるようなことが思い浮かばず、毎回困っていました。 そこそこ好きなことや、やっていることはありましたが、熱中するほどではなかったですし、興味をもっても、さほど深堀りしていくほうではありませんでした。 そんなふうなので、特技と言えるようなものも何もなくて。 みんなに言えるほど「好き」なことも「得意」なこともない私は、こういう時間になると、自分を残念に思ったものでした。 自分は「たいしたことないなぁ」と思ってしまう時間でした。 先日、新聞の読者欄に、 「好きなことがほしい」という中学生の投稿 が掲載されていました。 好きなことも得意なことも何も思い浮かばない。でも他の子はちゃんと言えることがあって、発表している。私も好きなことや得意なことがほしい、という内容でした。 それを読んで、ものすごく共感しました。 そして思ったのは、たぶん、同じように思っている人は多いのじゃないかな…ということです。 もしかしたら、「推し」や「得意なこと」がある人の方が少ないかも。 「推し」や「得意なこと」がある人って、楽しそうに見えますよね。 楽しんでいるって、うらやましい気持ちになります。 自分が決して、楽しくない毎日を過ごしているわけではないのに。 得意なことがなくても、別に不幸というわけでもないのに。 結局私は「ものすごく好き」なことや「人に話してもよい“レベル”の特技」など何もないまま今に至っております。 でも、きっと、たぶん、 私のようなタイプの人は、何か一つのことに集中して熱が入るのではなく、 流れていくような日常の中で、やるべきこと、起こった出来事をこなしていっていたり、 ふとしたことに気持ちが動かされているのかも、と思います。 心が動かされるようなことを経験した時に、その経験した対象ではなく、 自分の心の動きのほうに、より関心が向いているとしたら。 そうだとしたら、わかりやすく「好き」で「得意」な具体物としては現れなくても、 心の中には、形にならないたくさんのものが積み重なっていっているのでは…。 こんなふうに思ったりします。 新聞の中学生に願うのは、熱中するものが見つかることよりも、 毎日を自分なりに過ごし、 好き

「気持ち」を受け取る

誰かと一緒にいるというのは、「気持ち」をやりとりすることなのだと思います。 以前書いた記事「 心に残る人 」、私は、あの人の気持ちを受け取っていたのだなと思います。 そしてあの人は、私に「気持ち」を贈ってくれていたのだと、亡くなった今はしみじみと感じるのです。 私は「気持ち」を贈るのも受け取るのも、かつてはあまり上手にはできませんでした。 私から贈られてもうれしくないんじゃないかとか、 返って気を遣わせてしまうんじゃないかと思うと、 これなら迷惑ではないだろうと思うような、 なるべく相手の気を遣わせないようなだけの量や内容の「気持ち」を選んで贈っていたのだと思います。 でもいつもうまくできたわけではありませんでした。 受け取るのも下手だったのは、幼少期から覚えています。 プレゼントをもらっても、どう喜びを伝えたらいいかわからないし、 それよりも、「こんなことしてもらって気を遣わせてしまってる」と不安になったりしたものでした。 子どもなのに。 相手が私のためにかける “ 労力 ” が少ないと、ホッとして、 相手が私のためにすることを、労力を使わせてしまっている、と思うことがありました。 今の私は、そういう面ではすっかり変わったと思います。 今の私は、人と気持ちを交わすことを、とても大切なことと思っています。 それは、私に贈ってきてくれていたものを、私が受け取れるようになり、私の中にあるということを感じられるようになり、それをありがたいと思うようになってきたことと重なっています。 たくさんの出会いがあり、年相応ぐらいにはいろいろな経験をして、そして心理療法のトレーニングを受け、先生や仲間の支えを得て、 周りにたくさんあった「気持ち」に気づくようになりました。 「心に残る人」の方は、心を動かされるような、でも深く安定しているようでもある感じの「気持ち」を贈ってくれました。 クライエントさんからもたくさんいただいています。 お一人お一人との出会いと時間が、私の中にあります。 クライエントさんの涙、力強いよろこび、静かな充足。 私に見せてくれたたくさんの「気持ち」、私への「気持ち」、 クライエントさんから、いつもたくさんいただいています。 だから、私の心の中には、クライエントさんお一人お一人が存在してて、 その存在を感じることは、私にとって大切なことなのです。 それが、「カウ

叶わない思いと一緒にいること

先日、スーパーに入ったとき、ちょうど同じタイミングで入ってきた親子がいました。ベビーカーに乗っていた小さな男の子が、グズグズと泣いている声が聞こえました。 男の子はどうもお店に入るのを嫌がっていた様子です。たぶん、何か他のことを求めていたのに、思うようにならなくてグズグズしていたようです。 お母さんは優しく声をかけていましたが、急いで買い物をすませたい様子でした。 すると男の子はお店中に響くような金切声を上げて、盛大に泣き始めました。 これって、子育てアルアルですよね…。 お母さんはやること山盛りですから、いつも子どもに合わせて行動するのは無理ですし、 子どものほうも、自分の思いを主張するのはごく自然なことです。 この場面にであい、心に浮かんだことがありました。 それは、子どもだけじゃなく、大人も、自分の思いを受け止めてもらいたいものだよなぁ、ということ。 「受け止めてもらう」ではなく、「一緒にいてもらう」という言い方でもいいかもしれません。 「わたしはこれをしたい!」とか「これは嫌だ!」という思いが、そのままかなわないことは、子どもであっても大人であっても、たくさんあります。 最初は、思いを通すことが重要でした。小さいことでも大きいことでも。「私が」望むことなのですから。 でもそのとおりにならないと、怒りや悲しみのような気持ちがあふれてきます。 子どもはそれをそのまま周囲へぶつけてきますし、大人も、大人なりの表現で、あるいはその人なりの表現で、周りへ伝えたりぶつけたりします。 思うようにならないとき、その思いをただただ聞いてもらうとか、 「そうだよねぇ」と共感してもらったり、 「〇〇がよかったんだよね」と思いを知っててもらったり。 そういうことで、気持ちは落ち着いていきます。 冒頭の男の子も、金切声を上げた時にはもう、思いが通らなかったこと自体よりも、それを放置されたと感じた気持ちのほうに苦しくなっていたのだろうと思います。 たぶん、少し止まって、自分の方を向いてくれて、「〇〇したかったんだよね」と言ってもらえたら、金切声にまではならなかったのだろうと思います。 (これが子育て真っ最中はとっても難しくて大変なんですけどね💦) クライエントさんのお話を聞いていると、クライエントさんにとって大事なときに、「聞いてもらう」「見ててもらう」「そばにいてもらう」「声をかけ

「老後とピアノ」と私、そしてカウンセリング

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数年前にピアノを始めた私は、「老後とピアノ」のタイトルを見て、「これは読まなければ!」と思っていました。まさに私のために書かれた本ではないですか! そして読みました。とっても楽しく! 53歳のとき、執筆依頼をきっかけに、40数年ぶりにピアノを始めた著者の、ピアノへの熱中と悪戦苦闘ぶりに、クスリと笑ったり、共感しまくり。 そして、深く深く心に響いてきました。 この本のタイトル、「老後 の ピアノ」でも、「老後 に ピアノ」でもない。「老後 と ピアノ」。 そう、この本は、ピアノを通して、どう生きるかということが書かれてあったのです。 この本に書かれている、私が心を動かされた文章をご紹介したいと思います。 著者は、間違えないように緊張感を保って練習しまくり、それでも上達しないのでさらに練習しまくっていました(ホントにすごい練習量です!)。 でも手に痛みが出て練習ができなくなってしまったときに、ある本に出会いました。その本には、筋肉の緊張が痛みや故障へと発展すると書いていました。そして気づいたのです。 私が私の体をきちんと使うことができたなら、そう自分の体を否定せず、ちゃんと見つめて、認めて、いたわり、きちんと解放してやれば、そこにこそ私の演奏のゴールがあるってこと?誰かの真似をしたり、目指したりする必要なんてないってこと…? 私たちは誰でも、「こうありたい」と思う自分があります。希望や願望、理想、夢、あるいは、「こうあるべし」というような規範も。 こうだったらよかったのに。 でも違う自分。 私もあります。こうだったらよかったなぁ…と思わずにはいられない、性格や状況など…。 ピアノはまさにその一つ。 小さいころに習える状況になかった。それはしょうがない。 でも小さいころから音楽が身近な中でいられてたら、こんなふうに思うように動かない手を前に、自分にがっかりすることもなかったのにーー-!と思いますよ、自分のヘタクソなピアノの音を聴いて。哀しい限りです。 でもそうじゃなくて、自分(の体)をちゃんと見てあげて、ちゃんと使うことができたら。 そうしたら、それは「自分の」ゴールに向かうことになるのではないか… そうしてピアノの発表会に臨んだ著者は、同じように悪戦苦闘する他の人の演奏を聴きながら深く心を動かされました。 全力で、心を込めて、勇気を出して、どんなひどい失敗をしてもどうに

「癒し志向」のカウンセリングとは?

私がカウンセリングで取り入れているAEDP™心理療法は、「癒し志向」のアプローチです。 「癒し志向」というのは、問題の原因を見つけて、それを解決したり改善するというような考え方とは違うもの、という意味です。 今の問題や苦しみの原因は何か?とか、なぜこんなことになったのか?とか、何が悪かったり問題だったのだろうか、 というようなことは、あまり重視していません。 問題や原因を見つけて、それを取り除いたり、改善することができれば、「よくなる」というのは、一つの考え方です。 身体の病気は、そういう考えに基づいて治療しています。 問題や原因を見つけることができれば、納得感が生まれるでしょう。 その納得感は、安心感へとつながるかもしれません。 問題や原因がわかれば対処のしようがあると、期待が持てるように思うでしょう。 問題解決タイプの心理療法が役に立つことはもちろんあります。 でもそれが、根源的な苦しみの癒しにはつながらないことも、やはり多くあります。 そもそものテーマが、深く残る傷つきであればなおさらです。 心は、身体へのアプローチのようにいかないことも多いのです。 それは私自身、実感します。 自分の中にあるいろいろな痛み、悲しみ。 若い時にいろいろとやらかしてきましたし(汗)、何が問題なのか、わかってはいました。 知っていたし、理解もしていて、納得感はありましたが、 でもその納得感は、決して「癒し」ではありませんでした。 何というか、単に「知っている」というだけの感じです。 「癒し志向」というのは、苦しかったり悲しかったりしたことを、ちゃんと悼む作業であり、 その中で生きてきた力を称賛する作業であり、 そして何より、それを一人じゃなくて、誰かと一緒に行う作業です。 変えられない過去なのに、わざわざ悼む作業をしたりとか、 ダメダメだと感じる自分を変える練習をするわけでもないのに、 なぜ「癒し志向」に効果があるのでしょうか? それは、キーワードが二つあります。 一つは「ちゃんと」。 「ちゃんと」とか「しっかりと」、あるいは「適切に」、「十分に」悼む。 これが、今まで抱えていた過去についての感じや、自分自身についての感じを、大きく変えていくのです。 もう一つは「一人じゃなくて誰か(カウンセラー)と」。 これが苦手だったり、拒否感を示す方もいます。 でもその苦手さや拒否感に、クライ