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癒すに時あり。癒されるに齢なし。

祖父が亡くなる、その最期のとき、私はそばにいることができました。 祖父は私を大切にしてくれましたが、性格なのか時代背景なのか、ちょっと近寄りがたい感じがある人でした。 数年の闘病を経て、臨終のとき、その祖父が、ものすごく優しい表情をしていました。私が知っている、緊張感を感じるような寡黙な顔ではなく、この上なく柔らかくおだやかで、微笑んでいるようにさえ感じました。 私は、天使がいる、と思いました。 おそらく、痛みや苦しみから解放されていたのだと思います。 そのお顔の周りは明るく光って見えました。 悲しいはずの別れのときに、私は不思議な安心感や満たされた感じがしたのを覚えています。 「おじいちゃん、よかったなぁ…」と。 大正から平成を生きてきた祖父は、個人としても、時代としても、複雑で困難も多かっただろうと想像します。 何があったか、どんな思いで生きてきたか、当時の私にそれを聞く力はありませんでした。例え今も生きていたとしても、聞くことはやはりないのだろうと思います。家族とは、そういう距離感があるのかもしれません。 やさしい表情で逝った祖父の最期は、大きな癒しと解放の時間だっただろうと思います。それが祖父にとってどんなことだったか、聞くことはできませんが、私の中にこうして遺してくれた記憶、それは「癒し」でした。 人は、癒されるべき生を生きていると思います。 そして、癒されるに年齢は関係ないと思います。 むしろ、「高齢者」と呼ばれる年代の方々にこそ、癒されることが、人生の中で重要だと思います。 戦中、戦後の激変の時代を生きてきた方々。 社会的な抑圧や差別、経済的な困難。それらを我慢や努力で耐え忍ぶことを求められてきた時代。 この時代背景は、お一人おひとりの人生にさまざまな影響を及ぼしてきただろうと思います。 「癒し」とは何か。 これは大きなテーマですが、誰もが何となくイメージするものとしては、 深い安堵感、からだも心も解き放たれたような軽さや、鎮まり落ち着いている感じ、あたたかさや満たされたような感じ。 こんな体験をイメージされるのではないでしょうか。 私が行っているAEDP™セラピーは、「癒し志向(healing oriented)」が特徴の一つです。 心の中にあって、まだ十分には体験されていない深い感情を、安全に、しっかりと感じることを通して、癒しや変容、成長を感じて

「感情の経験」もトレーニング

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プロフィールに書いていますが、私は2年ほど前からピアノを始めました。 目標は漁師ピアニストの徳永さん😄 すごい。52歳から始めて、60歳のときにフジコ・ヘミングさんと共演! こういう方がいると、「こんな歳から始めても…」という恥の感情は消えてくれます。ありがとう~。 私は楽器は未経験で、そして年齢的な壁ももちろんあって、1曲が弾けるようになるまでが大変です。何回もしつこくやってます。 そうすると、あららら!と指が勝手に動く瞬間が訪れてくれるのです。 これが気持ちいい。 指が勝手に動くなんて!!! 楽器をされている方なら「なんだそれ」みたいな話で恐縮ですが、こんなふうに勝手に身体が動くのは驚きです。 今回この話をしているのは、「感情の経験」と重なるところがあるなと思ったからです。 感情は誰もが感じていますし、持っているものですが、二つの側面について、あまり経験されていなかったり、難しかったりすることがあります。 一つは、感じるのが難しい感情を感じること。 考えると大きな痛みを伴う経験や出来事、あるいは自分自身の受け入れがたい側面は、感じるととても苦しく辛いので、あまり深く考えないようにしていることが多くあります。 もう一つは、どのような感情であれ、深く深く感じること。 歓喜に心を震わせる。 心の底から怒りを表現する。 喜怒哀楽に限らず、快適な感情も、きつい感情も、深くしっかりと感じるということは、実は簡単ではありません。 成長するにつれ、社会で生きていくにつれ、感情をしっかりと感じ、表す、という機会はどんどん減っていきます。あるいは、サバイバルの手段として深い感情から距離を取るということもあります。 「成長」や「社会性」の獲得の一方で、深い感情の体験は失われていく傾向にあります。 このように、感情をしっかりと感じるということに慣れていなかったり、不安だったり、難しかったりということは、よくあることです。 私がカウンセリングで行っているのは、「感情の体験に少しずつ慣れていく」、という作業です。 じっくり、そして繰り返しやっていくと、からだとこころがだんだん慣れてきて、ふっと、そしてスルスルと、感情の方が動いてくれる、そういう動きをつくっていくのをサポートしたいと思っています。 私のヨガの先生は、ポーズをとるときに必ず「無理をしない、でも少しだけ挑戦する」ということを言

自分軸について

「自分軸」。 クライエントさんからこの言葉を教えていただきました。 自分の主体性を表す、わかりやすい言葉だなと思いました。 インターネットで検索してみると、いろいろ出てきました。イラストレーターでエッセイストの中山庸子さんは、タイトルずばり「 自分軸のつくりかた 」という本を書かれていたり、自分軸についての動画や、「自分軸手帳」というのもありました。 私はクライエントさんにお会いしていて、自分軸がない人はいないな、と思っています。 でもクライエントさん自身が自分軸を明確に感じられるようになったり、その自分軸からものごとを感じたり、発言したり、行動したりするまでには、いくつかのプロセスを踏んでいく流れがあります。 「自分軸」は、自分が考えること、思うことを決めたり、実行するという意味のようです。 このような決定や実行のベースには、自分自身についての体験があります。 それは身体の感じであったり、気持ちが感じられることであったり、今までとこれからを想ったりすることなどの体験。 感じたり思ったりする自分がいる、という体験です。 ごくシンプルな例はこんなこと。喉が渇いたあなたは、目の前にある水が入ったコップに手を延ばし、コップの水を飲んだとします。 これは、あなたがしたことですね。他の誰かではなく。 そう、「自分」がいます。喉が渇いたと知っている。コップの水を飲む行為をしたのは自分だと、あなたは知っている。 そして水が喉を通って行きました。その感じ。 乾いていた喉が潤って、ちょっとホッとした、その感じ。 それは他の誰でもない、あなたが感じた、あなただけの感覚。誰も邪魔することができない、あなた自身の感覚。 当たり前すぎるような、自然すぎるようなことですが、自分を感じるベースは、こういう感覚への注意からつながっていきます。 あなたがコップの水を飲んでいるのを見ている人がいました。 A「外は暑かったから、お水を飲んでホッとしたでしょう」とやさしく声をかけた人。 B「忙しいんだから水ぐらい自分で用意して飲んで!」とイライラして顔をそむけた人。 C「こんな少しのお水じゃ水分補給にならないよ、もっと飲まないと」と不安げに見つめる人。 潤ったあなたの身体は、こんなふうに言われてどんな感じがするでしょうか。 あなたの意思で手を延ばしてコップを取り飲んだという行為に、意味づけが加わる感じが生

「自己主張」という花を咲かせるには

周囲の人の顔色をうかがって生きている人にとって、自己主張するのはとても難しいことです。 周囲の顔色をうかがうようになったのは、いろいろな背景が考えられます。 幼少期から、大人にわかりやすい態度で喜怒哀楽などを示すタイプではなかった。 周囲の環境が緊張感に満ちていた。 たまに主張してみても、否定的な反応をされ、主張を引っ込めるしかなかった。 自分のペースに合わせてしっかりと応対してくれる経験が少なかった。 などなど…。 それを経験しているのが子どもであっても、大人であっても、その関係は対等ではなく、一方的なものです。 相互の違いを感じながら、でも相互に尊重するという、対等な関係ではありません。 こういう関係の中にいることで、「主張」をこころの奥底に閉じ込め、蓋をして、地中深くに埋めて、長い間放置してきました。 もうそれがあったことさえ忘れてしまうぐらいに。 このようなクライエントさんが、やっとの思いでできる『自己主張』は、欲求を表す言葉ではなく、要望の形をとることが多くあります。 例えば、夫から長い間、バカにされたり、きついことを言われたりしてきた女性は、夫に対して反抗や反論ができないことが多くみられます。 対等な夫婦喧嘩ならば、こんなふうに言い返したりするでしょう。 「そういうあなたは何様!?」 「で?何が言いたいわけ?」 でも言い返したら100倍になって返ってくるという恐怖感とともに、自分に問題があるのかもしれないという不安が襲ってくる。 だから、辛くて苦しいけれど、何もできずに耐える。そんな人がどれほど多いか…。 自分は嫌なんだ、傷ついているんだ、ということを感じられるようになっても、ようやく言える言葉が、「そんなふうに言わないでほしい」という要望が精一杯だったりすることがよくあります。 頑張って、勇気を振り絞って主張した気持ちなのですが、でもこれは明確な自己主張ではありません。 だからやっとの思いで言ったけれどスッキリしないままですし、たいていは相手に受け止められなかったり、逆ギレされたりして、「自己主張すべきではなかった」と、自己嫌悪に陥ってしまいます。 相手へのお願いの形をとるような要望ではなく、ホンモノの自己主張は、「私」という土壌をベースにして咲く花のようなもの。 その土壌は、「感情」という肥料がたっぷり必要です。 「私は」怒っている。 「私は」嫌だ。

萌芽更新~修復と成長

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春を迎え、初心者ガーデナーである私は、作業がしたくてウズウズする季節です。 仕事や家庭の用事があると、どうしても庭仕事は後回しになってしてしまいますが、先日は思い切って時間を作りました。 作業のときはいつも無心になっていくので、心のモヤモヤしたものや疲れなどが、不思議と軽くなるのを感じます。 初心者なものですので、図書館で、たくさん庭づくりの本を借りました。 その一つにこんなことが書いてありました。木を切断した切り口の観察から生まれたモデル(CODIT)についてです。 「(CODITモデルを簡単に言うと)木は枯れたり腐り始めたところに、強力な壁を作って、健康な部分にまでその影響がおよぶのを防ぐってことなんだよ。木の防御本能ってすごいんだよ。」 『ポール・スミザーの剪定読本』ポール・スミザー著、講談社 人も、誰かや何かに心を傷つけられると、もう二度とこんな辛い思いで苦しまないように、心は警戒し、防御を働かせる機能があります。 はっきりと覚えているような大きな出来事だけでなく、小さな傷つきの積み重ねでも、この強力な防御の働きは生まれます。 傷みはつらく、苦しい。 生きていく最後の力を保っていくためには、その傷みの影響を小さくする必要があるかもしれません。防御は、そこで機能してくれているのです。 自分なりに獲得した防御が上手く機能し、心身の健康がある程度維持できているのであれば、それは「よい防御」であり、「必要な防御」でしょう。 切り取った枝の跡は残っても、木と一体化した特有の美しさがあるように。 枝を適切に切り取ることで、幹の生命力が増すように。 里山の管理に、「萌芽更新」という木々の再生方法があるそうです。 「広葉樹を伐採した翌年には、根株からびっしりと休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新である。また、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む。」(wikipediaより引用) 木は自らを防御しながら、いえ、防御することで、生命力を維持している。 こんな木を見ると、木の生命力、たくましさ、空に向かって伸びる若木のみずみずしさに、心が動かされます。 ロンドン南東部のサリー州に、イギリス国防省の医療リハビリテーション・センターがあり、復員兵士がPTSD治療を受けて

誰にも備わる「成長に向かう力」

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春。 昨冬に植えたプシュキニアの球根が芽を出しています。土から緑の芽がちょこっと顔を出したのを見て、じわーっとうれしい気持ちが広がります。 春は、こんなふうにあちこちで新芽を見る時間がうれしいです。 芽吹きの初めはたいていどれも、ごくわずかなものです。とても小さかったり、色もわかりにくかったり。 それを見つけたときは、「あー!やっぱり出てきた!」「出てきてくれてよかったー!」と思います。 写真の球根も、植えてから長い間ずっと土の中でした。でもやっぱりいました! 写真では大きく見えますが(アップで撮りました!)、小指の先ほどもない小さな芽です。 こんなふうな成長に向かう力、発展の力は、人にもあります。 この力は、子どもから青年期だけに留まるものではありません。誰にも、いつでも備わっているのです。 最近の脳神経科学では、脳は生涯を通じて、機能的、構造的な変化をし続けていることがわかっています。 このことを私はカウンセリングで実感しています。高齢者、後期高齢者の年齢にあたるクライエントさんも、感動的な変容を体験されているからです。 ですが、打ちひしがれていたり、自信がなくなっていたり、自己嫌悪に陥っていたり、不安で苦しんでいるときには、この「力」を自分で感じとることは簡単ではありません。 それは私自身にあてはめても感じることです。 植物は、適切な環境があれば、その植物自身の生命力が発揮されます。 土の中で時期を待っていた球根が、春の光を浴びて芽を出すように、 葉を落として枯れたように立つ木の枝先に、小さな柔らかい芽が突き出すように。 人も同じように、備わっている力が引き出されるには、「適切な環境」が必要です。 カウンセリングで行うのは、この「適切な環境」の中で、その人が持っている「力」を引き出し、感じてもらうことです。 「あきらめよりも成長を選ぶ力であり、停滞よりも変化を求める力であり、自己嫌悪よりも自己に対する肯定であり、孤独よりも人との結びつきを選ぶ力だったり、バイタリティあるエネルギーをもつ力」( 「感情を癒す実践メソッド」 花川ゆう子著、金剛出版) ※この力をAEDP™セラピーではトランスフォーマンスといい、これを見つけ育むことを重視します。 自分をよりよくしたい、よりよい自分でありたいと願う力。 「デカルトの誤り」などたくさんの著書がある、神経学者のアントニオ・

まだはっきりしていない感情に命をふきこむ

植木屋さんに、我が家の庭木の剪定に来てもらいました。 剪定って、枝をどうやって見てるんですか?と聞いたところ、 将来的な形をイメージし、それぞれの木の成長の特徴をふまえて、枝がこれからどうやって伸びるかを見て、それを邪魔しないように切ったり、成長を止めたい枝は止まるように切ったりする… というようなことを教えてくれました。 園芸の本に書かれている剪定の仕方は、下向きの枝は切るとか、込み入った枝は切るとか…。 そういう決まったルールとは違った視点のお話に、「なるほどー!」と思いつつ、これは難しい…とも思いました。 植木屋さんに来てもらう前、大雪の重みで傷んでしまいそうだったので、私が急遽枝切りしたのですが、どうしても適当に切っちゃってたのです。 その木の特徴。 そして、これから伸ばしたい枝は? そういう見極めや予測ができるのがプロなんだなぁと思いました。 カウンセリングでは、クライエントさんの心にあって、でもまだクライエントさんにはハッキリとは感じられていない感情やニーズを、私が感じることがあります。 クライエントさんとのやり取りを通じて、私に伝わってきて、そして、私自身の中にその感情やニーズが感じられてくるのです。 これは日常の中にもあることで、一緒に住んでいる人や、とても親しい人だと、どんなことを考えたり思っているかが、なんとなくわかる…ということはありませんか? あまり意識しないレベルで、相手の話し方や表情などを感じ取っていて。 そうやって私自身に感じ取られたクライエントさんの感情やニーズを私が言葉にすると、まだはっきりとは形になっていなかったものが、クライエントさん自身の心に現われたり、大きくなったり、はっきりしてきたりします。 クライエントさんから私に写されてきたものを、クライエントさんが私から写しとる、という相互のプロセスです。 写真の現像をゆっくりと交互に行っていっている、というイメージでしょうか。 そうすると、クライエントさんは、ぼんやりとしていた写真の画像が明らかになってきて、 つまり自分の感情やニーズがはっきりと感じられるようになってきて、 さらに先に進めていくことができます。 こんなふうに、クライエントさんの中にあって、現れるのを待っているその感情やニーズを引き出すような、後押しするような、そういうサポートをする場面がカウンセリングの中であります

「迷惑をかけてはいけません」の呪いを解く

「人に迷惑をかけないように。」 親や周囲の大人に言われてきたためか、こう思っている人は多いのではないでしょうか。 「迷惑」というのは、嫌な思いや不愉快な思いをすることを意味するので、「迷惑をかけない」というのは、人にそういう思いをさせないようにすることをさします。 ですが、「迷惑」という言葉のあいまいなところが拡大していって、そして「空気を読む」ということが相乗して、人をわずらわせてはいけないとか、負担をかけるべきではないとか、そして人の領域に踏み込むべきではないというようなニュアンスにまで広がっているように思います。 私は、これを「迷惑をかけてはいけませんの呪い」と命名したい。 呪いというのは強烈です。 呪いは他者(周囲)からかけられ、自分が呪いをかけられていることに気付きません。そうして苦しい状態が続いてしまいます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の背後にあるのは、我慢と頑張りを美徳とする価値観や社会ではないかと思います。 協調性が過度に求められ、差別、偏見、抑圧があちらこちらにある社会の中で、我慢させることはまるで空気のようにあって、頑張ることはどこでもいつでも求められています。 私が育ってきた中でもありましたが、娘の学校生活を通して、それがますます強くなっているのだと感じます。 これは、本当に、あまりにも大変すぎる。 本来の「迷惑」を越えた意味の広がりによって、「迷惑をかけてはいけませんの呪い」は孤立を生んでいます。 自分が抱える問題、困難、苦難を、人に頼ったり、助けてもらったりしてはいけない、すべきではないと考えてしまいます。 人に頼るのは、負担をかけてしまうかもしれないから。 それは自分の頑張りや我慢がまだ足りないから。 だから人に頼ったり助けてもらうようなことは恥である、と。 そしてますます、人に頼れず、助けてもらえず、孤独感が増していきます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の強烈さを実感したのが、先日発表された調査結果でした( 特定非営利活動法人『あなたのいばしょ』 が実施した「 コロナ下での人々の孤独に関する調査 」)。 対象者3000人の中で、40%の人が孤独を感じていて、そして若年層の孤独感が強かったのです。 この結果を見て、とても胸が痛かったです。コロナ下とはいえ、日本はこんなにも寂しく厳しい社会になっているのだということを、数字で実

カウンセラーとの相性って?

心理療法は驚くほど種類があって、私も、名称と概要しか知らない心理療法もあれば、新しいものだと名称も初めて聞くものもあります。 こんなにあふれるほどの数のなかから、自分のテーマ、自分自身に合うものを探すのは本当に難しいことだと思います。 また、カウンセラーとの相性という問題も言われます。 これも、どういうものかわかりにくい、つかみにくいものだろうと思います。 私自身は、約10年ぐらい、とあるセラピーを受けています。 私の場合は、解決すべき悩みや困難が、当時も今もあったわけではなかったので(悩みがない、という意味ではありませんよ~)、どちらかというと興味本位で始めたものです。ですので、週に1回などのような頻回ではなく、とてもゆったりしたペースでした。また新型コロナウィルスの蔓延で、この2年ほどはかなり間が空いていたり、という感じです。 このセラピーを始めたころの感想は、「ふーん…」。 「ふーん…」。 表現が乏しくてすみません…。 悪い感想ではありません!でも、すごく楽になるとか、視界が開かれるとか、そういう劇的な変化を感じていたわけではない、という意味です。 ところが、回を重ねるなかで、私になくてはならないものだと気づくようになりました。知らなかった自分に触れることが、こんなふうに癒されるのだと認識するようになったのです。 カウンセラーの先生との相性を感じ出したのもこのころでした。先生の言葉や存在があって、私が内側の自分に近づいていっていること、先生への安心感や信頼感が確かにあることに気づき、その気づきがまた、私を深いヒーリングへとつなげていっているのを感じます。 こんなふうに意識されるまで、比較的時間がかかったと思います。でもこれが、私らしい時間のかけ方だったのだと、今は思います。 思い返せば、最初から先生には「引っかかる感じ」がありませんでした。自然で楽な感じ。それが回を重ねるごとに、確かな安心感へと変化していました。 私が自分自身の人間関係を振り返ってみると、最初に「引っかかり」や距離感を感じなかった人と、結構時間をかけながらゆっくりじっくり関係をつくっていっている方かなと思うので、カウンセラーとも、そういうふうに関係をつくっていっているのだと思います。 私が辿っていったように、クライエントさんの、カウンセラーとの「相性」の見極め方も、クライエントさんそれぞれの流

「わたし」というプリズムを光らせる

私はこんな人物です、ということを表現しようとすると、自分にはたくさんの側面があることに気づきませんか? そのたくさんの側面は、プリズムのようで、当て方によって違って光る… でも、一つの方向からの光の印象が強烈に残り、動かずに心に残っていることもあります。 私にとっては、「頑固だ」という言葉です。 まぁ、確かに、私は「頑固」です(汗)。 これが、ネガティブな側面として私の中にずっとこびりついてきました。 これは自分で語ってきたものではなく、周囲から言われたものです。 その発言に良いニュアンスがないことは明らかで、私はそのニュアンスが自分そのものだとして引き受けてきていました。 でもそうじゃないんだ、と、気づきました。 私は自分の考えや意思がはっきりしているほうで、場合によっては柔軟性に乏しいところがあるのだと思います。 でも「頑固な人」という表現にこめられていたのは、言った方にとって、私がその人の思うようではなかったということです。 つまり頑固なのはその人の方のはず!!! 外国に行けば、私の頑固なんて、ホントかわいいもんですよ~。 外国で過ごしたり、日本以外の人とコミュニケーションをとることで目が開かれました! こういうような、「あなたは〇〇だね」という言い方をする人に時々会うことがあります。 客観的な表現をしているようでありながら、あるいは、冗談のような雰囲気をまといながら、実は他者を非難したり卑下したりするこのような発言の仕方には注意が必要! この発言は、プリズムの光ではなく、まるでレーザーのよう。グサッと入ってきて、プリズムの動きを止めてしまうパワーを持っています。 私はこのことに気付いて以来、この類いの言葉も、こういう発言をする人との関係も、自分の中に入れないようにしています。 一方で、言われてとても納得というか、うれしかった言葉を受け取ったことがありました。 「直感の人」という言葉です。 これを言われたとき、「うん、確かに!」と、ものすご~く納得したのですが、言葉がスッと私の中に入ってきたのは、そこに非難も評価も感じなかったからだと思います。 むしろ興味深い側面として見てくれた温かさがありました。私のプリズムの中で、当たってなかったところに光を当ててくれたのです。 この違いはなんでしょう? 私は、「温かさ」「愛」「優しさ」を感じられたかどうか、にあると思いま