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萌芽更新~修復と成長

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春を迎え、初心者ガーデナーである私は、作業がしたくてウズウズする季節です。 仕事や家庭の用事があると、どうしても庭仕事は後回しになってしてしまいますが、先日は思い切って時間を作りました。 作業のときはいつも無心になっていくので、心のモヤモヤしたものや疲れなどが、不思議と軽くなるのを感じます。 初心者なものですので、図書館で、たくさん庭づくりの本を借りました。 その一つにこんなことが書いてありました。木を切断した切り口の観察から生まれたモデル(CODIT)についてです。 「(CODITモデルを簡単に言うと)木は枯れたり腐り始めたところに、強力な壁を作って、健康な部分にまでその影響がおよぶのを防ぐってことなんだよ。木の防御本能ってすごいんだよ。」 『ポール・スミザーの剪定読本』ポール・スミザー著、講談社 人も、誰かや何かに心を傷つけられると、もう二度とこんな辛い思いで苦しまないように、心は警戒し、防御を働かせる機能があります。 はっきりと覚えているような大きな出来事だけでなく、小さな傷つきの積み重ねでも、この強力な防御の働きは生まれます。 傷みはつらく、苦しい。 生きていく最後の力を保っていくためには、その傷みの影響を小さくする必要があるかもしれません。防御は、そこで機能してくれているのです。 自分なりに獲得した防御が上手く機能し、心身の健康がある程度維持できているのであれば、それは「よい防御」であり、「必要な防御」でしょう。 切り取った枝の跡は残っても、木と一体化した特有の美しさがあるように。 枝を適切に切り取ることで、幹の生命力が増すように。 里山の管理に、「萌芽更新」という木々の再生方法があるそうです。 「広葉樹を伐採した翌年には、根株からびっしりと休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新である。また、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む。」(wikipediaより引用) 木は自らを防御しながら、いえ、防御することで、生命力を維持している。 こんな木を見ると、木の生命力、たくましさ、空に向かって伸びる若木のみずみずしさに、心が動かされます。 ロンドン南東部のサリー州に、イギリス国防省の医療リハビリテーション・センターがあり、復員兵士がPTSD治療を受けて

誰にも備わる「成長に向かう力」

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春。 昨冬に植えたプシュキニアの球根が芽を出しています。土から緑の芽がちょこっと顔を出したのを見て、じわーっとうれしい気持ちが広がります。 春は、こんなふうにあちこちで新芽を見る時間がうれしいです。 芽吹きの初めはたいていどれも、ごくわずかなものです。とても小さかったり、色もわかりにくかったり。 それを見つけたときは、「あー!やっぱり出てきた!」「出てきてくれてよかったー!」と思います。 写真の球根も、植えてから長い間ずっと土の中でした。でもやっぱりいました! 写真では大きく見えますが(アップで撮りました!)、小指の先ほどもない小さな芽です。 こんなふうな成長に向かう力、発展の力は、人にもあります。 この力は、子どもから青年期だけに留まるものではありません。誰にも、いつでも備わっているのです。 最近の脳神経科学では、脳は生涯を通じて、機能的、構造的な変化をし続けていることがわかっています。 このことを私はカウンセリングで実感しています。高齢者、後期高齢者の年齢にあたるクライエントさんも、感動的な変容を体験されているからです。 ですが、打ちひしがれていたり、自信がなくなっていたり、自己嫌悪に陥っていたり、不安で苦しんでいるときには、この「力」を自分で感じとることは簡単ではありません。 それは私自身にあてはめても感じることです。 植物は、適切な環境があれば、その植物自身の生命力が発揮されます。 土の中で時期を待っていた球根が、春の光を浴びて芽を出すように、 葉を落として枯れたように立つ木の枝先に、小さな柔らかい芽が突き出すように。 人も同じように、備わっている力が引き出されるには、「適切な環境」が必要です。 カウンセリングで行うのは、この「適切な環境」の中で、その人が持っている「力」を引き出し、感じてもらうことです。 「あきらめよりも成長を選ぶ力であり、停滞よりも変化を求める力であり、自己嫌悪よりも自己に対する肯定であり、孤独よりも人との結びつきを選ぶ力だったり、バイタリティあるエネルギーをもつ力」( 「感情を癒す実践メソッド」 花川ゆう子著、金剛出版) ※この力をAEDP™セラピーではトランスフォーマンスといい、これを見つけ育むことを重視します。 自分をよりよくしたい、よりよい自分でありたいと願う力。 「デカルトの誤り」などたくさんの著書がある、神経学者のアントニオ・

まだはっきりしていない感情に命をふきこむ

植木屋さんに、我が家の庭木の剪定に来てもらいました。 剪定って、枝をどうやって見てるんですか?と聞いたところ、 将来的な形をイメージし、それぞれの木の成長の特徴をふまえて、枝がこれからどうやって伸びるかを見て、それを邪魔しないように切ったり、成長を止めたい枝は止まるように切ったりする… というようなことを教えてくれました。 園芸の本に書かれている剪定の仕方は、下向きの枝は切るとか、込み入った枝は切るとか…。 そういう決まったルールとは違った視点のお話に、「なるほどー!」と思いつつ、これは難しい…とも思いました。 植木屋さんに来てもらう前、大雪の重みで傷んでしまいそうだったので、私が急遽枝切りしたのですが、どうしても適当に切っちゃってたのです。 その木の特徴。 そして、これから伸ばしたい枝は? そういう見極めや予測ができるのがプロなんだなぁと思いました。 カウンセリングでは、クライエントさんの心にあって、でもまだクライエントさんにはハッキリとは感じられていない感情やニーズを、私が感じることがあります。 クライエントさんとのやり取りを通じて、私に伝わってきて、そして、私自身の中にその感情やニーズが感じられてくるのです。 これは日常の中にもあることで、一緒に住んでいる人や、とても親しい人だと、どんなことを考えたり思っているかが、なんとなくわかる…ということはありませんか? あまり意識しないレベルで、相手の話し方や表情などを感じ取っていて。 そうやって私自身に感じ取られたクライエントさんの感情やニーズを私が言葉にすると、まだはっきりとは形になっていなかったものが、クライエントさん自身の心に現われたり、大きくなったり、はっきりしてきたりします。 クライエントさんから私に写されてきたものを、クライエントさんが私から写しとる、という相互のプロセスです。 写真の現像をゆっくりと交互に行っていっている、というイメージでしょうか。 そうすると、クライエントさんは、ぼんやりとしていた写真の画像が明らかになってきて、 つまり自分の感情やニーズがはっきりと感じられるようになってきて、 さらに先に進めていくことができます。 こんなふうに、クライエントさんの中にあって、現れるのを待っているその感情やニーズを引き出すような、後押しするような、そういうサポートをする場面がカウンセリングの中であります

「迷惑をかけてはいけません」の呪いを解く

「人に迷惑をかけないように。」 親や周囲の大人に言われてきたためか、こう思っている人は多いのではないでしょうか。 「迷惑」というのは、嫌な思いや不愉快な思いをすることを意味するので、「迷惑をかけない」というのは、人にそういう思いをさせないようにすることをさします。 ですが、「迷惑」という言葉のあいまいなところが拡大していって、そして「空気を読む」ということが相乗して、人をわずらわせてはいけないとか、負担をかけるべきではないとか、そして人の領域に踏み込むべきではないというようなニュアンスにまで広がっているように思います。 私は、これを「迷惑をかけてはいけませんの呪い」と命名したい。 呪いというのは強烈です。 呪いは他者(周囲)からかけられ、自分が呪いをかけられていることに気付きません。そうして苦しい状態が続いてしまいます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の背後にあるのは、我慢と頑張りを美徳とする価値観や社会ではないかと思います。 協調性が過度に求められ、差別、偏見、抑圧があちらこちらにある社会の中で、我慢させることはまるで空気のようにあって、頑張ることはどこでもいつでも求められています。 私が育ってきた中でもありましたが、娘の学校生活を通して、それがますます強くなっているのだと感じます。 これは、本当に、あまりにも大変すぎる。 本来の「迷惑」を越えた意味の広がりによって、「迷惑をかけてはいけませんの呪い」は孤立を生んでいます。 自分が抱える問題、困難、苦難を、人に頼ったり、助けてもらったりしてはいけない、すべきではないと考えてしまいます。 人に頼るのは、負担をかけてしまうかもしれないから。 それは自分の頑張りや我慢がまだ足りないから。 だから人に頼ったり助けてもらうようなことは恥である、と。 そしてますます、人に頼れず、助けてもらえず、孤独感が増していきます。 「迷惑をかけてはいけませんの呪い」の強烈さを実感したのが、先日発表された調査結果でした( 特定非営利活動法人『あなたのいばしょ』 が実施した「 コロナ下での人々の孤独に関する調査 」)。 対象者3000人の中で、40%の人が孤独を感じていて、そして若年層の孤独感が強かったのです。 この結果を見て、とても胸が痛かったです。コロナ下とはいえ、日本はこんなにも寂しく厳しい社会になっているのだということを、数字で実

カウンセラーとの相性って?

心理療法は驚くほど種類があって、私も、名称と概要しか知らない心理療法もあれば、新しいものだと名称も初めて聞くものもあります。 こんなにあふれるほどの数のなかから、自分のテーマ、自分自身に合うものを探すのは本当に難しいことだと思います。 また、カウンセラーとの相性という問題も言われます。 これも、どういうものかわかりにくい、つかみにくいものだろうと思います。 私自身は、約10年ぐらい、とあるセラピーを受けています。 私の場合は、解決すべき悩みや困難が、当時も今もあったわけではなかったので(悩みがない、という意味ではありませんよ~)、どちらかというと興味本位で始めたものです。ですので、週に1回などのような頻回ではなく、とてもゆったりしたペースでした。また新型コロナウィルスの蔓延で、この2年ほどはかなり間が空いていたり、という感じです。 このセラピーを始めたころの感想は、「ふーん…」。 「ふーん…」。 表現が乏しくてすみません…。 悪い感想ではありません!でも、すごく楽になるとか、視界が開かれるとか、そういう劇的な変化を感じていたわけではない、という意味です。 ところが、回を重ねるなかで、私になくてはならないものだと気づくようになりました。知らなかった自分に触れることが、こんなふうに癒されるのだと認識するようになったのです。 カウンセラーの先生との相性を感じ出したのもこのころでした。先生の言葉や存在があって、私が内側の自分に近づいていっていること、先生への安心感や信頼感が確かにあることに気づき、その気づきがまた、私を深いヒーリングへとつなげていっているのを感じます。 こんなふうに意識されるまで、比較的時間がかかったと思います。でもこれが、私らしい時間のかけ方だったのだと、今は思います。 思い返せば、最初から先生には「引っかかる感じ」がありませんでした。自然で楽な感じ。それが回を重ねるごとに、確かな安心感へと変化していました。 私が自分自身の人間関係を振り返ってみると、最初に「引っかかり」や距離感を感じなかった人と、結構時間をかけながらゆっくりじっくり関係をつくっていっている方かなと思うので、カウンセラーとも、そういうふうに関係をつくっていっているのだと思います。 私が辿っていったように、クライエントさんの、カウンセラーとの「相性」の見極め方も、クライエントさんそれぞれの流

「わたし」というプリズムを光らせる

私はこんな人物です、ということを表現しようとすると、自分にはたくさんの側面があることに気づきませんか? そのたくさんの側面は、プリズムのようで、当て方によって違って光る… でも、一つの方向からの光の印象が強烈に残り、動かずに心に残っていることもあります。 私にとっては、「頑固だ」という言葉です。 まぁ、確かに、私は「頑固」です(汗)。 これが、ネガティブな側面として私の中にずっとこびりついてきました。 これは自分で語ってきたものではなく、周囲から言われたものです。 その発言に良いニュアンスがないことは明らかで、私はそのニュアンスが自分そのものだとして引き受けてきていました。 でもそうじゃないんだ、と、気づきました。 私は自分の考えや意思がはっきりしているほうで、場合によっては柔軟性に乏しいところがあるのだと思います。 でも「頑固な人」という表現にこめられていたのは、言った方にとって、私がその人の思うようではなかったということです。 つまり頑固なのはその人の方のはず!!! 外国に行けば、私の頑固なんて、ホントかわいいもんですよ~。 外国で過ごしたり、日本以外の人とコミュニケーションをとることで目が開かれました! こういうような、「あなたは〇〇だね」という言い方をする人に時々会うことがあります。 客観的な表現をしているようでありながら、あるいは、冗談のような雰囲気をまといながら、実は他者を非難したり卑下したりするこのような発言の仕方には注意が必要! この発言は、プリズムの光ではなく、まるでレーザーのよう。グサッと入ってきて、プリズムの動きを止めてしまうパワーを持っています。 私はこのことに気付いて以来、この類いの言葉も、こういう発言をする人との関係も、自分の中に入れないようにしています。 一方で、言われてとても納得というか、うれしかった言葉を受け取ったことがありました。 「直感の人」という言葉です。 これを言われたとき、「うん、確かに!」と、ものすご~く納得したのですが、言葉がスッと私の中に入ってきたのは、そこに非難も評価も感じなかったからだと思います。 むしろ興味深い側面として見てくれた温かさがありました。私のプリズムの中で、当たってなかったところに光を当ててくれたのです。 この違いはなんでしょう? 私は、「温かさ」「愛」「優しさ」を感じられたかどうか、にあると思いま

感情を知る、自分だけの時間、自分のペース

私は子どもの頃、両親から、「何を考えているのかわからない」と時々言われていました。 どういう状況で、なぜそう言われたのか、そういうことはすっかり忘れてしまっているのですが、この言葉はずっと残っています。 言葉は、一度口から出たら、もう自分のものだけではなくなり、それを聞いている人のものにもなります。 そして一度出た言葉は、ずっと長く、ずっと遠くまで生き続けます。 その時の文脈を越えて、浸み込んだ人の心の中で遺っていきます。 私は子どもの頃、喜怒哀楽の表現があまりハッキリと出ないタイプでした。それで両親にそんなふうに言われてたのでしょう。 確かに、大喜びして飛び上がるとか、ワンワン泣くとか、大声で怒るとか、あまりそういう記憶はありません。 自分からどんどん話すほうでもなかったので、余計に、周りからは「何を考えているかわからない」と受け止められていたのかもしれないなと思います。 「何を考えているかわからない」と言われて覚えているのは、そう言われて、それこそどう応答したらいいかわからない気持ちになっていたことです。 考えや気持ちがない、と自分で思ったことはなかったのですが、それを言葉にし、口に出し、人に伝えるのが、あまりスムーズにできない感じは確かにありました。 これって、どんなふうに言えるのだろう。 どういうふうに伝えることができるのだろう。 そんなふうな、戸惑いのような感じが付きまとっていたなぁ、と思います。 以前に、 山は黙々と歩くのが好き、ということを書きました が、それと同じで、私は書く方が話すよりも気が楽だったのを覚えています。 ドラマ 「メイドの手帖」 の主人公アレックスは、DV被害を逃れて必死に自立しようとする中、書くことだけは続けてきていました。アレックスはDVシェルターの文章教室でこんなふうに言っています。 私は書くことで正直になれるし、自分の気持ちを知ることができる。 何を書きたいか知るために書くの。 真実は声に出すより紙に書く方が簡単だったの。 誰にも邪魔されないし、“お前が間違ってる”とは誰も言えない。 それはあなたが間違ってないからよ。 自分の言葉だもの。 クライエントさんの中には、「感情がわいてこない」「感情が感じられない」「どうやって気持ちを感じるのかわからない」と言う方が少なくありません。 でもそれは、感情がない、ということでは決してない

心に残る人

味噌の仕込みシーズン。 今年は例年よりちょっと早く仕込み終えました。 味噌づくりは一日仕事、体力仕事。味噌に限らず、「作業」はセラピューティックな性質を持っていますので、日常の中に、生活の中に、ときどき作業する時間を入れるのは役立つと思います。 味噌作りについては、大豆をつぶす、麹に塩を混ぜていく、材料全部をグイグイこねていく、そしてエイヤッと容器に叩きつける(空気を抜くためです)。こういう手ざわりや動きがなかなか良いのです。 こうやって作業している間に、ふと思い巡らせたり、考えたりしていました。 一つは、去年亡くなった人のことでした。 数年にわたる闘病が続いていて、長くお目にかかっていませんでしたが、ある日ふと、「どうされてるかな…」と思い出しました。その日に亡くなったのだと、後から聞きました。他にも同じような体験をした人がいて、どうやらいろんな人に挨拶して去っていったようです。 私はこの方と親しくしていたわけではないのですが、不思議と心に残っている人でした。 まだお元気だったころ、個人的に困ったことが起き、相談する人としてこの方が真っ先に浮かびました。同じ立場で、同じような経験をされてきているのは知っていましたが、それだけではなく、ちゃんと話を聞いてくれ、私に必要なことを言ってくれるだろうという信頼がありました。そして、その人の話が、本当に役立ち、助かりました。 難しいテーマだったのですが、自分なりに考えたことや、すべきことをできたと思えたのは、この時間のおかげでした。 この方のお話、真摯に対応してくれたこと、それが私の心にずっと残っているのです。 こういう人、こういう出逢いってありませんか。 親しい関係だったわけではないけれど、あるいは、人生のある一時であったにも関わらず、自分の中に確かに残っている記憶。 その時には大きく心を揺さぶられることではなかったのに、ずっと心に残る言葉や表情。 心のある位置にずっとあって、いつも思い出したり考えたりはしないけれど、静かに確かに存在する人。 心の中のその思い出にゆっくりと目を向けると、びっくりするぐらい大きくて、それが自分の支えの一つであったと気づくような。 そこには、その人と自分の、何か特別なつながりがあるのだと思います。 このつながりの感覚。 普段は感じないようなものでも、誰の心にもあるのではないか…と、クライエント

顔や姿を失った二つの物語~「青年期失顔症」の朝葉と姿が見えないムーミンのニンニ

TikTokで紹介した本がベストセラーになる「けんご」さんについての 新聞記事 で、けんごさんが「 青春ゲシュタルト崩壊 」(丸井とまと作)をおススメしていて、興味をもち読んでみました。この本は第5回野いちご大賞受賞作だそうです。 こんなお話です。 高校2年生の朝葉は、部活の人間関係のストレスが頂点になったとき、自分の顔が見えなくなる「青年期失顔症」になってしまう。朝葉はこれまでずっと、どんなことも頑張り、我慢し、飲み込んで生きてきました。周りの顔色をうかがい、嫌われないよう周りに合わせて。 「青年期失顔症」になったと知られることは、これまでの言動は本心ではなかったということが知られてしまうことになる。これまで必死に保とうとしてきた生活や人間関係が崩れることになるので、朝葉は必死に隠そうとします。 朝葉は、学校という「狭い水槽のなかで、溺れないように必死に泳いで生きて」いて、「同じであることが正しいって思い込んで、(噂話や悪口は毒だとわかってても)必要であれば食べてしまって」いたのです。 そんな中、「青年期失顔症」で倒れた朝葉を助けた同級生の聖と過ごすうちに、本当にやりたいことを見つけ、本当に言いたいことをきちんと言葉にする、ということが少しずつできるようになって――― ※「青年期失顔症」は小説の中の架空の病気で、実際はありません。 姿が見えなくなる、というお話で思い出すのは、ムーミンのニンニです。 一緒に暮らすおばさんの辛辣な言葉によって、ニンニの心はむしばまれ、自分に自信をなくし、心を閉ざしていきました。ニンニはそうして他の人から姿が見えなくなってしまったのです。 この二つのお話が違うところは、朝葉は自分が見えなくなる一方、ニンニは他の人から見えなくなる、というところです。 ニンニが透明になったのは、他の人から攻撃を受けてきたから。そして結果的に、透明になることは自分の身を守ることにもなっている。 朝葉が自分の顔が見えなくなったのは、周囲に合わせるあまり、自分を見失っていったから。 二つのお話に共通するところもあります。 それは、その人をそのまま受け止めそばにいてくれる存在がいたこと。その人との関係の中で、姿や顔が見えるようになってきたことです。 朝葉には聖。「…うれしいこともつらいことも、打ち明けられる相手がいるかどうかが重要なのよね」。 ニンニには愛情たっぷ

他者の怒りに直面したとき③

他者の「怒り」(攻撃)に直面したときどう対応するかの、2つ目の要素についてです。 2つ目は、「怒り」は関係性をつくるものであり、深めるものだという点です。 怒りは、信頼関係をつくるプロセスに大きな役割を果たしています。「怒り」の感情を処理していくプロセスは、信頼関係を感じたり、つくったりするプロセスそのものになります。 これは、二人の関係が良くなるというだけの意味ではありません。親密さや安心がより積み重なっていくこともあれば、適切な距離をとる方向に向かうこともあります。 ※ここで取り上げるのは、業務ではない関係性、つまり、家族や友人の場合を想定しているものです。職場の人間関係でも一定当てはまると思います。 他者が怒って攻撃的になっているとき、「怒るのはいいけれど、八つ当たりは受け入れられない」ということを伝え、それが伝わる場合は、このプロセスをスタートすることができます。 怒っていいんです。でも攻撃はダメ。 相手が拒否してさらに攻撃が増す場合は、あなたも拒否してその場を離れましょう。そうでないと、あなたも緊張が高まって、たいていの場合はお互いにしんどくなったり、危険な場合もあります。 そして大事なのはここから。 怒りは何かを主張しているので、「怒り」の主張に耳を傾けてあげる必要があります。「怒り」は、聞いてくれる誰かを必要とする感情です。 その「誰か」として、あなたが、その本人と一緒にその「怒り」に耳を傾けていくことが、二人の関係をつくり、深めていくことにつながります。 これは「怒り」(その人の主張)の言うとおりにするという意味ではありません。まずは言い分を聞こうじゃないか、というものです。 ですからこう伝えるのはどうでしょうか。「八つ当たりをせず、落ち着いて話せるなら、話を聞きます。」 とはいえ、相手はヒートアップしてます。 ですので、まずはこちらから。 一つは「自分で落ち着かせてから来て」。もう一つは、「落ち着くのに助けが必要なら、手伝います」。どっちがいいか選んで、と提案もできます。 後者は子どもには助かるし、必要だと思います。気持ちを落ち着かせるスキルをつけていくことができますから。方法としては コレモ などが参考になると思います。 こうやって攻撃を鎮め、「怒り」が、きちんとその主張を言える状態をつくります。 そうすると、「怒り」が求めていることがきちんと見