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「真実の他者」~AEDP™セラピーの選択と実践③

  「自分と周りの人との距離感をイメージしてみる」 のタイトルのブログ記事で、自分を中心にして、身近な人や周囲の人が、自分からどのくらいの距離感にいるかマッピングしてみる、というワークをご紹介しました。 自分にとって、大切かどうか、安心かどうか、信頼やつながりを感じられるかどうか、といった心理的な距離感を紙に落とし込んでみることで、自分を中心に他者との距離感を感じてみるというワークです。 今回のテーマは、このマップの中での、自分に最も近いところにいる人について。 私は、自分の最も近いところに、ある「まなざし」がある、と感じています。 (この日本語、ちょっと変ですね💦すみません。) 私のカウンセリングのアプローチであるAEDP™のトレーニングでの経験をお話します。 トレーニングは、小グループに分かれて、体験ワークを行います。 私は短期集中型のコースに参加していたので、5日間毎日同じメンバーでワークをしました。 あるワークのテーマは、「怒り」でした。 心理士の研修では、ワークを安全に進めるために、感情的に最大を10としたら、1~3ぐらいのものをテーマに選びます。 私が選んだのは、だいぶん前に経験したことで、「今なら相手にハッキリと言い返したい!」と思うようなことだったので、それを選びました。私にとってはごく小さい出来事です。 そして、セラピスト役の人に、その話をしました。すごく腹立たしい出来事だったけれど、その時はハッキリ言わなかったから、ちゃんと怒りを出してみたいんです、と。 私は彼女を見て話していたのですが、ある瞬間に、私をじっと見る瞳が私の目に飛び込んできました。 とても一生懸命、とても真剣に、とても私のことを思って、私の経験と気持ちをしっかりと受け止めて聞いてくれている、それがわかる目でした。 その瞳が目に飛び込んできた瞬間、私の目から、突然、わっと涙があふれたのです。 怒るのではなく。 ただ泣いていました。 そしてわかりました。 私はもちろん怒りをもっていたけれど、それだけでなく、それ以上に、その当時の私は、一人で立ち向かわなければならなかったことに、不安と孤独を感じていたのでした。 彼女は、その私と一緒にいてくれた。 彼女の眼差しが、それを伝えてくれていたのです。 この眼差しは、「真実の他者(True Other)」という体験でした。 彼女のまなざしが、私

「undo aloneness」~AEDP™セラピーの選択と実践②

私がAEDP™セラピーという心理療法でカウンセリングをしていきたいと思い、今も研鑽を続けているのはなぜか? AEDPの何が私を惹きつけ、心を打つのか? AEDPの何に共感しているのか? 私が感じた感動やよろこびを、クライエントさんも感じてくれているのではないか、と思えるのはなぜか? その前に、私が、社会人を経て心理職へ転職することになったきっかけの一つについて話したいと思います。 プロフィール に少し書いていますが、私は、転職して心理職になりました。 そのきっかけは、私の身近なところで起きたいくつかの出来事でした。 当時私は、若かったこともあるのでしょうが、すごく一生懸命でした。なんとか解決したいと思い、心を痛め、行動していました。 でも何よりもつらかったのは、理解されない感じ、腫れ物に触るように距離を置かれているような感じ、ひどい場合は、批判されているような態度。 疎外感と孤独感が続いていました。 起こってしまったことは、もうどうしようもない。けれど、その時に必要だったのは、私の話に耳を傾けてくれること。 そして、その人の、本当の声を聞かせてくれることでした。 心からの対話を必要としていたのです。 つらかったのは、起きた出来事だけでなく、その後、つながりをもてなかったこと、孤独な状態にいたことだったのだと、今はわかります。 実は初めのころ、混乱した気持ちの最中、私は相談機関にアクセスしました。しかしその対応は求めていることではなく、それどころか、ぞんざいな感じが伝わり、怒りも覚え、ヘルプを求めることをきっぱりとあきらめたのでした。 私が孤独感を感じ続けていたのは、この残念な経験からスタートしました。 しかしその後しばらくしてから、「とても大切なことだと思うので、話を聞かせてほしい」と言う人が現れました。 その人の目には、真摯さが感じられました。 話を始めていくと、他にも耳を傾けようとしてくれる人が現れました。 こうやって始まった対話は、それぞれの心の奥へと一歩踏み出し、深く触れる時間となりました。 話す私も、聞く人たちも、答えを求めているわけでも、答えを導こうとしたわけでもなかった。私も、その人たちの心の声を聞く役にも回りました。 ただ、それぞれの本心とともにいたのでした。 そうやって初めて、私は、悲しく苦しかった涙が癒されていったのを経験したのです。 この時の経

私の内なる「感覚」に結び付いているものを探して~AEDP™セラピーの選択と実践①

先週から、2週間に1回、冬休み期間をはさんで来年の5月まで、全部で13回の講座が始まりました。アメリカの東部時間で実施しているので、日本では夜の11時~2時(アメリカ冬時間のときは0時~3時)という、かなりきついスケジュールで、心身ともにムチうって参加することになりそうです。 これは、私がカウンセリングで行っている、AEDP™セラピーというセラピーの講座ですが、通常のセラピスト養成のためのトレーニング講座とは異なり、AEDPの理論や哲学を深めることが目的になっています。そのため、大量の文献購読が課されています。 私は実は、英語はそれほどたいしてできるわけではないのですが、そんなふうなのにこの講座に申し込んでしまっていて、自分の無謀さにあきれています…。 でもこれは今に始まったことではなく、思い起こせば記憶が残る幼少期からありましたし、このAEDPのトレーニングも、今までもすごい無謀なチャレンジをしてきました。 始まったばかりの講座の中で、AEDP™セラピーの創始者で、今回の講師でもあるダイアナ・フォーシャが、「なぜAEDP™セラピーを始めたのか」「AEDP™セラピーの何があなたを惹きつけたのか」「理論はあなたにとってどういうもので、どのように大切なのか」ということを問いかけています。 確かに、私は、自分でも不思議な感じがすることもあります。 私はなぜ、自分にとってハードルが高すぎるにも関わらず、こんなふうに挑戦しているんだろう? セッションをやっていてやりがいを感じることが大きいとはいえ、なぜこんなふうに自分の時間や力を一生懸命注ごうとしているんだろう?(英語がダメなので、人の何倍もかかりますから…) それについて、あまりハッキリした答えがあるわけではありません。 「ただ、やりたいから」。 ですが、ダイアナの問いかけを受けて、この1週間、いろいろなことを考え始めました。 そのことを、こうやってブログを書きながら、自分の中で整理してみようかなと思います。 心理カウンセリングには多様なアプローチがあるのですが、私は、そのうちの一つをしっかりと学び、身に付け、実践する、というようなやりかたをしてきませんでした。臨床現場で指導を受けながら、その指導者のアプローチをベースに、他にも研修で学んだことも自分なりに取り入れながらやってきました。これは、他の心理士の多くも同じだと思い

嫌な人と距離をとる

他者との距離感についてのテーマの3回目です。 自分が安全だと感じる状態、範囲の感覚についてが 1回目 。 2回目 は、周囲の人との位置関係のイメージをマッピングしてみました。 そしてそのマッピングの中で、「自分の安全圏をぶち破ってくる」にも関わらず、自分の世界に位置がある人の、その距離感についてどうするか、ということを最後に書きました。 その人と、一定の距離を保つことが可能ならば、ぜひそうしましょう! 「お付き合いしとかないといけないんじゃないか…」というような関係の場合でも、礼節を保った対応に留めておけばOKなんじゃないでしょうか? 笑顔で挨拶する。 お礼は言う。 軽い世間話程度は、円滑なコミュニケーションとして行う(やってもいいと思うとき&時間があるとき限定)。 このくらいでOKでは? それ以上のことを、この距離の人とする必要はないのではないでしょうか。 だって、そんな距離の人ですから! 「そうは言っても…」と、モヤモヤ感じたり、不安がムクムクと起きるようでしたら、それは、自分の中に、そういう不安感にまつわる、もともとのテーマがあると考えられます。 (それはカウンセリングで取り上げていくのに、よいテーマでしょう。) では、一定の距離を保つことが難しい人の場合。 自分にとって良いことはないとか、良いこともあるけど害が大きくて差し引きマイナスだと感じるのならば、 生きていく中で、今の状況で、「自分の安全圏をぶち破ってくる人」との関係に、もっとずっと距離をとる、あるいは、関係を完全に断つ(=あなたの世界からは出てもらう)ことは無理なのでしょうか? それはどんな人でしょう? 家族? 職場の人? 学校の同級生? 隣の家の人? ママ友? 作家の高橋源一郎さんは、「家族はたまたま一緒の船に乗り合わせたメンバーにすぎない。だから行先が変わったら、船を乗り換えたらいいんだ」ということをよく書いています。 もしかしたら、自分はもう、その人とは行先が異なっているかもしれません。 それなら、その人はもう自分の世界にはいなくてもいいのです。 そう思えたとき、その「船」から出るのは、相手ではありません。自分なのです。 そうするのは、悔しい気持ちになるかもしれないけれど。 自分が、船を出て、自分の船をつくったり見つけたりして、漕ぎ出さなければなりません。 カウンセリングで、自分を攻撃する相手

自分と周りの人との距離感をイメージしてみる

前回 、他者との距離感について、実際的に体験してみるワークをご紹介しました。 距離には、実際の物理的な位置関係と、心の中での距離感とがあります。 遠いところにいる人だと、心の中の距離感も、比較的遠くになりやすいでしょう。あんまり接点がないですから(とはいえ、ネットですぐにつながるので、そうとも言えなくなってきたところはあると思いますが)。 前回ご紹介したワークは、安全感を、身体で感じるというものでした。 今日は、心の中での感覚やイメージを取り上げます。 前回のブログの最後に、「実生活では、自分のこの安全な距離を失礼にもぶち破ってくる人と直面しなければならないことは多いかもしれません」と書きました。 そういうふうに感じることがよくあるなぁ…と思う場合、それはどんな相手でしょうか?そして、どんな場面で? まず、その相手は、自分にとってどういう人でしょうか。 これは、「私の親です」とか「私の友人です」みたいに、自分とその人の関係についてではありません。 自分にとって、その人はどういう存在なのか、という問いです。 ここでもう一つワークをご紹介したいと思います。 (※このワークは、一人では難しく感じることもあるので、その場合は、自分のために、ワークを進めないようにしましょう。そして、安心できる人やカウンセラーなどと一緒にやってみてください。) A4やB4ぐらいの紙を用意し、その真ん中に「私」と書きます。自分の名前を書いてもいいでしょう。 そして、中心の「私」の周りに、安全ラインの円を描きます。円の大きさは、あなたが感じる大きさや形で。 それから、まず親しい人を思い浮かべてみます。ペットや大事な本などでも、信仰があればそういうことでもOKです。 最初に浮かべた人(など)。それは自分にとってどのあたりにいる感じ? そしてその次に浮かんだ人。 こうやって、思い浮かぶ人を、順番にマッピングしていきます。自分にとっての、その人との距離感をイメージし、感じながら。 このマッピングは、自分の感覚やイメージに基づくものですから、どういう位置感覚や位置関係でもOKです。 いかがでしょうか。 日頃会うことがない人でも、ずっと心に残り、心に寄り添っている人がいるかもしれません。その人は、自分の「安全圏」の内側にマッピングされた感じでしょうか。あるいはすぐ近くとか。 逆に、毎日関わりがあるので、紙の

自分の距離感を知る

人間関係における距離感。 結構難しいことってあるんじゃないでしょうか。 相手と自分との感覚が違うとき。 その場で求められる(と思う)感覚と、自分の感覚が違うとき。 そうすると、 自分が我慢したり妥協したりして疲れてしまう... 違いが露わになると不穏な空気が漂ってしまう... 求められる距離感の圧力に苛立ちや怒りを感じる... 相手が近すぎて、恐怖感を感じる... 距離感については、まず初めに大切にしたいのが、自分にとって心地よい、大丈夫、耐えられる、などと感じられる距離がどのくらいか、ということへの注目です。 距離感は文字のとおり、物理的な距離によって感じる感覚からよくわかります。 体験的なワークをご紹介しましょう。どちらも比較的親しい人(たち)と行ってみてください(ワークなので、安全に進めるほうがよいですから)。 【やり方①】 比較的親しい人に前に立ってもらい、その人に正面から近づいてもらう。 ものすごくゆっくりと近づいてもらったり、足早に近づいてもらったりしてみてください。 その人はどの距離にいてもらうとよい感じがするか?少しずつ近づいてきたとき、どのあたりから「近い!」と感じるサインが生まれるか。 これは身体が感じているはずです。なんとなく緊張感がある、ドキドキする、モヤモヤするなどです。 これ以上はダメ、と思う距離感はどのあたりか。 これをお互いにやってみると、自分にとっての(その人との)距離感はどのくらいか、そして、自分はそれをどんなふうに感じているかを体験できます。 【やり方②】 二人以上で行います。 長いロープを用意します。それを自分の周りにぐるりと配置します。 ロープの中心に座ってみて、ロープの輪の大きさが自分にとってよい感じかどうか感じてみます。必要ならもっと大きく、あるいは小さく。 他の人は、それを穏やかに見ています。 自分がその輪の中に座り、ロープの外にいる人を見てみます。また、その輪の中にいることを感じてみます。 どちらのワークも、相手によって、距離感がかなり違うことがわかります。 カウンセリングのセッションでも、ある人(たいていはクライエントさんが苦手とする人)が、どのくらいの距離にいると大丈夫と感じられるか、ということをイメージしてみます。 カウンセリングをしているこの部屋の中にいてもOKか。部屋のドアの外ぐらい?建物の外?もっと遠く?

苦難の後の「成長」(ポスト・トラウマティック・グロース)

PTSDやトラウマという言葉は、かなり一般的になりました。 とても衝撃的な出来事を経験したり、それに触れたりするなどによって(トラウマ)、強いショックを受け、それが心身の不調などに現れることをいいます(PTSD)。 一方、「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」というのは、大きな心の傷を受けた後に、ストレス状態から回復し、さらに「成長」する、自分が成長したと感じられることをいいます。 死の危険にさらされるようなトラウマ体験に限らず、このような変容は起こります。 人生に起きる苦難、試練、逆境。 自ら望んだわけではありませんから、その苦しみ、痛みは非常に辛いものです。 しかしそこから、何かをつかんでいく人もたくさんいることを、私は臨床を続けているなかで、確かに見てきました。 例えば離婚。 自らが望まないなかでの離婚は、とても辛く苦しいことです。 同時に、相手への怒りがかきたてられたりもします。 複雑な気持ちを見ていくと、自分の両親との関係や、子どもの時に経験した、さまざまな心の傷が現れてくることもあります。 苦しくて辛い気持ちですが、その気持ちにもっと近づくことができていくと、自分自身や家族、これまでのこと、いろんなことを振り返って見ていけるようになることがあります。 「感謝」の気持ちは、その先から生まれてきていることが多いです。 辛さや哀しさがなくなっているわけではない。 でも同時に同じくらい、感謝の気持ちが生まれてくるのです。 それは、自分に起きた出来事を振り返ることができているなかで、わかったこと、見えたこと、感じたことがあって、 そうやってわかったことで、新しい自分になれているような感じが生まれています。 それが感謝だと。 「自分の人生を生きている」。そういう感じが伝わってきます。 「ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ。」 (「ゲド戦記Ⅲさいはての島へ」ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店) クライエントさんが「感謝」を感じているときの語りには、クライエントさんが、自分の人生に起きたことを受け入れ、それを自分のものにした力が伝わってきます。 私が、自分自身の経験からも、たくさんのクライエントさんとの出会いからも思うのは、辛い出来

「生きていくうえで大切なことは何だと思いますか?」

夏休み中に、中学生の「職業人インタビュー」を受ける機会がありました。臨床心理士に興味を持つ中学生二人です。 今は学校でキャリア教育があるので、こういうプログラムがあるんですね。 臨床心理士という仕事に興味を持ってくれて、とてもうれしかったです。 質問の一つに、「中学生のときは、将来どんな仕事をしたいと思っていたのですか?」というのがありました。 私が中学生の時は、こういう授業がなかったためかもしれませんが、将来何になりたいか、どんな仕事をしたいか、よくわかりませんでした。 何も考えられていなかったなーと思いました。 私は中学生のとき、特に後半、もどかしい苛立ちや無力感で苦しかったことを覚えています。 当時は、トラブルが重なったり、転校して気持ちがなかなか切り替えられなかったことが背景にあったのだろうと思います。 もう小さな子どもではなく、いろいろなことが見えてしまう。 でも、自分でできることがあまりにもなさすぎる。 そういう、思春期特有の苦しさだったと思います。 中学3年生の夏、どうしても以前住んでいた場所に行って、以前の友だちに会いたくなり、一人で長距離バスに乗って遊びに行きました。 その帰りのバスで、隣に座った壮年期ごろの男性に話しかけられました。 「中学生か~、一番いい時期だなぁ~。」 私は、「はい」とは言えないし、「いいえ」とも言えず、答えられずにいました。 大人にとってはそう見えるのかもしれない。でも私はこんなにたまらない気持ちの毎日を過ごしている。 彼とのやりとりで、抱えていた苦しさと孤独感をハッキリと自覚した出来事でした。 中学生の時にそういう私だったので、インタビュアーのお二人の準備の素晴らしさに感嘆でした。 お二人はとてもしっかりと準備をし、たくさんの質問を考えてきてくれていました。 私はてっきり、臨床心理士ってどんなお仕事ですか、とか、どんなふうに働きますかといった、具体的な質問を受けると思い込んでいたのですが、もちろんそういう質問はちゃんとありましたが、もっとずっと哲学的な質問がたくさんありました。 でも、それはそうですね。 「働く」って、「生きる」ということですよね。 だから、単なる職業選択ではなく、もっと深く考えるのは当然ですし、そういう哲学的な質問も当然のことでしょう。 お二人が、将来のこと、仕事のことを、じっくりと考えて準備したというこ

「THE INVITATION」~真実の自分を感じる

THE INVITATION という詩があります。 ずっと以前に発表され、インターネットを通じで広がり、日本語にも翻訳されています( 『ただ、それだけ』 オーリア・マウンテン・ドリーマー 、小沢瑞穂・訳、サンマーク出版/残念ながら品切れ重版未定です)。 私がこの詩に出会ったのは、大学院の授業でした。 カナダのトロント大学から招聘された先生の「スピリチュアル教育」の授業です。 先生が言う教育におけるスピリチュアリティとは、魂が動かされるようなこと、という意味。それが子どもの成長にとても大切なことなんだというテーマでした。 例えば、「このタイルを2段飛ばしであそこまで行きつく!」と決めて集中しているような瞬間(子どもアルアル)。 浜辺で光るガラスのかけらを見つけて大喜びし、大事に宝物箱にしまうとき(親にとってはゴミ~)。 そういう、子どもが熱中しているときの瞳のきらめき、それがスピリチュアリティだと。 その授業では、学生それぞれの「スピリチュアル」な体験をシェアし、それをみんなで味わうという、とても心が満たされる時間でした。 この感覚は、カウンセリングセッションの中でも大切にしている体験です。 深く心が動かされるような感情体験。 それは、身体中が感覚で満たされたり、突き動かされたりするような体験です。 THE INVITATIONの詩に戻りますが、作者のOriahさんは、その先生と同じトロントの方でした。しかも以前私が滞在したところからすぐ近くに事務所があったことを知りました。 この詩がずっと私の心に残っているのは、こういうつながりに感じるものがあったからかもしれません。 この詩のメッセージはダイレクトで、パワフルです。Oriahさんの、ネイティブアメリカンのシャーマニズムの体験からきているのだろうと思います。 あなたがどこで何を誰と学んできたかに興味はない 私が知りたいのは すべてが消え去ったとき あなたの内側から支えるものは何か (11パラグラフ目より) 私は、このパワフルさにひるんでしまいそうになる一方、仲間がいるんだ、というような気持にもなります。こんなふうに思うのは、とても勇気がいることであり、孤独な気持ちにもなる。でも、遠くで、こういう人がいるんだ、というような気持ち。 この詩が、インターネットを通じで、たくさんの言語に翻訳されて世界中に広まったのは、こんな

「恥」は自尊心との合わせ鏡

「恥」の感情について思い出すエピソードがあります。 娘のトイレトレーニングを本格的に始めたのが2歳の誕生日のころでした。夏生まれの子なので、スタートするのにちょうどよい季節だと思ったのです。 オムツもパンツも取ってみる(要するにほぼ裸)、トイレトレパンツ(分厚く布が重ねられたトレーニング用パンツ)をつけてみる、あるいは、オムツをつける(うちは就寝時以外はオムツも布でした)、いろいろな時間を過ごしていました。 オムツのときは、布ですからオシッコで濡れたのはわかるはずなんですが、「オシッコ出たー」とすぐ言わないことがほとんどでした。 特に遊びに夢中のとき。気持ち悪いだろうと思うんですが、子どものあの遊びへの集中力はすごいです。まさに全集中。 でもトイレトレパンツのときはすぐに言いに来ていました。オムツじゃなくてパンツをはいてるんだというのはちょっと誇らしいことのようでしたし、「オシッコに気を付けないといけないんだ!」と自分でも思っていたようでした。 他の人がいるときに「漏れちゃった」と自分で気づいたときは、バツが悪いような、恥ずかしそうな様子をしていました。なので、ササッと別の場所にいって、パパッと着替えました。 「恥」の気持ちって、こんな小さいときに、こんなふうに現れるんだと思ったのをよく覚えています。 保育所のベテラン先生も、「そういう時は大勢がいる前で『漏れた』と言ったり、着替えを強行しないほうがいいのよ」、と言っていました。もう「恥ずかしい」って気持ちがあるんだから、と。周りの大人は、子どもが示す「恥ずかしい」という様子を、しっかりとキャッチしてあげないといけないと話していました。 さらに成長してくると、「恥」はもっとはっきりしてきます。知らない人の前であいさつできずに、もじもじしたり、後ろに隠れたりする。 いつも元気いっぱいなのに、発表会では急に固まって後ろの壁にへばりついている。 だんだん、不安感や緊張感と合わさって現れてきているようです。 こういう態度の方が実は「恥ずかしい」ことだとみなされますが、小さいころは、そしてその後もしばらくは、自分の中の恥の感覚でいっぱいいっぱいになって、それがどう「見られることなのか」という他者からの評価まで追いつかない様子です。 そして、その評価に合わせて、あるいは、自分自身をしっかり感じながら、状況の中で自分を調整すること