投稿

自分と周りの人との距離感をイメージしてみる

前回 、他者との距離感について、実際的に体験してみるワークをご紹介しました。 距離には、実際の物理的な位置関係と、心の中での距離感とがあります。 遠いところにいる人だと、心の中の距離感も、比較的遠くになりやすいでしょう。あんまり接点がないですから(とはいえ、ネットですぐにつながるので、そうとも言えなくなってきたところはあると思いますが)。 前回ご紹介したワークは、安全感を、身体で感じるというものでした。 今日は、心の中での感覚やイメージを取り上げます。 前回のブログの最後に、「実生活では、自分のこの安全な距離を失礼にもぶち破ってくる人と直面しなければならないことは多いかもしれません」と書きました。 そういうふうに感じることがよくあるなぁ…と思う場合、それはどんな相手でしょうか?そして、どんな場面で? まず、その相手は、自分にとってどういう人でしょうか。 これは、「私の親です」とか「私の友人です」みたいに、自分とその人の関係についてではありません。 自分にとって、その人はどういう存在なのか、という問いです。 ここでもう一つワークをご紹介したいと思います。 (※このワークは、一人では難しく感じることもあるので、その場合は、自分のために、ワークを進めないようにしましょう。そして、安心できる人やカウンセラーなどと一緒にやってみてください。) A4やB4ぐらいの紙を用意し、その真ん中に「私」と書きます。自分の名前を書いてもいいでしょう。 そして、中心の「私」の周りに、安全ラインの円を描きます。円の大きさは、あなたが感じる大きさや形で。 それから、まず親しい人を思い浮かべてみます。ペットや大事な本などでも、信仰があればそういうことでもOKです。 最初に浮かべた人(など)。それは自分にとってどのあたりにいる感じ? そしてその次に浮かんだ人。 こうやって、思い浮かぶ人を、順番にマッピングしていきます。自分にとっての、その人との距離感をイメージし、感じながら。 このマッピングは、自分の感覚やイメージに基づくものですから、どういう位置感覚や位置関係でもOKです。 いかがでしょうか。 日頃会うことがない人でも、ずっと心に残り、心に寄り添っている人がいるかもしれません。その人は、自分の「安全圏」の内側にマッピングされた感じでしょうか。あるいはすぐ近くとか。 逆に、毎日関わりがあるので、紙の

自分の距離感を知る

人間関係における距離感。 結構難しいことってあるんじゃないでしょうか。 相手と自分との感覚が違うとき。 その場で求められる(と思う)感覚と、自分の感覚が違うとき。 そうすると、 自分が我慢したり妥協したりして疲れてしまう... 違いが露わになると不穏な空気が漂ってしまう... 求められる距離感の圧力に苛立ちや怒りを感じる... 相手が近すぎて、恐怖感を感じる... 距離感については、まず初めに大切にしたいのが、自分にとって心地よい、大丈夫、耐えられる、などと感じられる距離がどのくらいか、ということへの注目です。 距離感は文字のとおり、物理的な距離によって感じる感覚からよくわかります。 体験的なワークをご紹介しましょう。どちらも比較的親しい人(たち)と行ってみてください(ワークなので、安全に進めるほうがよいですから)。 【やり方①】 比較的親しい人に前に立ってもらい、その人に正面から近づいてもらう。 ものすごくゆっくりと近づいてもらったり、足早に近づいてもらったりしてみてください。 その人はどの距離にいてもらうとよい感じがするか?少しずつ近づいてきたとき、どのあたりから「近い!」と感じるサインが生まれるか。 これは身体が感じているはずです。なんとなく緊張感がある、ドキドキする、モヤモヤするなどです。 これ以上はダメ、と思う距離感はどのあたりか。 これをお互いにやってみると、自分にとっての(その人との)距離感はどのくらいか、そして、自分はそれをどんなふうに感じているかを体験できます。 【やり方②】 二人以上で行います。 長いロープを用意します。それを自分の周りにぐるりと配置します。 ロープの中心に座ってみて、ロープの輪の大きさが自分にとってよい感じかどうか感じてみます。必要ならもっと大きく、あるいは小さく。 他の人は、それを穏やかに見ています。 自分がその輪の中に座り、ロープの外にいる人を見てみます。また、その輪の中にいることを感じてみます。 どちらのワークも、相手によって、距離感がかなり違うことがわかります。 カウンセリングのセッションでも、ある人(たいていはクライエントさんが苦手とする人)が、どのくらいの距離にいると大丈夫と感じられるか、ということをイメージしてみます。 カウンセリングをしているこの部屋の中にいてもOKか。部屋のドアの外ぐらい?建物の外?もっと遠く?

苦難の後の「成長」(ポスト・トラウマティック・グロース)

PTSDやトラウマという言葉は、かなり一般的になりました。 とても衝撃的な出来事を経験したり、それに触れたりするなどによって(トラウマ)、強いショックを受け、それが心身の不調などに現れることをいいます(PTSD)。 一方、「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」というのは、大きな心の傷を受けた後に、ストレス状態から回復し、さらに「成長」する、自分が成長したと感じられることをいいます。 死の危険にさらされるようなトラウマ体験に限らず、このような変容は起こります。 人生に起きる苦難、試練、逆境。 自ら望んだわけではありませんから、その苦しみ、痛みは非常に辛いものです。 しかしそこから、何かをつかんでいく人もたくさんいることを、私は臨床を続けているなかで、確かに見てきました。 例えば離婚。 自らが望まないなかでの離婚は、とても辛く苦しいことです。 同時に、相手への怒りがかきたてられたりもします。 複雑な気持ちを見ていくと、自分の両親との関係や、子どもの時に経験した、さまざまな心の傷が現れてくることもあります。 苦しくて辛い気持ちですが、その気持ちにもっと近づくことができていくと、自分自身や家族、これまでのこと、いろんなことを振り返って見ていけるようになることがあります。 「感謝」の気持ちは、その先から生まれてきていることが多いです。 辛さや哀しさがなくなっているわけではない。 でも同時に同じくらい、感謝の気持ちが生まれてくるのです。 それは、自分に起きた出来事を振り返ることができているなかで、わかったこと、見えたこと、感じたことがあって、 そうやってわかったことで、新しい自分になれているような感じが生まれています。 それが感謝だと。 「自分の人生を生きている」。そういう感じが伝わってきます。 「ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ。」 (「ゲド戦記Ⅲさいはての島へ」ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店) クライエントさんが「感謝」を感じているときの語りには、クライエントさんが、自分の人生に起きたことを受け入れ、それを自分のものにした力が伝わってきます。 私が、自分自身の経験からも、たくさんのクライエントさんとの出会いからも思うのは、辛い出来

「生きていくうえで大切なことは何だと思いますか?」

夏休み中に、中学生の「職業人インタビュー」を受ける機会がありました。臨床心理士に興味を持つ中学生二人です。 今は学校でキャリア教育があるので、こういうプログラムがあるんですね。 臨床心理士という仕事に興味を持ってくれて、とてもうれしかったです。 質問の一つに、「中学生のときは、将来どんな仕事をしたいと思っていたのですか?」というのがありました。 私が中学生の時は、こういう授業がなかったためかもしれませんが、将来何になりたいか、どんな仕事をしたいか、よくわかりませんでした。 何も考えられていなかったなーと思いました。 私は中学生のとき、特に後半、もどかしい苛立ちや無力感で苦しかったことを覚えています。 当時は、トラブルが重なったり、転校して気持ちがなかなか切り替えられなかったことが背景にあったのだろうと思います。 もう小さな子どもではなく、いろいろなことが見えてしまう。 でも、自分でできることがあまりにもなさすぎる。 そういう、思春期特有の苦しさだったと思います。 中学3年生の夏、どうしても以前住んでいた場所に行って、以前の友だちに会いたくなり、一人で長距離バスに乗って遊びに行きました。 その帰りのバスで、隣に座った壮年期ごろの男性に話しかけられました。 「中学生か~、一番いい時期だなぁ~。」 私は、「はい」とは言えないし、「いいえ」とも言えず、答えられずにいました。 大人にとってはそう見えるのかもしれない。でも私はこんなにたまらない気持ちの毎日を過ごしている。 彼とのやりとりで、抱えていた苦しさと孤独感をハッキリと自覚した出来事でした。 中学生の時にそういう私だったので、インタビュアーのお二人の準備の素晴らしさに感嘆でした。 お二人はとてもしっかりと準備をし、たくさんの質問を考えてきてくれていました。 私はてっきり、臨床心理士ってどんなお仕事ですか、とか、どんなふうに働きますかといった、具体的な質問を受けると思い込んでいたのですが、もちろんそういう質問はちゃんとありましたが、もっとずっと哲学的な質問がたくさんありました。 でも、それはそうですね。 「働く」って、「生きる」ということですよね。 だから、単なる職業選択ではなく、もっと深く考えるのは当然ですし、そういう哲学的な質問も当然のことでしょう。 お二人が、将来のこと、仕事のことを、じっくりと考えて準備したというこ

「THE INVITATION」~真実の自分を感じる

THE INVITATION という詩があります。 ずっと以前に発表され、インターネットを通じで広がり、日本語にも翻訳されています( 『ただ、それだけ』 オーリア・マウンテン・ドリーマー 、小沢瑞穂・訳、サンマーク出版/残念ながら品切れ重版未定です)。 私がこの詩に出会ったのは、大学院の授業でした。 カナダのトロント大学から招聘された先生の「スピリチュアル教育」の授業です。 先生が言う教育におけるスピリチュアリティとは、魂が動かされるようなこと、という意味。それが子どもの成長にとても大切なことなんだというテーマでした。 例えば、「このタイルを2段飛ばしであそこまで行きつく!」と決めて集中しているような瞬間(子どもアルアル)。 浜辺で光るガラスのかけらを見つけて大喜びし、大事に宝物箱にしまうとき(親にとってはゴミ~)。 そういう、子どもが熱中しているときの瞳のきらめき、それがスピリチュアリティだと。 その授業では、学生それぞれの「スピリチュアル」な体験をシェアし、それをみんなで味わうという、とても心が満たされる時間でした。 この感覚は、カウンセリングセッションの中でも大切にしている体験です。 深く心が動かされるような感情体験。 それは、身体中が感覚で満たされたり、突き動かされたりするような体験です。 THE INVITATIONの詩に戻りますが、作者のOriahさんは、その先生と同じトロントの方でした。しかも以前私が滞在したところからすぐ近くに事務所があったことを知りました。 この詩がずっと私の心に残っているのは、こういうつながりに感じるものがあったからかもしれません。 この詩のメッセージはダイレクトで、パワフルです。Oriahさんの、ネイティブアメリカンのシャーマニズムの体験からきているのだろうと思います。 あなたがどこで何を誰と学んできたかに興味はない 私が知りたいのは すべてが消え去ったとき あなたの内側から支えるものは何か (11パラグラフ目より) 私は、このパワフルさにひるんでしまいそうになる一方、仲間がいるんだ、というような気持にもなります。こんなふうに思うのは、とても勇気がいることであり、孤独な気持ちにもなる。でも、遠くで、こういう人がいるんだ、というような気持ち。 この詩が、インターネットを通じで、たくさんの言語に翻訳されて世界中に広まったのは、こんな

「恥」は自尊心との合わせ鏡

「恥」の感情について思い出すエピソードがあります。 娘のトイレトレーニングを本格的に始めたのが2歳の誕生日のころでした。夏生まれの子なので、スタートするのにちょうどよい季節だと思ったのです。 オムツもパンツも取ってみる(要するにほぼ裸)、トイレトレパンツ(分厚く布が重ねられたトレーニング用パンツ)をつけてみる、あるいは、オムツをつける(うちは就寝時以外はオムツも布でした)、いろいろな時間を過ごしていました。 オムツのときは、布ですからオシッコで濡れたのはわかるはずなんですが、「オシッコ出たー」とすぐ言わないことがほとんどでした。 特に遊びに夢中のとき。気持ち悪いだろうと思うんですが、子どものあの遊びへの集中力はすごいです。まさに全集中。 でもトイレトレパンツのときはすぐに言いに来ていました。オムツじゃなくてパンツをはいてるんだというのはちょっと誇らしいことのようでしたし、「オシッコに気を付けないといけないんだ!」と自分でも思っていたようでした。 他の人がいるときに「漏れちゃった」と自分で気づいたときは、バツが悪いような、恥ずかしそうな様子をしていました。なので、ササッと別の場所にいって、パパッと着替えました。 「恥」の気持ちって、こんな小さいときに、こんなふうに現れるんだと思ったのをよく覚えています。 保育所のベテラン先生も、「そういう時は大勢がいる前で『漏れた』と言ったり、着替えを強行しないほうがいいのよ」、と言っていました。もう「恥ずかしい」って気持ちがあるんだから、と。周りの大人は、子どもが示す「恥ずかしい」という様子を、しっかりとキャッチしてあげないといけないと話していました。 さらに成長してくると、「恥」はもっとはっきりしてきます。知らない人の前であいさつできずに、もじもじしたり、後ろに隠れたりする。 いつも元気いっぱいなのに、発表会では急に固まって後ろの壁にへばりついている。 だんだん、不安感や緊張感と合わさって現れてきているようです。 こういう態度の方が実は「恥ずかしい」ことだとみなされますが、小さいころは、そしてその後もしばらくは、自分の中の恥の感覚でいっぱいいっぱいになって、それがどう「見られることなのか」という他者からの評価まで追いつかない様子です。 そして、その評価に合わせて、あるいは、自分自身をしっかり感じながら、状況の中で自分を調整すること

親に対する罪悪感の苦しみ

  「親を捨ててもいいですか」のタイトルのブログ の終わりに書いた、罪悪感についてもう少し書いてみます。 このテーマ、ウェブ上でたくさん取り上げられています。 親子問題がテーマ(たいていは母と自分の関係)のカウンセリングの中で語られる罪悪感は、自分が親を満足させられない、親を大切にできない、ということからくるものです。 ところで、そもそも「罪悪感」は、文字通り、自分が行った罪や悪行に対する感情で、自分が悪かった、自分は良くなかったと思うときに感じる感情です。また、自分が十分しなかった、できなかったと考えるときにも罪悪感は生まれます。 罪悪感は、自分が自分を責める感情です。 すると、そもそも「罪」とは何か?というテーマがあります。 罪は、さまざまな側面があります。 法的、社会的、宗教的、慣習的など…。 でもカウンセリングで語られる罪悪感は、ちょっと違うように思います。 クライエントさんが感じている「罪」は、親(または「世間」)が罪だと見なすものですが、その「罪」を「犯させる」原因が親の側にあるということです。 クライエントさんにとっては、親を避けたい、親が嫌だと思うほど、親の言動が辛いのですから。 親は、クライエントさんにこういうことを繰り返し言っています。 「親にそんなひどいことを言う(する)なんて!」 「なんでちゃんと連絡くれないの!」 「私は一人でこんなに寂しいのに」 クライエントさんの罪悪感が完全に消える唯一の方法が、親が子ども(クライエントさん)に感謝したり、「あなたは十分」だと認めることですが、これは残念ながら叶わぬ幻想であることが多いです。 カウンセリングをしていくと、クライエントさんは、自分がそこまで悪いわけではないとか、自分はそこそこ十分頑張っていると思えるようになります。 しかしクライエントさんにとって苦しく難しいのが、それを心から完全には思えないこと。親が自分に無関係な存在ではないからです。 親と、また親が出すメッセージと、完全に境界をとることが、とても難しい。 ある程度はできるようになります。あまり会わないようにする、連絡を控える、一人で会わないなど。 でもそれだけでは、罪の感覚から100%解放されることはありません。 そのことを突き詰めていくと、いろいろな感情があります。 親が、私のことを大切に思ってくれていない、私の気持ちを考えようとしてく

「親を捨ててもいいですか」

 少し前ですが、NHK「クローズアップ現代+」で、 「親を捨ててもいいですか? 虐待・束縛をこえて」 という放送がありました(2021年5月6日放送)。 コメンテーターとして、臨床心理士の信田さよ子さんが出演されていました。 「親を捨ててもいいですか?」というタイトルには、大人になった子どもの、親に対する「責任」を前提としているニュアンスが伺えます。 信田さよ子さんは、「 母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き 」で、母の呪縛に苦しむ娘を取り上げました。 それは、私がカウンセリングで出会うたくさんのクライエントさんたちの苦しみと同じ物語でした。 それが十数年前。 母と娘の関係における苦しみは、それよりも前から、フェミニズムの中で明らかにされてきたものです。 そうなのです。このテーマは、もう何十年も前から臨床の中で扱われてきているのです。 娘が母から受けている苦しみは、さまざまです。 呪縛、コントロール、抑圧、攻撃、冷淡や無視。 カウンセリングに来るクライエントさんはみんな、そんな母の期待や要求に何とか応えようと一生懸命です。 でもどれだけ頑張っても、決して認めてもらったり、受け止めてもらったり、感謝してもらったりということがない。 その繰り返しに疲れて、要求の強い母から頑張って距離を取るようにしても、完全に距離を取ったり(縁を切るとか)、邪険にしたりできず、押し寄せるパワーに崩れまいと、必死に壁を支えているような気持ちでいる人が多くいます。 同時に、こんなふうに距離を取ってしまっていることへの根深い罪悪感にさいなまれ、苦しんでもいます。 親を捨てたい。離れたい。 でも離れることへの罪悪感が襲う。 信田さよ子さんは番組の中でこんなふうに言っておられました。 『聞く人が聞いたら不愉快でしょうけど、私は「親を捨てたい」と言わなきゃいけないところまで追い詰められてる人のことを思うと、本当に心が痛む。だからもし、私がカウンセラーとしてそういうことを聞いたら「いいんじゃないですか」、「親に対してNOって言うこともOKですよ」と言ってあげたいです。 誰もそういうふうに言ってくれないから。「親を捨てたい」、「いいですよ」なんて言ってくれないわけですから。カウンセラーぐらいは言ってあげてもいいんじゃないかと思います。』 私も信田さんの言葉に同感・同意します。 そう言わたら、どれだけホッと

ずっと深い土の中にある種、それはあなた

イメージ
私は車を運転しているときにラジオを楽しんでるんですが、 昨日、ベット・ミドラーの「ローズ」が流れてきました。 何回聞いてもいい歌だな…と思います。 初めて聞いたのは、ずっと以前、ラジオの英会話講座でした。 とても感動して、そのページは切り抜き、お守りのようにずっと手帳に挟んでいました。 歌の後半にこんな歌詞があります。 Just remember in the winter Far beneath the bitter snows Lies the seed that with the sun's love In the spring becomes the rose 【日本語訳】 思い出して。 冬、凍えるような雪のずっと下に種はあって、 太陽の愛を浴び、春には薔薇が咲くということを。 人からの攻撃や批判、無視、圧力などをたくさん受けてきた人は、それに苦しむだけでなく、その批判などを自分の中にも取り込んでいて、自分自身を責めるようになります。 DVや虐待、いじめなどを経験すると、自分自身を「価値がない」とか「不十分だ」とか、「私が悪い」というように、自分を傷つけるような思いを持つようになってしまうことはあるのです。 それでもその中で、クライエントさんの内側にある「力」が感じられることがあります。 そういうときは、私は、その力に注目したくなります。 その力は、この歌と同じ。 凍えるような雪のずっと下にある種。 セッションの中では、その「種」にもっと注目したいと思います。 その種は息吹き、芽を出し、根を張り、美しい花や、大きな緑の木へと成長するもの。 私もこの歌に支えられてきたなと思います。 たくさんの人がカバーしていますが、日本語訳の字幕がある動画をリンクします。 あなたの中の種を、感じてほしいと願いながら。 (広告が出たら、隅の「☓」をクリックしてくださいね。広告が消えて、字幕を見ることができます。)

どこでもいい、逃げる場所があるなら、そこへ逃げよう

西原理恵子さんが連載している「りえさん手帖」第196回(毎日新聞2021年7月26日朝刊)に、こういうコマがありました。 「小学校の休み時間は(意地悪の)標的にされないようにいつも図書室に逃げてた。 たくさんの絵本が私を救ってくれた」 ※括弧内は私が補足したものです。 2020東京オリンピック開会式のドタバタの中で、いじめ問題がありました。そのいじめ行為の中に、図書室ですごす子どもを揶揄する表現があり、とても胸が痛んでいました。 私も、図書室を心のよりどころにしていた時期があったからです。 西原理恵子さんのマンガは、そのすぐ後に掲載されていました。 大人になって、今、はっきりと思うし、断言できるのは、 「そこがまだ少しでも安全だと感じられるなら、そこに逃げていい!」 図書館でも。保健室でも。校庭の片隅でも。 それは、自分が自分のために、自分を少しでも守るためにとっている行動。 「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」 (『西の魔女が死んだ』梨木果歩、新潮文庫) いじめられた経験がある人は少なくないと思います。 カウンセリングのなかでも、過去のいじめ体験のお話が出ることがあります。 話しているなかで、それが今のクライエントさんに影響していることも浮かび上がってきます。 カウンセリングの中では、その過去の体験についてのワークをすることがあります。 ワークで大切なのは、 その時は、助けがなかったり、 一人だったり、 何もできずに耐えるしかなかったり、 そういう出来事だったかもしれない。 でも、カウンセリングの中では、今、ここでは、その痛みを抱えているクライエントさんを一人にはしない。 そうやって、痛みだけの記憶を、違うものに書きかえる、というワークができます。 過去を変えることはできない。 でも、苦しんでいる今の自分を変えることは、不可能ではない。 それが、カウンセリングで、カウンセラーと一緒におこなうものです。