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身体の症状と付き合う

少し前に、とうとう新型コロナウィルスにかかってしまいました。 発熱と独特のしんどさが過ぎ、症状がようやく治まって回復した後、就寝中に、言葉では表現できない「妙」な感覚で何度も目が覚めてしまうという後遺症状?が出ました。 震えのような、身体がモヤモヤしたような、とても不快で耐え難い感覚。 寝たいし、この感覚は不快だしで、身体に緊張感が走ります。 何とかなくならないか…と思うわけです。 それで身体を動かしたり、さすったり。 でもふと、この「妙な感覚」に主導権をあげてみよう、という思いが出てきました。 あんまりにも妙なので、「この感覚は何がしたいんだろう?」というようなことを思ったわけです。 主導権を渡すというのは、実は結構難しいです。 自分に力が入っているのはわかりますし、どうしても「妙な感覚」のほうを追いやりたくなるので、入っている力を抜くことができません。 ですので、入っている力もそのまま、また「妙な感覚」もそのままにしてあげるよう意識を向けました。 「私が何とかしよう」というような意識ではなく、「妙な感覚」の微細な動きに興味をもって注目するような感じです。 「妙な感覚」とそれに抗いたくなる力とが拮抗している間がちょっと苦しかったのですが、その拮抗の山を越えると、「妙な感覚」がそのままでいる感じがしてきました。 そうすると、「妙な感覚」は不思議と自由になり、私の身体を通って抜けていき、スーッとなくなるのです。 「妙な感覚」は、その後数日続きましたが、コツをつかんだので、毎回拮抗の山を越えるまでちょっと四苦八苦しながらも、「妙な感覚」が自由に動けるようにするよう意識を向けました。 そのたびに、「妙な感覚」はスーッと通り抜けて行っていました。 ここで書いたことは、身体症状に対する対応や治療というような対処法的なことではなく、むしろその逆です。 ・興味を持つ ・その感覚や部分の好きにしてもらう/したいようにしてもらう ・その感覚や部分と一緒にいる どちらかというと受動的であるがまま。 このような自分のありかたは、心理療法で心にアプローチするときと同じです。 心理療法は身体症状を治療するものではありませんが、身体症状と自分との「付き合い方」へ取り組むことができます。 上に書いた「妙な感覚」を、「辛い気持ち」「怒り」「深い悲しみ」などに置き換えてみてもらうと、「付き合い方」は...

よい感覚に留まる30秒

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カウンセリングセッションの中では、さまざまな感覚や感情が起きます(そのように進めていく心理療法のスタイルで行っています)。 カウンセリングに来られる方は、辛い気持ちや苦しい気持ちがあって、それを何とかしようとアクセスされるので、そういう「ネガティブ」なほうの気持ちは、比較的すぐに現れてきやすいのですが、 私が行っているアプローチでは、「ポジティブ」なほうの気持ちも同じくらい、 いえ、むしろ積極的に重視します。 ポジティブな気持ちとは、 満たされている感覚 誇らしさや自信、力強さ あたたかさや優しい感じ 大丈夫!とかホッとする安心感 これでいいのだと肯定する気持ち パワーやエネルギーの感覚 などがあります。 このようなポジティブな気持ちが現れてきたときはビッグチャンス! 私は逃しません(笑)。 その「よい」感覚や気持ちを味わったり、ただそのまま体験することを提案します。 「よい」感覚や気持ちは、必ず私たちの力の源になるからです。 この源をしっかりつくることや、力をいつでも感じたり使ったりすることで、「ネガティブ」なほうの気持ちも、より対処しやすくなっていきます。 また、良いものも良くないものも、全て自分の中で大切にしたり、自分のものとして統合していくことへつながっていきます。 ところが、ポジティブな感覚や気持ちを存分に味わうことが苦手な方は少なくありません。 良い感覚・気持ちをそのまま感じてみてください、と伝えると すぐに不安がもたげてきたり、いろいろな考えが頭に浮かんできたりして、 良い感覚・気持ちがあっという間にどこかへ行ってしまうということはよくあることです。 それは、慣れていないから。 あまり知らない感覚や気持ちが起きると、たとえそれが良いものであっても、「いつもの自分の状態ではない」ということが不安を引き起こすのです。 そして「いつもの自分の状態」に戻すように、身体や心が反応していきます。 それで、セッションでは「30秒味わってみませんか」と提案します。 たった30秒! でも、ちょっと数えてみてください。意外と長いんですよ~。 慣れていないと、30秒は長すぎて苦痛になったりします。 そういうときは10秒から。 そうして少しずつ慣れていって、30秒どころか、「良い感覚や気持ち」が満足するまで、「良い感覚や気持ち」が自然に進んでいくままに、好きなだけたっぷり味わ...

カウンセリングの頻度②

以前にも 同じテーマでブログ を書きましたが、頻度や回数について追記します。 前回のブログで書いたのは、頻度や回数について特に希望がない場合でした。どんな点で頻度や回数を決めたり、イメージすればよいか、です。 ですが逆に、「〇回で」とか、「1か月以内で」などのように、カウンセリングの頻度や回数、期間について、クライエントさんのご希望や状況がすでに決まっている場合はどうでしょうか。 私は基本的にはどのような頻度や回数でもお引き受けしております。 ですがそこには自ずから「制約」があります。 というのも、「頻度や回数」などは、あくまで現実的な状況による条件なのですが、「こころ」がそのような現実状況に合わせてくれるかどうかというと、それはやはりちょっと無理があるからです。 「こころ」は、現実生活や頭で考えていることとは全く別の世界にあります。 だからこそ「頭ではわかっているけれど」気持ちは辛いとか、気持ちはうごかない、ということが起きますし、それこそが「こころ」らしいありようです。 とはいえ、やはり現実的な条件や制約がある、ということはクライエントさんにとって切実なことだと思いますので、その条件や制約の中で進めていきます。 その場合は、 ①まずは問題となっている心理的なテーマについて明らかにしたり、整理する ということが、比較的短期間・少回数でも終了しやすいです。 心理療法はここからさらに、このようにして浮かび上がってきたテーマを全体的に深めていく作業を行うものなのですが、ここまででも、自分自身について理解が深まったり、以前とは違った見方ができたりするので、一旦はここで終結、ということが可能です。 ②ここからはクライエントさんとの協働作業になりますが、ちょっと勇気を出して、新しいことに挑戦してみることもできます。 私はセッションの中での体験的な作業を行うタイプの心理療法を取り入れていますので、感情や感覚の変容的な体験を進めていきます。 通常だとこの作業は不安や葛藤も大きくなるので、試行錯誤の期間が長くなる場合がありますが、 少ない回数や短い期間の中でも、いえむしろそのように限定された時間のなかだからこそ、クライエントさんの集中力が大きく発揮されることが多くあります。 この場合は、クライエントさんによって進め方を調整していますが、比較的説明を多く行いながら、なるべくクライエン...

「自分への愛は孤独の中では決して育たない」~「ALL ABOUT LOVE」②

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前回 からの続きです。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと辿っていくということを書きました。 bell hooksは続いてこう書いています。 自己受容は、私たち多くの者にとって困難だ。なぜなら、まず私たち自身に対して、次に他者に対してたえず批判をおこなう内なる声があるからだ。その声は際限なく否定的な批判をおこなう。私たちは、否定的であることの方が、より現実的だと信じるようになっているので、その内なる声は肯定的な声よりも現実的に思えるのだ。 「愛を失って受けた深い悲しみ」の体験は、それはそれは強烈な痛み。 その記憶は、頭にも心にも身体にも沁みつき、直接的に間接的に、意識的に無意識的に、今に影響を及ぼします。 自分に対しても他者に対してもおこなう内なる批判の声は、この「深い悲しみ」からやってきます。 もう二度とあの痛みに遭わないように。 批判して、自分も他者も不安と恐れの中に置いて、万全の警戒態勢を敷き続けます。 肯定的な声でその緊張を緩めるわけにはいかないのです。 支配の文化は、服従を確保する方法として恐怖を植え付けることに頼っている。(略)私たちは皆、ほとんどいつもひどく不安に思っている。私たちは、文化として安全という概念に取りつかれている。(略)恐れは支配の構造を支持する最も重要な力だ。恐れは分離の欲望、つまり、知られたくないという欲望を促す。私たちが安全はいつも同一性と共にあると教えこまれると、そのとき差異は、どのような種類であっても、脅威として現れるだろう。 私たちの中にある自己批判は、それを行った誰か、それを向けてきた社会が、私たちを支配するために行ったことでした。 悪意があったかなかったかは関係なく、彼/女らが行ってきたことは、私たちの中に支配の文化を刷り込むことでした。 とても悔しいけれど、自己批判も他者批判も、支配からの自由を奪われた結果だと言えます。 (私が取り入れている)心理療法で行うのは、この「恐れ」をまずは明らかにすることから。 恐れるのは当然です。 警戒態勢をとり、緊張していなければならないのも当然です。 あの時はそうだった。 そして、今の日常のなかでも。 自分の恐れを明らかにするのが怖いのも当然です。 それは「あの時」に通じることだから。 でも、セッションの間は「あの時」...

「愛」に基づくこころの実践~「ALL ABOUT LOVE」①

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ブラック・フェミニズムを代表する文化批評家・教育者・活動家ベル・フックス。 彼女の名前「bell hooks」は、カタカナで書くと、小文字のみの表記に込めた思いが薄れてしまうのが残念なところ。 数々の有名な本が翻訳出版されているので、ぜひ。 私は「 フェミニズムはみんなのもの 」を若い頃に読み、心が震えるほどの力をもらったことを覚えています。 そのフックスの著書の一つ、「ALL ABOUT LOVE~愛をめぐる13の試論」。 この本では、「愛」を、情愛の感情や関係とは異なるものとして提示しています。 愛とは愛のおこなうところのものである。子どもたちに愛を与えるのは私たちの義務だ。私たちが子どもたちを愛する時、彼らは所有物ではなくて、彼らには権利があるのだと ―私たちは彼らの権利を尊重し擁護すると― あらゆる行動で認めることだ。 正義がなければ、愛は決して存在しえない。   愛への目覚めは、私たちが権力と支配の強迫観念を手放した時にのみ起こり得る。 愛の倫理はすべての人が自由である権利、存分に申し分なく生きる権利を有することを前提とする。 ここで示される「愛」は、ロマンティック・ラブの「愛」ではなく、個人と社会のすべてに自由と尊厳をもたらすものとして示されています。 では、心理療法と「愛」のテーマはどのようにつながっているでしょうか? 最初に見捨てられたときの(略)心の傷は、どんな人間関係も癒すことができなかった。(略) 過去に戻ることは決してできない。(略)ずっと昔、まだ幼くて心の願いを声に出して言えなかったとき、愛を失って受けた深い悲しみを解き放って初めて、私たちは心から望む愛を見つけることができる。 「愛」が得られなかった記憶。「愛」を失った記憶。 このような傷は、「愛」の倫理と実践がないところ ―つまり正義がないところ― で起きます。 見つけられず、認められず、癒されないままの傷は、心の奥深くに残ります。そして「愛」の倫理と実践を行うことを困難にします。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと進むプロセスの時間。 逆に言うと、今別の形で現れている問題や感情は、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へといざなってくれているのです。 でも、 たんに、どのようにして自分は価値がないと思うようにな...

たった1つの「欲しい」が叶うこと(「猛スピードで母は」「サイドカーに犬」から)

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長嶋有さんの「猛スピードで母は」には2作収納されています。 2001年の芥川賞受賞作で、もう1編は「サイドカーに犬」。こちらは映画でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。 どちらも味わい深いお話なので、物語はぜひ読んでいただけたらと思いますが、ここでは2つの作品に共通する1点を取り上げたいと思います。 それは、「欲しい」という気持ちについて。 前半に掲載されている「サイドカーに犬」の小学4年生の主人公・薫は、喧嘩の絶えない両親を持ち、母が出て行ってしまいます。 入れ替わりに、父の愛人の洋子さんが家にやってきました。 サッパリ、サバサバした性格の洋子さんがスーパーへ買い物に薫を連れ出します。 菓子売り場で洋子さんは振り向いて  『「なんかほしいものない」といった。私はどきどきした。』 薫は、何かをねだるのが苦手でした。  『やっとのことで、麦チョコを、といった。』 「猛スピードで母は」の主人公・慎は、シングルマザーの母親と二人暮らし。生活に追われる母は家を不在にすることが多く、小学6年生の慎は、団地で一人で過ごすことも多くありました。 忙しい母の顔色をうかがい、学校でも寡黙に過ごす慎。 そんな中、祖父の看病のため、母と二人、祖父の家と自宅を車で往復する生活が始まりました。 ある早朝、母は出勤、慎は登校するために、祖父の家から自宅の団地まで戻ってきたものの、家の鍵と一緒に車の鍵も車内に残してドアを閉めてしまいます。学校の鞄も何もかも家に置いたまま、入ることができません。 母は「仕方ないからそのまま学校へ行きなさい」と慎に言いますが、慎は珍しく抵抗します。 母にも誰にも言っていなかったのですが、慎はクラスメートからいじめをうけており、その日は大切な本を持ってくるよう命令されていたのです。 「手提げがないと学校へ行けない」、慎はおずおずと言います。 あきれながらも理由をそれ以上聞かなかった母は、「わかった、もう」と言って、団地の壁の梯子を4階まで登り始めました。 薫も慎も、親は自分の生活と自分の気持ちで精一杯。二人は、子どもを情緒的に満たすことができない親の元で育ち、親の顔色をうかがいながら、自己主張を抑えこむ子どもでした。 二人の「こころ」は親からは透明にしか見えなかったか、「こころ」まで視線が届かなかったよう。 そうすると子どもは自分の「こころ」を外に出すことはで...

同じものを共に見る

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私の50mほど前を歩いている人がいました。 彼はふと立ち止まり、しゃがみこんでスマホで写真を撮り、また歩き出しました。 彼が立ち止まった地点に私が辿り着いたら、そこにはこんな花が咲いていました。 コンクリートの割れ目から咲く花。 可憐だけれどたくましさを感じ、ステキだなぁと思いました。 そして、私もシャッターを切りました。 同じものを見て、同じように手が動いて写真を撮る… そのことに、じんわりと心があたたまりました。 「共同注視」は、同じ空間の中で同じものに注意を向けることを意味します。 これは子どもの成長とともに現れてきて、他者との関係をつくる上で重要な機能をはたします。 注意を向ける対象を共有することで、より複雑なコミュニケーションが行われるようになり、より複雑な理解が可能になっていきます。 前を歩いた男性と私は、この花を同じように見て、何かを感じ取る、ということが起きました。 ほんの小さな、取るに足りないような瞬間、これが私を世界につなげ、私が世界の中で生きていることの実感へとつながっていきます。 カウンセリングで行うのは、この「共同注視」の作業と言えます。 クライエントさんが抱えるテーマ、クライエントさんが感じる様々な思いや感情、クライエントさんの中にいるいろいろなクライエントさん。 カウンセリングを始めたころは、クライエントさんはこれらを一人で抱え、そのためもあって、自分自身と一体化しています。 それを少しずつ切り離しながら、クライエントさんとカウンセラーの、「私たちのもの」として一緒に見ていきます。 この「共同注視」の状態にまで至ると、カウンセリングはグッと進み深まっていきます。 それはまるでこの写真の花のようなのです。 コンクリートの割れ目から萌え出た花。 (クラエイントさんの内側に)隠れていたものが現れてくるとき。 クライエントさん自身も見て、感じることができるし、私が見て感じていることを、クライエントさんが知ることができます。 それはすでにコンクリートの下にあったもの。 それを一緒にみつめる、そういうプロセスです。

「涵養」を「こころ」にイメージしてみると…

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前回のブログで、「涵養」について書きました。 涵養とは、水が土に浸み込み、地下水の層まで渡ること。 涵養のプロセスに登場するのは、 土(大地) 水 地下水 雨(または水やり) これを「こころ」に重ねる場合、これらすべてが「私」として現れてきます。 でも、表立って意識されるのは、大地だったり地下水の層の部分の「私」であることが多いのではないでしょうか。 「心が乾いてカラカラ」 「心の奥深くの泉が枯れてしまっている」 といったように。 自分を満たし、渇きを癒やしてくれる水を求めて探し回ってきたり、 誰かが恵の雨を降らせてくれないだろうかと祈ったり、 残った水が蒸発しないように、なんとか踏ん張ったり… 辛い状態の「こころ」をイメージするなら、こんなふうに表現されるかもしれません。 でも、「こころ」については、もう一歩踏み込んで見ていきます。 カラカラに乾いた土(こころ)は、乾ききってしまうまでの年月がありました。 今となってはきっと、簡単に水を浸透させない理由があることでしょう。 地下水は、心の奥深く。 誰にも触れさせない部分かもしれません。 水は自由に動くようでいて、高いところから低いところへと流されてしまうこともありますし、留まると淀んでしまうこともあります。 雨(水やり)は、やりすぎもやらさなさすぎも良くありません。 時間もタイミングも量も大事。 自分の中にあるいろいろな自分が、それぞれの立場や役目を持って、 それぞれの思いや歴史を抱えて存在します。 自分というこの「場所」の、今この時に、一番よさそうな状況をつくっていくために、 それぞれの自分が適切なかたちで共にいられるように。 自分の「こころ」を、こんなふうに何かにイメージするとわかりやすいかもしれません。

涵養(かんよう)~自然に浸み込むペース

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これは、乾いた畑の土に水を浸み込ませていく工夫の動画です。 水袋が水流の先頭にあって、その重みで水がゆっくりと流れていくようにしています。 乾いた土に水を撒くと、表面を滑り落ち、流れてしまい、土の中に浸み込みません。 我が家の小さな家庭菜園スペースに、新しく苗や種を植えて水やりをしました。 かなり長い時間水を撒いたのですが、軽く掘ってみてびっくり。 ほんの表面しか濡れておらず、その下はまだカラカラ。 水を浸み込ませるには、霧のような細かい水を、スプリンクラーなどで時間をかけて撒いたり、この動画のように、ゆっくりとした流れを作らなければなりません。 水が土深く浸み込んでいくには、相当な時間がかかるのです。 「涵養(かんよう)」とは、地表の水が浸み込み、地下水の層へ水が供給されること。 土に水がしっかりと浸み込んでいくには、ゆっくりとした時間が必要だということに重ね、無理をしないで少しずつ養うこと、という意味もあります。 この「無理をしない」というのは、自然のペースであり、科学的には物理的可能な動き、と言えます。 人間の身体があり得ない方向へ曲がったり反ったりできないし、あり得ないスピードで動くこともできないのにもかかわらず、私たちは、心に対しては「ありえない」動きやスピードを期待してしまうことがあります。 心の自由さや無限さを知っているし、いろいろな人の、いろいろな状況を見聞きするので、ミラクルを求めたくなります。 自分の心の「乾き具合」、「土の状態」はともかく、しっとりと潤う緑豊かな大地に早くなってほしい、と願いたくなります。 この深く強い願いはそのままに、 でも同時に、心の大地にも目を向けていきたい。 初めはなかなか浸透せずにもどかしく感じても、ゆっくり地道に水をやり続けると、しっとりよい土になっていきます。

根は生きている

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昨年、ほんの2,3日であっという間に盆栽を枯らしてしまいました。 葉が急にしおれ、枯れていったのです。 うかつでした…。 盆栽初心者のアルアルですが…(泣) でも、もしかしたら木は生きているかもしれない、翌年にはまた葉が出てくるかも、と思い、植え替えをし、水やりや肥料を続けていました。 そうしたら…! …新しい芽吹き! 木の部分はやはり完全に枯れてしまっていたのですが、根はまだ生きていたのです。 「樹木たちの知られざる生活」には、500年ほど前に切り倒された切り株が、実はまだ生きているということが書かれています。 葉のない切り株は光合成ができないので生きていけないはずなのですが、近くにある他の木の根を通じて栄養を受け取っている、ということが書かれていました。 私の盆栽は鉢植えなので、他の木から栄養をもらっていたわけではないのですが、根が生き続け、そこから新しい命を生み出しているというのは、深い驚き、そしてよろこびがありました。 いえ、新しい命というのではなく、全体が命そのもの。 植物は、人のこころのメタファーとして受け取るものが多いなぁと感じているのですが、 心が暗く沈んだり、エネルギーを感じられないような中でも、 細胞の一つひとつ、身体そのものは命を続けていて、 それは頭や心では感じられなくても、確かにあるのだ、 そういうことを、この小さな盆栽から感じました。 …そうしてしばらくすると、また新しい芽が。 盆栽としては、「美しさ」の基準からは外れてしまったと思います。 でもこれもまた一つの世界。一つの宇宙。 そういう気持ちで、お世話を続けようと思っています。