「涵養」を「こころ」にイメージしてみると…

前回のブログで、「涵養」について書きました。

涵養とは、水が土に浸み込み、地下水の層まで渡ること。


涵養のプロセスに登場するのは、

  • 土(大地)
  • 地下水
  • 雨(または水やり)

これを「こころ」に重ねる場合、これらすべてが「私」として現れてきます。


でも、表立って意識されるのは、大地だったり地下水の層の部分の「私」であることが多いのではないでしょうか。

「心が乾いてカラカラ」

「心の奥深くの泉が枯れてしまっている」

といったように。

自分を満たし、渇きを癒やしてくれる水を求めて探し回ってきたり、
誰かが恵の雨を降らせてくれないだろうかと祈ったり、
残った水が蒸発しないように、なんとか踏ん張ったり…

辛い状態の「こころ」をイメージするなら、こんなふうに表現されるかもしれません。





でも、「こころ」については、もう一歩踏み込んで見ていきます。

カラカラに乾いた土(こころ)は、乾ききってしまうまでの年月がありました。
今となってはきっと、簡単に水を浸透させない理由があることでしょう。

地下水は、心の奥深く。
誰にも触れさせない部分かもしれません。

水は自由に動くようでいて、高いところから低いところへと流されてしまうこともありますし、留まると淀んでしまうこともあります。

雨(水やり)は、やりすぎもやらさなさすぎも良くありません。
時間もタイミングも量も大事。



自分の中にあるいろいろな自分が、それぞれの立場や役目を持って、
それぞれの思いや歴史を抱えて存在します。

自分というこの「場所」の、今この時に、一番よさそうな状況をつくっていくために、
それぞれの自分が適切なかたちで共にいられるように。


自分の「こころ」を、こんなふうに何かにイメージするとわかりやすいかもしれません。