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「自分への愛は孤独の中では決して育たない」~「ALL ABOUT LOVE」②

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前回 からの続きです。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと辿っていくということを書きました。 bell hooksは続いてこう書いています。 自己受容は、私たち多くの者にとって困難だ。なぜなら、まず私たち自身に対して、次に他者に対してたえず批判をおこなう内なる声があるからだ。その声は際限なく否定的な批判をおこなう。私たちは、否定的であることの方が、より現実的だと信じるようになっているので、その内なる声は肯定的な声よりも現実的に思えるのだ。 「愛を失って受けた深い悲しみ」の体験は、それはそれは強烈な痛み。 その記憶は、頭にも心にも身体にも沁みつき、直接的に間接的に、意識的に無意識的に、今に影響を及ぼします。 自分に対しても他者に対してもおこなう内なる批判の声は、この「深い悲しみ」からやってきます。 もう二度とあの痛みに遭わないように。 批判して、自分も他者も不安と恐れの中に置いて、万全の警戒態勢を敷き続けます。 肯定的な声でその緊張を緩めるわけにはいかないのです。 支配の文化は、服従を確保する方法として恐怖を植え付けることに頼っている。(略)私たちは皆、ほとんどいつもひどく不安に思っている。私たちは、文化として安全という概念に取りつかれている。(略)恐れは支配の構造を支持する最も重要な力だ。恐れは分離の欲望、つまり、知られたくないという欲望を促す。私たちが安全はいつも同一性と共にあると教えこまれると、そのとき差異は、どのような種類であっても、脅威として現れるだろう。 私たちの中にある自己批判は、それを行った誰か、それを向けてきた社会が、私たちを支配するために行ったことでした。 悪意があったかなかったかは関係なく、彼/女らが行ってきたことは、私たちの中に支配の文化を刷り込むことでした。 とても悔しいけれど、自己批判も他者批判も、支配からの自由を奪われた結果だと言えます。 (私が取り入れている)心理療法で行うのは、この「恐れ」をまずは明らかにすることから。 恐れるのは当然です。 警戒態勢をとり、緊張していなければならないのも当然です。 あの時はそうだった。 そして、今の日常のなかでも。 自分の恐れを明らかにするのが怖いのも当然です。 それは「あの時」に通じることだから。 でも、セッションの間は「あの時」...

「愛」に基づくこころの実践~「ALL ABOUT LOVE」①

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ブラック・フェミニズムを代表する文化批評家・教育者・活動家ベル・フックス。 彼女の名前「bell hooks」は、カタカナで書くと、小文字のみの表記に込めた思いが薄れてしまうのが残念なところ。 数々の有名な本が翻訳出版されているので、ぜひ。 私は「 フェミニズムはみんなのもの 」を若い頃に読み、心が震えるほどの力をもらったことを覚えています。 そのフックスの著書の一つ、「ALL ABOUT LOVE~愛をめぐる13の試論」。 この本では、「愛」を、情愛の感情や関係とは異なるものとして提示しています。 愛とは愛のおこなうところのものである。子どもたちに愛を与えるのは私たちの義務だ。私たちが子どもたちを愛する時、彼らは所有物ではなくて、彼らには権利があるのだと ―私たちは彼らの権利を尊重し擁護すると― あらゆる行動で認めることだ。 正義がなければ、愛は決して存在しえない。   愛への目覚めは、私たちが権力と支配の強迫観念を手放した時にのみ起こり得る。 愛の倫理はすべての人が自由である権利、存分に申し分なく生きる権利を有することを前提とする。 ここで示される「愛」は、ロマンティック・ラブの「愛」ではなく、個人と社会のすべてに自由と尊厳をもたらすものとして示されています。 では、心理療法と「愛」のテーマはどのようにつながっているでしょうか? 最初に見捨てられたときの(略)心の傷は、どんな人間関係も癒すことができなかった。(略) 過去に戻ることは決してできない。(略)ずっと昔、まだ幼くて心の願いを声に出して言えなかったとき、愛を失って受けた深い悲しみを解き放って初めて、私たちは心から望む愛を見つけることができる。 「愛」が得られなかった記憶。「愛」を失った記憶。 このような傷は、「愛」の倫理と実践がないところ ―つまり正義がないところ― で起きます。 見つけられず、認められず、癒されないままの傷は、心の奥深くに残ります。そして「愛」の倫理と実践を行うことを困難にします。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと進むプロセスの時間。 逆に言うと、今別の形で現れている問題や感情は、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へといざなってくれているのです。 でも、 たんに、どのようにして自分は価値がないと思うようにな...

たった1つの「欲しい」が叶うこと(「猛スピードで母は」「サイドカーに犬」から)

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長嶋有さんの「猛スピードで母は」には2作収納されています。 2001年の芥川賞受賞作で、もう1編は「サイドカーに犬」。こちらは映画でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。 どちらも味わい深いお話なので、物語はぜひ読んでいただけたらと思いますが、ここでは2つの作品に共通する1点を取り上げたいと思います。 それは、「欲しい」という気持ちについて。 前半に掲載されている「サイドカーに犬」の小学4年生の主人公・薫は、喧嘩の絶えない両親を持ち、母が出て行ってしまいます。 入れ替わりに、父の愛人の洋子さんが家にやってきました。 サッパリ、サバサバした性格の洋子さんがスーパーへ買い物に薫を連れ出します。 菓子売り場で洋子さんは振り向いて  『「なんかほしいものない」といった。私はどきどきした。』 薫は、何かをねだるのが苦手でした。  『やっとのことで、麦チョコを、といった。』 「猛スピードで母は」の主人公・慎は、シングルマザーの母親と二人暮らし。生活に追われる母は家を不在にすることが多く、小学6年生の慎は、団地で一人で過ごすことも多くありました。 忙しい母の顔色をうかがい、学校でも寡黙に過ごす慎。 そんな中、祖父の看病のため、母と二人、祖父の家と自宅を車で往復する生活が始まりました。 ある早朝、母は出勤、慎は登校するために、祖父の家から自宅の団地まで戻ってきたものの、家の鍵と一緒に車の鍵も車内に残してドアを閉めてしまいます。学校の鞄も何もかも家に置いたまま、入ることができません。 母は「仕方ないからそのまま学校へ行きなさい」と慎に言いますが、慎は珍しく抵抗します。 母にも誰にも言っていなかったのですが、慎はクラスメートからいじめをうけており、その日は大切な本を持ってくるよう命令されていたのです。 「手提げがないと学校へ行けない」、慎はおずおずと言います。 あきれながらも理由をそれ以上聞かなかった母は、「わかった、もう」と言って、団地の壁の梯子を4階まで登り始めました。 薫も慎も、親は自分の生活と自分の気持ちで精一杯。二人は、子どもを情緒的に満たすことができない親の元で育ち、親の顔色をうかがいながら、自己主張を抑えこむ子どもでした。 二人の「こころ」は親からは透明にしか見えなかったか、「こころ」まで視線が届かなかったよう。 そうすると子どもは自分の「こころ」を外に出すことはで...

同じものを共に見る

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私の50mほど前を歩いている人がいました。 彼はふと立ち止まり、しゃがみこんでスマホで写真を撮り、また歩き出しました。 彼が立ち止まった地点に私が辿り着いたら、そこにはこんな花が咲いていました。 コンクリートの割れ目から咲く花。 可憐だけれどたくましさを感じ、ステキだなぁと思いました。 そして、私もシャッターを切りました。 同じものを見て、同じように手が動いて写真を撮る… そのことに、じんわりと心があたたまりました。 「共同注視」は、同じ空間の中で同じものに注意を向けることを意味します。 これは子どもの成長とともに現れてきて、他者との関係をつくる上で重要な機能をはたします。 注意を向ける対象を共有することで、より複雑なコミュニケーションが行われるようになり、より複雑な理解が可能になっていきます。 前を歩いた男性と私は、この花を同じように見て、何かを感じ取る、ということが起きました。 ほんの小さな、取るに足りないような瞬間、これが私を世界につなげ、私が世界の中で生きていることの実感へとつながっていきます。 カウンセリングで行うのは、この「共同注視」の作業と言えます。 クライエントさんが抱えるテーマ、クライエントさんが感じる様々な思いや感情、クライエントさんの中にいるいろいろなクライエントさん。 カウンセリングを始めたころは、クライエントさんはこれらを一人で抱え、そのためもあって、自分自身と一体化しています。 それを少しずつ切り離しながら、クライエントさんとカウンセラーの、「私たちのもの」として一緒に見ていきます。 この「共同注視」の状態にまで至ると、カウンセリングはグッと進み深まっていきます。 それはまるでこの写真の花のようなのです。 コンクリートの割れ目から萌え出た花。 (クラエイントさんの内側に)隠れていたものが現れてくるとき。 クライエントさん自身も見て、感じることができるし、私が見て感じていることを、クライエントさんが知ることができます。 それはすでにコンクリートの下にあったもの。 それを一緒にみつめる、そういうプロセスです。

「涵養」を「こころ」にイメージしてみると…

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前回のブログで、「涵養」について書きました。 涵養とは、水が土に浸み込み、地下水の層まで渡ること。 涵養のプロセスに登場するのは、 土(大地) 水 地下水 雨(または水やり) これを「こころ」に重ねる場合、これらすべてが「私」として現れてきます。 でも、表立って意識されるのは、大地だったり地下水の層の部分の「私」であることが多いのではないでしょうか。 「心が乾いてカラカラ」 「心の奥深くの泉が枯れてしまっている」 といったように。 自分を満たし、渇きを癒やしてくれる水を求めて探し回ってきたり、 誰かが恵の雨を降らせてくれないだろうかと祈ったり、 残った水が蒸発しないように、なんとか踏ん張ったり… 辛い状態の「こころ」をイメージするなら、こんなふうに表現されるかもしれません。 でも、「こころ」については、もう一歩踏み込んで見ていきます。 カラカラに乾いた土(こころ)は、乾ききってしまうまでの年月がありました。 今となってはきっと、簡単に水を浸透させない理由があることでしょう。 地下水は、心の奥深く。 誰にも触れさせない部分かもしれません。 水は自由に動くようでいて、高いところから低いところへと流されてしまうこともありますし、留まると淀んでしまうこともあります。 雨(水やり)は、やりすぎもやらさなさすぎも良くありません。 時間もタイミングも量も大事。 自分の中にあるいろいろな自分が、それぞれの立場や役目を持って、 それぞれの思いや歴史を抱えて存在します。 自分というこの「場所」の、今この時に、一番よさそうな状況をつくっていくために、 それぞれの自分が適切なかたちで共にいられるように。 自分の「こころ」を、こんなふうに何かにイメージするとわかりやすいかもしれません。

涵養(かんよう)~自然に浸み込むペース

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これは、乾いた畑の土に水を浸み込ませていく工夫の動画です。 水袋が水流の先頭にあって、その重みで水がゆっくりと流れていくようにしています。 乾いた土に水を撒くと、表面を滑り落ち、流れてしまい、土の中に浸み込みません。 我が家の小さな家庭菜園スペースに、新しく苗や種を植えて水やりをしました。 かなり長い時間水を撒いたのですが、軽く掘ってみてびっくり。 ほんの表面しか濡れておらず、その下はまだカラカラ。 水を浸み込ませるには、霧のような細かい水を、スプリンクラーなどで時間をかけて撒いたり、この動画のように、ゆっくりとした流れを作らなければなりません。 水が土深く浸み込んでいくには、相当な時間がかかるのです。 「涵養(かんよう)」とは、地表の水が浸み込み、地下水の層へ水が供給されること。 土に水がしっかりと浸み込んでいくには、ゆっくりとした時間が必要だということに重ね、無理をしないで少しずつ養うこと、という意味もあります。 この「無理をしない」というのは、自然のペースであり、科学的には物理的可能な動き、と言えます。 人間の身体があり得ない方向へ曲がったり反ったりできないし、あり得ないスピードで動くこともできないのにもかかわらず、私たちは、心に対しては「ありえない」動きやスピードを期待してしまうことがあります。 心の自由さや無限さを知っているし、いろいろな人の、いろいろな状況を見聞きするので、ミラクルを求めたくなります。 自分の心の「乾き具合」、「土の状態」はともかく、しっとりと潤う緑豊かな大地に早くなってほしい、と願いたくなります。 この深く強い願いはそのままに、 でも同時に、心の大地にも目を向けていきたい。 初めはなかなか浸透せずにもどかしく感じても、ゆっくり地道に水をやり続けると、しっとりよい土になっていきます。

根は生きている

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昨年、ほんの2,3日であっという間に盆栽を枯らしてしまいました。 葉が急にしおれ、枯れていったのです。 うかつでした…。 盆栽初心者のアルアルですが…(泣) でも、もしかしたら木は生きているかもしれない、翌年にはまた葉が出てくるかも、と思い、植え替えをし、水やりや肥料を続けていました。 そうしたら…! …新しい芽吹き! 木の部分はやはり完全に枯れてしまっていたのですが、根はまだ生きていたのです。 「樹木たちの知られざる生活」には、500年ほど前に切り倒された切り株が、実はまだ生きているということが書かれています。 葉のない切り株は光合成ができないので生きていけないはずなのですが、近くにある他の木の根を通じて栄養を受け取っている、ということが書かれていました。 私の盆栽は鉢植えなので、他の木から栄養をもらっていたわけではないのですが、根が生き続け、そこから新しい命を生み出しているというのは、深い驚き、そしてよろこびがありました。 いえ、新しい命というのではなく、全体が命そのもの。 植物は、人のこころのメタファーとして受け取るものが多いなぁと感じているのですが、 心が暗く沈んだり、エネルギーを感じられないような中でも、 細胞の一つひとつ、身体そのものは命を続けていて、 それは頭や心では感じられなくても、確かにあるのだ、 そういうことを、この小さな盆栽から感じました。 …そうしてしばらくすると、また新しい芽が。 盆栽としては、「美しさ」の基準からは外れてしまったと思います。 でもこれもまた一つの世界。一つの宇宙。 そういう気持ちで、お世話を続けようと思っています。

自分と世界を遮る壁

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孤独のイメージって、どんな感じでしょうか。 真っ暗な場所の隅で一人うずくまっている ブロックの高い壁や鉄条網に囲まれていて外に出られないし、誰も入ってこられない 分厚い開かずのドアの前で立ちすくんでいる 真っ暗な夜の海に浮かぶ小舟 そこから出たいという気持ちと、 出るのは怖いという気持ち。 誰か助けに来てほしいという気持ちと、 誰にも入ってほしくないという気持ち。 孤独のイメージの中にいる「私」は、こんな相反する気持ちに揺れ、引き裂かれ、疲れ果ててしまいます。 「私」と、その「場所」や「障壁物」を分けてみることができると、 「私」がいた場所に入り口ができたり、その場所が開かれて、「私」に少しずつ近づいていくことができます。 「私」と一緒に、しばしの間留まってみて、そこから、その障壁物や場所を見てみると、 それが「私」を守るために存在したのだということが降りてきます。 障壁物の強固さ、誰もいない場所のその広さが、 「私」を守るためのものなのだったとわかります。 こんなにも強さや距離が必要なのだったと。 障壁物や場所の強さや広さがしてきた意味を知ると、その壁や部屋、場所は、喜んでくれます。 「私」を守ろうとしていることに、誰も気づかなかったし、「私」にさえその意味を忘れられていたのですから。 そうしていくと、障壁物も場所も、「私」を守る方法を変えてくれるようになります。 やりすぎないぐらい、ちょうどよいぐらい、大丈夫なぐらいを、 障壁物や場所だけに頑張らせないでいられる こんなプロセスが心の中で起きていきます。

身体に委ねる

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前回は(も)、自分の身体へ注意や意識を向けていくことについて書きましたが、「身体」そのものを体験することが増えていくと、深い安心感のようなものがつちかわれていきます。 「頭」で認識する自分や身体ではない、「身体」そのものの世界の体験。 大分前のことですが、私が体験したワークについて書きます。 それは身体へダイレクトにアプローチするタイプの心理療法の一つで、さまざまなワークがありました。 先生の指示のもとに行ったワークの一つは、立った姿勢から、ペアの人のサポートの元に、ものすごくゆっくりゆっくりと前へ倒れていく、というものでした。 立った姿勢でそのまま前へ倒れていくと、地面にうつぶせの状態になりますよね。私もそうでした。 でも参加者のうち数名は横向きに丸まって倒れていました。 このワークが終わり、先生は、 「横向きになっている人は、帝王切開で生まれた傾向があるんだよね」と言いました。 その参加者の中では、横向きになった人は全員帝王切開での出生で、うつ伏せの人は全員経腟分娩での出生…! みんなびっくり~、でした。 他のワークもいろいろ行って感じたのは、身体には、自分の頭では意識されていない「何か」があること。 それは、身体へ「委ねる」「まかせる」ことで体験されること。 その身体の体験は、良いも悪いも全くなく、ただそれだけであり、 むしろ身体は必要なことを知っている、 ということでした。 (頭では)よくわからないけれど、身体が知っているのだというのは、深い安心感、信頼感の感覚をもたらしてくれます。 でも、身体に委ねていくことが、身体に完全に明け渡してしまって、自分を見失ってしまうんじゃないかという不安や恐怖を「頭」が感じたり、 そもそも身体に注目するって???と、どうしたらよいか全くわからなくて困ったり、 ということは決して珍しいことではありませんし、その「能力がない」なんていうことも全くありません。 特に虐待や暴力のトラウマがある人にとっては、身体感覚をシャットアウトすることが生きのびるために安全だった過去の経験があると、身体へ注目することが、強い不安や恐怖感を引き起こすこともあります。 ですので(しつこいですが💦)安全な範囲で少しずつ、が大事。 誰もが、意識されていないだけで、安全な身体の感覚世界はあります。

自分の感覚世界を体験する

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以前心理療法を受けた時、セラピストから、「あなたは思っていることや感じたことが表によく現れてますね!」、すごくわかりやすいと言われました。 自分で自分のことは見えないので知りませんでしたが、そうなのかもしれません。 つい最近も仲間とのトレーニングでクライエント役をやったときに、「表情に感情が現れていて、ものすごく伝わってきた!」とオブザーバー役の人に言われました。 このことは、ちょっとした驚きであり、納得でもありました。 私は子どもの頃、「何を考えているかわからない」とよく言われていました。 あまり話をせず静かで大人しかったこともあると思いますし、自分の思いが感じられ、現れてくるまで、時間がかかるほうだったこともあると思います。 また、転校を繰り返していたので、環境になじむまでの間は特に、自分のことはさておき周りのことをよく見なければならなかった(と思っていた)ことも重なっていたかもしれません。 でも恐らく、「何を考えているかわからない」と言われたことが実際の自分へ影響し、「わかりにくい私」という自分像になっていったのだろうと思います。 私が行っている心理療法のアプローチは、身体の感覚や自分の内側で感じたことに注目し、それを「ただそのまま」に感じたり見つめたりしていくことを重視します。 そのため、私自身も自分の身体の感覚や内的世界の体験に開かれていることが重要になります。 現在の心理療法のトレーニングを始める前から、ヨガは25年ほどやっていたり、大学院のころから、身体や身体的体験のワークショップやトレーニングにたくさん参加してきました。 きっと無意識に関心が続いてきたのだと思います。 そして現在の心理療法のトレーニングを受け始めたころから、より意識して、より積極的に、注意を向けたり、感じることをしてきました。 そうして、いつの間にか、自分の感覚や世界を、自分なりに感じ、自分なりに体験するようになり、それが自然に人にも伝わるようになっていたのだということに気づき、 自分の変化に驚くような、これまでのプロセスを振り返れば納得するような気持ちになったわけです。 現代の社会で生きていく上では、早いスピードで考え、理解し、行動に移すことに重点が置かれがちです。 また、人との関りや人からの情報が増え、多様になっているので、他者や社会の価値観が自分の中に侵入しやすくなっています。...